42 / 108

Seven(4)

 ユーリたちが東側に出ることができたのは、すでに日が傾いた頃だった。おもったよりも距離があったことと、ユーリの体調が万全ではなく、度々休みながらここまでやってきた。二日前はそんなこともなかったが、少し起伏のある場所を歩くと妙な動悸を感じてしまい、めまいほどまではいかないものの違和感が生じる。酸素が少し薄いことも関係しているかもとチェリオは言ったが、明らかにそうではない。キアーラが無事だったと聞いて気が緩んだのか、それとも、――。ユーリは明らかに違和感のある胸を擦り、最後の起伏を上った。 「大丈夫かよ、山育ち」  先に起伏を上ったチェリオが余裕そうにしゃがみ込んで揶揄してくる。ユーリは頬を伝う汗をぬぐい、余裕だわと強がってみせた。体力的には余裕だが、どうも違和感がある。何度か深呼吸をして、肺に酸素を取り込む。  チェリオが先に格子戸の外を覗き、危険がないことを確認する。格子戸をこじ開けてユーリに外に出るよう声をかけた。東側のディエチ地区の、ノーヴェ地区にほど近い位置につながる出口だったようだ。出口を抜けて角を曲がったところで、見知った場所が目に付く。東側の診療所だ。  サシャと来たときには周辺の住人たちが保全してくれていたが、爆発の影響なのか、それとも別の影響なのか、半壊状態だ。ピエタも軍部もいない。 「数日前まではここで救命治療してたらしいけど、薬中なのか感染者なのかわからねえ奴らに襲撃されて、みんな命からがら北側に逃げてきたらしい」  チェリオが言う。チェリオの話だと、彼らは人を襲う。ただ殺すためにいたぶるだけの者もいれば、肉を食ったり血を啜ったりと明らかに狂気じみた行動に出る者もいる。ただの女性でも異様な力で自分よりもはるかに大柄な男を組み敷き首を締め上げているのを見たらしい。ユーリは眉根を寄せた。その言葉どおりに、診療所の周辺には明らかな変死体が転がっている。首が折られた者、四肢が欠損している者、頭や内臓がない者など様々だ。 「すごいな、いろんなにおいが蔓延してる」  鼻を塞ぎながら、ユーリが言う。薬物の独特なもの混じって、えも言われぬようなにおいが立ち込めている。ここでこんなふうなら、西側はさぞとんでもないことになっているのだろうと容易に想像できる。 「地下街の入り口はこっちだ。一応中の様子を見てきたけど、ここの入り口が少し脆くなっている程度で、中は問題ない。もう一回爆発が起きたら、どうなるかわからねえけど」  ユーリはそう言われて諦めるような殊勝な性格ではない。満足げな笑みを浮かべて、肩をすくめる。 「怖いならここで待ってたっていいんだぞ、チェリー」  おどけるようにユーリが言った。チェリオはふんと鼻で笑って、地下街があるほうへとユーリを案内する。  途中でいくつもの人影を見た。腰を振るたびに壊れたマリオネットのようにだらりと投げ出された四肢が動く、遺体を犯す男。外見の分別もつかぬほど焼け焦げた遺体を捜して徘徊する男。家々を覗き込み獲物を捜す、目が血走った男。その男は途中で遺体を捜して徘徊する男を見つけて、殺さんとする勢いで奇声をあげながら追いかけて行った。ユーリとチェリオが隠れていた物陰を素通りしていったものだから、思わず変な声が漏れそうになる。  宛らシリアルキラーじゃねえかとユーリがぼやく。やべえだろとチェリオも言う。男たちに見つからないように物陰に隠れながらディエチ地区へと辿り着く。ノーヴェ地区にいた男が生存者や逃げ惑う相手を殺して回ったあとなのか、真新しい遺体や、肉が破裂するほど激しく損壊している遺体がそこら中に転がっている。腹の奥から不快感がせり上がり、ユーリは思わず口元を覆った。  生きている人間など誰もいないのではないかと思うほど凄惨な状況だ。ユーリでなくとも気分を悪くしていただろう。チェリオはしゃがみ込んで息をあげるユーリの背中を撫でた。 「大丈夫かよ」  医者だから血とか遺体に慣れてると思ったと、チェリオ。  慣れていないことはないが、収容所にいた時のことを思い出して嫌でも嘔気が付く。ユーリは強制労働に駆り出されたことは一度もない代わりに、病気やリンチで死んだ仲間の遺体を外に運び出すよう度々命じられていた。