43 / 108

Seven(5)

「そういや、ネイロが言ってたっけ。昔この辺りにイル・セーラが隠れ住んでいたって」  言いながら、ふとチェリオの足元にもレリーフがあることに気付く。ちょっと足のけてと言って、ユーリがレリーフに懐中時計を押し込む。かちりとやや重く硬質な音がしたかと思うと、ふたりが身を潜めていた後ろの壁がチェリオの体重で動いた。 「うおわっ!?」  勢いでチェリオが後ろにひっくり返る。 「だ、大丈夫か?」  手を差し伸べようとして、ユーリは目の前の光景に目を疑った。チェリオもだ。仰向けに寝転がったまま顎をあげてあたりの様子を窺っている。美しいほどの光を放つ輝鉱石の壁があったのだ。チェリオは起き上がり、狭い通路を通って先に壁の向こうに行った。ユーリも背負っていたミリタリーバッグとバックパックを先に壁の向こうに置いてからそこをすり抜けた。動いた岩の付近をくまなく探す。そこにはやはり同じようにレリーフがあった。懐中時計を押し込み、仕掛けを起動する。その岩を元に戻してから懐中時計を持ち上げ、岩が動かないことを確認する。 「どういう仕組み?」  チェリオが尋ねてくる。ユーリはさあととぼけてみせた。古代イル・セーラの叡智の賜物だろうか。彼らは一部で魔術師じゃないかと言われるほどに特殊な技術を持っていた。タイタン族の末裔がいるなら、古代イル・セーラはアテネ族の末裔じゃないか……なんていう想像をしていたのを思い出す。ユーリが育った家にも同様の仕掛けがあり、この地下街に懐中時計と同じレリーフがあるということは、ネイロが言っていたように本当にここからフォルスまでつながっているのではないかと期待をしてしまう。  ここは先ほどよりも潮のにおいが一層強く感じる場所だ。先ほどと同じように切り立った岩場から滝のように水が落ちてきている。ひとつ違うのは、水路に直接落ちるだけではなく、二股に分かれた片方はシャワーのように、もうひとつが水路に落ちて水を循環させているようだ。シャワーのように水が落ちている場所には水受けまで設置されていて、しかもそこの水は別の場所に排水され、温泉の浴槽のように整えられた場所に水が入らないように工夫されているようだ。  太陽光がなく、且つ天然の水流で循環されている為か、それとも水質の関係なのか、苔や汚れが付着している様子はない。まるで誰かが清掃したあとのように綺麗だった。先ほどの水源と近いこともあり、水質も問題ないことを確認する。 「お湯だ」  感動したように声を弾ませる。 「こっちを拠点にしておくか。どうせここまでは来られねえだろうし」  そう言いながらあたりを見回す。先ほどの場所のように、上部から覗き込めるような場所などない。辺り一面が壁に覆われているというのに、まったく圧迫感がなく、且つ空気も澄んでいるような不思議な場所だった。 「普通に水浴びできそう」  弾んだ声でユーリが言うとチェリオが吹き出した。 「どんだけ水浴び好きなんだよ」 「チェリオが戻ってくるまでずっと北側で処置していたし、ここまで結構歩いたじゃん」  もうクタクタなんだよと、ユーリ。チェリオは鼻で笑いながら「お好きにどうぞ」と言って固い岩場に寝転んだ。 「俺は隣のシャワーでいいや」  言いながらチェリオが欠伸をする。ユーリはそれを横目に見たあとで、ミリタリーバッグを漁ってタオルと着替えを取り出した。 「用意よすぎだろっ」 「だって長期潜伏するつもりだったし。だから髪も切った」  紙石鹸もあるし歯ブラシもあると、ユーリが次々に生活必需品を取り出す。水源が別なら洗濯もできるけど、さすがに汚水を流すのは嫌だなと言いつつ辺りを見回す。ユーリは水場の向こうに明らかに誰かが済んでいた形跡のある小部屋を見つけた。 「ちょっと見てくる」 「あ、おい!」  チェリオに止められるよりも早く、その場所に向かう。たらいや食器だけでなく、インクやペンなどの筆記用具もある。少し埃の被ったノートが開きっぱなしになっている。ステラ語ではなく、クリプトだ。ユーリは目を見張った。  ベラ・ドンナとアルマの関係、そしてそれらをいくつか複合させると“精神異常を来たす症状”が自然発生的におこること、また心身に異常を来たさなくても微量を長時間、或いは短時間で一定量の有毒ガスを吸うと内臓――特に心臓や脳への異常が起こり、病気を発症したと錯覚させることが可能である旨が記載されている。この筆跡は“ユーリ”ではない。  