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Five(5)
最近は割とサシャの調子がいい。キアーラが差し入れてくれたスープを自ら口に運び、満足げにしている。昨日は自分で勝手にシャワーを浴びに行っていたことをフレオからクソほど怒られていたけれど、サシャは真顔で「暑かったから」と反省するそぶりのないことを言っていた。
リズから「ユーリが増えたみたい」と揶揄されたけれど、サシャは割とこういうところがある。潔癖だし、汗ばんでべたべたするのが嫌いだから、夏になると毎日シャワーを浴びれないなんて死にたいとまで言い始めるくらいだ。寝ているときには一応一日に二回は身体を拭いてやっていたけれど、自由に動けるようになったこともあり、そして昨日はユーリ自身が仕事に行っていたこともあって、フレオに頼みたくなかったんだろう。
「サシャ、ほかになにか食べたいものはある?」
キアーラに問われ、サシャは完食したばかりのスープ皿に視線をやった。
「いま食べ終えたばかりだ、なにも考えられないよ」
そう言って、穏やかに笑う。キアーラもまた少し気恥しそうに笑ったあとで、サシャの傷口を確認するために立ち上がった。
「そうだったわね」
キアーラがサシャの傷跡を確認する。もうほとんど傷口もなくなっているのは、昨日自分でも確認していた。視界の状況や目の動きなどを諸々確認したうえで、どこか安堵したようにキアーラが微笑んだ。
「眼振もなさそうね。まえより少し硬さがあるものも食べられるようになってきたし、あとはフレオとアンナが許可をだせば、退院できるかもしれないわ」
「早く許可を出してくれと言っておいてもらえないか? 退屈で仕方がないよ」
「出た、他人の気苦労も知らないで」
「おまえはいつも俺にそういう心配ばかりかけてきたんだ。たまには味わえ」
元気になったサシャはろくなことを言わない。ユーリは不満そうに眉を顰め、窓の外に視線をやった。
「アナスターシャに『記憶が混乱しているようだ』って言っておいてやる」
「そういえばアンナのことだけれど」
検査用具を片付けながら、ふとキアーラが言った。
「あのアンナが、珍しくユーリのことを褒めていたわ。栄位クラスを卒業したら、軍部に欲しいって」
うげっと嫌そうな声が出た。一番いやなパターンだ。ユーリがあまりに嫌そうな顔をしたからか、キアーラがたおやかに笑うのが見えた。
「どうせなら、二コラと一緒にいさせたらいいのではないかとも言っていたわ。もちろん、サシャもね」
「俺はいいよ。フォルスに帰る」
「俺だって帰りたい。軍部で働くために大学に来たわけじゃないし、そもそも栄位クラスにだって興味はなかったんだから」
ユーリが嫌そうな顔をそのままに、まるで抗議するかのように言う。キアーラに対する抗議だ。
イル・セーラが栄位クラスに入れるわけがないと度々言われるが、じつはそれにもキアーラが絡んでいる。
栄位クラスに選出されるには、まず学内の推薦者が3人、学外の推薦者が2人必要で、且つ一握りの成績優秀者でなければならない。また、大学5回生(ミクシアの医学部は研修含め7年制)の後期までのカリキュラムを終えていれば、残りは栄位クラスに所属することで、必修科目の単位さえ取得しておけば、学生の身分ではなく研究医として働くことも可能なのだ。もちろん、大学を卒業後に栄位クラスに所属する者もいる。学生の身分で栄位クラスに所属することができるのは、ほんの数名だ。いまでいえば、ユーリ、サシャ、リズ、そしてフレオのチームのレイだけだ。あとは全員卒業後に委託医として所属している。
ユーリもサシャも栄位クラスには全くといって興味がなく、大学を卒業したら南側のスラムに行くことを希望していた。ふたりがふたりとも、大学6回生の後期までのカリキュラムを爆速で取得し、あとは7回生の研修のみという時点まで、たったの2年と4か月で終わらせてしまった。一斉試験などはなく、また夏季休暇や冬期休暇も取らなければ取らなくてもいいという制度を利用して、もちろんその間講師による講義がないために自主的に決められたテストに合格すれば良いという決まりがある。もちろん決められたカリキュラムに沿ってコツコツと大学に通うこともできるシステムで、そうなった背景には下流階級が大学に入学しても良いという決まりができたことから始まった。
