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Six

 ピエタの不法な取り締まりを受けて以降、サシャは目を覚ましていない。  体調が良くなるにつれて懐いていた違和感はやはりあたっていた。視野狭窄か、それともあまり見えていなかったのか、明らかに状況を掴めていなかったし、そのせいで受けた衝撃も自分以上だっただろうと推測する。  今日は鼓動はしっかりとしているものの、やや呼吸が弱かった。脳の一部の損傷からくる呼吸中枢の障害。見立て通りだとしたら、もうどうしようもない。アナスターシャとフレオにそう言われて以来、ユーリはサシャのそばを離れようとはしなかった。  食事もほとんど摂っていないし、あまり眠っていもいない。そんなユーリを見かねてのことだろう。ニコラが卵入りのパニーノとエスプレッソを持ってやってきた。食堂でユーリがいつも頼んでいるものだ。 「少しでもいい、食べて休め」  ユーリはニコラを見上げ、その瞳に映る自分の表情に愕然とした。憔悴しているなんてものじゃない。一人取り残された子どものような、悔しさと虚しさを綯い交ぜにしたような表情だ。鼻の奥がつんとする。ユーリはニコラにしがみついた。かなりの間を置いて、背中を軽く撫でられる。そうかと思うと強く抱きしめられた。 「俺たちの認識が甘かった」  ユーリが首を横にふる。謝ってほしいわけじゃない。誰も悪くない。ただ心細くてたまらなかった。  ユーリとサシャにピエタを名乗る男たちが訪ねてきた。アリオスティ隊や軍部の警備団が配置されている大学の敷地内でまさかあんなことが起こるなんて、誰が想像しただろうか。  ヴァレンテ・ピアゾの殺害容疑がサシャにかけられた。犯行に使われたのがドン・フォンターナのダガーだというのが理由だという。けれどサシャは北側のスラムに降りてもいないし、ましてや上流階層街に立ち入りもしていない。大学の広場まで散歩に行くのがやっとだったのだ。有り得ないと抵抗したユーリは簡単に捩じ伏せられてなにかの薬品を嗅がされそうになったが、見張りとして付いていたケインが逸早く警笛を鳴らしてくれなければ、ピエタを名乗る男たちを確保できなかっただろう。  男たちが逃げる途中でサシャを突き飛ばした。その状況を察せていなかったサシャはなにが起こったのかすらわかっていなかったのかもしれない。呆然としていたサシャが頭を打たないようユーリが抱き止めたが、その衝撃が原因なのか、それともその後に熱を出したことが原因なのか、ずっとこの調子だ。  彼らは「Sig.ジェンマから二人の収監状を預かった」の一点張りで、当の本人は「自分にそんな権限があるわけがない」と一蹴したが、イギンたちと組んでユーリをフィッチに移送しようとしていた件が尾を引いているせいか、未だにアナスターシャへの疑いも晴れていなかった。  ユーリはニコラの服を強く握り込み、自分の気持ちを抑えることに必死だった。不安からか、それとも悔しさからか、涙が止まらない。 「サシャに殺人なんでできるわけがない」 「わかっている。ずっと病室にいたし、外出届も出ていないんだ。でっち上げだと馬鹿でもわかる」  ニコラはそう言ったが、ピエタも司法も信用できない。どうせ助かる見込みがないのならサシャの処刑をと言われ兼ねないのだ。被疑者死亡で送検。真相は闇の中だ。たとえ真犯人がいたとしても、サシャが犯人だとしておけば丸く治るからだ。相手は上流階級の、それも跡取り息子だというのだから、ピエタも必死なのだろうと学長は言っていた。  ユーリの胸中は複雑極まりなかった。パナケインを作らなければ自分は今頃生きていなかっただろう。けれどパナケインの劣化版ーーヴィータをフェルマペネムの代替品の試作品として軍部に提出をしなければ、そもそもその研究をしさえしなければ、あのとき強盗に襲われることもなかったのだ。  それになぜ今頃になってサシャとドン・フォンターナとの関係を掘り返そうとしているのか。