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Six(3)
パウーラ感染者は10万人を超した。ミクシア全人口の実に35%に当たる。恐怖と名付けられた希望。なんたる皮肉か。
とぎれとぎれに聞こえてくるラジオの音に耳を澄ませ、ユーリは悔しそうに眉をひそめた。アルマに似た症状が発生したときから、政府には対策をと再三言ってきた。政府側はユーリがイル・セーラであることを理由にその進言を聞き入れなかった。結果がこれだ。
「政府の連中はいったいなにをやってやがる!」
たれ目がちな目を吊り上げて大声を上げながら、ユーリは研究室の壁に拳を叩きつけた。元々ハスキーな声がさらに掠れているのは、この2日ほとんど眠っておらず、極限状態にあるからだ。はあはあと肩で息をするほど興奮している。ユーリがここまで冷静さを欠くことはあまりない。それを知っているチームの仲間たちは言葉を失っていた。
「落ち着け、ユーリ。俺たちにはなんの権限もない」
そう言ってユーリをなだめようとするのはニコラだった。ユーリが強い視線をぶつけてくる。いまにも食って掛かってきそうな勢いだ。アシンメトリーのかなり特徴的なウルフヘアーに指を突っ込んで頭を掻くと、ニコラはユーリの両肩を掴んで自分に意識を向けさせた。
「立場というものを考えろ。おまえはただでさえ政府に睨まれている。騒ぐと今度こそ本当に殺されるぞ。上層部からの指示を待つんだ」
言い聞かせるようにユーリに告げるが、ユーリはさらに眉間のしわを深くし、眉根を吊り上げた。
「指示など待っていられるか! そう言って何日経った!?」
ユーリが勢い任せにニコラの胸倉を掴んだ。ユーリの言い分は尤もだ。政府から研究医たちは軍部かピエタの指示を待つようにと指令が降りたのはもう5日も前のことだ。
西側のスラムで大規模な爆発が起き、その情報が一切伏せられているのだ。アレヴィ大元帥の元に向かったキアーラとナザリオの行方はおろか、生死すら不明である。もしも彼らが致命傷を負って動けない状態だったとして、生存確率が保たれる時間はとうに過ぎている。時計の針に怒りをぶつけるかのように睨みつけたあと、ユーリはニコラの胸倉から乱暴に手を放した。
ピエタから待機を命じられ、既に6日が経過している。その間になんの情報も得られていない。ラジオも、新聞も、西側のスラムの詳細など一切報じない。二人の身になにかがあったのだとしたらと思うといても立ってもいられない。
「なにがパウーラだ。俺は最初からこの危険性を懸念していた。通告だってした。初動に時間を割いてさえいなければ、こんなことにはならなかったのに」
パナケインが効かない相手がいるということは、べつの感染症が蔓延している、或いはなにか中毒性のある物質が西側に蔓延しているのではないか。ユーリはあのあとで政府に対して意見書を提出した。そんなことはわかっていると辛らつに言われ、取り合ってもくれなかった。結果がこれだ。なかにはユーリが作った丸薬のせいではないかと噂する者もいる。
「声が大きいよ、ユーリ。誰かに聞かれていたらどうするの?」
ユーリたちがいるすぐ脇にあったソファーで仮眠をとっていたリズが、しいっと諌めるように言う。リズはふああとあくびをして、大きな目でユーリを注視した。
「ユーリが怒るのは無理もない。ぼくたちは待機を命じられ、既に手遅れの人たちを看取るだけの存在に成り下がっている。キアーラもナザリオも出ていったきりだ。
けれどこちらが救出に向かうのは最適解ではないよね。わかるでしょ? ぼくらはきみが作った代替品を摂取している。だから影響がないのか、それとも『現地に赴かなければ感染しないのか』、そんなものは誰にもわからないんだよ」
リズが言うと、ユーリはくそったれがとパラロッチャを吐き捨てて、研究室の床に腰を下ろした。ガシガシと頭を掻く。気が気ではないという表情で、壁に背を持たれかけた。
「じゃあこのまま犠牲者が増えるのを指をくわえて見ていろっていうのか?」
「いまのぼくたちに出来るのは、ピエタのコマンダンテの帰りを待つ事だけだ」
リズはユーリを宥めているつもりのようだが、ユーリはふんと鼻で笑ってリズを睨んだ。
「コマンダンテがパウーラに感染し、亡くなっている可能性は? それどころか、ピエタそのものが壊滅しているかもしれない。医者ならこの数値の異常さがなにを示しているかが解っているはずだ」
言って、ユーリが手にしていたカルテをソファーに投げ捨てた。それにはパウーラの諸症状と感染率、致死率諸々の数値が記されている。リズはそれに一瞥をくれると、両手を広げて肩を竦めた。