それらの解毒方法、改善方法は現状不明だが、パナケイン、アルカ、パナケインとアルカの複合薬、カルケル、そして“□□□”が有効と思われると記載されており、ユーリは目を細くしてノートを見る。角度を変えたり、ノートを持って輝鉱石の光が一番強い場所まで移動して、確認する。 「なんだこれ」  ぼそりと呟く。クリプトではない言語だ。ステラ語でも、エトル語でもない。別言語かと思ったが、なんらかの原因でインクが滲んでおり読めなくなっている。ページをめくって裏の筆跡を確認する。微かにだが“移植”という文字が見える。なるほどと口の中で呟いて、ユーリはそのノートを元あった場所に戻した。  カルケル。聞いたことがない。なにかの薬草か、或いは、――。そこまで考えて、ユーリは考えるのをやめた。チェリオが寝転んでいる場所まで小走りで戻る。 「なんかあったのか?」 「人が住んでいた形跡がある」  向こうに食器と簡易キッチンがあるから、お湯を沸かすくらいならできるぞと告げる。チェリオがふうんと言いながら体を起こして背伸びをした。  着替えを干す場所もありそうだし、長期間潜伏するにはもってこいだ。だからこの場所を作ったのだろう。ノートの内容から察するに、おそらく20年以前に作られているはずだ。まったく汚れた形跡もない。ユーリは浴槽に手を突っ込んで汚れを確認したが、ややとろみがあるものの肌に馴染む湯質で、浴槽の底も汚れていない。ユーリは浴槽から手を出して、シャツのボタンをはずし始めた。チェリオがぎょっとしたようにのけ反る。 「ストリップ癖でもあんのか?」 「服着たままだと風呂に入れないだろ」  マジかよと言いながらもチェリオはユーリから目をそらさない。ユーリはいたずらっぽく口元を持ち上げた。 「いつまで見てんだ、スケベ」  揶揄するように言いながらも、まったく気にするそぶりを見せずにミリタリーバッグのそばにぽいぽいと服を投げ捨てる。懐中時計だけは丁寧にミリタリーバッグのポケットに押し込んで、デニムを脱いでからタオルを手に滝のように落ちてくる水場へと向かった。  手を差し伸べて水音を確認する。少しぬるめだけれど問題ない。そのまま滝の下に入り込み、ユーリはうわっと悲鳴を上げた。 「水圧えぐいっ!」  楽しそうに笑うユーリのもとにチェリオがのそのそとやってきた。どれどれと言いながら滝に手をかざす。なかなかの勢いにチェリオも声をあげた。 「うっわ、やばっ。なにこれっ」 「これ、ここに置いておくだけで洗濯ができそう」  言って、ユーリがパンツを脱ぐ。チェリオがおい! と声を荒らげた。 「なんでおまえはそんな明け透けなんだよ!」  言われている意味が分からない。ユーリは頭から滝に打たれる感覚を楽しむように何度かそれを繰り返し、ばしゃばしゃと顔を洗った。 「自分だって娼館でいきなりぶっ飛んだ発想してきたくせに」  お互い様だろと言ってのける。 「おまえの裸みたら勃っちゃうじゃん」  ぼそぼそとチェリオが恨めしそうに言う。ユーリはぶはっと吹き出してチェリオに頭からお湯をかけた。 「うわっ?! なにすんだよっ!?」 「途中までとはいえ一回ヤッてるし、さっきは無理やりしゃぶらせておいて、そういうのは恥ずかしいのかよ?」  そっちこそガッティーナじゃねえかと、ユーリが揶揄する。チェリオは濡れたじゃねえかと文句を言いながらバックパックを投げ捨てて、シャツとカーゴパンツを豪快に脱いだ。パンツまでびしょびしょだ。言葉の通りにやや半勃ちのそれが濡れたパンツのせいではっきりとわかる。見るなと前を隠してチェリオが後ろを向いた。ユーリは「今日はもうなにもしないからな」と軽口を叩いて、浴槽のほうへと向かった。まず足を突っ込んでみる。じんわりとしたぬくもりが伝わってくる。 「すっげえ気持ちいい」  感動と弾んだ声でユーリが言う。「あっそう、よかったね」と冷めた口調で、チェリオ。まるで取りあってくれないチェリオに恨めしそうな視線を向けて、歩き疲れた身体を癒すためにゆったりとお湯に沈んだ。 「あー、これすごい。もう出たくない」  マジで最高と幸せそうな声色で言う。チェリオが少し離れた場所で笑うのが聞こえてきた。 「この状況で幸せそうな声を出せるおまえのメンタルが怖えわ」 「入ったらわかる。マジですごい」 「入らねえって。俺はシャワーで十分なの。あとで汗掻くし、地下街の住人は基本的に烏浴びなんだよ」  チェリオは言葉どおりに豪快に水浴びをしつつ、濡れたパンツを足で踏んで軽く洗う。頭から水をかぶってがしがしと頭皮を洗ってそのまま滝に打たれるような状態で数十秒制止する。