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Seven
あの日――サシャの容態が悪いと聞いた日に、チェリオはなにか焦げ臭いと感じたが、それは間違いではなかった。
ユリウスを軍部の収容所へと連れていったあと、北側のスラムから地下街に戻るまでの間、やたらとピエタや軍部の往来が激しかった。コーサの残党狩りで大物が捕まったのかと思っていたが、そうではなかった。
あのあと西側で大規模な爆発が起きた。チェリオたちは地下街の拠点にいたから事なきを得たが、西側のスラムにほど近いディエチ地区の半分は爆風で破壊され、様子を見に行ったエルや、東側に炊き出しの残りを持ってきていたアリエッテが巻き込まれた。幸いにしてエルは軽傷で済んだけれど、アリエッテはがれきの下敷きになったことや、空気の悪い場所にいたことが災いしてか高熱が下がらない。
ロッカが泣きながら「なぜユーリはこういう時に来てくれないのか」と言っていたけれど、チェリオは街の状況を話しておらず、ユーリもまたそれどころではない状況なのだと察してロッカを叱った。
ユーリは元々ここにはいない存在だ。ユーリがいてくれたから助かった、いなかったから助からなかったというのはお門違いで、デリテ街の連中からこの数か月ほとんど死人が出なかったことだけでもありがたいと思えと思いのたけを吐き捨てた。
ユーリだって好きで降りてこないわけではない。きっと理由がある。サシャの調子が戻らないとか、最悪の事態だって考えられるのだ。それなのに、そこを頼ろうとするのはあまりに弱すぎる。そんな腰抜けはデリテ街には要らないと突っぱねた。
それからロッカは拠点に戻らなかった。たまたま様子を見に来たロレンにアリエッテを預け、チェリオはデリテ街の住人や東側のスラムの生き残りを北側のスラムに移動させることに徹した。
西側から精神異常者のような、血の気の失せたこの世の者とは思えない醜悪な形相の男たちが次々にやってくる。そいつらに出くわしたら問答無用で襲ってくるし、何百人も住人が殺された。チェリオ自身は戦争にいった経験などないが、兵役経験者や元軍人から「こう戦え」と指示されていたこと、そして恵まれた身体能力のおかげで切り抜けられた。ユーリが渡してくれていた丸薬のおかげなのか、いまのところその丸薬を飲んだと思われるデリテ街の住人からは異変が起きていない。
ただ、ダニオだけは異常に不安定だ。おかしくなったやつらが、殺した住人を食っているのを見て、ダニオは殺された自分の兄のことを思い出して半狂乱になった。しばらくわけのわからないことを口走っていたけれど、エルと協力して無理やりオトしてから北側のスラムに押し込むことができた。北側のスラムは、簡単に入れるようにはなったものの、ちょっとでもおかしなそぶりを見せると問答無用で射殺されるリスクが増えた。北側と東側を隔てる門の警備をしている兵たちは特に東側のスラムの住人に対して神経をとがらせている印象だ。
それなら、なにが起こったのかを住人に伝えるべきだと思う。なんの説明も受けていない。風のうわさだったり、そのあたりにいるピエタにわいろを渡して状況を聞いてきたやつらからの情報を整合すると、「西側のスラムで爆発が起こり、死傷者が多数出ている。そしてその混乱に乗じてイル・セーラが毒を撒いた」という話題で持ちきりだ。
そのイル・セーラというのは、ユーリのことだろう。デリテ街の住人たちはそんなことはないとわかっているが、セッテ地区以北の連中はイル・セーラなど殺してしまえばいいと騒ぎ立てていた。
それを反乱分子ととられたのか、そいつらは見たこともない男に連れて行かれた。黒髪の、ユーリと同じくらいの身長の男だった。顔はよく見えなかったけれど、エリゼのように恐ろしく素早く、的確にそいつらを捻じ伏せた。遠目にそれを見ていた俺たちにひらひらと手を振って、「いまの話は誤報だから、そういううわさを立てて動揺を誘おうとするようなのがいたら、遠慮なく北側の診療所に伝えに来てね」とそれは軽薄な口調で言ってのけたのだ。
あの男の正体は誰も知らなかったけど、ノルマではなさそうだったということだけは確かだ。ただ、その男が人通りの多い場所でそういう大捕り物をやってのけたおかげか、加熱しつつあったイル・セーラへのヘイトがものの見事におさまった。
