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Eight

 チェリオはロレンやキルシェたちと協力をして、女性や子ども以外の動ける者、軽傷者を連れてギルスの回廊の手前にある場所まで戻ってきていた。  中には北側に残ることを選択した者もいたが、彼らはチェリオたちが地下街に戻ることを黙認してくれた。北側に残ることを決めた連中のことを誰も咎めなかった。  当たり前だと思う。自分が住んでいた場所が無残に破壊された挙句、そこいらに知人の遺体が転がっている状態だ。戻りたくないと感じる相手も、そして地下街に潜伏することを選択した相手も、それぞれの選択だ。それでどうなろうとも、全滅しなければいいという考えがある。  地下街に潜伏すると決めた連中を、北側から地下街まで送る。何度もピストン輸送のようにそれを繰り返し、時々現れる感染者――基スパッツァトゥーラ(政府が定めた感染者の侮蔑用語らしい)を薙ぎ払う。彼らには理性がない。やらなければこちらが殺される。東側はまだピエタの一部が生存者を探して歩き回っているらしく、そのうちの隊員を助けてやったときにそう教えてくれた。  ただその隊員はまだ若く、突然訪れた事態にひどく混乱しているようだった。詳しく聞いたけれど、アリオスティ隊ではなく、マレフィス隊の新入隊員らしい。若いのはみんなアリオスティ隊所属かと思っていたから驚いた。一緒に巡回していた仲間はスパッツァにやられたのだと言っていた。遺体を武器とIDタグ(軍隊において兵士が身に着け、死亡時の個人識別に使うもの。有事の際はピエタにも適用されるらしい)と共に持ち去られたために、それを探しているのだとも。  正直、見捨ててやろうかと思った。でも、この有事の時にスラム街に手を差し伸べようとしてくれたことに対しては、ものすごく釈然としないものの、敬意に値する。だからいつもの抜け道ではなく、鉄塔台から壁を越えてそいつを北側に強制送還させた。そして東側に取り残された連中の捜索をと真剣に会議していたマレフィス隊の部隊に合流までさせてやって、ガチめにキレた。  そもそもスラム街は、軍部と政府が介入しない場所だ。軍部の息がかかっているピエタにも同じことが言える。だから不正の温床と化していた。それを是正するために、アリオスティ隊とマレフィス隊がうろちょろしていたのはわかる。でもいまは有事で、税金を払っているわけでもないスラム街に手を差し伸べるくらいなら、下流層街の奴らに危険が及ばないように動くのがピエタの役目であって、スラム街に手を差し伸べることが善ではない。もしそれがドン・マレフィスやドン・クリステンの指示なのだとしたら、東側はもっと上の連中に任せて下っ端をよこすな、やるなら下っ端ともども北側の処理をしろと、それはもう奴らが口を挟む暇も与えないほどに捲し立ててやった。  犠牲者を増やしたいからではない。本当に迷惑なのだ。IDタグの捜索はこっちでするから、とにかく下っ端をこっちに入れるな、立場のあるやつらも入って来るな、入れるなら銃器の扱いに優れていて、且つ臨機応変に対応できる精鋭部隊だけにしろときつく言っておいたから、一般隊員を入れてくることはもうないだろうと思う。  その足で、チェリオは一旦北側に残る選択をした仲間たちの様子を陰からこっそり窺いに行き、無事にやっていることを確認したうえで東側に戻ることにした。  東側のノーヴェ地区とディエチ地区の堺あたりに出る地下通路の出入り口付近で、ネイロに遭遇した。いつの間に重傷者は連れて行かないと言ったはずなのに、いつのまにか後を付けてきて、ここに入り込んだらしい。鍵はこちらが持っているから、出入りができなかったのだろうかとも思う。ネイロだからそんなことはないだろう。ただ休んでいただけなのかと思い、鍵を開ける。 「なんで着いてきてんだよ?」  ひょこひょこと歩きながら格子戸からこちらに出てくる。さっさと閉めてやればよかったと悪罵を吐くが、ネイロはぜいぜいと息を切らせていて、憎まれ口を返してこない。