彼は事故死と聞いている。その死にピアゾが関わっているというのなら、サシャが復讐のためにピアゾを殺したというシナリオも成り立つが、サシャはドン・フォンターナが亡くなったことすら知らなかった。  ユーリは収容所にいたときのことを思い出していた。ドン・フォンターナはユーリとサシャふたりの身請け話をしていたが、どういう理由かそれは叶わず、サシャのみがドン・フォンターナ専用の性奴隷だった。といってもユーリのようなひどい扱いを受けることはほとんどなく、大事にしてもらえていたのが傍目にもわかっていた。だからサシャへの他の連中からの風当たりは少々強かったが、それすらドン・フォンターナは許さなかった。身請けをすることは叶わないが、サシャは自分のものだから手を出すことは許さないと牽制していた。  それとは逆に、ユーリ自身は散々な目に遭ったし、取り調べの時に話してはいないが、ほかのイル・セーラたちに腹癒せで回されたこともある。けれどユーリ自身は強制労働に駆り出されることが一度もなかったため、自分がそういう目に遭っていさえすればサシャに対する不満がなくなると我慢した。  ある程度大きくなってからは、状況が一変した。ユーリにも地位のある常連が付いたからだ。彼は確か、ドン・レゼスティリと呼ばれていた。けれどもどういうわけか彼の顔を思い出すことができない。いつもユーフォリアとそれとは別の薬品を嗅がされ、酩酊状態になってから差し出されていたからだ。薬のせいか、彼のテクニックのせいか、彼が収容所に来て抱かれた後は大体2日は寝込んだ。そのときに収容所の診療医――ユリウスからは『薬の量が多い』と看守たちが厳重注意を受けているのを小耳に挟んだことがある。だからドン・レゼスティリの正体は知られてはいけないほどの大物なのだと推測した。  時々やってきては、数日足腰が使い物にならないほど犯され、見たこともない金額を置いていく。毎回そうだった。そしてユリウスはユーリの処置をし、そのたびに一人で抜いていたのを思い出す。手を出されたのは初めの一度だけだ。あとはユーリが誘いさえしなければ手を出そうとしなかった。つまり、あのときには既にユリウスはユーリとサシャの状況を知っていたことになる。何度も身請け話が出ては立ち消えていたのは、ユリウスやユリウスの雇い主が絡んでいたのではないか。ユーリとサシャは買い手がつかないままに奴隷解放されることになった。  ある意味で、よかったのかもしれない。だれかに買われた後で奴隷解放をされたとしても、その家からは逃れられなかっただろう。買い取った金額の返還を要求されないとも限らない。収容所で奴隷解放宣言を聞いた仲間たち以外はほとんどが身請けをされて出ていった。エドのように戻ってきた者もいるが、彼らは行方知れずだ。どこの誰に買われ、いまどうしているのかもわからない仲間たちもいる。けれどその“不自然さ”について、考えたことがなかった。いや、本能的に考えることを拒否していたのかもしれない。ふと頭をよぎる。ユリウスには近づくな、関わるな。サシャが言っていたのは、このことも絡んでいるからではないか。 「ユリウスと話がしたい」  二コラがユーリを抱き締める腕に力がこもる。 「彼はいま市街にいない。サシャの容態で指示を仰ぎたいのなら、フレオとSig.ジェンマに」 「なんで市街にいない?」  縋るような声は自分でも初めて聞いた。考えたくない。考えたくはないが、最悪の可能性を考慮しておくべきだと頭の中でなにかが警鐘を鳴らす。一度だけ、本当に一度だけだが、幼いころに“ユーリ”とユリウスが揉めていた映像が脳裏によみがえってくる。あの穏やかな“ユーリ”が声を荒らげた。そのことに驚いて、ユーリはサシャを引っ張って地下室に逃げ込んだ。そしてユリウスが、ユリウスの知人だという不気味な雰囲気を纏った男が家を出ていくまでの間、ずっとサシャにしがみついて泣いていた。”ユーリ”はあの男をなんと呼んだ? 耳の奥がきんと鳴る。耳鳴りに伴って、ずきずきと頭が痛み始める。