あと非難させるべきなのは、地下街に潜ませているガキどもだけだ。そう思って東側のセッテ地区を抜けたあたりで、チェリオは例の男たちに遭遇した。一人でも厄介だというのに三人もいる。そのうちの一人はセッテ地区の長老の首を締め上げ、いまにも殺さんとする勢いだ。
チェリオはその男に勢いよくドロップキックを食らわせた。男が衝撃で地面に叩きつけられる。長老はと安否を確認したが、だらりと舌を出して目が剝き出しになった状態で泡を吹いている。思わず舌打ちをした。
「なんなんだよ、こいつら」
異臭がする。血と臓物のにおいだ。それに混じってかすかに刺激のある薬品のようなにおいもある。薬物中毒者なのだろうかと考えながら、チェリオは襲ってくる男をひらりと躱し、バックパックとベルトの間に差し込んでいた鉄パイプを取り出して思い切りスイングした。顔面にクリーンヒットする。
「やっべ、もしかして殺した?」
地面に叩きつけられた男はびくびくと痙攣し、頭から血を吹き出している。見つかったら殺人罪かなあなんて苦虫を嚙み潰したような表情でその場を切り抜けようとした時だ。バックパックを後ろからものすごい勢いで引っ張られた。ただでさえ年季が入っていてそろそろ穴が開きそうだと思っていたそれは、派手な音を立てて引き裂かれた。中に押し込んでいたものがばらまかれる。
「げっ、最悪だなおまえ!」
必死で貯めた金に、ロレンからもらったユーリが作った丸薬。ピッキングの道具にその他もろもろだ。ユーリの懐中時計が男の足元に落ちた。チェリオは男に踏みつぶされるのを懸念して、勢いよく男の足の間をスライディングして懐中時計を死守する。そのまま足を絡めて男の顔面から地面に叩きつけた。ひしゃげたような声とともに、嫌な音がする。勢いあまって骨でも折れているかもしれないと思ったが、最初に蹴り倒した男がゆらりと立っているのに気付いた。嘘だろと口の中で呟く。
一番ガタイのいい男だったから、勢いが足りなかったのだろうかと思案しながら態勢を整える。こういう時は逃げるが勝ちだと踵を返したが、チェリオは勢いよく地面につんのめった。さっき顔面から地面に叩きつけた男に足を掴まれたのだ。
「マジかよっ」
もう一度鉄パイプでぶんなぐってやろうと手を伸ばしたが、それは呆気なく目の前の男に捕らわれた。万事休すだ。こうなったら意地でも道連れにしてやるとチェリオはポケットからあのときのスティックを取り出してキャップを外し、男の首元に勢いよく振り下ろした。後ろから破裂音がした。そうかと思うと目の前の男の腕は捻りあげられ鉄パイプが派手な音を立てて地面に落ちる。
「大丈夫か、チェリオ」
「おっさん!」
ジャンカルロだ。アシルもいる。ジャンカルロが手を差し伸べてくる。チェリオがそれを掴んだら、体が浮くんじゃないかと思う勢いで引っ張られた。アシルが男たちの息の根が止まっていることを確認する。ジャンカルロは地面に散らばったチェリオの持ち物を拾い上げて、自分の腰に引っかけているバックパックに押し込んだ。
「ほかの住人は?」
「デリテ街の住人たちは、生きているやつらと動けるやつらはほとんど北側に連れて行った。あとは地下街に隠れさせてるガキどもと、怪我人だけ」
ジャンカルロが悔しそうに眉根を寄せる。
「悪いが負傷者は連れていけない。北側は大混乱だ。診療所も軍部やピエタ以外の負傷者はみんな追い返されて、逆らう者は射殺されていた」
「マジかよ。誰がそんな指示を?」
「さあな。ドン・クリステンではないことだけは確かだ。あの人は大学で軍医団の指揮を執っているし、もう一人の消えたコマンダンテの代わりにピエタの統率もしているからな、そんな悪だくみをする暇もないだろうよ」
言われて、チェリオはぽかんとした。ドン・クリステンはやはりただ者ではなかったらしい。
「ユーリは? サシャは?」
チェリオはいま、一番気になっていることをジャンカルロに尋ねた。ジャンカルロは首を横に振り、がりがりと頭を掻いた。
「なにせ俺も急に招集が掛かったもんで、ふたりには会っていない。こちらには情報も下りない上、通信網が破壊されてなにがなんだか」