当たり前だが大学に在籍している期間分の学費を納めなければならないが、講師による講義を受けないことで負担を大幅に減らすこともできる。それは下流階層のために作られた制度だが、ユーリとサシャにも適用された。
だからさっさと卒業しようと決め、研修の受け入れ先を探してほしいとユーリが学長に直談判した数日後、ふたりして学長に呼び出された。サシャから「なにをやらかしたんだ」と怒鳴られつつ学長室に赴いたら、不服であると顔に書いてある学長から「ふたりとも来週から栄位クラスに編入だ」と言われたのだ。
栄位クラスとは? と、存在すら知らなかったユーリと、知ってはいたけれど興味を持っていなかったサシャとが、ぽかんとした。ふざけんな、約束が違うじゃねえか! とガチめに学長に怒鳴りつけたユーリをよそに、サシャは放心状態だったし、なかなかに修羅場と化していた学長室に、収容所で自分に話しかけてきた女性――キアーラが入ってきて、「来週からわたしのチームの一員だから、よろしくね」と花が飛び散りそうなほどの笑顔で言ってのけた。
その時に問い詰めた。なぜ自分たちにここまで構うのか。なぜ望んでもいないのに栄位クラスに入らなければならないのか。割とキレ気味に言ったはずなのに、キアーラは少しも怯む様子などなく、「あなたたちのためよ」と笑って言った。そのときにはまったく意味が分からなかったけれど、要はイル・セーラが研修をするための受け入れ体制が整っていなかったのだと、あとから聞かされた。学長は決して言わなかったけれど、2年4か月であれだけのカリキュラムを終わらせるのは最早バカしかいないと二コラに言われ、「フォルスに帰らせろ」「南側のスラムに連れていけ」と猛抗議をした。
その猛抗議のおかげか、毎日のようにユーリがぎゃあぎゃあ騒ぐからなのか、ついに観念した二コラがキアーラに頼み込み、その時に一度だけ南側のスラムに連れて行ってもらったことがある。窓ガラスをカーテンで覆い隠した軍用車で連れて行かれたこともあり、道順もなにもかもわからなかったけれど、久々にエドたちと再会した。まあ、当然のように帰りは「帰らない」「ここに住む」とふたりして抗議をしたけれど、そうなると予測していた二コラが機転を利かせて連れてきていたピエタのデカブツことクルスに捕まって強制送還を食らった。
あのときこそ恨めしいと思ったことはないけれど、どのみち7回生の研修期間を終わらせなければ大学の卒業は叶わないため、渋々栄位クラスに編入するサインをした。
思えばハメられたのだ。キアーラは子どもの頃に友だちだと思っていた使用人のイル・セーラを連れて行かれて以来、今度もしイル・セーラに出会ったら、それが誰であれ絶対に守ろうと決めていたのだと言っていたし、栄位クラスに自分とサシャを推薦したのがキアーラ、二コラ、そして変わり者の貴族様となると、誰も口出しをすることができない。
結果的にそれでよかったのだけれど、素直に喜べない部分もある。
「あれはユーリとサシャがカリキュラムを終わらせるのが早すぎたのよ。なにもわたしの一存であなたたちの栄位クラス編入が決まったわけではないわ」
そんな権力なんてないわよと、キアーラが微苦笑を漏らす。
「あなたたちは軍部預かりの身だもの。どなたがふたりを栄位クラスに編入させたのか、大体想像がつくでしょう?」
そう言われて、ユーリが思いきり舌打ちをした。
「ドン・クリステンか」
勝手なことしやがってと悪罵を吐き、窓の外に視線を向ける。すべての元凶はあいつじゃねえかと苛立ちまぎれに言い捨てた。
「軍医団長さまは人の人生を勝手に決められるほどお偉いんだろうけど、はなはだ迷惑だ」
「でも、あの時点で南側のスラムに俺たちが行っていたところで、どうなっていたかはわからないぞ」
「そりゃそうだけどさあ」