ユーリは二コラにしがみついたまま片方の手で額を押さえた。 「レジ卿」  二コラが息をのんだ。すぐさま体を離される。 「ユリウスは、レジ卿に会いに行ったのでは?」  二コラがどこか気まずそうに眉根を寄せた。 「キアーラが言っていたが、レジ卿は数年前になくなったそうだ。葬儀にも参加したと」  ユリウスは所用で市街に出ているのだと二コラが告げる。目の動きでわかる。嘘だ。ユーリは薄く笑って二コラの胸に軽く頭突きをした。 「もっとマシな嘘を吐けよ。ふだんポーカーフェイスのくせに、俺のことになるとすぐに感情が出る」  そんなに俺が好きかよ? とユーリが笑う。二コラは嘘ではないと唸るように言ったあとでふうと息を吐いた。少し疲労の色が伺える。それはユーリも同じだった。冗談でも言っていなければ気がうまく保てない。不意に二コラがユーリを呼んだ。 「俺はしばらくここを離れることになるかもしれない」  え? とユーリが問い返す。 「西側でなにか事件が起きたらしい。詳細は知らんが、ピエタのほとんど、そして軍部の特殊部隊と警備団が西側の応援に向かうそうだ。アリオスティ隊にはまだ要請がないが、軍部の警備が薄れることになるからと、Sig.ジェンマとナンドを警護に着けるとナザリオが言っていた」 「エリゼは?」  あれからエリゼの姿を見ていない。無事なのか? と尋ねると、二コラは苦い顔をして無事は無事だがと言い淀む。 「エリゼはアリオスティ隊の中でも群を抜いて戦闘能力が高いこともあり、もしも西側から応援要請が入った場合にはそちらに向かう手筈になっている。その間は手隙だからとナザリオがユーリの警護をするよう指示したらしいのだが」  言って、二コラが視線を逸らした。その表情でぴんときた。 「俺の顔を見たくない、と」  いや、と二コラが言う。 「黴臭さと辛気臭さが融合した場所の空気を吸うと気が狂いそうだと固辞したそうだ」  ひでえな! とユーリが声を荒らげた。言いながらもユーリは微塵も不快感を懐いていなかった。なにか探っておきたいことがあるのだろうと考える。エリゼは頭が回る。ユーリが思いついたことと似たようなことを察したのではないか。ユリウスとレジ卿の繋がりや、Sig.オブリとの繋がりを精査しておかなければ、きっとこのことを皮切りに面倒が起きると踏んでいるのではないか。そう思ったが、ユーリは二コラに尋ねなかった。サシャのいうように、なにも知らないふりをしておくのも大事だと身をもって知ったからだ。 「ドン・フィオーレ率いる第二部隊が、北側の診療所で西側で負傷した者の治療をしているそうだ。後手に回してすまないが、あの場所を借りるとドン・クリステンが仰っていた」  それはいまさらだろうと突っ込みたくなった。ユリウスとアナスターシャがあそこで無償奉仕をすることを勝手に決めたくせに、なにをいまさらと思ったが、たぶんそれは『あの場を軍部の拠点とする』という意味なのだろう。ユーリは片眉を跳ね上げて、二コラの顎に指を触れた。 「ドン・クリステンに『使用料は俺たちの国外追放撤回で』って伝えといて」  それが無理なら国外追放されても十分に生きていけるような補償金をたんまりって伝えてと、ユーリ。二コラは眉間にしわを寄せて馬鹿なことを言うなと一蹴した。  廊下から聞き覚えのある足音が慌ただしく近付いてきた。二コラが舌打ちをして立ち上がると、ドアを開けて廊下に顔をのぞかせた。 「おい、リズ。廊下を走るな」  リズはドアを開けているニコラの腕の下を器用にすり抜けて病室に駆け込んでくる。そして大変なんだよと語気を強めた。 「いま軍医団から緊急通信が入った。スラムの西側で大規模な爆発が起きて、挙句に錯乱状態のやつらもいて軍医団も混乱しているらしい」 「錯乱状態?」  二コラとユーリが同時に言う。リズはそんなところでシンクロしなくていいから! とバタバタと両手を動かして説明を続ける。 「ピエタの医療班がまずそっちに回って、それでも処置ができない人は大学へって。