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Six(2)
どのくらい経っただろうか。病室のドアがノックされる。部屋に入ってきたのはキアーラたちだった。フレオはサシャの様子を見て、驚いたように目を見開いた。
「イル・セーラの生命力って本当にすごいな。少し呼吸が元に戻ってる」
奇跡じゃないかと、フレオ。間に合わせのものでこれなら、正規の薬草を使えば本当にどんな症状も改善できるのではないかと思ってしまう。けれどいまは非常事態だ。トリニタの樹液や自分と同じ名前の花を探しに行くとは言い出しづらい。そもそも、ミクシア周辺には咲いていない上に、フォルスでも一度しか見かけたことがない。それほどに貴重なものがこの周辺に咲いているなんて、さすがのユーリでも想像しない。
フレオははたとなにかを思い出したように、咳払いをした。
「サシャに関する容疑だけど、スラムを中心に聞き込みをしていたナザリオから連絡があって、なんとか街のトップから『ピエタとマフィアの癒着に関して』の情報提供があったらしい」
なんとか街のトップと聞いて、すぐにチェリオだと悟る。
「それで、最初は政府もピエタ側も『そんなことはない』と強気な姿勢を崩さなかったらしいんだけど、どこかからの力が働いたのか、徐々に尻込みしていって、いまでは『再捜査を』と言っているそうだ」
キアーラに視線をやる。それはユーリだけではなく、二コラも同じだったらしい。自分に視線が集まったからか、キアーラがどこか困ったように微苦笑を漏らす。
「わたしではないわよ、そもそもそんな権力はないと言ったでしょう」
「ほかにイル・セーラを保護しようとする動きに協力をするような権力など思いつかないが」
二コラが冷静な口調で言う。
「あるとしたら慈善団体だろうけれど、有事ではないので彼らの権力が働くことは有り得ないわ。そうね、オレガノが探り当てたものと、ナザリオが探り当てたものとが同じだったか、あとは、――」
「ドン・フィオーレ経由で抗議文が提出されたということだけは聞いたけどな」
フレオがどこか納得のいかない表情で言って、「抗議文を出せるならもっと早くしろって話だ」と気炎を上げる。
「そして、その軍医団の第二部隊から一報が入った。西側から運ばれてくる患者の中で、ユーリが調合した丸薬が効く相手と効かない相手がいるらしい」
ユーリが瞠目して二コラを見る。二コラがどこか気まずそうに眉を顰めているのが見えた。
「以前、ピエタも軍部も一枚岩ではないと言っただろう。ドン・クリステンに異を唱える者たちが、運ばれてくる患者に飲ませて様子見をしているらしい」
そんなことはどうでもいいとユーリが一蹴する。
「効く相手と、効かない相手って? 詳細は?」
「それが分かれば苦労はしない。運ばれてくる患者のほとんどが錯乱状態に陥っていて、抑え込むのも一苦労だと言っていた。それにアルマに似た症状の者もいるらしい。どうやらそのうちの一人がアゼル大将の手の者らしくて、あとでこっちに運ばれてくるらしい」
嫌そうな表情を隠そうともせずにフレオが言う。ユーリは眉間にしわを寄せて口元に手を宛がった。
パナケインが効く相手と効かない相手というのはどういうことなのだろうか。基本的にはパナケインは特殊な薬剤以外には有効だとされているうえに、フェルマペネムの代替品ともされるものだ。アルマの特効薬だと言われているフェルマペネム、それと同等のパナケインが効かないということは、――。
「ねえ、ヴィータのサンプルって結局どうなったの?」
二コラに問うと、二コラは首を横に振った。なんの情報も持っていないのだろう。ユーリは病室の外に待機しているナンドとアナスターシャの元へと向かい、同じことを尋ねる。アナスターシャは的を射ない様子だが、ナンドがそういえばと口を開いた。
「クルスと仲がいいパーチェ隊の一員がいるんだが、そいつが西側に行く途中でヴィータのサンプルと思しきものがそばに落ちていた死体があったと」