チェリオはそれを目を眇めて見て、舌打ちをした。 「ネーイロ、北側にいろって」  向こうのが安全だろうがと、声を尖らせる。ネイロははあはあと息を荒らげながらうるせえとしわがれた声で言う。 「てめえはいなかったから知らねえだろ? てめえが戻ってくる前日に、ニナが殺された」  チェリオは思わず立ち止まった。振り返りもせず、ネイロの言葉を聞く。 「庇ったパメラは重傷だ。生きたままあの遺体の山に投げ込まれてたのは見た」 「女性たちや子どもたちには先に丸薬を配ってあるはずだろ」 「それなんだがよ、あの二人はグイドを見習って、体の弱い長老に薬をあげちまったらしいんだ。だからあの兄ちゃんが作った丸薬は飲んでねえ」  マジかとチェリオが口の中で呟く。あのとき、クワトロ地区の往診までユーリに頼んでいたら、見つかっていた可能性があったということだ。 「しかも、食料がねえから遺体の山から遺体を持っていく奴らが増えたせいで、軍部の奴らかピエタの奴らか知らねえが、銃を持った奴らがあのあたりを徘徊している。  じゃあとっとと火葬するなりなんなりしろって話なんだよ。あいつらは人を人とも思ってねえ。あんなところで死にたくねえから、俺も連れて行ってくれ。てめえの手は借りねえ」  言って、片方の足で身体を支え、壁に身体を預けるようにして歩いてくる。チェリオはそうかよと言ってすたすたと先を行った。ひきずるような足音が後ろに続く。かなり距離が離れてしまった上に、あの状態ではもしスパッツァにでも襲われたらひとたまりもないだろう。  ネイロとはわりと付き合いが長い。と言ってもここ数年だけれど、数年も一緒にいれば情が移る。スラム街なんて2年一緒にいられればいいほうだ。まだ下流層街にネイロがいた頃、ロレンとの誼でいろいろと食べ物を持ってきてくれていたことを思い出す。  チェリオは心を鬼にして先に進もうと思い早足で歩いていたが、ああもう! と大声を上げた。 「貸しだかんな!」  ネイロの元に駆け寄り、身体を勢いよく担ぎ上げる。うおっと声が上がったが無視だ。 「おいっ、おいチェリオっ!」  揺れるとネイロが批難してくる。おえっとえずくような声が聞こえるが、無視だ。「吐くなら俺に掛けんなよ」と乱暴に言って、地下街の入り口までの最短距離を駆け抜ける。  ふとチェリオは足を止めた。朝は無造作に転がっていたはずの遺体が丁寧に壁際に集めらている。ネイロを下ろし、身体に掛けられた布を捲る。ちぎれていたはずの腕には縫合したような跡があった。 「こいつぁ、イオの手下じゃねえか」 「元軍隊上がりがこれだからな。だから女性と子ども、負傷者は連れて行けねえっつったんだ」  おまえそんなナリで戦えんのかよ? と、できるはずもないことを分かっていて、チェリオがわざと言った。ネイロは「うるせえ」と持っていた杖を振り上げてチェリオのすねを殴った。勢いよく下ろされたそれはすねにクリーンヒットし、ゴツンとかなりの音が上がった。 「いって! なにすんだ、置いてくぞ!?」  大声を出したからか、誰もいないと思っていた家の中から男が飛び出てきた。ぎゃあ! っと悲鳴を上げたネイロがチェリオにしがみつく。 「おいっ、しがみついたらなにもできねえだろうが!」 「なんだこいつ! こないだまでいなかったろ、こんな凶悪な野郎は!」 「だあら言っただろうが! てめえが北側抜けたさに話聞いてなかったんだよ!」  チェリオはネイロを抱え上げて一目散に逃げた。後ろから男が追ってくる。 「おいおいおい、来るぞチェリオ!」 「うっせえ! てめえを餌に投げてもいいんだぞ!」  だあってろと強い口調で吐き捨てて、なんとか壁に登れる場所を探す。ほとんどが荒されているせいで足場がない。一人なら足場がなくても上がれるが、それなりに体重のあるネイロを抱えている。  後ろの男はいままでの奴らと違い知性があるのか、後ろから物を投げてくる。ざるや鉄板がこちら目掛けて勢いよく飛んでくるのを、ネイロの指示通りに避けた。勢いよく角を曲がる。砂地に足を取られて勢いあまってこけそうになるのを踏ん張って、チェリオはネイロを乱暴に下ろした。 