濡れたパンツを手に水受けを出ると、水を切るように勢いよく頭を振った。 「はやっ」 「おまえがのんびり過ぎるんだろうが。地下街でそんなゆっくり入ってたら、犯してくれっつってるようなもんだからな」  まじで危機感ねえんだよと、チェリオ。濡れたパンツを絞って水気を切り、そのまま履く。せめて拭けばいいのにと言いかけたが、チェリオが浴槽へとやってきた。岩で丁寧に作られた浴槽の縁に腰を下ろして両足をお湯に浸けた。 「あ、確かに気持ちいい」  でもアッツイなとチェリオが声を尖らせる。そんなに熱くは感じないが、チェリオにとってはそうなのだろう。体温高いもんなと言うと、チェリオは普通だろと言いながら足を軽く動かす。ユーリの身長でも肩までしっかり浸かれるほどの深さがある。ユーリは浴槽に身体を預けて気持ちよさそうな息を吐いた。 「こんな温泉に浸かれると思わなかった」  生き返ると満足げにユーリが言う。チェリオはそれを見ながらもう一度足を動かして、ユーリにお湯をかけた。 「ここまで連れてきてやった報酬は?」  チェリオが意地の悪い笑みを浮かべる。ユーリは少し考えるようなしぐさを見せた後で、濡れた髪を掻き上げた。 「水があるからリゾットくらいなら作れるぞ」  とぼけたつもりはなかったが、チェリオはそれだけ? と首を斜めに傾ける。明らかになにかを期待している表情だが、ユーリは最初に『今日はなにもしない』と伝えたはずだ。 「疲れたからもう無理」 「じゃあ“ツケ”な」  最初からそれを言いたかったんだろうと思うほどの悪い笑みを浮かべる。ユーリはチェリオを上目遣いに見てホールドアップしてみせた。 「はいはい、セックス以外だぞ」 「ファリスにはヤラせるっていったくせに!?」  チェリオが不満げな声をあげる。やっぱりかと思う。ユーリは濡れた髪から落ちる水滴を軽く弾いて、わざとらしくなんのことだ? と言ってのけた。ファリスには悪いが、はじめからそんなつもりはない。期待させておいて悪いが、事を荒立てずに切り抜けるために引き合いに出しただけだ。 「ファリスには『俺を手伝ったらいい思いができるかもしれない』とは言った。そもそも本当に感染症なのか、『そうでないのか』の判断が付かないから、軍部もピエタの医療班も混乱を極めている中で、きちんと処置をされたディエチ地区の連中から感染者が出なければ、感染初期や無症状の患者にはとある薬草が有効ってことになる」  チェリオはぽかんとした。まさかと言って眉を吊り上げる。 「東側の連中の処置をしたってのはもしかして最初からそのつもりで?」 「だから『いい思いができるかもしれない』と言った。無事ならピエタや軍部から匿ってもらえる可能性もあるし、症状がなければ二コラか誰かが『俺が処置した』ってわかるだろ」 「わかんなかったら?」  ユーリはどこか勝ち誇ったように笑って大袈裟に両手を広げて見せた。 「二コラだからまあ有り得なくもないが、そのかわりにアンナと、准将殿がいる」  研究を准将殿に引き継がせると言ったのも、アンナに手伝わせたのも、わざとだ。余裕気なユーリにチェリオの不満極まりない視線が送られる。けれどさすがにチェリオはユーリのやろうとしていることを理解したのか、浴槽から足をあげて胡坐をかいた。 「アンナはともかくとして、その准将殿ってのが味方になってくれる可能性は?」 「さあ。でも処置が可能なように大学に彼を運ばせるよう指示したのはキアーラだから、手放しで協力してくれるということはないにせよ、問答無用で敵に回る可能性もないと思う」  というか、イル・セーラだから研究資料を見れば理解してくれると思うと、ユーリ。 「思うばっかじゃねえか」 「オレガノとミクシアの医療技術は20年以上開きがあるって聞いたことがあるし、そもオレガノでは今回のイカレ野郎製造システムの解明がされている可能性もある」  チェリオが吹き出した。イカレ野郎製造システムってと笑う。感染症とも中毒症状とも判断が付かない状態だ。そう言うしかない。 「そもそも政府がアルマ以上の感染症だと騒ぎ立てたのがよくなかった。初動そのものが失敗だよ。こういうとき、イル・セーラとノルマの考え方の齟齬が目立つよな」 「しゃーない、保守的な考えを持つヤツがほとんどだ。ドン・クリステンが特異なだけで、大体のお偉いさんは炊き出しにもきやしねえよ」 「俺はそこが一番不思議だったんだけどな。