ユーリが眉を顰めた。
「それ、本当にヴィータ?」
「薬包にサシャの字で書かれていた。ただ、エリゼと隊長とチェリオがそれは絶対にふたりが触れたものじゃないと言い張ってな」
どういうこと? とユーリが尋ねる。ナンドは俺も詳細は知らんけどと困ったような表情を浮かべた。
「その薬包からは、独特な香りがしたらしい。おまえたちふたりはトワレなんてあまりつけないだろう? つけたとしても、どちらかというとナチュラルなものを好む。その薬包からはオリエンタルな、バニラのような香のような甘い香りがしたと」
ユーリはまた背筋が凍りつくような悪寒を感じた。ぐっと腹の奥から不快感が競りあがってくる。ユーリは口元を押さえ、こみ上げてくるものを飲み込んだ。
「おい、大丈夫か?」
ユーリは頷いた。大丈夫じゃない。大丈夫じゃないけれど、この程度でいちいち震えている場合ではない。ユーリは自分の胸とどんと叩いて、大きく息を吐いた。
「北側のスラムは軍部やピエタの関係者を、東側のスラムの診療所で西側の住人や東側の住人の処置をという話になった。混乱を防ぐためだ。それで、東側のスラムにユーリがくれた丸薬を半分持っていくって話が出ている」
フレオが言う。ユーリは自分が行けば角が立つと判断して、なにも言わなかった。リズが溜息を吐いて、『これだから上流階級は』とぼやくように言ってのける。
「復讐されるかも……なんて思っていたりして」
ふんと笑いながらリズが言った。
「ドン・クリステンに異を唱える者っていうより、イル・セーラに対して差別意識の強い奴が飲まなかったのかもしれないよ。普段横柄なやつほど本当はビビりだし」
「ただのバカだろ、非常事態に誰がするかよ」
二コラの視線が痛い。ユーリは二コラを上目遣いに見て、べっと舌を出して見せた。
「あれは代替品が『くそ苦い』っていうのを体験してもらおうと思って」
「明らかに悪ふざけだっただろうが」
「え、なに? 二コラ、アレに引っかかったの?」
馬鹿だねーとリズが言う。リズにも一度別の薬草を食べさせたことがあるが、それは故意ではなくリズの興味本位だ。
誤解のないように言っておくがと、ユーリ。この薬草はちょっと苦いから嫌いとユーリがぼやいた際、ユーリにも嫌いなものがあるんだと弾んだ声で言って、リズはそれを“生”でいった。粉末にもせず、煮出しもせずだ。そもそも生でいくものじゃないから、ユーリは吐き出せと慌てたし、リズもあまりの苦さとえぐみのせいで昼に食べたものを全部吐いた。文字通り大惨事だったなと二人が言い合う。あれはリズが栄位クラスに来てすぐのことだ。
「みんなも心しておいたほうがいいよ、ユーリの少し苦いは『くそ苦い』、くそ苦いは『地獄』だから。本当にしばらく物が食べられないからね」
なんならぼくが東側に言って熱弁してもいいと、リズ。そんなことをしたら余計に嫌厭されるだけだと二コラが呆れたように言った。
「わたしが行ってくる」
ふいにキアーラが手を上げた。ナンドが慌てたようにキアーラを呼ぶ。
「そりゃだめですよ、行くなら俺たちが」
「だったら誰か護衛を。伯父様にユーリが作った丸薬のことを伝えるほうが早いわ。いいでしょ、ニコラ」
そういうキアーラの顔を見て、ユーリは確信する。これは“引く気がない”顔だ。二コラが困ったように眉を下げる。
「いや、しかし」
「お願い。サシャのことも、わたしが迎賓館を選ばなければこんなことになっていなかったのかもしれないもの。もっとセキュリティーの高い、上流階層街で極秘に進めるべきだった」
長い付き合いだ。キアーラがこの顔をしているときには誰が止めても無駄だ。けれど正直ユーリは気が進まない。キアーラの身になにかがあれば、それこそ大問題だからだ。
「言いたいことは分かる。けれどそれとこれとは別だ。ユーリに監視が付いたのは元々の素行が悪かったからで、自業自得だ」
一言余計だと、ユーリが二コラを蹴った。ひどい言い草だ。確かにダメだと言われているのに何度も病室を抜けだしたり、勝手に一人で東側のスラムまでいったりもしたが、それにはちゃんと理由がある。ただの無謀ではない。