「ここに隠れてろ、くっそ、あの野郎ぜってーぶっ殺す」  チェリオが腰にベルト代わりに巻いていたチェーンを外そうとする。後ろからどいていろと耳慣れないバスバリトンの声がした。いつもの制服ではないから気が付かなかった。二コラだ。  前から突っ込んでくる男の腕をハンドガンを持った片手で軽くいなし、足元を掬って男を地面に払い倒す。派手に仰向けに倒れたところで二コラが胸元に片足を置いてすぐには起き上がれない状態を作り、額にハンドガンの銃口を宛がった。パンと破裂音がすると同時に血が吹き出した。それでも起き上がろうと男が藻掻く。二コラは男の左胸に照準を当てた。二度ほど銃声が響く。わずか十数秒の出来事だ。呆気にとられたチェリオは二の句を継ぐことができなかった。  二コラがこちらを振り返る。横からネイロの情けない声がした。 「彼は怪我人か?」  二コラがやや心配そうな面持ちで話しかけてくる。 「死ぬならこっちで死にてえってうるせえから、連れてきてやったんだ」  そのセリフで警戒されたのか、二コラが不審そうに眉間にしわを寄せた。さすがにイオが警戒するだけのことはある。ユーリが東側に降りてきていた時、イオは自分の部下たちに二コラがいるときには絶対に手を出すなと忠告していた。元軍人の勘か、それとも隠し切れない殺気のせいかと思っていたが、あの迫力に怯みもしない胆力は流石だと思う。  チェリオは二コラを呼んで、遺体のほうを指さした。 「あいつらを弔ってくれたの、おまえか?」 「あのままでは申し訳ないと思い、アリオスティ隊と共にこちらの死傷者を弔って回っている。彼らはオット地区あたりを回っているだろう。  最初に北側にスラム街の住人を集めるよう指示していた彼は、亡くなった」  言って、二コラは自分がとどめを刺した男を見下ろした。感染者というよりはまるで中毒者のようだなとつぶやく。 「地下街にはまだ人が残っているのか?」 「いるけど、ほとんどが自分の意思でこっちに戻ってきたいって言ったやつらだ。放っておいてくれ。俺も軍部のやり方には反対だし、そもそも殺す以外の方法がないなんておかしいだろ」  二コラが目を伏せる。チェリオは二コラの腕になにかが絡んでいるのを見つけた。 「それ」  自分の左手首のベルトに付けてあるそれを見やり、二コラが不思議そうにこちらに視線をよこした。 「IDタグだ。そこの感染者が持っていた。マレフィス隊所属の一般隊員のものらしい」 「遺体は?」 「見当たらなかった。まだ若いし、せめて遺品だけでもと思っていたが、この状態では望み薄だな」  冷静な口調だ。チェリオが助けた一般兵士とは全く違い、動揺しているそぶりすらない。イオやイギンたちは、二コラのこの“精神力”に怯んでいたのだろう。嚇しがきかない相手は実力行使をするしかないが、たぶん自分には敵わないと思っていた。イル・セーラではないから武器の携帯を許されていたのかと思ったけれど、二コラがいま纏っているのは栄位クラスの制服ではなく、軍部の制服だ。なるほど、と思った。だからユーリが“逃げて”きたのか。 「軍部ってのは怖えよなあ。あんなに信頼して懐いていた相手にすら、感嘆に手のひら反すんだからさ」  二コラの表情は変わらない。ただ少し視線を逸らした。ユーリを本気で裏切っているのかどうかの判断など、その反応だけで十分だ。本当にただの任務でユーリの保護をしていただけなら、ユーリが大学側にいたら真っ先に望みそうなことを模倣しない。チェリオは二コラを横目に見て、ネイロを抱え上げた。 「助けてくれたことには感謝するけど、俺ぁ政府や軍部を心底軽蔑してる。  俺たちは生きることに必死だったからこそ、おなじにおいのやつらに敏感だ。ユーリもサシャも、ただスラム街を救うという希望を自分の中に見出して、ほんとうは別のものを救うつもりだった。それがわからねえようじゃ、あんた友人失格だな。サシャの内面にすら気付いてねえだろ?  ユーリは愚痴ひとつこぼさねえし、飄々としていても腹の中に溜まるもんは溜まる。