「このままのペースで感染が拡大すれば、半年後にはミクシアの人口の約75%が死亡する。代替品が効けばいいけど、効かなければ感染する。パンデミア(パンデミックの意)だ。
そしてそれは隣国のオルガノや、海を渡ってフィッチにまで拡大する恐れもある。下手をするとミクシアはフィッチやエスペリの手によって滅ぼされかねないほど困窮し、ノルマ族とイル・セーラの立場までもが逆転するかもしれない」
つらつらとリズが述べていく。リズは遠慮をするタイプではない。それを知っているニコラは、「こんな時に可能性の話はするな」と語気を強めた。ユーリは魂が抜けそうなほどの大きなため息を吐いて、両手で顔を覆う。
研究室の中にはラジオの声だけが流れている。得体のしれないものへの恐怖。感染ルートや目立った症状なども正式に発表されていない為、専門家と呼ばれた数名の人物の見解を並べているようにも聞こえる。一通り彼らの見解を聞いた後、話題はすぐにべつのことへと移ってしまった。
「ふざけんな、スラムの西側の情報は? アルマに関わったことのない専門家なんかのコメントはいらねえんだよ!」
ラジオから聞こえてくる声にまで当たり散らすほど余裕を失している。ニコラはぱちりとラジオの電源を落とし、もう一度ユーリの肩を掴んだ。
「落ち着け。あんな奴らには好きに言わせておけばいい。どうせなにも分かっていない。栄位クラスの研究医にすらわからないものを、一般人に理解できるわけがないだろう」
ユーリはその手を払いのけ、ニコラの脛を勢いよく蹴り上げた。
「あんたになにがわかる!」
勢いに任せて吐き捨てたが、ユーリはその次の言葉を飲み込み、がしがしと頭を掻きむしった。
ミクシアではパウーラ以前に別の感染症が流行りつつあった。その症状をアルマ(凶器の意)と名付けた政府は、過去に幾度も水際対策に失敗しパンデミアを引き起こしているのだ。そのためか、ユーリとサシャがエルン村で使用したフェルマペネムを偽造ではないかと嫌疑をかけてきた。そうではなく、適切な対処をすればフェルマペネムでも、そうではなくても対処ができる旨を再三伝えたが政府は聞き入れず、ユーリとサシャに国外追放を引き合いに出してフェルマペネムの再現乃至代替品の作成を要求してきた。そしてその代替品の試作品――ヴィータを軍部へと提出予定だったのだが、何者かがユーリとサシャを襲い、ヴィータと資料を盗み出した。幸いにもふたりは一命を取り留めたが、ヴィータのサンプルは盗まれ、研究は白紙に戻った。
しかし実害はそれだけではなかった。西側で発生した爆発事故に巻き込まれた住人たちが、次々とアルマに似た症状を発症し、倒れた。ヴィータ(パナケインの劣化版)の効果は二分し、効果が表れずに錯乱状態がひどいものは収容施設に押し込める以外手立てがなかった。そしてその収容施設内で殺し合いが起こり、そこからアルマとは別の症状が蔓延し、政府はそれを『パウーラ(恐怖の意)』と名付けたのだ。
一歩たりとも外に出ず窓も開けるな。常に防護マスクを着用するように。
そういう令を出せとユーリが政府に掛け合ったが、政府は国民が混乱すると受け入れなかった。どのルートで感染するのかもはっきりしておらず、またどのようにして発症するのかもわからないものを完全に防ぐ手立てなどあるわけがない。運ばれてきた者にヴィータを飲ませはするが、ほぼ効果が表れず、錯乱がひどくなる。病変あり。感染者だ。或いはヴィータの摂取前に痛みに苦しみながら亡くなる人もいる。そんな毎日を送っているのだから、気が滅入らないわけがないのだ。
もどかしくて仕方がない。あらゆる可能性を排除しようと動いたのに、それはすべて裏目に出た。自分がイル・セーラだからなのだろうか。それともそれすら見透かされていたのだろうか。臓腑を直接握られているような、不気味で吐き気のする思いがむかむかとこみ上げてきて、ユーリはやり場のない感情の逃がしかたがわからなくなっていた。
いつもならこんなふうに感情を荒立たせたりはしない。サシャがいたからだ。仮にユーリが声を荒らげたとしても、サシャが宥めていた。ノルマ族にはわからない言葉のニュアンスがあるのだとフレオが言っていたことがあるが、まさにそうだと思う。
「少なくとも、おまえが初めに作ったヴィータのおかげで、俺たちは生かされていると言っても過言ではない。研究医がパウーラに感染してしまえば、いまのように治療すら満足に行えない。それは不幸中の幸いであると思うべきなのでは?」
二コラの言い分は尤もだ。それはわかっている。頭では理解しているけれど、感情のブレーキがすっかり壊れてしまったんじゃないかと思うほどに気持ちが落ち着かない。理性と感情がばらばらで、頭がおかしくなりそうだ。ユーリは両手で顔を覆ったまま、力ない溜息を吐いた。悪かったと誰に言うともなく呟く。
