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Three(7)

 キアーラに案内された仮の研究室を覗き込み、ユーリとサシャは感嘆の声をあげた。大学の研究室にも劣らないレベルの検査器具等一式が取り揃えられている。薬研と乳棒あたりがあればいいと伝えていたはずなのに、ここまでするとはとサシャがやや呆れ気味な声色で呟いた。  軍部やピエタに研究室とバレないような場所で研究がしたいから捜してもらえないだろうか。ユーリがキアーラにそう頼んだのは、エリゼとチェリオに連れられて南側のスラムに行ったあとーーつまり数時間前のことだ。  ユーリもサシャも、キアーラからは『何か不自由があればすぐに申し出るように』、『同チームだし世代の近い友人なのだから頼ってほしい』と常々言われている。ノルマから色眼鏡で見られる以外衣食住何不自由なく暮らせているのは既にキアーラのおかげだからと負担をかけないようにしていたのだが、今回ばかりはキアーラ以外に頼る相手がいなかったのだ。それをまさかこんなにも喜ばれ、張り切られるとは思いもよらなかった。二つ返事どころか即座に快諾され、とても良い場所があると連れてこられたのがここだ。 「ここは元々お兄様が使っていた研究室なの。いまはわたしが一切の管理を任されているので、自由に使ってもらって構わないわ。  奥にはシャワー室と厨房、それから地下水を汲める井戸も」  キアーラが研究室の勝手を説明してくれる。サシャはどこか気まずそうに眉根を寄せた。  キアーラのいうお兄様ことディアンジェロ公爵は、4年前からオレガノに特使として赴いている。一度だけ会ったことがあるが、見た目も性格もキアーラそっくりで、しゃべる速度はキアーラの1/2くらいの、かなりのんびりとした人だった。そんなのんびりなタイプだけれど、只者ではない。スパツィオ大学の栄位クラス内でも誰も取得していない有資格者で、本来ならば軍医団長に推薦されてもおかしくないほどの実績の持ち主だけれど、『叔父上を差し置いてそんな役職にはつけない』と辞退し、ドン・クリステンとチェンジするような形でオレガノの特使に立候補したと聞いている。それもあってキアーラがオレガノ贔屓なのだとほかの栄位クラスのチームの人が言っていた気がする。 「いいのか、下流層街にあるとはいえ、大財閥かつ王家の親族の嫡子様の研究室を俺たちなんかが借りても」  ユーリが敢えて言わずにおいたことを、サシャが尋ねた。言われることはわかっているのだからと内心する。 「ええ。だってユーリとサシャの今後がかかっているのでしょう? あなたたちの支援をしているディアンジェロ家の一員として、当然のことだわ」  ころころと屈託なく笑いながら、キアーラ。サシャは少し困ったような表情のままだ。キアーラが大財閥の令嬢なのは知っていたが、王家の親族だとはしらなかった。だからノルマたちはキアーラに対して異様に気を使うのかと納得する。 「ここはお言葉に甘えようぜ。ニコラやナザリオには頼れないんだから」  リスクは最小限に抑えるべきだろうと、ユーリ。サシャは少しの間考え込んでいる様子だったが、やがて観念したように頷いた。 「恩に着る、キアーラ。このお礼は必ず」 「律儀なことで。借りれらるものはなんでも借りたらいいんだよ」  礼儀を欠くような発言は控えろとサシャが語気を強めたが、キアーラは何も気にしていない様子でくすくすと笑うだけだ。 「本当に気にしないでいいのよ、サシャ。お兄様からは自由にしていいと許可を頂いているし、それにここは元々うちの使用人だったイル・セーラが住んでいた場所なの」  イル・セーラの奴隷解放が行われたあと、本当ならここに収容所を出たばかりのイル・セーラ達を住まわせるつもりだったようだ。だが貴族院の反対勢力から猛反対されたことや、犯罪に巻き込まれるリスクが高いことを理由に叶わなかったらしい。だから南側のスラムにイル・セーラたちを移送し、既にノルマ語を習得しているサシャとユーリには大学で学ぶ権利を持たせた。いずれ南側のスラムにいるイル・セーラたちへの教育を施すためと、いざとなればオレガノに亡命させるための苦肉の策だという。ユーリとサシャは顔を見合わせた。 「オレガノになんて行かねえぞ」  ぽつりとユーリが言う。 「とてもいいところよ。