だからユーリは国外追放されたくなかったら水際対策をって、政府が言っているらしい」  はあっ? とユーリが怪訝そうに言った。水際対策と言われても、なにをすればよいのか全く見当がつかない。 「その症状は?」 「それが、運ばれてきた場所によって全然症状が違うらしいんだよ、だから軍医団もなにがなんだかって」  リズの言葉に、ユーリは口元に手を宛がい、サシャを見やる。国外追放のことを引き合いに出して、自分たちになにかをやらせたいのだろうと言っていたのを思い出す。ユーリはお手上げだというように両手を広げて見せた。 「ヴィータの資料やサンプルが盗まれていなければな。サシャがこの状態だから、俺だけではどうしようもない」  どうにかして欲しかったらサシャを助けられる権威を連れてきてくれと、ユーリ。リズはもう! と声を荒らげた。 「そういう状況じゃないんだよ、こんなことは異常だって、過去にもこんなことは起こったことがないって学長が言っているのが聞こえた」  ユーリは少し考えるようなしぐさを見せた後で、サシャのベッドサイドにある椅子に腰を下ろした。おい! とリズが声を荒らげる。 「少し、考える時間が欲しい。いつかサシャが言っていたけれど、そんなものは権威たちが考えることなのでは?」  リズは焦れたように地団太を踏んで、がりがりと頭を掻いた。 「ああもうっ、ユーリのバカ! ぼくは伝えたからな、きみがこういうときに怯む腰抜けだってよく分かった! ぼくはフレオのチームと合同で水際対策を練るから、考えがまとまったらフレオのチームの研究室に来て!」  絶対だよと言って、リズがサシャの病室をあとにする。ユーリはその足音が遠ざかるのを聞いていた。二コラの反応を確かめることもしない。眠っているサシャの頬を擦り、ふうと深い息を吐く。  ユリウスが市街にいないとなると、アルカを使うことも視野に入れておいたほうがいい。ただそれが“なにか”と問われたときに面倒くさい。とすると、やはり効率がいいのはパナケインをルシアの代用を使わずに作ること。幸いにしてエドが用意してくれていたルシアの粉末がある。  そう考えて、ユーリははたと気付いた。エリゼの主人というのは、いったい誰なのだろうか? ルシアを知っているということは、オレガノやフォルスにいたことがあると言っているようなものだ。ドン・クリステン? それとも、――。  さまざまなことを考えながら、ユーリは二コラを振り返り、二コラの服の裾を掴んだ。 「俺の代わりにフレオのところに行ってくれない?」  二コラが怪訝な顔をする。 「招集が掛かればここを離れなければならないと言っただろう」 「それまでの間でいい。たぶん1時間も掛からない。だからそれまで、アリオスティ隊に招集が掛かっても出ていくなって言っておいて。それから、ドン・クリステンの部隊にも」 「なにをするつもりだ?」 「水際対策を、って言ったのは、政府だろ? リズたちは錯乱状態に陥っている理由を調べる。俺はあんたたち軍部の人間やピエタに危険がないよう“防護策を作る”」  ユーリはもう一度サシャの頬を撫で、体を屈めて額にキスをした。サシャが起きていたら、絶対にこういう。首を突っ込むな。手の内を見せるな。ノルマなど自滅してしまえばいい。その思いがないわけではない。奴隷解放されたと同時にフォルスに戻してくれていればと思ったこともある。けれどそんなことを考えたところでなにも始まらないのも事実だ。考え得る最悪の事態はすべて潰せばいい。そうしないとなにもかも邪魔をされ、最終的にただなにもできずに指をくわえて見ていることしかできなくなる。そんな思いはもう二度としたくない。  ユーリは病室のドアを開けて廊下を見た。ナンドとアナスターシャが不審そうにユーリを見下ろす。ユーリはふたりを交互に見て、人懐っこく笑った。 「サシャのことを頼むよ」  言って、アナスターシャとナンドの肩をポンと叩く。頼りにしてる。そう言って、ユーリは栄位クラスの研究室ではなく、自分たちが寝泊まりしている仮眠室へと走った。 ***  仮眠室に入り、ドアに鍵をかける。窓が開いていないこと、侵入された形跡がないことを確認し、ベッドのシーツをはいだ。ベッドマットの一部をくりぬいて、そこに必要な材料を隠しておいた。子どもの頃に“ユーリ”から教わったことがある手だ。  取り出した木箱を開け、その中に入れていた薬研、乳鉢、乳棒を取り出す。そしていくつかの陶器の小皿を並べて、エドから受け取った封筒を取り出す。その封筒はいつかサシャが言っていたように本当に二重になっていた。そこを開いてみると、なかから小分けされた薬包がいくつも出てくる。それぞれに“クリプトで”記名されているのを見て、笑いがこみ上げた。用意周到だ。やはりエドはなにかを知っていたのだろうか。それともただの偶然なのだろうか。  どちらにせよ、これで国の中枢に関わる人たちがただ危険に晒されるだけだという状況を回避することができる。ユーリはサシャに言われたとおり、そして自分が“ユーリ”から聞かされたとおりの分量を乳鉢に入れて混合させた。いつものユーリなら丸薬ではなく粉末状のままでノルマたちに飲ませることも考えたが、あまりの苦さに吹き出されては敵わない。  薬包を何枚か置き、その上に薬匙でよく混合したそれを丁寧に乗せて封をする。ひとつはいつもよりも少量の物、ほかに通常の分量のものを約10個ほど同じものを作ったあとで、乳鉢の中にエドから預かったものとはべつに木箱の中に保管していたミエレッタの蜜を少しずつ入れて、ダマにならないよう混ぜた。こっちはノルマ用だ。ダマにならないよう混ぜたら、べつの薬匙に軽く一杯分すくって陶器の小皿に置く。ミエレッタの蜜は粘度が低く乾きやすい特性があり、こうしておくと簡易の丸薬のようにコーティングされる。もちろん口に入れた時には甘いが、それを味わうと中からとんでもない苦さが襲ってくるため、こちらも吹き出されないようによく伝えておかなければと思う。  いくつかの木箱を箱の中から取り出し、その中の種を別の薬匙で薬研に入れる。丁寧に潰して粉末状にした後、陶器の小皿に移し替える。それを調合に必要な薬品の数ほど繰り返す。その粉末を別の乳鉢に移し替え、丁寧に混合する。  ここには自分と同じ名前の薬草はないし、トリニタの樹液もない。けれど薬効がよく似たアララトの花の粉末をエドが入れてくれていた。これでなんとかなる。  木箱に入れているペンで薬包に印をつけて、パナケインと混同しないよう区別がつくように閉じた。  いくつも同じように陶器の小皿に簡易の丸薬を作っていると、ふと廊下に気配を感じた。仮眠室のドアがノックされる。 「ユーリ、いるのか?」  二コラだ。ユーリは先ほど作ったいつもよりも少量で作ったパナケインを包んだ薬包を一瞥して、にやりと笑った。二コラかチェリオに飲ませようと思って避けていたものだ。丁度いいところに現れたとユーリは悪戯っぽい表情を浮かべる。  二コラだっていう証明は? と、わざとらしく尋ねる。そんな合言葉を決めたことなどない。ドアの向こうからはあっ? とため息交じりの非難めいた声がした。 「じゃあ二コラの好きな体位は?」  ぐっと言い淀む声がした後で、冗談はよせと強い声で言われた。もしかすると誰かが横にいるのかもしれない。そうなると二コラの沽券に係わる。堅物の二コラがじつは騎乗位が好きで、毎回好きなように攻め立てられるのだと周りに知られるのはべつにいいが、二コラやジャンカルロのようにある程度のものを持っていない相手との騎乗位ほど苦痛なものはない。あのイル・セーラは騎乗位が好きらしいとピエタや軍部内で噂でも流されたらたまったものじゃないなと思い、ユーリは素直にドアを開けることにした。  鍵を開けてほんのすこし隙間を設け、外を見やる。二コラだ。もう少しドアを開けてひょいと廊下を見たが、誰もいない。なんだと独り言ちて、二コラを見やる。 「二コラの好きな体位は?」  もう一度尋ねると、二コラは場違いな顔をして視線を泳がせた。