病気で死んだ仲間は炉の中に、リンチで死んだ仲間は要人が控える場所に運んだが、彼らがどうなったのかは知らなかった。想像したこともなかった。  もし、彼らがこの遺体のようにノルマたちに食われていたり、傷つけられていたのだとしたら、――。想像しただけで嘔気が付いたが、吐くまでにはいたらない。気持ちが悪い。 「あとちょっとだから、目ぇつぶってろ」  言って、チェリオはユーリの身体を引きずるようにして、壊れた建物の一部と思われる場所にユーリを連れ込んだ。少し奥まった場所へとユーリを案内し、壁に凭れ掛からせてくれる。まだ不快なにおいが漂っているが、先ほどよりは少しマシだ。  ユーリはミリタリーバッグから円筒のシンプルなデザインの水筒を取り出して、北側で補充した水を飲んだ。また地味に動悸が打つ。キアーラのことを聞いて以来、ずっと調子がおかしい。連絡がないということはもう生きていないかもと思っていたこともあり、驚きのあまりバグっているだけならいい。ユーリはふうと細く息を吐いた。 「ごめん、もう大丈夫」  もう一度、今度は深く息を吐く。チェリオはあっそと素っ気なく言って立ち上がった。 「もう地下街の中だから、さすがにあいつらは入ってこないと思うぜ」  そう言われて、ユーリは驚いた。壊れた建物の一部で、崩落した床の隙間だとばかり思っていたからだ。思いどおりの反応を得られたとばかりにチェリオが笑みを描く。 「地下街の正規の入り口は“もしも”のために封じたんだ。っつってもすぐに開けられるから問題ねえんだけど」  言いながらチェリオが足場の悪い地下道を進んでいく。 「狭いし、足元悪いから気を付けろよ。つか、気分悪くなったらすぐ言えよ」  心配してくれているのか、チェリオが先に進みながら声をかけてくる。 「大丈夫、ありがとう」 「この先にもいろいろ転がってっから、先に忠告しとくぜ、“ガッティーナ”」  さっき遺体を見て気分が悪くなったことを揶揄されているのだろうとすぐにわかった。 「はいはい、ご忠告どうも、ダーリン」  ユーリは敢えて取り合わない。収容所のことを思い出したなんて言ったら、ますます気分が悪くなりそうだからだ。  チェリオの言っていたとおり、道中でいくつもの遺体が転がっていた。先の影響でというよりは、そのほかの怪我や病気で亡くなったようにも見える。ユーリはその遺体を一瞥したが、特に構うことなく歩みを進めた。 「意外。弔ってから進もうっていうかと思った」  チェリオが言う。 「もちろん、目的を果たしたらきちんと弔う」 「いまはギルスの回廊の方が優先ってことか」 「早く身を隠さないと、ピエタが追ってきたときに困る。  それに、地下街出身者が彼らを放置してたってことは、それなりの理由があるはずだ。それを誰かが弔っていたとなれば、地下街出身者ではない誰かがここを通ったという証拠になる」  なるほどと納得したように、チェリオ。ユーリは地下街のルールなど知らないが、放置をされている理由がなんとなくわかったからだ。収容所でもたまにあった。見せしめのために遺体が放置される。強制労働から逃げ出そうとした。客に対して素直に足を開かなかった。大口の顧客に対して特異なプレイを拒否したなど、理由は様々だった。言うことを聞かなければ殺される。次は自分がああなる。そんなふうに恐怖心で支配される者もいれば、ユーリのようにただ冷静に、敢えて従順に徹する者もいた。地下街でも恐らくそうなのだろうと思う。 「こいつらはピエタが難癖つけて殺した奴らだよ。罪人って程でもないけど、ただ気に入らなかったり、依然逆らったことがあったりしたら、機嫌次第で殺されたりとかさ。  だからこいつらを弔うってことは、ピエタに背くってことと同意なんだ。だから誰も弔わない」  チェリオの言葉に、ユーリはなにも言わなかった。やはりそうだったかと思う。自分が収容所にいた頃と同じことを、今度は地下街出身者がされている。なんとも釈然としない話だ。 「あんたのことだから、仲間意識を持てとか、そういう説教してくるかと思った」  チェリオがユーリを横目に見ながら言う。イル・セーラは仲間意識が人一倍強い。