「コネクションが物を言う世界だ。キアーラと出会えたこともそうだけれど、二コラや、リズや、学長や、ドン・クリステンたちとの繋がりができたことで、大いに救われている部分もある。そこは素直に喜ぶべきところでは?」
ユーリはサシャのほうを見なかった。絶対無理と、唇を尖らせる。
「なにを拗ねているんだ?」
「べつに。思い出したら腹が立ってきただけ」
サシャにぽんぽんと頭を叩かれた。ユーリは恨めしそうな視線をサシャに向けたあとで、不満げに眉を顰め、溜息を吐いた。
「フォルスに帰りたい……って言ったけど、帰るならちゃんと住めるようにしてもらえないと困る」
そこかよとサシャが突っ込んでくる。
「じつは二コラやキアーラと離れたくないというのかと思った」
「それもなくはないけど、軍部には所属したくないし、できれば大学に残りたい。だけど、そうしたらフォルスのことは放置することになるし、選択肢が多すぎて考えがまとまらないんだ」
「それは別にいますぐに答えを出す必要がないんじゃないのか? アナスターシャも、べつに強制的におまえと俺を軍部にと言ったわけじゃないだろう」
それだけは嫌と恨めしそうに言ったら、サシャとキアーラが笑った。
「大丈夫よ、アンナはあなたが嫌がったら、強引に話を進めるような人じゃないわ」
不愛想だし、言葉は強いけれど、いい人なのとキアーラが言う。サシャもまたそうだなと笑みをこぼす。
「俺は彼の下について学んでみたいと思ったけどな」
ユーリが大袈裟な声を出した。
「マジでっ? あの人ノルマだけど?」
「オレガノ生活が長かったと言っていたし、こないだ聞かせてくれた話はおもしろかった」
「えっ、なんの話っ? いつの間にアナスターシャと仲良くなってんの?」
サシャが懐くなんて珍しすぎる。これはきっと明日にでも槍が降るとユーリが茶化す。
「オレガノには、パーチェ隊の腕章のモチーフになっている蠍が生息している砂漠があるらしい」
ユーリが思いきり嫌な顔をした。
「またそういうえぐいものの話かよっ。“ユーリ”といいサシャといい、毒物好きすぎだろっ」
「それが、蠍の毒は特定感染症に使えるかもしれないという論文があるらしいぞ」
マジかとユーリが目を輝かせる。サシャは「興味あるだろ」と穏やかに笑うのを見て、キアーラが検査道具とカルテを手に、病室の入り口へと向かっていく。
「じゃあ、わたしは行くわね。サシャ、明日にでもフレオとアンナの検診が受けられるよう、伝えておくわ」
「助かる」
「では、これで。あとでデザートを持ってくるわね」
そう言って、キアーラが部屋を後にした。サシャがぐっと伸びをする。
「もうすぐ自由の身だな」
「無茶するなよ。よくなってきたって言ったって、頭の中がどうなっているか、現時点ではわからないんだから」
「わかってる。アナスターシャとフレオからも、こけたりしないようにって口うるさく言われているんだ。気を付けているよ」
ならいいけどと、ユーリがつぶやく。せっかくここまでよくなったのだから、正直あと1か月くらいはここにいてほしかった。退院するとなると、サシャは絶対にいままでの鬱憤を晴らすかのように研究に没頭する。睡眠不足は脳圧を上げる可能性があるとの記載があったし、しばらくは夜勤ができないように根回しをしておくかと、満足そうに本を開いたサシャを見ながら思った。
***
「ダメだ」
数日後、サシャの検診に訪れたアナスターシャに退院の打診をした途端、開口一番で言われた。理由も何もなく、たった一言だ。
「い、いや、アンナ。サシャだってここまで頑張ったんだし、そろそろ自由の身にさせてあげても」
「貴様の差し金か、おしゃべりアルヴァン」
「差し金というか……なんというか」
しどろもどろになる、まるで蛇に睨まれた蛙のようにおどおどするフレオを見かねたのか、キアーラがアナスターシャを呼んだ。
「もういいのではないかしら、アンナ。ずっと閉じ込めておくのは、サシャの体の機能回復のためにもよくないし、かわいそうだわ」
「かわいそう? 『異変が起きて急死』するのはかわいそうではないのか?」