聞こえるか聞こえないかの声で「正常位と後背位」と言った。ユーリの表情が一気に白けたものに変わる。ドアを閉めて鍵をかけると、外からおいと焦ったような声がした。 「二コラじゃない」 「馬鹿か、遊んでいる場合じゃないんだぞ」  ユーリはもう一度鍵を開けてドアを少しだけ開けて廊下を覗き見る。 「騎乗位が好きなくせに」  二コラは焦れたように髪を掻き上げてドアを勢いよく開いた。 「おまえが一番反応がいいのは正常位と後背位だろう」  気付いていないのか? と、二コラ。ユーリは眉を顰めて唇を尖らせた。ユーリ自身が反応がいい体位など聞いていないと非難めいた言い方をして、薬の調合をしていたテーブルの前に戻る。そしてさきほどの薬包を手に取って、二コラに手渡した。 「飲んでみて」 「なんだこれは?」 「俺なりの水際対策」  二コラが眉をしかめる。なにか企んでいる顔なのは自覚している。企んでいるのは事実だ。サシャからは止められたが、一度でいいからノルマがパナケインを飲んだ時の反応が見てみたい。ユーリは胸が躍る気持ちなのを隠して、いいから飲んでと二コラに促した。  怪訝そうな顔をそのままに、二コラが薬包を開く。中の粉末を目を細めてみつめると、一度それを閉じて水はないのか? と尋ねてきた。飲用水はない。そうきっぱりと告げると、二コラは胡散臭そうに薬包を見て、意を決したようにその中身を口の中に入れた。ユーリが期待に胸を躍らせる。ぐっと唸ったと思うと、二コラは口を押えてユーリを睨んだ。口に入れた時の舌触りの悪さか、それとも舌を襲う刺激のせいか、強烈な苦みのせいか、二コラは涙目になっている。ユーリは思いどおりの反応が見られて、片眉を跳ね上げて笑った。 「さんざんイル・セーラを侮辱したんだ。イル・セーラの知識で、且つ薬効の高いものを望むなら、このくらいの“リスク”を追う覚悟はしてもらわないとなァ」  あー、すっとしたとユーリが笑う。二コラの手がユーリの後頭部を掴んだ。えっ? と間の抜けた声が上がると同時にキスをされた。 「んんっ?!」  二コラの舌が割り込んでくる。ざらりとした感触。粉末のせいでいつもより乾いた舌がユーリの舌を撫で、上あごをなぞる。鼻に抜けるような声が上がる。舌を吸われてぞくりと甘い痺れが身体を駆け抜けた。二コラにしがみつき、キスを受け入れる。なかなかにしつこいキスをされ、ユーリがどんどんと二コラの胸を叩いた。苦しい。鼻で息をしようにも、いたずらを仕掛けられて苛立ったのか、二コラに鼻を摘ままれている。 「んぐうっ」  死ぬ! と勢いよく二コラの胸を叩く。漸くニコラの舌が抜けた。水面に顔を覗かせる魚のようにぷはっと息を吸い込むと、また二コラにキスをされた。舌を絡めとられ、もつれる舌を吸われる感覚に甘い声が上がる。満足に言葉も出せないままに口腔を犯され、腰のあたりがじわりと熱を持つ。腰が抜けそうになり二コラにしがみつくと同時に二コラがユーリを解放した。つうと唾液の糸が二人の唇の間を伝う。二コラはそれを手の甲で拭い去り、ユーリの顎を勢いよくつかんだ。 「お、おまえなあっ!」  二コラの不機嫌そうな声が響く。ユーリはそれを眺めながら乱された呼吸を整える。苛立ったような表情だったが、二コラはなにかに気づいたようにユーリの顎を少し上に上げさせた。 「苦かったろ?」 「苦いなんてもんじゃない」  地獄だと、二コラ。ふふんと余裕そうに笑うユーリに、二コラの怪訝そうな視線が向けられる。 「おまえは平気なのか?」  二コラが尋ねてくる。ユーリは二コラの手を払いのけて、口元を触った。 「子どもの頃から薬物を摂取させられていた弊害なのか、苦みがイマイチわからないんだよなァ。これで少し苦いかな、程度」  二コラの顔が引きつった。だからいつも同じものしか食べないのかと二コラが言う。そのとおりだ。これがバレると二コラはともかく、サシャとキアーラがきっとうるさい。食後のコーヒーにはミルクと蜂蜜をいれる習慣がある国でよかったと思っている程度で、ユーリ自身は特に深刻にとらえていない。