「二徹でどうかしてるんだ」
「なら適当に息抜きでもして来い。付き合ってやる」
「ガキじゃないんだ、ひとりでいい」
ユーリの声色に、さきほどまでの勢いはない。ゆっくりと立ち上がると、ユーリは白衣を脱いで腰に巻き付けると、グレーのボートネックのニットTシャツとデニム調のジョガーパンツというラフな格好になった。そのまま研究室のドアに手を掛ける。
「ニコラ、ついて行ったほうがいいかもよ。そのまま身投げでもされたらたまらないから」
辛辣な口調でリズが言う。ユーリは不満げに「あ゛あ゛っ?」とハスキーな声を尖らせた。
あのさあとリズが言う。ユーリがリズへと振り返らないからだろう。こっち向けよと尖り声がした。
「ヴィータを作ったことを罪とするなら、ぼくたち研究医はみんな犯罪者だ。
医療は戦争や病気と共に進化してきた。成功の陰に失敗がある。いままでもずっとそうだ。
今回のことだって、イル・セーラが作ったものなんて使いたくないと意固地になったバカな人たちのせいでアルマに似たものが蔓延したようなものだよ。手遅れになった多くの人を見て怯んで、慌ててヴィータを手に入れようとした、人間の醜さが引き起こしたんだ。収容所で起きた殺し合いだって、ヴィータの奪い合いだってSig.ジェンマが言っていた。
それを、きみがイル・セーラだからといって、自分が作り出したものだからと言って、一人で罪を被ろうなんて、そんなことは許さないよ」
リズの声には強い赤が宿っている。ユーリはなにも言わずに振り返ったが、リズに視線を向けようともしない。
「ぼくも、ニコラも、そしてキアーラも、ユーリの正当性を証言する。たとえ資格を剥奪されてもだ。裏切り者と強盗が罰せられないなんて、そんなことがあってはいけない」
「リズの言い分は尤もだが、それは偽善的でもある。本当に善人ばかりであふれているならば、ここまでの大事になってはいない。自分たちがイル・セーラを卑下し、虐げてきたツケがかえってきているとも思っていない。だから自分たちの愚かさを棚に上げ、大元を作った者のせいにしてつるし上げるほか、アイデンティティーを保つ手立てがないんだ」
冷静な口調でニコラが継ぐ。ユーリはニコラの言うとおりだと力ない声で呟いた。
「俺が研究をしなければ済んだ話だと王が言っていたそうじゃねえか。フェルマペネムを真っ先に欲したくせに、偉そうにぬかしやがって」
「王は絶対的な存在。故にそれが赦される。馬鹿げた話だけれどね」
リズは端的に言ったあと、ソファーで枕代わりにしていた本を広げた。
「命令が下りたら教えて。ぼくはここで暇をつぶす。ユーリが言っていたように、完全な解毒は無理だとしても、症状を抑えるための緩和剤や中和剤の開発なら、もしかしたらどうにかなるかもしれない」
リズが読んでいるのはフォルムラ語で書かれているものだ。ユーリは目を見張った。二の句を継げないユーリに視線をよこし、リズは少しの間なにかを考えるようにしていたが、やがてユーリが驚いている意味に気づいたようだ。
「フォルムラ語、なんで読めるんだ……って? ぼくは文系だからね、サシャに教えてもらったんだよ。ミクシアの考え方には限界がある。この国の医療制度や階級制度を是正しろとまでは言わないけど、ぼくたち下流階層街の住人やスラム街の住人たちが安全に且つきちんとした効果のあるものを手に入れるとしたら、イル・セーラの知識に頼るしかない。この本だって、サシャが貸してくれたものだ」
「サシャが? リズに?」
「失礼だな!」
リズが声を荒らげる。なにも脅して借りたわけじゃないぞと継いだ。
「ぼくは小さいし、肉弾戦は苦手だ。でも代わりに頭がある。サシャがそう言ってくれたんだ。ぼくの柔軟な発想と記憶力は大きな武器だって。自分でもそう思う。だから現状に抗わず、でもそこに準ずることはせず、ただひたすらに知識という鋭い刃を研いで、いずれ腐った政府の喉元にかみついてやる」
下流階級だからってなめんなと、リズが言う。サシャの名前を聞いて、鼻の奥がツンとした。二コラにはさんざん見られているが、リズにも、そして奥に待機しているミリスにも、泣き顔を見られたくはない。ユーリはなにも言わずにドアへと振り返って、ドアレバーに手をかけた。
「ユーリ、お前は外の空気でも吸って、頭を冷やしてこい。そんな煮えたぎった頭で考えても、なにも生まれない」
ニコラのいうとおりだ。ユーリは嘆息した。もどかしさを懐いているのはなにも自分だけではない。それを飲み込んでいられるか、そうではないかだけの違いだ。本当に自分はどうしてしまったのだろうかと思う。こんなふうに苛立ちを押さえきれないなんて、子どもみたいだ。サシャがいなければ感情のコントロールすらできないのかと思うと情けなくなってきて、ユーリは無言のまま研究室を後にした。