気候もフォルスと変わらないし、きちんと統治されているから反乱も起きないし差別も少ない。腹の中ではどう思っているかわからない節はあるのかもしれないけれど、少なくともミクシアにいるよりは安全だとわたしは思う」  キアーラは本当にユーリ達のことを思って言ってくれている。それはわかる。だがそれが逆に鼻についた。ユーリはフンと鼻で笑って大袈裟に両手を広げた。 「元々がフォルスの出身で外のことは何も知らないで育ったと言うのに、今度は海を渡って"安全な“オレガノに亡命しろと? 貴族様は連れて行かれる側の気持ちなんで微塵も酌んでくれないんだな」 「ユーリ、そんな言い方はないだろう」 「じゃあサシャは平気なのか? オレガノがどこにあって、どういう人種がいて、どういう産業があるのかも、食文化もなにも知らない。言葉が通じかもわからないのに、安全だというだけで連れて行かれるなんて、それを善とするなんて、奴隷商人と変わらない」  息巻くユーリを前に、キアーラは気分を害するどころか新たな面を発見したと言わんばかりの表情をしている。ユーリはそれを不満そうに横目で見て唇を尖らせた。 「なんだよ」 「イル・セーラは本当に同族や里のことを大切にする種族なんだなって思ったの。  わたしはそういうところが好きよ。ノルマと違って腹の探り合いをしなくていいもの」  キアーラの真意に気づいて、ユーリは気まずそうな表情で前髪を掻き上げた。 「悪い、つい熱くなった」 「いいの、気にしないで。オレガノへの亡命の件は、そもそもあちらからもいい顔をされなかったわ。  あ、イル・セーラだからとか、元奴隷だから受け入れられないとかではないの。イル・セーラはどこに行っても生きられる逞しさを持ってはいるけれど、それはやむを得ない理由で故郷を離れなければならなくなったときだけで、本来は生まれ育った場所で過ごすのが彼らの仕来りなんだと教えて頂いたわ」  キアーラの言葉に、ユーリとサシャは思わず顔を見合わせた。それを教えた相手は、まるでイル・セーラのことをよく知っているかのようだからだ。きょとんとする二人を前に、キアーラはやや真剣な面持ちになった。 「それにね、この件には何かが絡んでいるように思えてならないの。ユーリとサシャがエルン村の一件を報告した際に確認印を押したのはわたしよ。わたしはその書類を見ているし、報告に行くと言って出て行ったのも知っている。それなのに、軍部にその書類そのものがないなんて。担当者が紛失したか、意図的に隠してしまったかのどちらかだわ」 「キアーラまで陰謀論者だったとは思わなかったぞ」  持ってきた荷物をテーブルに置きながら、ユーリ。長らく使っていなかったような口ぶりだったが、かなり綺麗に掃除をされている。いますぐにでも研究に取り掛かれそうだとカバンの中の荷物をテーブルに並べていく。 「あれはどなたかの力が働いたとしか思えないはぐらかし方だったわ。ドン・クリステンでも手に負えないとなると、あとは叔父様に動いて頂くしかないけれど、叔父様はご多忙だし、いまは表面的でも構わないからいうことを聞いていると見せかけたほうが無難なのよ」 「表面的に、ねえ。もし俺がフェルマペネムの代替品じゃなくて、毒薬を作ったらどうするつもりなんだか」 「あなたたちだけじゃなく、南側のスラムのイル・セーラたちの命がかかっているこの状況で、そんなことはしないでしょう?」  そう問われ、ユーリは苦い顔をした。この一件に絡んでいる連中は、ユーリたちイル・セーラの結束が強いことを知っているのだ。見透かされている。いい気分ではない上に遠くから心臓を鷲掴みにされているかのような不快感しかない。  そもそもエルン村での出来事は、ニコラを介してドン・クリステンにも報告が入っているはずだ。それなのに彼が知らないなど有り得ないし、知っていても上が知らないと言えば従わざるを得なかったのだとしたら、彼よりもさらに立場の上の人間が裏で糸を引いているということになる。  ユーリは必要な薬草を取り出しながら、ふうと溜め息をついた。 「本当にフェルマペネムの代替品を作ったら、俺たち二人もだけど、南側のイル・セーラたちの身の安全を保証してもらえるんだな?」 「ええ、このとおり」  キアーラが手にしていたレザーファイルから、上質な紙の封筒を取り出した。王家の刻印が記された紙を開き、ユーリとサシャに見せる。 