あいつが下した決断が吉と出るか凶と出るかは、全部あんたと、ドン・クリステン次第ってことだけは、教えといてやるよ」  体よく言や、罠にはまったんだよと意地悪く言ってやる。 「ユーリの居場所を知っているのか?」 「知らねえ」  強く言って、チェリオは地下街へと戻ろうとした。二コラに手を掴まれる。チェリオは腕を話せと言わんばかりに二コラをじろりと睨んだ。 「教えてくれ、チェリオ。居場所を教えてくれるなら、いくらでも払う」 「いくらでも?」 「おい、チェリオっ」  チェリオの声が弾んだからだろう。ネイロが慌てたようにチェリオの髪を掴んだ。 「こいつ、Sig.カンパネッリだろ? こいつは利用できる、誓ったっていい」  小声でぼそぼそ言ってくる。そんなことは知っている。ドン・クリステンの右腕だ。彼の指示でここにやってきたのか、自主的になのかは知らないが、いまのセリフが本来の目的だ。弔いはついで。本命はユーリの捜索だ。 「うっせえ、それ以上口挟んだらここに置いてくぞ」  チェリオはネイロに暗に黙るよう言ってのけて、二コラの手を振り払った。 「いくらでも払うっつったな?」 「相応の品でもいい」 「じゃあ、ユーリ・オルヴェの命」  二コラが眉根を寄せる。言い淀むのを見て、チェリオはあははと声をあげて笑った。 「くれるっつったよな? そも、いくらでも払うだと? ふざけんな、あいつの命以上に価値のあるもんなんかほかにあるかよ」  チェリオは二コラを覗き込み、挑発するように告げる。 「俺らはピエタと軍部の施しを拒否した。だから地下街に潜伏する。国の法律の中に、ピエタや軍部の施しを受けないかわりに街を作っていいって決まりがあるんだよな? だからスラム街や地下街がある。ドン・クリステンが来てからはちょっとその様子も変わっちまったけど、元々俺らはこうやって生きてきたんだ。  地下街に一歩でも入ってきてみろ。ぶっ殺してやる」  二コラがチェリオを呼ぶ。チェリオはそれを無視して地下街の入り口までやってきた。ここから入るということを二コラには知られたくない。チェリオはもう一度振り返った。 「聞いてくれ、チェリオ。ユーリに伝えてほしいんだ」  二コラがまたなにかを言い淀むような顔をする。逡巡する気持ちを振り払うように小さく息を吐いた。 「ナザリオが亡くなり、キアーラも行方不明だ」 「待って、ナザリオが死んだ?」  嘘だろと言う。背中からネイロも驚いている声がする。 「キアーラは北側の診療所にいたんじゃ?」 「俺の足を処置してくれたのだって、あのお嬢さんだ」 「それが、東側から応援要請が入り、准将殿の件もあり二人が向かったらしい。そのあとのことは不明だ」  チェリオは二の句を継げなかった。ナザリオが死んだとされるのは、ふたりを最後に見たとされる場所でナザリオの制服を纏った腕が一本転がっていたからだそうだ。その検視をドン・クリステンが行ったと二コラが言う。 「じゃあキアーラは? 彼女はどうなったんだよ?」 「わからん。一応捜索はしてるんだが。だから、頼む。地下街に紛れ込んでいないか、捜索してもらえないか?」  チェリオは考えた。嘘を言っているような目ではない。かといって信じる義理もない。ただキアーラには無事でいてほしい。 「クアトロ地区は見たか?」 「北側のか?」 「イデアっていう女性酋長が女性と子どもを匿ってる。もし東側から逃げきれたとしたら、そこにいるかも」  そう言ったが、もしそこにキアーラがいたら、ニナとパメラが危険な目に遭わなかったかもしれないと想像する。 「あいつ、なにしたの?」  チェリオが問う。二コラは意想外な顔をした。もしもチェリオとユーリが一緒にいるとしたら、チェリオの性格なら真っ先にそれを尋ねるだろうと思っているのがバレバレだ。 「オレガノの准将殿に対して、ミクシアでは非認可の術式で手術を施した」 「それのなにが問題だったんだ?」  相手が死んだのか? と尋ねると、二コラは苦い顔をして首を横に振った。 「亡くなったのはサシャだ」 「サシャ?」 「ユーリはオレガノの准将殿を助けるために、Sig.ジェンマとフレオと共にその手術をした。