困ったようにジャンカルロが言う。チェリオは通信網と聞いて、眉根を寄せた。だから無線機が反応しないのかと思う。スラム街にはピエタや軍部が通信をするために、そこらに子局(基地局の受信装置の一種)が設けられている。数キロ内にひとつ設置されているため、大部分を壊さない限り通信が遮断されるということはまずない。親局に通ずるケーブルを切られたか、それこそ親局を壊されたか、子局を間引かれたかのどれかだ。ただの爆発事故ならそんなことはあり得ない。通信の要であるそこを突いてくるということは、――。
「おっさん、銅線とかない?」
「あるわけがないだろう、なにを言っているんだ」
「じゃあ、適当な鉄くずでもいい。どっかに見なかった?」
ジャンカルロは苦い顔をしてそこまで注意深く見てねえよと言ってのけた。セッテ地区なら鉄くずを集めて金にしていた男の家がある。そこまで行けばもしかするとなにかがあるかもしれないと思い立ったが、チェリオは地下街に隠れさせている子どもたちのことを思い出した。きっと心細くて泣いているだろう。その泣き声を聞きつけられることはないだろうが、怪我人たちが苛立ってなにか事を起こしかけない。そう思って、まあいいやと気持ちを軌道修正する。
「どっちか着いてきてよ、どうせひとりじゃ抱えきれないし」
「おう、そのつもりだ。アシル、第二部隊からもらった粉撒いとけ」
アシルははいと言って、男たちに白い粉を掛ける。あまり吸うなよと言われ、チェリオは腕で鼻と口を覆った。
***
地下街に潜ませていたガキどもは、ジャンカルロたちのおかげで無事に北側に連れていくことができた。重傷者以外の負傷者は、みんなアシルが手当てをしてくれた。一応軽症者ならば受け入れ可能かと打診してもらい、感染のリスクがないのであればということで北側に行けることが発覚したが、そいつらは地下街で重傷者の面倒を見ると言って、北側に来ることを拒んだ。
デリテ街の非難は終わったが、セッテ地区やオット地区にはまだ随分人が残っている。対岸の火事とでも思っているのか、それともここは安全だと思っているのか。地下街と比較すると安全地帯なことに違いはないが、ウーノ地区、ドゥーエ地区、トレ地区の住人は北側が近いこともあり真っ先に避難したというのに。
チェリオは東側の住人たちに北側に避難するように声をかけて回っていた。ここに残っている多くの連中は、ピエタとも軍部とも関わり合いになろうとしない連中だ。ユーリが作った診療所にも一度も顔を出したことがない。ただイギンたちの息がかかった連中が少ないこともあり、診療所の襲撃を請け負った者もいない。このあたりの住人はどちらかといえばイル・セーラに対しても地下街出身者に対しても否定的で、チェリオはこの界隈に住む連中を客に取ったことがなかった。
しばらく歩き、オット地区とノーヴェ地区の堺までやってきた。通りのそばにある壁が崩れかけた家の中に人影が見える。血なまぐさい。チェリオが窓から家の中を覗き込むと、女性の後ろ姿があった。様子がおかしい。ぴちゃぴちゃと濡れた音に続きなにかを啜るような音が響く。微かに呻き声が聞こえ、チェリオは目を見張った。まだ息がある子どもの血を啜っているのだ。あれは母親なのだろうか。それとも西側から流れてやってきたのだろうか。胃の奥がむかむかとする感覚のあとで唐突に嘔気が襲ってきた。声を出したら気付かれる。チェリオは必死でそれを堪えて、音を立てずにその場を離れた。
この辺りはもうだめだ。もしかするともう自分の意思で非難をする判断できないほどイカれているのかもしれない。関わるとろくなことがないと判断して、チェリオはオット地区から離れることにした。
通りには誰もいない。血なまぐささもない。セッテ地区に戻ってきたとき、チェリオは路地に入り込んでこそこそしている二人組を見つけた。おいと声をかける。ふたりは驚いてチェリオを振り返った。セッテ地区に暮らしている姉妹、たしか、ニナとパメラだ。
「親父さんはどうした?」
ニナが首を横に振った。ニナはどういうわけか声を出すことができない。ユーリが一度シッセーショーではないかと言っていたけれど、なんのことかわからなかった。
「お父さん、北側の軍部の人に北側にあげてほしいって頼みに行ったの。でも帰ってこなくて」