ユーリは貴重な経験だったろ? といたずらっぽく肩を竦めてみせたあとで、ドアの鍵を閉めて作業をしていたテーブルに戻った。  先ほどの簡易の丸薬をいくつも作り、乾いたものから順番に二コラの前に小皿を置く。二コラは怪訝そうにそれを眺めている。 「これも苦いのか?」  さっきのですっかりトラウマらしい。本当に嫌そうな顔をしている。ユーリはあははとこえをあげて笑ったあとで二コラを覗き込んだ。  「これは大丈夫、コーティングが溶けるまでは甘い。でも甘いからって味わうとさっきみたく強烈な苦さが来るから、すぐ飲み込むよう伝えて」  経験したからこそ意味が分かるだろ? と、何食わぬ顔でユーリが言う。二コラはそのように伝えておくと溜息交じりに頷いた。    北側のスラムの診療所に赴く者は念のために防護服を着用すること。そして少しでも体に異変を感じたら、ユーリから渡された丸薬を服用すること。ドン・クリステン経由で軍医団の第一部隊、そしてアリオスティ隊にも同様の通知がはいったと二コラから聞かされる。もちろん先に北側のスラムの診療所に行っている軍医団やピエタたちにも配布されたと聞き、ユーリは胸を撫で下ろすような気持ちだった。パナケインは解毒作用が強く、感染予防にも感染後の治療用としても使用されるものだと記載があった。それが精神汚染をする薬物であってもだ。手持ちのルシアはもう使い切ってしまったけれど、ルシアの代用品を使えばまだなんとかなる。  北側のスラムに降りる人たちが無事なら、下流層街に被害が及ぶこともないだろうとユーリは考えた。軍部やピエタの隊員が万全ではない状態では打つ手がなくなってしまう。  ユーリはサシャの病室に戻り、ベッドサイドの椅子で休んでいた。サシャの呼吸が浅い。朝よりも少し顔色が悪いように感じて、ユーリは傍にいるアナスターシャを見上げた。 「やっぱりもう、手立てはない?」  自分の声が不安げなものだと気付く。アナスターシャは嘆息すると首を横に振った。 「救急の権威たちにも尋ねたが、ミクシアの医療や使用される薬ではもうなにもできない」  残念だがとアナスターシャが継ぐ。そっかと案外軽い声色で、ユーリ。アナスターシャから怪訝そうな視線が向けられた。 「存外冷静でいられるのだな」 「そりゃないだろ、仮にも俺だって医者だぞ。専門にはしていないけれど、ある程度の知識はある。考え得る手を尽くした」  そう言って、ユーリはサシャに視線を落とした。いや、もうふたつだけ手はある。さっき作っておいたアルカの粉末と、それからパナケインとアルカの混合薬。 「サシャと二人にさせて」  ユーリが言うと、アナスターシャはなにも言わずに病室を後にした。ドアが閉まったのを確認し、ユーリはポケットからミエレッタの蜜が入った小瓶を取り出した。  後ろにあるテーブルにアルカが入った薬包を開いてその中身をカップソーサーに広げ、その上に直接ミエレッタの蜜の蜜を薬匙で垂らす。それを混ぜ込み、ある程度の固さになるまで練る。サシャが“ユーリ”から教わったアルカの材料とは少し違うけれど、薬効自体は変わらない。  なにか手がかりがないかと、フォルスから持ち帰った本や資料をくまなく読み漁った。そこに緊急時の代用品がいくつも記載されていたのだ。旅先でまさかの事態が起こることもある。それを想定して、“ユーリ”が書き加えたのだと思う。  ユーリはミエレッタの蜜が指につかない程度に固まったことを確認し、それをつまんでサシャの口の中に押し込んだ。嚥下できるよう介助をする。喉仏が上下するのを見て、ユーリは小声でよしと呟いた。  誰が入ってきてもいいように、ミエレッタの蜜が入った小瓶や調合に使った薬匙は、ユーリが置きっぱなしにしている鞄の中に突っ込んだ。サシャの呼吸の状態が元に戻るのを祈るような思いで待った。

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