「南側のイル・セーラたちも、他のスラムに住む人たちの手前、下流層街の市民権を与えるとのことよ。もしもそれが不満なら、市外の廃村をイル・セーラの村にしてもいいとも仰っていたわ」 「廃村?」 「ミクシア市を出たら、門の右手奥に赤煉瓦の屋根が見えるでしょう? あの付近よ」 「あのあたりはファントマの流行で村人が全滅したという場所ではなかったか?」  サシャが不満気な表情で言う。 「そうだけど、軍医団が周囲一帯を消毒して回っているし、井戸の水質も市内のものと遜色ないと報告を受けているわ。たまに農夫たちが精肉を卸しにやってきたときの宿泊所として使われているはずよ」  ユーリとサシャは顔を見合わせた。  下流層街に市民権を得るとなると諸々面倒なことになるだろう。ユーリは市外の村に住むのでも別に構わないが、サシャが難色を示している理由は、意外にもサシャは幽霊とかの心霊系が苦手だからだ。  フォルスのあのバカ高い滝から飛び降りたり、鱗に触れたら死ぬとまで言われたパドヴァンから流れてきた毒蛇を“ユーリ”とふたりで捕獲したり、生きるためとはいえ大人が討った猪を積極的に解体しに行っていた“あの”サシャが、子どもだましみたいなものが苦手だなんて、本当にどうかしている。  そもそもあそこは、元々軍部の下部組織が寝泊まりする村としても使われていたらしいけれど、あまりにも心霊現象が多すぎて手放さざるを得なくなったのだと、二コラが嘘か本当かわかりもしないことを言っていた。物音がするたびにサシャが無言の悲鳴を上げてしがみついてくるような生活を送るのは、地味にストレスになるような気がする。 「それならいっそ、フォルスに帰してくれって追加交渉してくれよ」 「こら、ユーリ。せっかく交渉してくれたのに失礼だろう」 「サシャがそれ言う? 俺の精神衛生上フォルスのほうがいい。フォルスに帰りたい。フォルスじゃなきゃ嫌」  矢継ぎ早に言ってのけるときは、ユーリが頑として譲る気がないうえ、他人の話を聞く気がないときだ。それを知っているキアーラが楽しそうに笑うのが見えた。 「わかっているわ。あの場所を提供すると言い出したのは、必要な時にあなたたちになにかをさせるのに都合がいいからよ」 「もしあの赤煉瓦の村に住むことになったら、俺が耐えられない。だから絶対にフォルスがいい。俺たちは元々フォルスの出身だし、そこしか知らない。違う場所にはもう住みたくない」  絶対に嫌と、ユーリが語気を強める。 「国外追放をと嚇してきたのは向こうなのだから、もっと条件を突き付けてやればいいわ。  フォルスに戻る以外に、なにか望みはない?」  そう尋ねられ、ユーリはもう一度サシャと顔を見合わせた。サシャと一緒にフォルスに帰る以外、望みはない。報奨金云々を引き合いに出せば、キアーラはきっととんでもない額の報奨金と“補償金”を提示させるだろう。国の中枢を司る家の令嬢だからこそなのか、キアーラはユーリたちイル・セーラや少数民族が謂れのない疑いを掛けられたり、不当に扱われることがあれば、普段のお淑やかなイメージが音を立てて崩れるほど相手を“詰める”。 「フォルスに帰る以外、特にない。あとは無駄な争いに巻き込まれなければそれでいい。それを約束してもらえるなら、俺も本気を出すんだがなァ」  まるで試すような口調で、ユーリ。キアーラはそんなユーリに視線をやると、ふわりと微笑んだ。 「エドたちの絶対的な身の安全とフォルスへの帰還が叶うなら、ちゃんとフェルマペネムの代替品を作って、あとは大人しくしておくつもりでいる」 「では、軍部の労働契約書にサインを。叶うかわからないけれど、叔父様に意向を話しておくわね」  さすがキアーラだと大袈裟に褒めながら、キアーラに差し出された書類にサインをする。ユーリが大人しく従うほうがメリットがあると上が考えているのだろう。 「ピエタにも軍部にも知られない場所というのが気になったのだけれど、これはニコラにも報告をしない方が?」  キアーラに問われ、ユーリはすぐさま頷いた。ナザリオにも黙っておいてくれと告げる。エリゼくらいには伝えてもいいかと頭を過ったが、ふるふると頭を横に振る。 「ニコラやナザリオ個人を信用していないわけじゃない。けれどピエタも軍部も一枚岩ではないと聞いているし、秘密を知る人間は少ない方がいい」  ニコラにも黙っておくのかとサシャが言う。