オレガノにいたっていうなら、パンデミアだと騒ぎ立てる以前にやれることがたくさんあったと考えられそうなものなのに」 「おまえがここに降りてこられたのも、じつはドン・クリステンが裏で糸を引いていたりしてな」  あいつはこええぞとチェリオが笑う。まさかとその可能性を否定したが、ユーリはふとその可能性も考えた。アンナがステラ語を解読できるということには驚いたが、解読できるということはしゃべれるし聞き取れるということにもつながる。盗み出された資料はノルマ語のものだけだと聞いていたけれど、検分したときにステラ語とフォルムラ語で書いたものがいくつか無くなっていることに気付いた。さすがにクリプトのものは手付かずだったけれど。  アンナだけではない。エリゼもステラ語をしゃべることができる。識字は不明だが、舌を使う発音も子どもの頃から使っていないとどうしても不自然になる箇所があるから、ネイティブか否かがすぐにわかるのもステラ語の特徴だったりするものの、エリゼのステラ語は完ぺきだった。そもそもフォルス出身のイル・セーラは、ステラ語とクリプトしか話せない。ごく一部エトル語も話せるのがいるが、基本的にエトル語は人前では話さない決まりだ。ただ、C区にいた仲間たちにはノルマ語の聞き取りとフォルムラ語の聞き取りは仕込んでいる。エドは元々フォルムラ語も話せることもあり、サシャとエドと三人でこっそり仲間たちに教えていたのを思い出す。  そのうえで、エリゼはエドを協力者と言った。収容所で起きたことはすべて話したと言っていたから、識字率をひそかに上げていたことも知っているだろう。それに、アンナが作った地下通路の鍵もそうだ。ドン・クリステンの親戚だと言っていたが、彼単独でやるにしては大掛かりすぎないか? とも思ってしまう。姿を見ただけであんなに動揺するほどだ。悪事がバレたらと思うとまるで蛇に睨まれた蛙のように竦みあがってしまいそうだ。そう考えると、ドン・クリステンがユーリを使ってなにかをさせようと目論んでいる、もしくは、ユーリがやろうとしていることと、ドン・クリステンがやろうとしていることが合致している。それも織り込み済みで自分がやろうとしていることを黙認してくれているのではないか。  そこまで考えて、ユーリはまあいいやと背伸びをした。なにも考えたくないと顎辺りまでお湯につかる。チェリオからふやけるぞと言われたが、本当にここから出たくない。体が心からほぐれるような気がするし、疲れが抜けていく。なによりさっきまであれだけ不快だった動悸がない。  ユーリは不意に温泉の水を両手ですくった。くんくんとにおいを嗅いでみる。無臭だ。それを少しだけ飲んでみるとかすかに塩味を感じる。チェリオがすごい顔をしている。 「なんでも口に入れるなよっ」 「チェリオ」 「なんだよっ?」 「今度ちゃんとヤラせてやるから、となりの滝のお湯を少し飲んでみて」  はあっ!? と素っ頓狂な声が上がる。いいからと急かすと、チェリオはしぶしぶと言った表情でたちあがり、滝に向かう。片手でお湯を掬い、ぺろりと舐める。怪訝そうに眉を顰め、ぺっと吐き出した。 「ちょっと塩っぽい」 「苦みは?」 「え? ああ、言われてみたらほんの少しだけ」  ユーリはどこか納得したような表情になり、立ち上がった。浴槽を出て、傍に置いていたタオルを腰に巻いて、早足で先ほどのノートが置いてあった場所に向かう。  ノートに記載されているカルケルという文字を眺め、すうと目を細めた。なるほどなるほどと小声で呟く。ここに潜伏するために誰かが浴槽まで作ったのだと思っていたけれど、偶然ではなさそうだ。ノートが濡れないようにタオルで手を拭き、次のページをめくる。  カルケルによる症状の緩和について記載されている。やはりだ。少しの間それを読み進めていたが、また文字が掠れて読めない部分が出てきた。ユーリはすでに読んだ部分で解読できる場所を乾いた指でなぞってみる。文字に変化はない。先ほど手を拭いたタオルでもう一度手を拭き、ほんのすこし湿らせてからなぞってみる。書かれてからずいぶん経っているからか、インクが滲む様子はない。 「なにやってんだ?」  チェリオに問われ、ユーリは「実験」と楽しそうに答えた。「服着たら?」と呆れたように言われたが、ユーリは「終わったからもういい」と端的に告げ、温泉へと戻り、タオルを岩場に掛けてからまた浴槽に浸かった。チェリオは呆れたようにユーリを眺めている。 「のぼせても助けてやらねえからな」  そう言って、チェリオはユーリのミリタリーバッグを漁って携帯食が入った缶を取り出した。

ともだちにシェアしよう!