「事実だろうが」
「監視が付いたことは結果的によかった。俺が『現状の根源』ではないというアリバイをここにいるみんなが作ってくれたからな。それにサシャのことも、代替品の丸薬のことも、なにもかもキアーラのせいじゃない」
ユーリの言葉を受けて、キアーラは少し安堵したように微笑んだが、再度二コラへと向き直った。
「ユーリはそう思っていても、わたしの気が済まないの。わたしだって、たまにはみんなの役に立ちたいわ」
やっぱりだ。キアーラはこういう強引さを持っている。ユーリはサシャのベッドサイドにある椅子に腰を下ろし、二コラとキアーラのやり取りを静観することにした。
「キアーラの気持ちは分かるが、いまは立場と状況というものを考えてくれ。退職予定だからこそ、学長の機嫌を損ねると再就職に難が付くかもしれない。それに、キアーラの身になにかがあったら、婚約者に申し訳が立たないという俺たちの意見も酌んでほしい」
「そうそう。それにキアーラは十分にぼくたちの役に立ってるって。紅一点でみんなの心のオアシスなんだから」
リズがおどけたように言うと、キアーラはそう言う問題じゃないのよと苦笑を漏らした。
止めても無駄だ。いや、止めるほうが時間の無駄だ。東側のスラムにキアーラが初めて降りた時に、大喧嘩をした時と同じ目をしている。
「スラムには伯父様もいらっしゃる。一刻を争うのなら、伯父様に話を通すのが一番手っ取り早い。それができるのが、わたし以外にいるかしら?」
伯父様というのは、アレヴィ大元帥のことだ。これ以上の問答は無駄だとばかりに最高のカードを突きつけたと言わんばかりの自信に満ちた表情だ。これには二コラも返す言葉がないようだ。
「それにね、ニコラ。わたしの婚約者は、女性でありながら医者を志すようなわたしを快く受け入れてくださるような方よ。もしものときはお互いに承知している。なにかがあったとしても、周りを恨むような狭量な方じゃないわ」
まるで畳み掛けるような言い方だった。キアーラの婚約者のことは、話でしか知らない。写真を見せてくれたこともない。けれどスラムを救う医師になるという強固な意志を持ったキアーラをそのまま受け入れるようなタイプだということは分かっている。通常なら女性が働くというのは倦厭されがちだというのに、これから先キアーラが医師として活動することには難色を示すどころか褒めてくれたのだと、キアーラが喜んでいたくらいだ。
ユーリは自分が座っている椅子の背もたれをこんこんと叩き、二コラの注意を向ける。もう無駄だ。やめとけ。暗に視線に込める。普段鈍い二コラも、さすがに気付いたようだ。身の置き所がないような、むず痒さと歯がゆさを合わせたような声色で、『わかった』と唸るように言った。
ユーリ自身もキアーラを東側のスラムに行かせるのは気が進まないが、誰が掛け合うよりも速やかに事が運ぶのは確かだし、これ以上話を長引かせるのは悪手でしかない。
「ナンド、すまないがナザリオか誰かにキアーラの護衛を頼めるだろうか?」
ナンドは一瞬間驚いたような顔をしたが、通信機を手に取った。口調から察するに、相手はナザリオのようだ。どこか困ったような表情のままでナザリオとやりとりをする。ややあって、ナンドは通信機を戻したあとで珍しく舌打ちをした。
「ワーカホリックとはあの人のための言葉だな。大人しく司令塔に徹すればいいものを」
焦れたような口調でナンドが言う。アナスターシャが冷めた目でそれを見て、ふんと鼻で笑った。
「直接言えばいいだろう。俺には立場が、おまえには子どもがいることを案じているのではないか?」
「だから余計に腹が立つんだ」
くそっとナンドが吐き捨てる。有事の際には単身者がまず危険区域に赴く。それはピエタのルールではなく、アリオスティ隊独自のものだ。ナザリオ、エリゼ、ケイン、そしてアナスターシャ以外は妻帯者だが、アナスターシャは地位的にも立場的にも率先して危険区域に行くことは少ない。アナスターシャはキアーラを見やり、やれやれと言わんばかりの表情を浮かべた。