屋上にやってきた。外の空気は淀んでいる。深呼吸をしてみるが、肺に取り込むそれはお世辞にもうまいとは言えない。ユーリは屋上の手すりにもたれかかったまま、ロリーポップを銜えた。本来なら甘いはずだが、味がしない。それほどにまで疲労しているのか、それとも精神的に滅入っているのか。
目を閉じ、風を浴びる。なにも考えたくないときにユーリがよくやる癖だ。完全に思考を切ることはできないが、こうしているだけで脳が休まる気がするのだ。
自分がイル・セーラでなければ、この研究は滞りなく進んでいたのだろうか。もしヴィータを作成したのがニコラやリズだということにしておけば、そもそもヴィータが盗まれるようなことはなかったのではないか。そんな考えが頭をよぎる。結果論でしかない。そうしていたところで必ず邪魔が入っただろう。怒りとともにロリーポップを嚙み砕き、ごみを添え付けの灰皿へと投げ捨てる。ここで考えていてもきっと考えはまとまらない。ユーリはおぼつかない足取りで屋上を後にした。
ユーリが次に訪れたのは、旧病棟だ。普段はあまり使用されることのない古い機材が置かれている。8畳ほどの殺風景な部屋にぽつりと置かれたベッドには、サシャが寝かされていた。鉄の肺と呼ばれる人工呼吸器をつけられており、ただ眠っているだけだ。ユーリは彼のベッドの脇に置かれた椅子に腰をおろし、両手で顔を覆った。
「俺はどうしたらいい」
返事などあるわけがない。サシャはもうずっと意識が戻らない。2日前にはついに自発呼吸すらできなくなった。死を待つだけだ。この状態から奇跡など起こるはずもない。そうわかっているのに、ユーリにはその希望を捨てることができなかった。
サシャは幼いころからずっと自分を守ってくれていた。あの日もそうだった。強盗からユーリを庇い、頭を殴られた。もしサシャが庇ってくれていなかったら、ユーリがこうなっていたかもしれない。いや、もしかするとすでにこの世にはいないかもしれない。南側のスラムにいる仲間たちを解放するためにヴィータを作成したものの、それがこんな大事になってしまうとは考えもしなかった。
サシャの名を呼ぶ。なんの変化もない。ユーリはサシャの頬に手を触れた。ひんやりとしている。たぶんかなり血圧が下がっているのだろう。この分だと、明後日、いや明日中までもつかわからない。サシャの頬を撫で、弱弱しいサシャの呼吸と人工的な空気の音をBGM代わりにして、ユーリは思いを巡らせた。
ここにいてもどうせ政府からの通達がなければなにもできない。ただ手遅れの人たちを看取るだけだ。それは自分ではなくてもできる。リズがサシャからフォルムラ語を教えてもらっているのだとしたら、ユーリとサシャが書き残した研究資料にもいずれ気付くだろう。いや、もしかするともうサシャが“無難”なものは教えているかもしれない。
二コラは論外だ。フォルムラ語の日常会話ならまだしも、文法と発音の複雑さに辟易すると珍しく弱音を漏らしていた。理由は簡単だ。オレガノが確立した言語だから、ステラ語が元になっている。だからステラ語をかじったことがある人や、元々ステラ語を話す民族にとっては覚えるのはたやすい。
数日前には二コラも軍医団と共に北側に降りる予定だったけれど、ドン・クリステンから栄位クラスの仕事を優先するようにと指示をされたらしく、複雑そうな表情だったのを思い出す。
みんな複雑な思いを持っている。なにより、一番腹立たしく思っているのはサシャかもしれない。そう思って、ユーリはもう一度サシャの頬を撫でた。
「いうこときかない弟でごめんな」
過去を悔やんでも仕方がない。でも、どうしても思ってしまう。あの時自分がサシャのいうことをきいて、スラムに首を突っ込まなければ、――。だけどそうしたらチェリオにも会わなかっただろうし、エリゼや、ナザリオたちアリオスティ隊の隊員とも仲良くならなかった。ノルマは自分たちにとって脅威でしかなく、好意的な相手はあまりいないのだと、狭い範囲でしか判断できていなかったかもしれないのだ。
サシャはなにかを知っていた。それはもう確かめようのないことだけれど、いまサシャに意識があったら、ちゃんと自分の言葉でしゃべることができたら、間違いなくどたわけがと罵倒されるんだろうと思う。じわりと視界が滲む。ユーリはそれを拭って鼻をすすった。泣いている場合ではない。沈んでいる場合でもない。頭を使え。
ユーリはサシャの額にキスをして、こつんと額を当てた。