いつの話だと尋ねると、一昨日だとパメラが言う。裏路地に入ろうとしていたのは、昔ここが戦場だったころに作られたトーチカに逃げ込もうとしていたらしい。一昨日二人の親父さんを北側では見かけなかった。東側にもいなかったはずだ。チェリオは難しい顔をして両手で髪をわしわしと掻き乱した。
年端も行かない少女をこのままにしておけないし、かといってけだものどもの集まる北側のディエチ地区に連れて行ったらマワされかねない。特にニナなんて声が出せないものだから、なにをされても気づかれない可能性がある。ここに置いておいてさっきの奴らに見つかりでもしたらと思うとぞっとする。ふたりはきっとデリテ街での惨状をまだ知らないだろう。
チェリオは仕方なく二人を北側に連れて行こうとして、ふと気づく。ニナの足から血が出ているのだ。
「ニナ、怪我してんじゃん」
チェリオはジャンカルロからもらった新しいバックパックに突っ込んでいたガーゼタオルで傷口を保護してやる。怯えていたニナの顔にようやく笑顔が見えた。チェリオはわしわしとその頭を撫でて、ふたりを連れて北側に向かった。
「お兄ちゃん、どうしてるかな?」
ユーリのことだ。パメラはニナの様子を見に来たユーリをすっかり気に入ってしまって、ユーリがここを通るたびにそわそわしていた。11,2歳の子どもにとって、確かにあの年ごろの優しい男は魅力的に映るだろうと思う。それにユーリはこのあたりでは見たことがないくらい整った綺麗な顔をしている。たぶんそれだけではないんだろうけれどと思いつつ、チェリオはパメラの話を聞いていた。
「あのお兄ちゃんとはね、ニナのことを見てくれるよりも前に会ってるの。ここを通った時にお花を売ってくれって」
チェリオははあっ!? と声を荒らげた。花を売るというのは売春の隠語だ。ユーリはロリコンだったのかと呆気に取られていると、パメラはなにかに気づいたようにわたわたと慌て始めた。
「あ、ち、違うのっ。本当にお花を買ってくれたの。オット地区とセッテ地区の堺にある未開発域に綺麗なお花が咲いていたから、それを売ってお父さんのお仕事の手助けをしようと思ったんだけど」
「あ、ああ、そういう」
「でもお兄ちゃんにちょっと怒られちゃった。危ないからその花が採れたら俺に声をかけてくれって」
パメラが「ニナの前だからぼかして」とチェリオに小声で言ってくる。チェリオはびっくりしたと安堵の笑みを浮かべたあとで、パメラにマジでやめとけよと尖り声で言った。
「親父さんにバレたら大目玉だぞ」
「お兄ちゃんに同じことを言われたの。だからあれからはお兄ちゃんにしかお花は渡してないよ」
それならいいけどと、チェリオ。パメラもニナも見た目はかわいい。スラム街の住人だから、パメラはそれなりに色事の知識もあるだろうけれど、敢えて追求したことがない。女性の買売春は基本的に厳禁だ。バレたらそれこそ互いに収監どころでは済まなくなる。
しばらく歩いて、北側と東側の堺に着いた。門扉は固く閉ざされている。チェリオはどんどんと勢いよくドアを叩いた。
「おい、開けてくれよ」
返事がない。
「おいって」
やはり返事がない。人の気配もない。チェリオは苛立って門扉を勢いよく蹴った。派手な音がするが、誰かがやってくる気配がない。チェリオは舌打ちをして踵を返した。
「どこにいくの?」
パメラが不安げに問いかけてくる。
「おまえら、高いとこ平気か?」
「危ないから上がるなって、お父さんが」
「じゃあ親父さんにはナイショな」
いたずらっぽく笑って、チェリオはロレンが住んでいる鉄塔台に向かった。
ロレンは留守のようだ。おそらく北側で住人の様子を見回っているのだろう。好都合だ。チェリオはロレンがいつもいるカウンターをひらりと飛び越えて、パメラとニナを一人ずつ抱き上げてカウンター側に連れてくる。そしてその奥にある屋上へと続く階段を上った。
少し風がある。この程度なら問題ない。チェリオは屋上に続くドアを閉めると、二人を小脇に抱え、屋上の面積ぎりぎりまで下がる。
「目ぇつぶっとけよ、声は出すな」
言って、チェリオは勢いよく走りだし、鉄塔台の屋上から東側と北側を隔てる壁の上へと飛び移った。声にならないパメラの悲鳴が聞こえる。声を出すなと言ったから、口を押さえているらしい。難なく壁上に着地できたが、ふたりも抱えているためにバランスを崩してスリップする。