ユーリは逆に驚いた。サシャから言い出すかと思ったからだ。 「サシャって、ニコラには無条件に懐いているよな」 「そういうおまえがニコラを遠ざけようとするのが意外だったんだが」  口元に手を当てたまま、サシャが何かを考えるようなそぶりを見せた。 「ピエタのナザリオやエリゼはともかくとして、ニコラには伝えておいたほうがいいのでは? 栄位クラスの一員だし、いざということが起きた時にピエタにも軍部にも顔が利くだろう」 「それはキアーラ一人で十分じゃねえ? ニコラだとピエタには強気で出られても軍部に対してはいつも弱腰じゃねえか」  サシャにはなんらかの思惑があるようだ。ユーリの懸念をよそに、キアーラに視線をやった。 「ニコラに伝えておいたほうがいいんじゃないか? リズには黙っておいたほうが無難だというのは、ユーリも同意見だと思う。もし何事かあってもリズが巻き込まれないようにしておかないと、彼は戦えないし、下流階級ということもあり、立場も弱い。けれど、ニコラは他言しないだろうし、必要な物品を持ってきてもらうのに頼む相手も必要だ」 「あー、確かに。夜間に呼び出してキアーラに持ってきてもらうなんてもってのほかだもんなァ」  キアーラは「心配しなくても夜間に出歩くなんて頼まれてもしないわ」と気分を害した様子もなく言って、王家の紋章入りの書類と小さな鍵をテーブルに置いた。 「これはここの鍵よ。奥の厨房の隅っこに地下室に入るための入り口があるわ。そこの鍵と共通だから、失くさないように。  それと、この研究室はお兄様の別荘から直通で来ることができるので、わたしはしばらく上にいるけれど、ふたりに心配をかけたくないから物品の調達はニコラにお願いするわ。  お昼間に時々差し入れに来るわね」  キアーラはそう言うと、あまり根をつめて研究しないようにと言い残し、部屋を後にした。 「彼女はおまえに気があるのか?」  キアーラの足音が聞こえなくなった頃、不意にサシャが問うてくる。 「おまえの頼みならなんでも聞く勢いだったな」  言われてみればそうかもしれない。ユーリからキアーラに頼むことがあまりないから張り切っているだけなのだと感じたが、サシャはそうとはとらえなかったようだ。 「いくらおまえでも、まさかノルマと番う気はないよな?」 「キアーラは器量もいいしよく気がきく。頭も回る。だけどいくら向こうに好意があったとしても番う気はないし、そもそも彼女は婚約者がいる」 「じゃあ余計に別の男に気があるような素振りをするのはよくないんじゃないか?」  サシャの言葉にユーリは空笑いをした。  キアーラは確かにユーリに好意を寄せているかのようなそぶりを見せることがある。距離が近い上にやたらと世話を焼いてくる。一度それに関して尋ねたことがあるが、キアーラは同年代の友人がいたことがなく、且つ周りは母親と使用人以外男性ばかりだったから距離の取り方を意識したことがなかったと驚いたように言われたのだ。上流階級の女性にはスラムや下流層街の女性達とは異なり、男性は女性を守るのが当たり前で男性に襲われる可能性があるという概念がないらしいことを、ユーリはキアーラと仲良くなって初めて知った。  それをサシャに伝えると、サシャはなんだか申し訳なさそうな表情でユーリの肩をポンと叩いた。 「異性として見られていないというやつだな」 「俺の髪でアレンジを楽しむ趣味をお持ちだからなァ。人形とか本当にただの友人程度にしか感じていないのかもしれない」  上流階級の女性の感覚はよくわからないとサシャがぼやく。ユーリもまた収容所では男女問わず大人気だったのになァと自分の顔を触って見せる。サシャから冷めた視線を浴びせられ、ユーリはまるで誤魔化すように仕事仕事と言いながら部屋の奥のデスクに向かう。ユーリの発言に対して不満げだったが、サシャはそれ以上取り合わないとでもいうかのように荷解きを始めた。 *****  パナケインの完成にはそう時間がかからなかった。材料とレシピさえあればこっちのものだ。代替品の材料自体はサシャが、調合の分量はユーリが“ユーリ”から聞かされている。必要な薬草をしっかり乾燥させ、薬研ですり潰す。ごりごりと硬い音が研究室にこだまする。  あくまでも試作品だが、ユーリがすりつぶしたものをサシャがひとつひとつ量を測りながら薬包に収めていく。