やはりおまえはバカだと非難されるだろう。わかっている。自分でもバカだと思う。大人しくしておけばいい。従っておけばいい。でもそれは丸め込まれたような気分になる。スラムのことはスラムの住人に聞けばいい。捜し出すのは少々骨が折れるけれど、チェリオならもしかすると西側の情報を知っているかもしれない。
状況が分からないことには、対策の打ちようがない。パナケインの調合をしようにも、手持ちの薬草が尽きてしまってはどうしようもないし、アルカとパナケインの混合薬以外の対策も必要だ。エドが知っていたということは、もしかするとそれをユリウスも聞いていた可能性がある。もしそうだとしたら、薬効を打ち消す薬品を使われたら、手の打ちようがなくなってしまう。
なにもできない自分が腹立たしいと思っていたけれど、それはみんな同じだ。サシャも、きっと、――。ユーリはそのままの状態でサシャを呼んだ。
「サシャ。キアーラを、捜しに行ってくる」
本当に無事なら、彼女のことだから電信のひとつやふたつ入れてくるだろう。キアーラにはナザリオが付いている。それなのに情報ひとつない。その状況が暗示していることくらい、ユーリは分かっていた。
「俺の方が先にあの世に行くかもな。もしそうなっても、恨み言を言ってくれるなよ」
殺されることなど覚悟の上だ。そんなことよりも、キアーラとナザリオの情報がなにも得られないことの方が耐えられない。いったい彼らの身になにが起こったのか、それが知りたい。
不意に下が騒がしいことに気付いた。急患を告げるベルが鳴る。またか。ユーリはちっと舌打ちをした。
「あーあ、邪魔が入ったな。つまらないこと考えんなってことかよ、サシャ」
どうせ今回も助からない。そんな思いがよぎったが、ユーリはサシャの額と自分の額を合わせると、行ってくると静かに告げた。白衣を正し、両頬をパンと勢いよく叩く。覚束無い足取りで急患室に向かった。
***
急患室に運ばれてきたのはユーリと同じイル・セーラのようだった。南のスラムから運ばれてきたのか、それとも単にオレガノから物見遊山できていたのか。巻き込まれたとしたら災難だったなと誰に言うともなく呟いて、ユーリはミリスからカルテを受け取って目を通した。
ミカエラ・ベルダンディ。19歳。A型。心疾患の既往あり。打つ手なし。カルテにはそうとだけ乱雑に走り書きされている。ユーリは「ティーンかよ」と気まずそうにぼやいた。
手術着に着替えながら、急患室の中にいる少年の様子をうかがう。酸素マスクを装着されているが、呼吸が荒く、明らかにまともに呼吸ができていないのがわかる。蒼白した顔色から察するに、かなり状態が悪い。
申し訳程度に掛けられた毛布からは、ミクシアのものではない軍服が覗いていた。胸にあるマークが彼の官位を示しているのだろうが、ユーリはマークの意味を知らない。随分若いが優秀な人材のようだということだけはわかる。おそらく感染地域の救助に向かったか、炊き出しに行った際に感染したのだろう。
「ユーリ、この見立てをしたのはドン・フィオーレらしいの。とすると、彼はもう」
ミリスが言う。助からないと言いたいのだろう。それはユーリも言おうとしていたところだ。
「せめて楽に逝かせてやるくらいしか、手立てはないだろうな」
そう言って、急患室に入ったユーリは、一瞬立ち止まった。ミリスも驚いたように息をのむ。目の前の少年は、ユーリと瓜ふたつだったからだ。美しいトゥヘッドだけが違う。
ふとキアーラが言っていたことを思い出した。
――ユーリ、町でユーリそっくりの人に出会ったの。あまりにも似ていたから、貴方だと思って声をかけてしまったのよ。
キアーラのそそっかしい行動を笑った。自分とそっくりの人間ということは、当然相手もイル・セーラだ。アンゼラ地区に自分とサシャ以外のイル・セーラがいるなんて聞いたことがない。なにかの間違いか、どこか別の国からやってきたんじゃないのかと諭した。けれどキアーラは嫌な顔ひとつせず、話をしてみたらきっと仲良くなれるわと穏やかに笑った。
――あなたにはサシャやチーム以外の友人が必要よ。あなたを助けてくれる、そしてあなたが助けたいと思う相手がいたら、人は不思議と強くなる。もし現状ではなかったらと、余計なことを考える時間も減ると思うわ。
一度彼と話す機会を設けてみてはどうかしら。とても素敵な方で、きっとあなたのためにもなる。
キアーラの言葉が鮮明に浮かんでくる。自分にはオレガノに親戚筋はいないし、単に他人の空似なのだろう。たとえ別の国の住人だとしても、イル・セーラを、同族を死なせたくはない。ユーリはミカエラに駆け寄って、手首で脈をみた。あまり触れない。結滞、それから徐脈。不規則なリズムを刻む。あきらかにおかしい。ユーリはぺちぺちとミカエラの頬を叩いた。
「聞こえるか、ここは大学の急患室だ」