「セラフは昔から聞き分けがいいように見えてその実頑固で癖が悪い」
揶揄するようにアナスターシャが言う。するとキアーラは嫌な顔をするどころか楽しそうに笑って、軽く肩を竦めてみせた。
「貴方だって、気に入った相手のお願いに弱いところは変わっていないわ。ユーリとサシャを頼むわね、アンナ」
アナスターシャが舌打ちをする。そして自分の装備品を腰から外してキアーラに差し出した。
「これを持っていけ。女子供でも扱える武器と、少量だが薬品もある。どうせドン・アリオスティがほかの備品は持ってくるだろう。セラフの悪癖に振り回されているのは、なにも俺とおまえのチームの者だけではない」
「ありがとう、アンナ」
アナスターシャの嫌味を嫌味と受け取っていない時点で、キアーラはいい性格をしている。単に純真無垢なのかもしれない。そう思いながらそのやりとりを見つめていると、キアーラが近付いてきた。
「な、なんだよ?」
脱走はしないし後を付けたりもしないぞとけん制する。キアーラはユーリの顔をかなり長い間注視したあとで、ユーリの頬を軽く抓んだ。
「世の中はあなたが思っているほど優しくないわ。いつか、わたしとあなたが暴漢に襲われそうになったのがいい例よ。女性とイル・セーラは目立ってはいけないの」
ユーリは気まずいのか、キアーラから視線をそらした。すぐにキアーラがユーリの頬を両側から掴み、顔ごと自分のほうへと向けさせた。
「近い近い近いっ」
「話を聞きなさい、ユーリ」
「わかった、わかったから手を離してくれっ!」
ユーリは注視されることを好まない。こんなふうに至近距離に顔を近づけられるなんてもってのほかだ。同性がしようものなら顔面に右ストレートをお見舞いされるか、ダイレクトに頭突きをお見舞いするが、キアーラには手の出しようがない。
「ヴィータを作ったことをもしあなたが後悔しているのなら、それはあなたが救った人の存在もなかったことになる。北側のスラムで処置をされている方の中には、代替品が効いて事なきを得た方もいるわ。ドン・クリステンの言伝を聞かずに代替品を使用しなかった方は、もし何事かあったとしても自分で対処ができるからそうしたのでしょう。それを貴方が気に病むことなんてないの。それよりも、救われた人のほうが多いはずよ。
現状もそう。ヴィータがあったおかげで、それが効く相手と効かない相手がいることが分かった。邪魔をしようとする人は多い。でも、あなたが正しいと思う道を。それはサシャへの恩返しにもなる。だって、サシャはあなたを、そしてヴィータを守ろうとしたんだもの。サシャにとって、あなたも、ヴィータも失いたくなかった。それをあなたが後悔していたら、サシャはどう思うかしら」
ユーリはキアーラの言葉を大人しく聞いていたが、途中でくすぐったそうに自分の頬を触った。顔に出ていたのかと内心する。さすがにキアーラはよく見ている。同じことを二コラに言われたら間違いなくケンカに発展するだろう。ユーリはキアーラの頬を軽くつねった。短い悲鳴が上がる。
「言ってろ、じゃじゃ馬」
あまりの言い草に最早笑いしか出ない。ユーリは俯いて声を殺して笑った。
「貴方が落ち込んでいたからわたしの意見を言ったまでだわ。ピエタや軍部が正常に稼働してさえいれば済んだ話なのだから、貴方が気を病む必要はないし、マフィアの根城に乗り込むことも本来ならあってはならないことなの。
わたしはこの国の中枢を司る人間の一員として、今回の方は本当に申し訳なく思っている。だから、伯父様にはわたしが掛け合う。これはわたしの贖罪と、そして政府への意趣返しよ」
「ピエタと軍部が最初から二分せずに機能していたとしても、ヴィータを作成したことがなんらかの事件の引き金になっていたさ」