地下街、ディエチ地区、ノーヴェ地区と記された箱の中にサシャが分別する。 「こうもあっさり作ってしまったら、フォルスに何かが隠してあったのだと疑われるのでは?」  そもそもなぜ先に軍部ではなくスラムに配るんだ? と、怪訝そうにサシャが言う。 「軍部に全てを渡したら、スラムにまで行き届かないからに決まっているだろ」  こっちは子ども用、真ん中は女性用の丸薬と言いながら、ユーリが薬草の粉が入った乳鉢をサシャの方へと寄せる。 「それにフォルスには薬草図鑑をとりに行ったと伝えてあるし、枯れた鉢植えの検分もさせたんだから、大丈夫だろ」  味見してとユーリがサシャに調合した薬草を薬匙の先に乗せて突き出す。サシャはそれを手の甲に乗せるよう指示し、ぺろりと舐めた。 「もう少し擦り潰しても構わないと思うぞ。舌触りが滑らかなほうがノルマも飲みやすいだろうし」  サシャに言われ、ユーリはあからさまに嫌そうな顔をした。その表情でサシャはユーリの意図に気付いたらしい。早い話が土壇場で手のひら返しをされたことへの地味な嫌がらせだ。 「サシャはお優しいなァ。狭量な俺はあいつらが苦い苦いと涙目になるのを期待してつい粗めに潰しちまった」  あーあァ、残念だと言いながら、ユーリが薬研を動かす。サシャはそれを見ながら眉間を指で摘んだ。 「それは俺も同感だけれど、わざわざいま嫌がらせをする必要はないのでは? 国医になったあとでも遅くはないだろう」 「随分と気の長い話だなァ」 「俺ならわざと痛い治療をしたりギリギリ痛みを和らげきらない程度の痛み止めを使うくらいの嫌がらせをする」  そっちのが悪質じゃねえかとユーリが笑う。サシャもまた冗談だと笑った。  不意にサシャがユーリを呼ぶ。ユーリは不思議そうにサシャに視線をやった。 「あれから、ユリウスには会ったか?」  そう問われ、ユーリは素直に首を横に振った。あれからユリウスはユーリたちの前に姿を現していない。ナザリオに調べてもらい、出国していないことはわかっている。 「なにか良からぬことを企んでいなければいいんだが」  丁寧に薬包を畳みながらサシャが言う。ユーリにはユリウスが悪い人間には見えないのだが、サシャは認識が異なっているようだ。 「そういえば、エドが困ったときには俺と同じ名前の薬草を使えって」  ふとエドに言われたことを思い出して、呟く。サシャが不審な顔をして、眉を顰めた。 「聞いたことがない」 「マジ?」  確か、“俺と同じ名前の薬草”と言っていたはずだ。怪訝な顔でなにかを考えているサシャを見ていたら、その言葉が口から出て行かなかった。 「あ、いや。俺の勘違いかも」  あの時は久々にクリプトで話したし、聞き間違えたのかもと取り繕う。サシャはなにかを言いたげにユーリに視線を向けたが、薬包紙を折る手を再開した。 「それはたぶん、別の状況が起きた時の話では? さすがにミクシアの土壌ではあの薬草は自生していないだろうし、そもそもあんなものいつ咲くのかわからない」 「そうなのか。フォルスとミクシアって、土の質が全然違うものな。せっかくジャンカルロにコレットの種を買ってきてもらったのに、ちゃんと育たなかったんだ」 「コレットの花は潮風に弱いからな。フォルスでは育っても、崖下の集落では育たないよ」 「ふうん。潮風に強いっていったら、ルシアか。あーあァ、フォルスに行ったときに注意深く捜しておくんだった」  そう言ったら、サシャがようやく口元を綻ばせた。 「それはノルマへの嫌がらせか? それとも単なる興味本位か?」 「両方。ルシアがちゃんと栽培出来たら、スラムの妙な中毒症状も改善されるんじゃないかって、俺はそう睨んでいる」 「懲りないな。そろそろ自重しないと、二コラの前髪が犠牲になる一方だぞ」 「二コラはむしろ額の狭さを気にしているくらいだから、少々前髪が犠牲になったくらいがちょうどいい」  好きなことを言うとサシャが笑って、どこか安堵したような表情で息を吐いた。 「軍部への提出用の書類は、ノルマ語とクリプトで二種類作った」  言って、サシャがユーリにレポート用紙を差し出してくる。 「調合の分量を記入を頼みたいが、どう書く? ノルマ語のほうは希少価値の高い香木は省いてある」 「分量も適量以下で。クリプトの方は数字がわからないように暗号化させる」  よしとサシャが頷く。