やっぱりか、と思う。なんとなく違和感があった。不満げな顔のサシャをよそに、アナスターシャが大げさな溜息を吐いた。
「ミクシアではそれでいいと思う。おそらく、ほかの権威にも判断を仰いだ上のことだろうからな。
俺が懸念しているのは、検診のタイミングだ」
「タイミング? 具合が悪いときにもみていたじゃないか」
「具合が悪いときには目を開けなかっただろう。ということは、視野になにか問題があるということだ。失念しているのかもしれないが、彼も医者だぞ。それも、ああみえて弟よりもはるかに『強情で強がり』な性格の持ち主だ」
検診のタイミングを計ることで症状を俺が見逃すとでも思ったのかと、アナスターシャがサシャに言う。
「そういうわけではないけど、前に比べて視野が戻ってきたし、この程度なら問題ないよ」
「それは俺が決めることだ。ああ、ちょうどオレガノ軍が駐留していることだし、そこの軍医にでも診てもらったらどうだ? 俺と同じ見立て、或いは俺よりも“手厳しい”かもしれんぞ」
アナスターシャがキアーラを見ながら言う。キアーラは少し困ったような表情をしたあとで、小さく首を横に振った。
「構わないけれど、サシャが怪我を負った背景まで、あちらに伝わることになるわ」
「堂々と隠ぺい工作か? あちらがなにも気づいていないわけがない」
「そうかもしれないけれど、軍医に検診をしてもらうということは、特使にまで話が行ってしまう可能性が高いわ。そうなると、少し」
「困るか? ならやめておけ。退院もなしだ。俺が認めない」
死なれては困るからなと、アナスターシャが厳しい口調で言ってのけ、立ち上がった。
「情などで患者が回復すると思うのなら、一生患者に情だけ与えておけ。リスク回避するのも医者の仕事だ。おしゃべりアルヴァン、貴様はオレガノでなにを習ってきた?」
「それはそうだけど、イル・セーラは自由がないのが一番ストレスになるからと思って」
「ほお、なら軍医団の屯所ででも自由にさせておけ。こいつがここに置かれているのはほかにも理由がある。可哀そうだと思うのなら、貴様らが勝手に判断すればいい。そもそも俺は栄位クラスの人間ではないからな」
そう言って、アナスターシャが部屋をあとにしようとする。ユーリはアナスターシャのあとを追って、腕を掴んだ。
「なんだ?」
「単純な興味なんだけれど、なんであそこまで回復したのにダメなんだ?」
「さっきも言ったはずだ、あいつは自身の調子が良いときにだけ検診依頼をしてきていた。要は症状のごまかしをした、ということだ。いまはいいが、脳圧は気圧でも自身の体調や環境でも変化する。風邪に罹患したときもそうだが、仮になにかの拍子に嘔吐でもしてみろ、
一発で脳圧が上がる。そのときに“何事もない”という保証はない」
「じゃあ一生出られないってことなんじゃ」
「その可能性もある。が、もうしばらく様子見をしろ。いまはだめだ。まだデータが取り切れていない上に、どうせ外に出せば自由を謳歌しようとするだろう」
「駻馬は貴様ではなく貴様の兄のような奴のことをいうんだ」と、アナスターシャがぞんざいな態度で言って、ユーリの手を振り払った。そのままなにも言わずに部屋を出て行く。後ろからフレオのやるせない溜息が聞こえてきた。
「さすがアンナ、見抜いていたか」
「そもそも彼がオレガノに留学をすることになったのは、ミクシアの大学では彼が学びたいことが学べないからだもの。栄位クラスに来た時だって、ほかの方が驚くくらいに優秀だったでしょう? 栄位クラスを3チームすべて渡り歩いたのは、彼だけではないかしら」
「協調性がなさ過ぎて馴染めなかったのか?」
サシャが不満げな口調で言った。
「そうではなくて、本人の希望よ。ミクシアの医療がどのようなものかが見てみたかっただけだと思うわ。そういう気があるの」
それよりと、キアーラがサシャを見やった。
「わたしはあなたが検診のタイミングをずらすことで、症状をごまかそうとしたとは思わないけれど、もしも本当になにかあるのなら、班長として見過ごせないわ」