忙しない呼吸に混じってかすかに呻き声がする。うっすらと瞼の下で眼球が動いたような気がする。
「ミリス!」
ユーリの声に、ミリスが驚いたような声を上げた。
「たぶんちゃんと呼吸できていないだけで、もしかするとどうにかなるかも。
輸液用意して。生食とブドウ糖液。あと俺が時々使ってる薬品箱も」
「でも、ユーリ。それは」
「いいから。用意してくれるだけでいい。あんたは手を出すな」
部屋の中に緊急用のベルが鳴り響いた。すぐさまミリスが通信機へと向かう。
『聞こえるか、ユーリ・オルヴェ』
声の主は学長だった。
『彼を死なせるな。なんとしてもだ』
普段にはない嚇すような口調だ。ユーリは鼻白んでふんと笑った。
「現場にいた軍医ですら打つ手なしというものを覆せと?」
どういう了見だ? と、負けじと語調を強めた。
『ならば最善を尽くせ。駄目だったとしてもこちらに非はないと証明できるありったけの薬品を使っても構わない』
「……ふうん、ただの軍人ってわけじゃないってことか」
『いいか、よく聞け。こちらに非があると分かれば国際問題に発展する可能性だってある。決してミスをするな』
そうとだけ言って学長は通信を切った。相当な相手らしい。ユーリはミリスと顔を見合わせた。
助けろと言ったり、助けられないのならこちらに非はないというほど尽くせと言ったり、一体どうしろというのだろうか。考えてもらちが明かない。ユーリはすぐにミカエラにつけられた簡易式の酸素マスクを外した。
「ミリス、悪いけどアナスターシャを呼んで。彼ならこういうときの対処法をいくつも知っている。招集が済んだら、俺はいったんここを離れる」
語気を強めると、ミリスは慌てたように交信機の元へ走った。ミカエラの首にはいくつもの爪の跡があった。腕や手にも擦過傷が出来ている。感染者と揉み合ったときについたものか、それとも発作の苦痛でもがいたときのものか。
ユーリは注意深く観察しながら、ポケットに入れていたピルケースを取り出した。アルカの丸薬とパナケインを手に取り、ミカエラの口の中に押し込む。本来なら分量の問題やあるだろうけれど、いちかばちかだ。幸いにしてミカエラは抵抗なく丸薬を飲み込んだ。まだ反射がある。サシャとは違う。また呻き声がして、ゴホゴホと湿った咳をする。
ユーリはすんと鼻を動かした。嗅ぎなれない薬物のにおいだ。眉を顰める。後ろからアナスターシャを呼ぶミリスの声がした。ユーリはアナスターシャへと振り返り、酸素マスクを元に戻した。
「薬害で心筋症とか起こしたりするよな? 呼気からもわかるってことは、やっぱり西側はなにかの薬物で汚染されているんじゃ?」
アナスターシャも鼻を動かしたが、眉間にしわを寄せて首を横に振った。
「犬か、貴様は」
マジかと口の中で呟く。カルテにもあるように心疾患の既往があるのなら、やはり最初に思いついたように“取り換えればいい”。
「アナスターシャ、オレガノで認可されている術式、わかるよな?」
アナスターシャが怪訝そうに眉根を寄せる。
「それは生体移植のことを言っているのか? あちらでは何件か担当したことがあるが」
ユーリはぱっと表情を明るくさせた。怯んだようにアナスターシャが一歩後ろに下がる。いやしかしと困惑したような声色でアナスターシャが継ぐ。
ユーリはアナスターシャにミカエラのカルテを開いて手渡した。『ミカエラ・ベルダンディ。A型。心疾患の既往あり。打つ手なし。』――そう乱雑に書かれたカルテを見て、今度はアナスターシャが舌打ちをした。
「誰だ、こんなくそふざけた見立てをしたのは!」
なにが打つ手なしだと吠えて、苛立ったようにユーリを睨んだ。
「先ほどドン・アゴスティが顔面蒼白させてうろたえていた。原因は十中八九彼だろう。貴様は彼の素性を知らんから平然としていられる」
「素性なんてどうでもいい、助かる見込みがあるなら、手を尽くすのが俺たちの役割だ」
アナスターシャが呆れかえったような声が漏れるほど嘆息した。けれどすぐにカルテをそばにいたミリスに突き出した。
「生体移植をするとして、ドナーはどうするつもりだ」
「A型なんだ。サシャと一緒」
口元だけでユーリが笑う。そう言われて、アナスターシャが瞠目した。眉間にしわを寄せた難しい表情が崩れて、なんとも言えない表情を浮かべた。
「馬鹿か、貴様は」
「文句ならあとで言って。ミクシアでは非認可だけど、オレガノの医師免許を持ったあんたとフレオがいたら、あとは“家族の許可”があればグレーだろ」
ユーリはミリスにフレオを呼ぶよう指示した。ミカエラを頼むとアナスターシャに告げ、サシャが眠っている部屋へと走った。