口元に手を当て、ユーリが記すノルマ語の書類の一部を万年筆の先でとんとんと叩いた。 「ここにネクターを数滴追加しておいたほうが無難かもな」 「ネクターを?」  ユーリが不思議そうに問う。サシャは少しの間をおいて頷いた。 「ノルマはイル・セーラと比較すると胃腸がデリケートだからな。甘味を少し足すことで服用時の不快感が減るだろう」 「へえ、なるほど。だとすると俺は相当捻くれてるんだなァ。ネクターの追加はハイペリカの中和の為かと思ったんだが」  サシャが含みのある笑みを浮かべ、ユーリを見る。ユーリは吹き出してマジかよと素っ頓狂な声を上げた。 「そういう嫌がらせは俺の専売特許だっての」 「イル・セーラの知識をそう簡単に渡してたまるか。そもそも希少香木がなければなんの意味もなさないただの風邪薬だ」  ユーリはサシャを見上げた後、頬杖をついた。 「まァ、ネクターの追加で風邪薬兼胃薬程度にはなるかもしれないけどなァ」  フェルマペネムの代替品には程遠いと、ユーリ。サシャはそれでいいと告げ、調合材料の末尾に『ネクター 数滴(10滴以内)』と書き加えた。今度はユーリがあーあァと大袈裟な声を出す。 「俺なら20滴以内って書いたのに」  ユーリがしれっと言ってのけると、サシャが笑った。 「服用した人間をトイレとお友だちにさせるつもりか?」 「解毒できて且つ物理的に痩せられる。腹の肥えた上流階級様にはお似合いだろう」  悪いやつだなとサシャが笑う。そっちこそと負けじと言い返したあとで、ユーリはすっくと立ち上がった。 「俺はこれをスラムに持って行ってくる。サシャはどうする?」 「たまには俺も行こうかな」  サシャは薬品箱を締め、椅子に掛けていた白衣を羽織った。 「珍しいな。俺と離れるのが寂しくなったのか?」  ユーリが冗談めかして言う。サシャはそうだなと目を伏せ、ふうと息を吐いた。 「ここにいると収容所にいた時のことを思い出す。一人でいると気が滅入りそうだ」 「マジか。そりゃあ重要な問題だ」 「ああ。早急に解決すべきだな」  口々に言って顔を見合わせ、笑う。ユーリもまた白衣を羽織り、部屋に備え付けてある無線機を手に取った。相手はジャンカルロだ。数秒もしないうちに明朗な声が聞こえた。 『おう、どうした?』 「東側のスラムに付き合って欲しいんだ」 『いま表が騒がしいんだ。迎えに行く。どこにいる?』 「下流層街のアンゼラ地区。近くにディアンジェロ家が所有している建物がある」 『ああ、あの迎賓館か。ちょっと待っていろ。近くまで来たらまた連絡する』  言い終えると同時に無線が切られる。ユーリとサシャはまた顔を見合わせた。 「迎賓館……って、言ったよな?」  ユーリが頷く。まったく、キアーラの感覚はどうなっているんだとサシャが頭を抱える。彼女にとってはごくごく普通のことなのだろうが、ユーリたちにも、おそらくニコラにも理解し難い部分は大いにあるだろう。  ユーリとサシャはジャンカルロが到着するのを待った。 *****  東側のスラムの診療所は、以前来た時よりも頑丈そうな造りになっていた。木造だったが、アグエロに破壊された部分はいつの間にか煉瓦造りに変わっており、入り口のドアも木製ではなく鉄製になっている。ユーリが呆気に取られていると、ジャンカルロに尻を叩かれた。 「あんな危ねえ造りじゃ犯してくれっつってるのと変わらねえって、チェリオがな。立場上手伝いはできねえが、爺さんたちが夜な夜な改築しているのを見て見ぬふりをしてくれているらしいぞ」  ふうんと、ユーリ。気恥ずかしそうに眉を寄せるユーリを覗き込み、ジャンカルロが豪快に笑った。 「あっはっは、おまえは本当に可愛いなあ」 「可愛いだろう、俺の自慢の弟だ」 「ユーリをちゃんと守り抜いたおまえも可愛いぞ、サシャ」  よく頑張ったなと、ジャンカルロがサシャの頭をわしわしと豪快に撫でる。サシャは照れたようにその手を払いのけると、髪が乱れたと文句を言いながら手櫛で整えた。  サシャはよくユーリを褒めるが、自分が褒められることへは弱い。ジャンカルロはそれを知っているのだ。おまえたち兄弟はよく似ているなと笑いながら、診療所の鍵をユーリに手渡した。 「ほら、これがここの鍵だ。雨風凌げる場所がないやつに寝床がわりに使わせてやってくれって、ネイロに渡していたんだろ?」  ユーリが辺りを見回すと、診療所の向かいにある古ぼけた建物の影に情報屋のネイロが隠れているのが見えた。