サシャは表情を崩さない。少し視線を逸らしたものの、だからと言ってなにか視線や目に変化があるわけではなさそうだ。溜息を吐き、頭を大きく揺らさないようにしてベッドに横たわった。
「そのオレガノの軍医は、なんというだろうか?」
キアーラが声をひっくり返した。
「やめておいたほうがいいわ、あの方はご多忙だし、それに」
「それに?」
「少し荒療治が過ぎるのよ。だから依頼しなかったの」
ドン・ナズマのような猟奇的なことを言い出しかねないわと、キアーラが不安げな顔をする。
「ドン・ナズマって、あの解剖魔って噂の?」
サシャが怪訝な顔をする。
「『生きたまま開頭する方法があるけど、試してみる?』っておっしゃっていたわ。開頭術の設備なんてここにはないし、そもそも症例がないもの。あの方もきっとドン・ナズマと同じ発想をするわ」
それだけはだめと、キアーラが語気を強めた。フレオも苦い顔をして頷く。
「俺は直接的な面識がないけど、オレガノでは町医者で診断できないものは軍医が診るきまりがある。もちろん軍医のなかにもグレードがあるけれど、いまオレガノから来ている軍医様は正直”飛んでいる”。俺もそれは反対だ」
サシャの眉間にしわが寄った。
「じゃあ俺は一生ここから出られないのか?」
監獄か? と、サシャ。
「しばらく様子を見ろって言ってただろ。俺ももう少し様子を見たほうがいいと思ってたところだ」
サシャが溜息を吐いた。さすがに反論するつもりはないのか、そのまま目を閉じて、もそもそと頭まで布団をかぶる。
「じゃあ後で監視付きでもいいから散歩に連れて行ってくれ。病室の中だけだと本当に気が滅入る」
ついにサシャが観念した。アナスターシャは事情を知っているのか知らないのかわからないが、サシャは極度の閉所恐怖症だ。だから部屋にいるときには窓かドアのどちらかが必ず空いている。布団の中はオアシスだと言っていたからなにが本当なのかはわからないけれど、コンクリート造りの建物は、収容所を思わせるからなのだろう。プレイルームはちょうど10㎡程度の大きさだったし、常になにかの薬品のにおいが漂っていた。
サシャのその様子を見て、フレオとキアーラが顔を見合わせた。
「では外出許可を取って来るわね。室内か、庭までだと言われると思うけれど」
「それでもいい。なにも学外に行きたいとは言わない」
キアーラがわかったわと笑う。フレオはどこか申し訳なさそうな表情で、サシャの背中をぽんぽんと叩いた。
「ごめんな、サシャ。アンナを悪く思わないでやってほしい。ちゃんと多岐を見据えているからこそのセリフだと思う。俺が安易に考えすぎていたんだ」
「誰も悪くない」
ぼそりとサシャが言う。フレオがもう一度サシャの背中を撫でた時、サシャが唸るような声で「症状をごまかそうとした俺が悪い」とぼそぼそと言ってのけた。
***
どうやらサシャの容体が悪いらしい。北側の診療所で、ナザリオとユリウスが話している内容に聞き耳を立てる。一緒に散歩に出たといっていたのは、10日ほど前の話だ。だからユーリが北側にも降りてこないのかと内心する。
「なにか手立てはありませんか? もしも回復するようであれば、相応の謝礼はすると主人から言付かっています」
ユリウスは難しい表情をしている。
「Sig.ジェンマが調合したもので改善されないのだとしたら、もう残された手立てはーー」
言って、ユリウスが首を横にふる。そうですかとナザリオ。
「なあ、ユーリの様子は?」
ナザリオは深刻そうな表情をそのままにチェリオに視線を向ける。
「サシャに付きっきりです。回復の兆しを見せていたところだったので、Sig.アルヴァンも急変には驚いていました。もしかすると、このまま回復しない可能性も」
マジかとチェリオ。
「ユーリが言っていた、なんとかいう薬草でよくなったりしないのか?」
「既に試していると思いますよ。だからこの数日調子が良くて、3、4日前はユーリと一緒に大学近くの広場まで歩いて散歩にでかけていました」
ユリウスが唸る。これ以上の手立てはないとでも言わんばかりだったが、なにか心当たりでもあるのだろうか。