――手術は8時間にも及んだ。さすが軍人というべきか、ミカエラの驚くべき体力がなした奇跡かもしれない。ユーリは子どもの頃に一度だけ“ユーリ”が手術をしているのを見たことがあった。その時のことを鮮明に覚えている。本当ならいけないことだが、“ユーリ”の研究室に忍び込んで、その術式の方法と順番を頭に焼き付けた。ぶっつけ本番にしてはうまくいったと思う。
簡易式の呼吸器を付けられたミカエラは規則正しく呼吸をしている。その傍らで、アナスターシャはなにを言うわけでもなく立ち竦んでいた。フレオもまた床にしゃがみ込んでいる。
ユーリは無言のままサシャの頬に手を当てた。冷たい。あたりまえだ。もう息もしていない。代わりに、隣からやや忙しないものの規則正しい呼吸が聞こえてくる。
「ちょっと風に当たってくる」
言って、ユーリはアナスターシャの返事も待たずに手術室を後にした。血で汚れた術衣をランドリーに放り投げ、早足でロッカールームに駆け込む。乱雑に脱ぎ捨てていた服に着替えて、屋上へと向かった。
いつの間にか日が暮れていた。乾いた風が頬を撫でる。ユーリは空を見上げたままぼんやりとしていた。なにも考えられない。ただ、少し上がった息を整える。
衝動的だった。彼を――ミカエラを助けるためには、あれしかなかった。ぶっつけ本番でよくやったと思う。アナスターシャのサポートがあったとはいえ、よく失敗しなかったと思う。そしてよく途中でサシャの呼吸が止まらなかったと思う。
ユーリはやるせない思いを吐き出そうとした。うまく息ができない。涙が次から次へと溢れてくる。ユーリは屋上の手すりにもたれかかって、声を殺して泣いた。
パナケインとアルカをミカエラに飲ませたとき、彼はまだ生きようとしていると確信した。オレガノの住人だけれど、おなじイル・セーラであることに違いはない。どちらも救うことが無理なら、諦めただろう。でも、ミカエラはまだ可能性を持っていた。だったら、答えはひとつしかない。ミカエラを救う。それが最善だと思った。
頭ではわかっている。これが最適解で、ミクシアにも、オレガノにも恩を売れる方法だ。学長がそうしろと言ったのだ。大学側にもこれを切り札として使える。そう考えているのに、気持ちが追い付かない。泣く必要などない。サシャのおかげでひとりの同胞が救われたのだ。
足音が近付いてくる。ユーリは涙を拭って鼻をすすった。
「Sig.ジェンマが珍しくしょげていたぞ」
ニコラがいた。コーヒーカップをふたつ持っていて、ユーリに向けて片方を差し出してくる。ユーリはそれを無言で受け取った。
「コーヒーなんて、よく手に入ったな」
ひさびさに香る心地よさを肺いっぱいに吸い込むと、ユーリは満足げに目を細めた。
「彼の部下が差し入れてくれた」
彼というのはミカエラのことだろう。まだティーンだというのに部下がいる身分のようだ。学長から国際問題と言われた時には驚いたが、そういうことかと内心する。
「よく慕われているらしい。助かったと聞いて、部下が泣き崩れていた」
「そう」
言って、ユーリはコーヒーを啜った。味がしない。うえっと眉根を寄せて非難する。ニコラは穏やかに笑い、ポケットからいくつかのシュガースティックを取り出した。
「これで満足か、ガッティーナ」
「うるせえ。コーヒーをブラックで飲むなんざ毒だ、毒」
ミルクと砂糖をいれてなんぼだと毒づいて、ニコラに手渡されたシュガースティックのうちの二本を乱暴にいれた。無言のままそれを啜り、手すりにもたれかかる。ふわりと頭を撫でられ、ユーリはふんと鼻で笑った。
「泣き崩れていた、か。人間は忙しいな。助かっても、助からなくても、どちらでも泣く」
「そういう生き物だからな。感情のひとつにも両極端な意味がある。だからこそ複雑でわかりにくい。
俺なら見限っただろう。おまえが駆け付けたことで判断が変わった。彼は運がいい」
いつもよりも穏やかな声でニコラが言う。ユーリは目を眇めてニコラを見たあと、またふんと鼻で笑った。
正直に言うと、ミカエラを助けたかったのか、それともサシャを助けたかったのかわからないのだ。もしかすると自分を救うためだったかもしれない。迫りくる罪悪感から逃げたくて、サシャがあのままただ死んでいくのを見るのが嫌で、人助けをしたと正当化しているだけなのかもしれない。
「俺をあまり過大評価するな。学長から脅されたんだ」
「脅された?」
「死なせたら国際問題に発展する可能性があるって。だからアナスターシャの手を借りた」
ミリスも聞いていると、ユーリ。二コラはコーヒーを一口すすり、なるほどと唸るように言った。
「緊急性が高かったことも、“家族の同意”があることもわかる。だが向こうの同意を得ていないのでは? 今回のことを過失として咎められない方向に持っていくこともできなくはないが、本来ならこれは法令違反だ」