ユーリの表情がパッと明るくなったからだろう。見るんじゃねえよと嗄れた声で非難された。 「くっそ、ジャンカルロめ。てめえ一言も二言も多いんだよ」  憎らしげに言って、ネイロがそそくさと逃げようとする。ユーリは慌てて後を追い、ネイロの服の裾を掴んだ。 「ひとつ仕事を頼まれてくれないか? これを住民に配って欲しい」  言って、ユーリが薬品箱をネイロに突き出す。 「なんだぁ、こりゃあ」 「ミクシア郊外のエルン村っていうところで、アルマに似た症状が流行ったんだ。この辺りは不衛生だってチェリオも言っていたし、デリテ街の人は具合が悪くなってもなかなか医療を受けられない。だからもし、誰かアルマのような症状が出たら、これを使って欲しい」  ネイロの顔色がさあっと青くなる。 「馬鹿野郎、ンな高級品持ち込むんじゃねえよ。しかも誰が聞いてるか分からねえのに、でけえ声で」  声を顰め、ネイロが言う。ユーリは首を小さく横に振った。 「これは急拵えの代替品だし、仮に盗まれても売り物にならない。井戸にでも捨ててくれたらこの辺りの水質が変わってwin-winだ。  あんたの肺にもいいし、アリエッテの風邪薬がわりに使ってもらっても構わない。頼まれてくれるか?」  ネイロは大袈裟なため息をついた。ガシガシと頭を掻き、肩を竦める。 「俺がこれをマフィアに売ったらどうするよ?」 「売りたきゃ売ってくれ。あんたらの当分の食い扶持になるだろ」 「そうすりゃあおめえは二度とココに近づけねえぞ」 「それがデリテ街の総意なら、受け入れるさ」  ユーリの答えに、ネイロは眉間の皺を更に深くして、呆れ返ったような声を出した。 「甘ちゃんだなあ、兄ちゃん。診療所の修理手伝ったくれえで人のことを信用しちゃ生きてけねえぞ」 「チェリオとあんたとロレンは信用していいって、ハロじいちゃんが。あの頑固者のじいちゃんが言うんだ、間違いないだろ」  ネイロがくそっと悪罵を吐く。あのくたばりぞこないがと腹の底から憎々しげに吐き捨て、ユーリに背中を向けた。 「それはロレンに頼んでくれ。俺ぁ情報屋として動いているのをアグエロの野郎に嗅ぎつけられてんだ。ロレンならイギンの野郎も迂闊に手を出せねえ」 「わかった、ありがとう」  屈託のない笑顔を見せるユーリに、ネイロの様々な感情が入り混じった複雑な視線が向けられる。ネイロは深々と溜め息を吐いたあとで少しだけユーリに顔を寄せる。 「お上は本当におめえを守ってくれんのか? 昔ここに隠れ住んでいたイル・セーラが言っていたけどよ、なんでもおめえの親父さんも似たようなことして言い掛かりで殺されたってんだ」  ユーリがきょとんとする。このあたりにイル・セーラがいたなどと聞いたことがなかったからだ。 「よかったら、その話を聞かせてもらえませんか?」  珍しくサシャが口を挟んでくる。ネイロはサシャを見やり、構わねえがと言って無精ひげを触った。 「これはチェリオがまだ産まれる前の話だ。だからあいつはなんも知らねえ。俺ぁ下流層街にいたときにたまーに地下街のマグロ掃除を手伝ってたんだ。随分儲かるからよ。  で、ある日ロレンの野郎が相談があるっつーから耳ぃ貸したらよ、地下街にイル・セーラが隠れ住んでるってんだ。そいつらを尋ねてお忍びで来たはいいが、フォルスって村に戻るための地下道が落盤している部分があり通れないから、スラム街を抜けさせてくんねえかってのよ。  そのイル・セーラの名前、なんだと思う?」  もったいぶるように、ネイロ。サシャが『”ユーリ”では?』と尋ねると、ネイロがおうよと答えた。驚いたのはユーリだ。目を白黒させてサシャとネイロを交互に見やった。 「”ユーリ”が、ミクシアに? マジで?」 「それは、俺たちと同じ瞳を持つイル・セーラだったんですか?」 「片足が義足で、間違いなくおめえさんたちとおなじ瞳のイル・セーラだった。当時地下街には30名近いイル・セーラが隠れ住んでてよ、それを取りまとめていたのが地下街の長老だったんだ。その長老はイル・セーラとノルマのダブルで、地下街に逃げ込んでくるイル・セーラを匿っては隠し通路から逃がしていたらしいんだ」  隠し通路と聞いて、サシャとユーリは顔を見合わせた。たしかチェリオも言っていた。地下街は入り組んでいて、そこかしこに見慣れないレリーフがある。