根がまっすぐで正直なユーリにとってはそれが当たり前なのだが、当たり前ではない世界があることは既に知っていた。 「そうでもない。俺も、似たようなことをしたしな」  ぽつりと呟いたあと、ユーリはふと我に返ったように先に進もうとチェリオにうながした。  それが不自然だったからなのか、チェリオはなにも尋ねてこなかった。チェリオは無遠慮ではっきりした性格をしているが、人の感情の機微に敏感な部分を併せ持っている。そこがユーリの気の入る部分だ。はっきり言ってくれる部分はそれはもう遠慮なくぶつけてくるため、妙に心地よいのだ。  太陽の光が届かなくなるほど地下に進むと、ぼんやりと薄く光る空間に出た。決して明るくはないが、ランプがなくともお互いの顔――表情が楽に認識できるほどの視界だ。 「すごい、自発的に光る石があるのな」  ユーリが感動の声を上げた。 「ここらへんの壁は輝鉱石って石がそこかしこに埋まってるんだ。元々は輝鉱石をとる鉱山だったらしいけど、ランプが開発されてからは金にならなくなって、やめちまったんだと」 「へえ。ってことは、もっと純度の高いものだと、明かりの代わりになるってこと?」 「だな。簡易ランプと同レベルの灯りだったって聞いたことがある」  簡易ランプの灯りは文字を読み書きするには事足りるほどのあかるさだ。想像すると、輝鉱石はかなりの明るさを持つ鉱石だということが窺える。 「今日はこの辺で野宿でもするか。水場も近いし、さすがのピエタでもこんなところまで降りて来られないと思う」  得意げにチェリオが言う。確かにここに来るまでいくつもの分岐点があり、土地勘がある相手と一緒に来なければ一発で辿り着けないような場所だった。おまけにここに来るにはどう考えても通路ではない抜け穴を通ってやってきた。チェリオ曰く、地下街出身者でもここに降りて来られるのは限られているそうだ。  あかりには困らないし、夏場だというのにからりとしていてまったく暑さを感じない。すごいなここと、ユーリが感心した面持ちで言う。  切り立ったような岩場から水が滝のように落ちてきて、それが水路に落ちて水流を作っているようだ。ユーリはミリタリーバッグから銀製のカップを取り出した。銀製のカップの中に入っている木箱を床に置き、その水を汲んだ。木箱を開け、イェルナの粉末を水に落とす。水は濁ることもなく、荒く潰された粉末がカップの底へと沈んでいく。それを見てユーリは楽しそうに笑った。 「ここの水はちゃんと飲める」  そりゃそうだろとチェリオが言う。 「俺たちはずっと飲んでたぞ」 「煮沸したりしなくてもいけるってこと。どういう理屈か知らないけど、銀製のカップに入れた水にイェルナの粉末を入れて、濁らなければ飲める、濁ったら飲むなって、子どもの頃に教わった。濁った場合は特殊な石を水に沈めて一晩待つ。そうしたらまた銀製のカップに汲んだ水にイェルナの粉末を入れる。濁ったらまた同じ工程を、濁らなくなるまで繰り返す。そうすることで、水の中の不純物や毒を浄化するんだって」  ふうんと、チェリオ。ユーリはその水場に手を突っ込んで水温を確かめ、そんなに冷たくもないことに驚いた。これなら水浴びできるじゃんと声を弾ませる。 「ここはピエタとかイギンたちに追われた時に逃げ込む隠れ家でもあるんだ。そういえば、ロッカにはまだ教えてなかったな」  ふと思い出したように、チェリオ。ロッカときいて、ユーリは気まずい気分だった。  北側におりたときにネイロがいっていたが、ロッカの母親ーーアリエッテは爆発の影響で亡くなった。ロッカはそれを受け入れられずにいるそうだ。北側に姿が見えなかったが、あれからどうしているのだろうか。 「チェリオ、ロッカは?」 「ん? 北側のディエチ地区にいなかったってことは、ピエタか軍部に匿ってもらってるんじゃねえ?」 「気にならないのか?」 「べつに。自分の無力さを棚に上げて、人に八つ当たりするような狭量なやつのことなんて、どうでもいい」  チェリオにしては随分あっさりとした意見だった。弟のように可愛がっていたと思っていたが、それはこちらの勘違いだったのだろうか。 「なんだよ?」  言い淀むユーリに、チェリオが不満げな視線を向けてくる。 「ロッカと喧嘩になったの、俺が原因、だよな?」  