「知ってる。でもミカエラの命と、俺がここで働けなくなることなんて天秤にかけるまでもない」
言ってコーヒーを啜る。砂糖を入れたが、やっぱり味がしない。コーヒーの香りだけがするお湯のようだ。ユーリはマグカップをコンクリートの床に置いて、その場に腰を下ろした。
「退職と引き換えだと言いたいのか?」
「国で認められていない手術をしたんだ。そうなってもおかしくはない。いつもなら真っ先にそれを咎めるくせに」
悪戯っぽく笑いながら言ったが、ニコラはにこりともしない。それどころか不満げに眉を潜めて舌打ちをした。
「どういうつもりだ。オレガノに亡命するつもりもないのだろう? 南側にいる仲間を助けるためにスラムの診療所を始めたのではなかったのか?」
「状況が状況だろ、少しは考えろよ。こんな困窮を極めた状態で南側に診療所なんて設置してもらえるわけがないし、西側がほぼ全滅なら南側だって無事じゃない。そこにはもう助けるべき仲間も存在していない可能性だってなくはないんだ」
「だからと言って」
「だからミカエラは救いたかった。なんとしても。
それは俺にとっても、サシャにとっても、最高の形で人助けをする機会だ。もし失敗したとしても、どうせもう助からない運命だったのだとあきらめもつく」
だからあんたに憐れまれる理由はないと、ユーリがコーヒーを飲みほした。それはユーリの本音だ。
「持って入ってくれ。もう少しここにいる」
ニコラはコーヒーカップを受け取りはしたが、それをコンクリートの上に置き、ユーリの頭をぽんぽんと叩いた。
「なんだよ?」
怪訝そうにユーリが問う。ニコラはユーリのほうを見ずに、薄暗い空を見上げた。
「本当に納得した結果か?」
ニコラが問うてくる。ユーリはニコラの質問の意味がよくわからないととぼけると、膝の上に重ねた腕にあごを乗せた。
「なら質問を変えよう。おまえが本当に助けたかったのは、ミカエラだったのか?」
「はっ、ますます意味が分からねえな。有能なティーンまで死なせたくないって思っちゃいけないのか?」
「質問に質問で返すんじゃない。ったく、都合が悪くなるとすぐにそうやってとぼける」
おまえの悪い癖だと、ニコラ。ユーリはなにも言わなかった。しばらくの間、二人とも無言だった。
「なあ、早く仮眠室に戻れよ。俺は非番だけど、あんたはもう一日あるだろ?」
ニコラを見上げながら言う。ニコラはユーリを見下ろすと、わしわしと頭を撫でてきた。髪が乱れると文句を言って、その手を払いのけた。元々風で乱れていた。キアーラもいないから、アレンジもせずただ無造作に髪留めでまとめているだけだ。
「冗談じゃない。おまえを一人にできるか。リズの言うように身投げでもされたら困る」
ユーリは一瞬間ぽかんとして、吹き出した。眉を下げて困ったように笑う。このことはユーリとアナスターシャ、そしてフレオ以外関わっていない。リズにも、二コラにも、そしてミリスにも関わらせず、ただ物品を運ばせるだけしかさせなかった。だから三人とも、あとでサシャのことを知ったのだ。きっと口々にユーリのことを話題に出して、一番ポーカーフェイスがうまい二コラをよこしたのだろう。リズが来たら、きっとユーリはふたりで泣いたと思う。鼻の奥がツンとして、ユーリは二コラから視線を逸らした。
「身投げなんてしねえよ。そもそも高いところ嫌いだし」
自分の声が震えていることに気付く。なんだ。リズじゃなくても、二コラの前でもやっぱり泣くんじゃないか。ユーリは自分の腕で顔を隠した。
「言ったろ、最高の形で人助けができた。あれでよかった。本望だったよ、きっと」
ユーリの声はいつものものではない。最後のほうは涙声になっていた。ニコラはユーリとの付き合いが長い分、ユーリの悪癖をいくつも知っている。人に涙を見せることを極端に嫌うユーリは、なにかがあると決まって一人になりたがる。人知れず、ひっそりと泣いて、人前に出るときには泣いたことさえ悟らせない。
「強がるな、底なしのバカが。おまえの弱音くらいなら俺も背負ってやる」
「余計なお世話だ」
ユーリはそう悪態をついたが、嗚咽交じりのそれでは説得力がない。不意に頭からなにかを被せられた。ニコラの白衣だ。ユーリは声を押し殺して泣きながらその白衣を握りしめた。
ミカエラは一命を取り留めた。条件が一致した。サシャのおかげで本来ならば救えないはずの命を救うことができた。倫理的にも、道徳的にも許されないことをしたということは分かっている。
イル・セーラにとって、同族を――いや、親族を手に掛けることは、処刑に等しい禁忌だ。
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