そしてそのレリーフが彫られている壁は、特殊な道具を用いた可動式で、その秘密を知っている人間以外は地下街を抜けて外に行くことは不可能なのだそうだ。 「その義足のイル・セーラは、フォルスって村に戻ったで殺されただの、行方不明になっただの、とにかく消息を絶った。そのせいか取り締まりが厳しくなっちまって、ここいらに隠れ住んでいたイル・セーラたちも、長老も殺されちまった。ひとりだけ、とびきり美人の嬢ちゃんだけは、商品になるってんで娼館に売られたって話だ」  サシャとユーリとともに収容所に入れられていた中に、数名女性がいた。彼女はたしかにミクシアの地下街にいたと言っていたが、どうやら勘違いではなさそうだ。サシャとユーリはもう一度顔を見合わせた。 「地下街の回廊とフォルスが繋がっているなんて、まるで夢物語みたいな話ですね」  サシャが言う。ネイロもおうよと言って、無精ひげを触った。 「地下街の住人でもほとんどが知らねえことだ。どこの抜け道がどうつながってんのかはもう闇の中だが、昔はそうだったって聞いてる。チェリオの親父が生きてりゃあ、或いは」  そう言われて、ユーリはふいにフォルスの家にあった旧王朝時代の祭壇を思い出した。あの祭壇の話は一度も聞いたことがないし、用心深く入口自体が隠されていた。もしかすると、あの祭壇にあったレリーフがなにか関係しているのではないかと思ったが、ユーリはそれ以上は口にしなかった。 「そろそろ行こう。ロレンのところに行くなら早いほうがいい。酒を飲んでいたら話が通じなくなる」  ジャンカルロに促され、サシャとユーリはディエチ地区をあとにすることにした。サシャがネイロに頭を下げる。ネイロはまんざらでもなさそうな表情でまた無精ひげを触った。ネイロがユーリを呼ぶ。ユーリが不思議そうに顔を向けると、ネイロが顔を寄せてきた。 「おめえの兄貴はてんで色事を知らねえ初心な顔をしてるな。俺が仕込んでやろうか?」  ネイロはおもちゃを見つけた子どものように目を輝かせている。初めて会った頃は時々ユーリにも手をだそうとしてきたが、ユーリが“大袈裟な反応しない”ことから、最近はあまりいたずらをしてこなくなった。  サシャはスラム街に降りてきたがらないが、ユーリ自身も北側の診療所付近までしか連れ出さない。あのあたりはピエタの派出所があることもあり、警備が厳重で、且つユーリたちがイル・セーラでも手を出そうとはしてこない。罰則があるからだ。  そしてサシャは見た目が大人しそうで控えめそうに見えるから、ユーリ以上に“そういう”対象にされやすい。ユーリはすいと眉を跳ね上げ、首をすこし斜めに傾けた。 「チェリオも勘違いしていたけれど、残念ながらあれで初物じゃねえんだよなァ」  ネイロがぎょっとしたように目を見開いた。 「ち、違うのか、あれでっ?」 「残念だったなァ。そもそもがC区の収容所にいたんだ、強制労働を強いられる以外のイル・セーラはみんなあれこれ仕込まれているに決まってんだろ」  あれこれと言って、ネイロが鼻息を荒くする。 「案外俺よりやばい手管持ってるかもしれねえけど、あいつは”高い”ぞ」  まるで挑発するかのように言って、ユーリは色を孕んだ視線をネイロに向けて口元だけで笑った。ごくりとネイロが喉を鳴らす。 「それに、サシャは大人しそうに見えて意外と俺より強暴だから、そういうことになる前にねじふせられたりしてな」  「目が覚めたらボッコボコにされて軍部に収監されているやつ」と、先ほどの色っぽい仕草はどこに行ったのかと思うほどに悪戯な子どものような顔をした。 「それでも良ければ、手ぇ出してみれば?」  「マジで気ぃつけて」と、口の中で笑う。 「ユーリ、行くぞ」  焦れたような声色で、サシャ。ユーリはネイロを煽るようにひらひらと手を振って、サシャへと駆け寄った。 「なんの話をしていたんだ?」  追いついてきたユーリに冷めた視線を向けて、サシャが問うてくる。 「べつに。都市伝説を教えてくれたから、こっちも都市伝説を教え返しただけ」  「都市伝説?」と、サシャが不思議そうな顔をした。「うん、まあ、こっちのこと」と適当にごまかして、ユーリとサシャは足早に東側のスラムの入り口へと向かうジャンカルロのあとを追った。

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