「残念ながら、オレガノにも開頭術に関する資料はないに等しい。それこそSig.ジェンマのほうが俺より詳しいでしょうし、Sig.アルヴァンの見立てどおりだとすると、今月もてば良い方ではないでしょうか」
ナザリオがそうですかと浮かない表情で呟いた。
「レイズマータとオシリスの混合薬なら、或いは」
言って、ユリウスが胸ポケットから取り出した薬包をナザリオに差し出した。ナザリオはそれを不思議そうな表情で受け取った。
「貴方が調合したのですか?」
「ここには幾つかの薬草が保管してあるので、Sig.バロテッリの監視の元で作っておいたのです。頭部外傷は何があっても不思議ではありません。今が良くてももしものことがあるかもしれないと思ったもので」
ナザリオはそうですかと特に疑う様子もなく言ったが、チェリオはなぜかそのやりとりに強烈な違和感を覚えた。
ユリウスはユーリとサシャをフィッチに移送する計画を練っていた。その件に関してのお咎めをいま無償奉仕という形で受けているわけだけれど、襲撃に関わっていないという証拠はなにひとつないのだ。殺すつもりで襲っておいて、サシャが死ぬかもしれないことを残念がっているのだとしたら、一体何が目的なのか。
チェリオはおいと乱暴にユリウスを呼び、勢いよく胸ぐらを掴み上げた。
「その薬草がどれかみせてみろよ」
ユリウスが明らかに動揺したのがわかる。チェリオはナザリオにその薬は絶対ユーリに渡すなよと声を荒らげた。
「ここで調合したんなら、どれとどれを混ぜた?」
「奥の薬品棚にある、レティスとアンジェリカ、それからオトギリの粉末を」
手を離してもらえますかとユリウスが言う。チェリオはふんと鼻を鳴らして、ユリウスの体を勢いよく床にねじ伏せた。腕を後ろに捻り上げ、抵抗できないように腰のあたりに乗って動きを封じるのも忘れない。
「おい、チェリオ」
「こいつ、嘘ついてやがる。ここには『そんな名前の薬草はない』」
「後ろの戸棚にあると言っているでしょう、フォルムラ語で書かれているものがいくつかあって、その中に」
「往生際が悪いっつの」
チェリオはユリウスのスカーフをずらし、後ろから猿轡を噛ませるように縛りあげた。もごもごとユリウスがなにかを言っているが聞き取れない。チェリオはナザリオにユリウスを任せて、ユリウスが言っていた戸棚へと向かう。
「で、どれとどれだって? これだってやつを触ったら頷け」
「猿轡を取れば良いのでは?」
「重要参考人が目の前で舌噛み切って死ぬの見たいか?」
チェリオが辛辣な口調で言う。フォルムラ語で書かれた薬品の段は? と尋ねると、上から5段目のところでユリウスが頷いた。左から順にチェリオが丁寧にラベルが貼られたものの蓋を触っていく。およそ8本ほどあるラベル付きの瓶のなかから、ユリウスは2番目、3番目、そして7番目で頷いた。チェリオはそれを手に取り、ラベルを注視する。
「先ほど言ったものが該当しているか?」
ナザリオが問いかけてくる。チェリオはふんと鼻で笑ってその瓶を戸棚に戻し、その横にユーリがいつも厳重に保管している薬品箱に手を伸ばした。バックパックのポケットに入れてある小さな麻袋を手にとり、そのなかから針金の束を取り出す。それを薬品箱の鍵穴に刺し器用に動かして解錠する。そしてその薬品箱からある薬品を取り出して、ユリウスのそばまで戻った。ユリウスの前にしゃがみ込み、それを振って目の前にちらつかせる。
「おまえ、俺のことどうせ地下街出身のクズ程度にしか思ってなかったろ。クズはクズでも俺ぁクズ中のクズじゃねえから、悪いけどほかのやつらよりはちっとは頭が回るんだわ」
これがなにかわかるかと、ユリウスの前に突きつける。ユリウスは目をみはった。ふふんと勝ち誇ったように悪い笑みを浮かべ、チェリオはそれの薬品の蓋を軽く回した。
「丁寧にコットンに染み込ませたものをしこたま吸わされるのがお好み? それとも、ユーリがされたみたく直接飲ませてやろうか?」
チェリオがもっているのは『コントラリオ』という薬品だ。気付けに使うものだが、使用量が多すぎると自白剤になるといつかユーリが言っていた。そもそもユーリがあの時渡してくれた辞書は、ひとつは本当に辞書だったのだが、もうひとつは自作の薬草図鑑と薬品図鑑だった。それを覚えろと言われている気がして、チェリオはこういうこともあろうかと死ぬ気で覚えたのだ。