「そうだとしても、よ。貴方個人を責めることなど本来ならできないはずなのに、貴方がイル・セーラであることをいいことに全ての責任を貴方に擦りつけようとしている。フェルマペネムの代替品の開発だって、本来なら権威たちや軍医団が率先して行わなければならないことなのに、それもままならない。情報がない、資料がないの一点張りで、本当はやる気がないの。
国民からの税収で生きている立場なのだから、怠慢を恥じるべきだわ。もっと早くに対策を講じていたらこんなことにはならなかったかもしれないのに」
珍しく強い口調でキアーラが言う。随分なことを言っている自覚がないのだろうか。ユーリは眉を下げて笑った。
「歯痒く思ってくれるのはありがたいよ。俺の肩を持ってくれるのもキアーラくらいだ」
キアーラは穏やかな笑顔をユーリに向け、もう一度ユーリの頬に両手を添えた。
「言ったでしょう、わたしはあなたと友だちになりたかったの。
子どもの頃に守れなかった友だちの代わり……というわけでは決してないけれど、でも、もうあんな思いはしたくない。
わたしにできることは、このくらいだもの。二コラやナザリオたちのようにあなたを守ってあげることもできないし、あなたの立場を想像することはできても、リズのように共感することは“想像”とは違う。でも、この立場を使って、伯父様や元老院に真実を話すことはできる。だからそれだけはさせてほしいの」
そう言われたら、誰も否定ができないことを承知の上なのだろう。ユーリは少し含みのある笑みを浮かべて、いたずらっぽく肩を竦めた。
「どうせならその伯父様に『代替品の利権』のことも話しておいて」
冗談めかしたセリフの意味に気付いたのか、キアーラがユーリを解放し、上品に笑った。
「絶対に損はさせないし、貴方とサシャの研究を奪うようなことはわたしがさせないわ。
婚約だってこのためだもの。ミクシアでイル・セーラの立場が正しくあるために、そのためならわたしはなんだってする。子どもの時に決めたの。わたしの立場は、そのためにあるのだわ」
「それは純粋にありがたいけど、やっぱり西側に行くのは無謀すぎないか?」
「北側と東側のスラムに勝手に診療所を作るほど無謀じゃないわ」
耳が痛い。ふざけて耳を塞ぐ真似をすると、キアーラが微笑んでよく手入れをされている髪に付けてある髪飾りを触った。それは、ノルマには誕生日にプレゼントを贈るという習慣があると知って、去年のキアーラの誕生日にサシャとふたりで送ったものだ。女性にプレゼントなんてあげたことがないから、ミリスにいろいろと聞いて、ドン・ナズマにも相談して、結果髪飾りが一番いいのではないかという結論になった。それは自分とサシャが持っている懐中時計のレリーフを模した飾りがついた簡素なものだけれど、そのレリーフには『祝福と幸福、勝利と安寧』の意味があると聞いている。サシャと相談して、そのレリーフを刻印することに決めた。
「大丈夫よ、わたしには貴方とサシャのお守りがあるもの」
ユーリが軽く両手を広げて見せる。
「ナザリオから離れるなよ」
「わかっているわ。まずは北側の、ドン・フィオーレのところに行ってみる。きっと通信網を利用しているはずよ」
そう言ったあとで、キアーラがユーリに抱き着いてくる。驚きのあまり変な声が上がった。やり場のない手をどうすればいいかわからず、ユーリは体の横にだらんと力なく手を垂らす。
「これだけは覚えておいてほしい。貴方になにかがあったら、わたしが困るの。だから、わたしが戻るまで大学の外に出てはだめよ」
約束ねと、キアーラ。ユーリが素直に頷くと、キアーラは踵を返して病室を出ていった。アナスターシャから装備品を受け取る際に、『婚約者がありながらみだりによその男に抱き着くな』とアナスターシャが呆れたような声色で言っているのが聞こえてくる。ユーリではなく別のノルマだったら、勘違いされてもおかしくない行動だ。キアーラはなにを言われているのかがわからないような表情のまま、アナスターシャに付き添われて廊下を歩いて行った。
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