「うおっ!?」
チェリオは壁を蹴って器用に宙返りすると、なんとか両足で踏ん張って着地した。反動でドスンと勢いよく尻もちをつく。
「うぐううっ、絶対骨折れたっ」
「だ、大丈夫、チェリオ」
慌てた様子のパメラに大丈夫と継げながら尻を擦る。音を聞きつけた周辺の住民が駆け付けてくるのが聞こえた。チェリオが鉄塔台から直にここにやってきたのには理由があった。ここは北側に住むイデアという女性酋長の縄張りだからだ。
この地面をするような足音はイデアのものだ。丁度いい。チェリオは仰向けになって、ひらひらと手を振った。
「ハァイ、イデア姉さん」
「なんだよ、クソガキ」
まだ面倒ごと持ってきやがってと眉を顰められた。相変わらず気が強そうな表情だ。北側は東側と比較して治安がいいこともあり、外に洗濯物を干したり、小さな畑を耕す程度のならできる。だからなのか、少し日に焼けた肌にそばかすができているが、健康的そうで、この細い体のどこにそんなエネルギーが秘められているのかと思うほどに威圧感がある女性だ。チェリオは体を起こしてニナとパメラをずいとイデアの前に突き出した。
「保護してやってください」
「ざけんな」
勢いよく頭を叩かれる。チェリオはムッとしたように唇を突き出して、バックパックを漁って煌びやかな髪留めをイデアに差し出した。
「これでなんとか」
それはユーリの髪留めだ。前にユーリがモルテードたちにマワされたときに診療所内に落ちていたものだ。ぼさぼさのその髪を纏めればそれなりに見えると軽口を叩いたら、イデアはバカかと気の強そうな眉をさらに跳ね上げた。
「こんな状況なんだ、そんなもん売ったって金になりゃしねえよ」
「じゃあどうやったら保護してくれんだよっ」
犯すぞとチェリオが声を荒らげる。イデアはチェリオを睨み、様子を見に来たほかの女性たちにあっちに行きなと声をかけた。
「もっとちゃんとした頼み方があるだろうが」
言われて、チェリオはガシガシと頭を掻いた。面倒くさい。イデアはいつもこうだ。チェリオをいたぶって楽しむのが趣味なんじゃないかと思うほどに。
チェリオははあと魂が抜けそうなほどの大きな息を吐いて、思いきり土下座した。勢いあまって地面に額が当たる。
「お願い、イデア姉ちゃんっ!」
神様マリア様イデア様と大声で継ぐ。イデアの表情は見えないが、ふんと鼻で笑う声が聞こえた。
「馬鹿か、クソガキ」
言われて、チェリオはがばっと体を起こした。
「ひっでえ! いたいけな俺の気持ちを踏みにじったな!?」
「誰も土下座しろなんて言ってねえだろうが」
イデアはそう言うが、幼い頃イデアはチェリオがこうやって頼み込まなければ言うことを聞いてくれなかった。
「あんたたち、名前は?」
チェリオに対する声色とは全く違う優しげな声でイデアが尋ねる。ニナは驚いてパメラの後ろに隠れてしまっている。
「わたし、パメラ。こっちは妹のニナ。小さい頃からしゃべれないの」
「そうかい」
よく頑張ったねとイデアが二人の頭を撫でる。チェリオはそれを見ながら舌打ちをして体を起こした。
「セッテ地区の、グイドっておっさんとこの子どもだよ。親父さん、一昨日から戻らないらしい。東側は危険だから、だから連れてきた」
「最初からそう言えばいいんだよ、馬鹿だね。わたしがあんたの頼みを断ったことがあったかい?」
クソババアと口の中で呟く。じろりとイデアに睨まれたが、チェリオは素知らぬ顔をして腕を頭の後ろに回し口笛を吹いた。
「おい、足を洗ってやりな。それからスープを」
建物のそばに隠れていた、パメラと同年代らしき少女に向けてイデアが言う。ふたりが少女に連れられて行くのを見届けた後で、イデアがどこか困った様子でチェリオを呼んだ。
「グイドっていったら、セッテ地区の大男だろ? そいつはもういねえよ。一昨日こっちに運び込まれたが、感染がどうとかで、射殺された」
「マジか」
「あっちはどういう状況なんだい? わたしはここから動けねえから、まったく状況が分からねえんだ」
チェリオは自分が東側で見てきたことをイデアに話した。イデアは顔を青くして口元を押さえる。気持ちはわからないでもない。チェリオもそうだった。やるせない気持ちを大息とともに吐き出して、イデアが腕を組んだ。