チェリオの眉間に皺がよる。 「はあっ? 自意識過剰なんじゃねえの?」  ぶっきらぼうな物言いだが、強ち間違ってはいないのだろう。ユーリは自分が原因だと思っている。北側のディエチ地区の周辺にいくつもの遺体が乱雑に放置されていた。その傍にいたロッカから『裏切り者』と罵られたのだ。これをチェリオにいうと逆鱗に触れると思い、胸に秘める。そのときにはなんのことかわからなかったが、アリエッテがあんな体だと知っておきながらも助けに行かなかったことを責められたのだと、ネイロと話していて納得した。 「西側の事故で、スラムの状況も一変したな」  まるで垣根がなくなったみたいだと、ユーリがつぶやく。  スラムは東西南北で居住区が細かく分けられており、スラムの住人でも特に優良な者のみが北側に住むことを許されている。優良な者とは、犯罪歴がなく奉仕意欲も労働意欲もある者たちを指す。東側の住人が全て労働意欲がないわけでは決してないのだが、東側に居住区を持つ者たちは、スラムの中でもかなり貧困な生活を送っている。それが顕著だったと言うのに、西側の事故が起きて以降は生存者は皆北側に集められており、一緒くたになっている。それでも不思議と大きな事件には発展しておらず、均衡を保っている状態だ。まああんなことがあったのだから、無駄な諍いを起こす気力もないのかもしれない。 「なあ、聞いていいか?」  ふとチェリオが切り出してきた。 「おまえが追われてる理由って?」  ユーリは大袈裟に肩をすくめて見せた。 「俺が知りたい」 「ドン・ヴェルノートが動いてるってことは、すくなくともおまえがなんらかの犯罪に関わってるってことだぞ」  わかってんのか? と、チェリオが諭すように言ってくる。そういわれて、ユーリは眉根を寄せてチェリオから視線を逸らした。 「心当たりは、ないことも、ない」 「ほらな。コスタ隊とヴェルノート隊が動いてるってことは、殺人事件か同等の事件が起きたときだけだ。それもあんな大勢で探してるって事は、おまえが犯人か、それとも重要参考人かってことになる」  ぐうの音も出ない。ユーリは気まずそうに視線を逸らして、膝に顎を乗せた。 「まあ、殺人なんて犯すわけないし、濡れ衣かなんかだとは思うけどさ」  チェリオの言葉に、ユーリは首を横に振った。これ以上は隠しきれないだろう。 「法律的には、殺人になるかもな」  は? と、チェリオの素っ頓狂な声がきこえる。 「ほうりつてきに……って」 「この国では認められていない手術をしたんだ。追われている理由があるとしたら、それしかない」 「その相手が死んだ、とか?」 「かもな。俺が出ていく前には、アンナに引き継いでも問題ないくらい安定していたけど、どうなっても不思議じゃない状態だったのは確かだ。  その相手を死なせたら国際問題に発展するかもーって、学長に脅されてさ」  おどけて言っているが、どう聞いても笑える状況ではない。チェリオは呆れたような表情をそのままに、深いため息をついた。 「じゃあ、ギルスの回廊に行くってのは詭弁だったのか?」 「いや、それは別件で片付けたいことがあって」  ユーリがそう言いかけたとき、チェリオが咄嗟にユーリの口を手で塞いだ。ユーリを引っ張って物陰に連れていく。チェリオがなにかの気配を察したらしい。  足音が近付いてくる。革靴の音ーーピエタだ。この周辺までたどり着くことができるということは、先導者がいるとチェリオが舌打ちをした。ピエタの革靴の音に混じって、子どものものと思われる軽い足音がする。片方の足を少し引きずったような特徴的な足音には覚えがある。ロッカだ。  しかし足音はこちらには近付いて来ず、別の方向へと遠ざかっていった。壁の向こう、かなり上層から響いてくるだけで、彼らがいるのは近い場所ではなさそうだ。チェリオが安堵のため息をつく。 「やっぱロッカにここを教えていなくて正解だった」  そう小声で言ってのけ、不機嫌そうに眉根を寄せた。  しばらく息を潜めていると、人の気配は完全に消えた。チェリオは少しの間音を窺っている様子だったが、やがて危険がないと判断したのかユーリを解放した。  ロッカのことが気になってチェリオを呼んだが、チェリオは難しい顔をしてなにかを考えている様子だ。