ユリウスがなにかを言いたげに呻いているが、チェリオは無視してコントラリオの蓋をじわじわと緩める。もう少しで開くというところで、ぴたりと動きを止めた。
「そうだった。ナザリオ、ドン・クリステンにコントラリオの使用許可取ってくれよ」
「“緊急時”には許可など後回しで構わない」
ナザリオらしからぬセリフに、チェリオはふはっと声をあげて笑った。
「だいぶエリゼに毒されてんじゃねえの? 真面目一徹のSig.アリオスティが吐いていいセリフじゃねえだろ」
「本当にユリウスがなにかを企んでいるのなら、それを暴く方が先決だからな」
「オッケー、じゃあ遠慮なく」
オラ、たっぷり吸えとユリウスの鼻先にコントラリオの薬瓶をあてがう。顔をそらそうとするユリウスの髪を掴んで動けないように固定し、猿轡を噛ませているコットンにもコントラリオを染み込ませる。容量には気を付けろとナザリオが言ってくるが、ユーリはベラ・ドンナなんていう劇薬を飲まされた挙句ローションがわりにされて散々な目に遭わされているのだ。こいつがどうなろうが知ったことじゃない。ユリウスだけが悪いわけではないけれど、チェリオはジャンカルロがフォルムラ語を知らないのをいいことに片棒を担がせようとしたことにもむかついていた。
ユリウスが呻いて逃げようとする。チェリオはさらに強い力でユリウスの顔を押さえつけた。
「逃げんなよ、ユーリにこの薬を渡してどうするつもりだったのか、ちゃーんと話してもらうからな」
コントラリオの刺激に咽せるユリウスにチェリオが脅しをかけるように言う。そろそろいいかとコントラリオの薬瓶をユリウスから離して、中身を確認する。1/3ほど減っている。明らかに使用量が多いが、ユリウスの唾液かそれとも薬液なのかわからないものが床を濡らしているのを見て、まあいいかと楽観視することにした。
流石にコントラリオが効いているのか、ユリウスから抵抗の力が抜ける。拷問は向いてねえからと、ナザリオに振ると、ナザリオはやれやれと言わんばかりの表情でユリウスの前にやってきた。体を起こさせ、ユリウスを呼ぶ。
「ユリウス・ヴァシオ・シャルトラン……で合っているか?」
ユリウスがやや緩慢な動きで頷いた。おおっとチェリオが歓喜の声をあげる。
「すげえな、マジで効いてる」
「自白剤と同等の効果というだけで、実際には酩酊させ思考を鈍らせるものだ。虚偽やごまかしなどの感情を司る脳の部位を麻痺させると聞いたことがある」
「なるほど。んで、おまえはなんでここで薬を調合したなんて嘘をついた? なにをするつもりだったんだ?」
猿轡を緩めて尋ねる。ユリウスは不敵な笑いを零して呂律が回らない様子で言葉を紡ぐ。
「あれをサシャにユーリが飲ませ、目の前で苦しみながら死ぬのが見たかったんだ」
薄ら笑いを浮かべる。毒なのかと尋ねると、ユリウスはそうだと笑う。
「オレガノからの入国禁止令を解いて頂く見返りに、セレスティーナを殺すと約束をした」
セレスティーナ? 怪訝な顔でチェリオが尋ねると、サシャのことだとユリウスが言う。
「あれは鋭い。あれに生きていてもらってはユーリが手に入らない。フィッチにいる同胞のために、ユーリは殺すなと言われている。ただあのときはまだ、フィッチに渡したくないと言われて」
「誰に?」
「Sig.オブリ。俺の雇い主だ」
「そのオブリはどこにいる?」
ユリウスが不気味にわらい、首を横に振った。
「それは知らない。互いに素性を探らない約束だ。彼はユーリを、俺はセレスティーナを手にれオレガノに戻る予定だったが、セレスティーナはこの計画を見抜き、ユーリを連れて逃げた」
「逃げた?」
「同胞の死を逆手に取り、ドン・フォンターナに助けを求めたんだ。あれはドン・フォンターナのお気に入りだったからな」
「だからドン・フォンターナを殺したのか?」
ナザリオがまるで威嚇をするかのように問うと、ユリウスは目を細めて「俺ではないが」と言ってのけた。ナザリオが溜息をついた。