「チェリオ、もしほかに向こうに取り残された女子供がいたら、迷わずここに連れてきな。罷り間違ってもディエチ地区なんかに連れていくんじゃないよ」
「わかっとるわ」
だからこっちに連れてきたんじゃねえかと声を尖らせる。イデアは生意気言うんじゃないよとチェリオの頭をはたき、目を伏せた。
「どうなっちまうんだろうね、スラム街は」
「わからねえ。北側の爆発もただの爆発じゃなさそうだし、もし東側からヤベえやつらがやってきたら、壁際もあぶねえかも。イデア姉さん、ロレンかキルシェと話して、護衛付けてもらったほうがよくねえか?」
「要らねえよ。うちで預かってるガキどもは、政府が買売春禁止令を出すまでにはひどい目に遭わされた子たちばかりだからね。あんな人相の悪りぃいかついオヤジにいられると竦み上っちまう」
その点あんたは漸く毛が生えたクソガキだから安全牌だとイデアが笑う。とっくに生えとるわと語気を荒らげ、チェリオはロレンたちがいるディエチ地区へと走った。
***
ディエチ地区に赴く途中で、チェリオは思わず立ち止まった。無数の遺体が重なってできた山の中に、アリエッテがいたのだ。やはりだめだったかと内心する。とすると、ロッカはチェリオやユーリを逆恨みしているかもしれない。このあたりには姿が見えないから、ピエタに尻尾を振った可能性もある。そうなれば地下街の拠点はもう使えない。チェリオはアリエッテの名を呟いて、胸の前で十字を切った。
ディエチ地区にはロレンがいた。アリエッテはだめだったと憔悴したような表情で言う。さっき見てきたと伝え、チェリオはがしがしと頭を掻いた。
「一体、なにが起こってるんだろうな?」
「さあな。軍部の連中もピエタの連中も、相当殺気だってやがる。もしかするとここいらもあぶねえかもしれねえぞ。どっか隠れる場所を見つけてきたほうがいい」
「地下街に潜伏する?」
「崩落の可能性は?」
「あの爆発に耐えられたわけだし、入り口は怪しいけどほかはなんともねえよ。あそこは地盤が固いし、地下街の連中でもしらねえ隠れ家がいくつかある」
そういうと、ロレンはあたりを見回し、チェリオの肩に腕を回した。
「確認してこい。どうもきなくせえ。北側に逃げるように先導していたピエタの姿が見えねえんだ。俺たちをここに集めておいて、皆殺しにすることもできる」
チェリオは頷いた。子どもたちはほとんどがディエチ地区より安全なクワトロ地区にいる。壁際なのが気にかかるが、ここにいるよりは安全だろうと踏む。
「ロレン、さっきイデア姉さんのところに、セッテ地区のパメラとニナを連れて行った。時々でいい。遠くから、あそこに危険がないか見に行ってもらえるよう誰かに頼んでくれないか?」
「いまキルシェとダニオが見張りに行ってる。あそこは女子供しかいねえからな。変な気を起こした野郎がなにかしでかさねえとも限らねえ」
「だよな。もしなにかあったら、たぶん俺たちまでピエタから処罰される。俺が抜いてやってもいいんだけど」
言いながらペニスを扱くジェスチャーをする。ロレンはじろりとチェリオを睨んだあと、野太い腕をチェリオの肩から下ろし、その手でチェリオの顔を掴んだ。
「なんなら北側の診療所に行って、てめえのケツで情報掴んでくるか?」
「あー、そりゃいいわ。遠慮する」
「けっ、馬鹿なこと言ってねえでとっとと見回って来い」
ロレンが声を荒らげる。冗談というわけでもなかったが、これ以上言うとロレンから簀巻きにされて北側の診療所に連れ込まれかねない。チェリオはへいへいと返事をした。
「そういやあ」
ふとロレンが言った。
「例のイル・セーラを見かけたって、キルシェが言っていたな」
「ユーリが?」
「どっかそのあたりにいるだろうから、地下街を見回ったら連中を押さえるのを手伝ってやれ」
しっしと追い払うようなしぐさをする。チェリオはユーリのことも気になったが、ロレンの長年の勘が当たった時にすぐさま対処できるよう、地下街の見回りを優先することにした。助走をつけ、壁際の木箱を踏み台にして一気に壁上に飛び乗る。相変わらず山猿みてえだなと揶揄するロレンをうるせえわと非難して、チェリオは東側へと飛び降りた。
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