ユーリが申し訳なさそうにしていたからか、ややあってぱっと表情を切り替えた。 「あ、悪い。ロッカのことだよな」  別に気にしてないとチェリオが継ぐ。 「そもそも、あいつはおまえが診療所でモルテードたちにマワされたときに、『俺を見張れ』って命令を受けている。俺とかエル、ダニオなら『見張りはするけど報告はしない』って開き直るところだけど、あいつはたぶん揺れていたんだと思う。アリエッテも死んだし、俺もあいつに自分の手で守り切ることができなかったのに、誰かがいなかったから助からなかったってねたむのはお門違いだって言ってやったしな。裏切り、裏切られ、それが常の世界なのに、誰かに縋って生きていこうなんて、そんな甘っちょろい精神じゃ地下街では生きていけねえよ」  命取りになる前に、こっちを抜けてよかったんじゃねえのかと、チェリオ。ユーリはやはりどこか申し訳なさそうに眉根を下げた。 「西側の爆発事故が起きたあとに、すぐに駆け付けることができなくてごめん。俺たちが行けていたら、もっとたくさんの人が助かったかもしれないのに」  その言葉は、最後まで言えなかった。チェリオに手で口をふさがれたのだ。不機嫌そうな顔をしている。チェリオはどこかじれったそうに眉を顰め、ユーリの口から手を放す。 「おまえだけのせいじゃないし、誰のせいでもない」  きっぱりと、強い口調でチェリオが言う。 「おまえが東のスラムに来るようになって、診療所を作って、デリテ街では死人が格段に減った。  そりゃイギンたちやピエタに殺されるやつらはいたけど、風邪や病気、小さな怪我が原因でも人は簡単に死ぬ。だけどおまえが薬草の煎じ方や簡単な傷の処置の仕方、風邪気味の時にどうしたらいいかとか、そういう細かいやり方を教えてくれたり、病人や怪我人の往診をしてくれるようになってから、俺がデリテ街を稼ぎの場に与えられてから初めて死人が5人を越えなかった。  この時期には暑さや食中毒でバタバタ人が死んでいたし、水あたりもひどかった。おまえ、いつか言ってたろ。デリテ街だけを通る井戸があるんじゃないかって。その井戸の水を使わなくなってから、妙な中毒症状が減ったんだ。  最初はだれもおまえのことを信じていなかったけど、あの井戸のことがあって、少しずつ警戒を解いた。この地獄みてえな場所に、おまえは希望をくれたし、俺たちの命に価値をくれたし、生きていくための知恵もくれた。それだけでも十分に俺たちは救われている。だから、自分のせいだなんて思ってくれるな。そう思われたら俺が腹が立つ」  そこまで言って、チェリオは照れくさそうに顔をしかめて地面に視線を落としてしまった。  まさかそう言われると思ってもみなくて、ユーリはチェリオの頭をわしわしと撫でた。チェリオは抵抗しない。今度は両手でわしわしと撫でる。 「ありがとう、チェリオ」 「本当のことだ。礼を言いたいのはこっちのほうだわ」  ぶっきらぼうに言ったあとで、チェリオははたとなにかを思い出したようにバックパックを漁って、ユーリになにかを突き出した。 「このへんを探し当てた時にこれはなんだろうって不思議に思ってたんだけど、おまえの懐中時計とおなじレリーフがそこかしこにあった」  ユーリは目を見張った。チェリオが差し出してきたのはサシャの懐中時計だ。それを受け取って、ユーリは嬉しいような、寂しいような、複雑な表情を浮かべた。 「なにも無くなったかと思ったのに」  ぽつりと誰に言うともなく言う。なあとチェリオが尋ねてくる。 「言いたくなかったら言わなくていいんだけど、サシャは?」  ユーリは懐中時計を握りしめて、目を閉じた。すうと息を吸う。冷たいその感触を確かめるよに何度もそれを握り、気持ちを落ち着けるように息を吐いた。 「一番安全なところにいる」  チェリオはそうかとしか言わなかった。明らかになにかを言い淀んでいるチェリオを横目に、ユーリは懐中時計に視線をやった。自然と口元が綻びる。サシャのものだ。持ち物はすべて軍部に徴収されたせいで、なにも残っていない。現金なもので、サシャが触れていたものがそばにあると思っただけで、不思議と妙な動悸が消えたような気がした。

ともだちにシェアしよう!