「俺はドン・フォンターナがセレスティーナを囲うならと目を瞑っていた。あれで彼は大事にしてくれていたし、傷が付くようなひどい抱き方をしたことはなかった。まるで珠玉のように扱い、甘く乱れる声をあげさせることに嫉妬はしたけれど、それでもドン・フォンターナのそばにいる方がセレスティーナのためだと」
「そんなに大事なら、なんで殺そうとしたんだ?」
チェリオが問う。ユリウスはなぜと言われてたことがよく理解できないという表情だ。
「Sig.オブリがセレスティーナにも目を付けた。ユーリだけでなくセレスティーナも巻き込むために、ドン・フォンターナを殺した。そしてユーリはフィッチに、セレスティーナをオレガノに移送し、兄を、弟を殺されたくなければと脅して言うことを聞かせるつもりだったんだ」
計画は破綻したがねとユリウスが継ぐ。
「どういう意味だ?」
「俺がSig.オブリを、彼が俺を裏切ったからだ。だからセレスティーナを殺すことにした。他人の手に渡るくらいなら、殺してやったほうが愛情だろう」
「意味わかんねえ。サシャが死んだらユーリが悲しむ。それはいいのかよ」
「脅される要素が減るんだ、むしろ感謝をしてほしいくらいだね。
二人は本当の兄弟ではないというのに、互いが枷になっている。それを外してやろうとおもったんだ」
本当の兄弟じゃないと言われて、チェリオは驚きを隠せなかった。あまり似ていないなと思っていたからだ。髪の色と目の色、肌の色は同じで、顔の作りも似ていないことはないが、雰囲気もにおいも違っていた。それを考えると納得せざるを得ない。
「ただ血は繋がっている。セレスティーナとユーリは父親が違うんだ。“ユーリ”自身も実子だと信じて疑わなかっただろう。アマーリは“不貞”を話さなかっただろうからな」
チェリオがナザリオを呼ぶ。ナザリオもまた同じことを思ったようだ。徐にユリウスの顎を掴んで顔を上げさせた。
「貴様の独白に興味はない。聞かれたことだけを答えろ。いまの貴様の雇い主は誰だ?」
そう尋ねると、ユリウスは目を細めて、言った。レジ卿。確かにそう言った。ナザリオはユリウスに猿轡を噛ませ直し、腰につけている通信機を手に取った。
「ナンド、ドン・クリステンにユリウス・シャルトランの収監状を請求してくれ。俺はいまからチェリオと共に軍部の収容所に連れて行く」
言って、ナザリオはユリウスの体を勢いよく担ぎ上げた。わおと声が漏れる。チェリオよりは上背があるものの、ユリウスはナザリオよりも長身だ。それを軽々と担ぐものだから、チェリオは驚きを隠せなかった。
「お手柄だな、チェリオ。よくフォルムラ語なんていう高度な言語を覚えたものだ」
「発音の記号はよくわからなかったけど、読むだけならユーリが丁寧に解説してくれていたからな。
つか、ユーリが辞書をわたしてくれたのって、単なる偶然だと思う?」
チェリオが尋ねると、ナザリオは苦笑を漏らして首を傾げた。
「いや、いままでの行動から察するに単なる“偶然”なのだと思いたいが、エリゼも言っていたように彼は常にあらゆる可能性を加味して行動しているようにも見える。
研究室で襲われたことをきっかけに、より警戒しておくべき対象を広げたのでは?」
なるほどと思う。北側の診療所の鍵をかけ、ナザリオと共に北側を後にしようとしたときだ。チェリオが立ち止まった。くんくんと鼻を動かす。
「どうした?」
「や、気のせい?」
なんだか焦げ臭いようなと呟く。もう一度くんくんと鼻を動かしたが、今度は焦げ臭さなどしなかった。コントラリオを嗅いで鼻がおかしくなったのかもとチェリオがおどけるように言うと、ナザリオはあとでニコラの検診を受けるようにと苦笑を漏らした。
やけに暑い日だ。夕方だというのに少しも気温が下がらない。北側は東側に比べ乾燥しているが、唇が乾くほど乾燥することは珍しい。最近天気続きだしなあとぼやくように言って、チェリオは燃えるように赤い西側の夕焼けを眺めた。
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