ふたりはオレガノの医師免許があり、且つフレオは国医の試験をパスして免許が届いたばかりだった。でもユーリは違うし、その」  二コラが言い淀む。 「手術に必要な心臓を、サシャが提供した形になったが」 「つまり、そのオレガノの准将を助けるために、サシャの心臓を使ったってこと? ユーリが?」  殺したとは言わなかった。殺すつもりなど毛頭ないうえに、あんなに仲が良かったのだから死なせたいわけがない。 「政府はそれを殺人だと騒ぎ立て、ユーリはその責任を取る形で北側、東側のスラムの診療所と、いままでの研究を軍部に徴収されることになったんだ」  聞いていないのか? と、二コラ。そも居場所知らねえんだから聞けるわけねえだろと強い口調でチェリオが吐き捨てる。  胸糞悪い。軍部も政府も、本当に腹が立つ。 「都合のいいときばっかり利用すんだな。上からせっつかれなきゃユーリだってサシャの心臓を使おうなんざ思わねえはずだ。  まあ……ユーリなら、ふたりとも助けたかったんじゃねえのか?」  だから最初からそんなことも覚悟の上で手術をすることを決めたんじゃないのか? と継ぐ。ニコラはチェリオの言葉を興味深そうに聞いていた。 「そう思うか?」 「つか、あいつの異様な正義感と性格知ってりゃ、大体そう思いつくだろ。それを思わないのはあいつを知らないやつか、最初からハメようとしてた奴らじゃねえか?」 「手術をしない選択をして、准将を死なせたと騒ぎ立てるつもりだったのかと、こちらは踏んでいるのだが」 「事情は知らねえけど、ユーリならふたりとも助ける方法を捻り出してそうしちまうって、俺ならそう思うけどな。でも思い通りにならなかったからサシャのことを引き合いに出して、ユーリを大学から追い出した……とか」  なるほどと、ニコラ。西側のほうから土気色に顔色を変えた男が足を引き摺って歩いてくる。チェリオが気付いたとほぼ同時にニコラがハンドガンを構えて様子を伺う。すぐさま襲ってくる様子はないが、ぶつぶつと辻褄の合わないことを言いながらこちらに向かってくる。チェリオと目が合い、チェリオは目を見張った。  ラカエルという、昔東側のディエチ地区にいた男だ。イギンのやり方に意を唱え、家を襲撃されて家族を殺されたことの復讐でイギンの懐刀の一人だったエイドラを殺し、そのせいで西側のディエチ地区にぶち込まれた。元々は学者で、スラムに入れられた経緯もラカエルが唱えたやり方で患者が死に、それを訴えた家族と司法が癒着していたせいだと言っていたのを思い出す。ピエタや軍部に対しての憎悪は相当なものだった。  チェリオを見ても反応を示さなかったが、ニコラの軍服を見るや否や奇声をあげて走ってくる。ひいっとネイロが情けない声をあげた。チェリオはニコラを制止してラカエルの腕を掴んだ。 「おい、ラカエル!」  片手を捻り上げて簡単に地面にねじ伏せる。ニコラを襲おうと暴れるが、骨と皮しかない体型でチェリオに適うはずがない。チェリオはふと思い立ち、ラカエルの両手を片手で拘束し、バックパックからユーリがくれた丸薬が入った薬包を取り出し、ニコラに向かって投げた。 「ひとつ取り出してくれ」  ニコラはそれを広げて指でつまみ、チェリオの手のひらに落とす。ニコラから噛まれるなよと言われたが、チェリオはそれを無視してラカエルの口の中に丸薬を放り込んだ。吐き出そうと暴れるが、下顎を押さえつければ口を開けられない。少し顎を上に上げてやるとごくりと嚥下する音がした。 「それはあの時の丸薬か?」  ニコラが尋ねてくる。 「そう。こういうやつに効くか知らねえけど、こいつはすげえやつなんだ。ただじゃ死なせなくない」  見たところ身体に外傷はなさそうだ。西側のディエチ地区にいたおかげで爆発からは免れた可能性がある。いまのいままで潜んでいたが、表に出てきてからおかしくなった可能性もなくはないのだ。  ラカエルはしばらく奇声をあげて暴れていたが、チェリオに抑え込まれたことで抵抗を諦めたのか、それとも丸薬の効果が現れ始めたのか、暴れる力が弱まった。 「ラカエル、聞こえるか?」  後手にロープで縛り上げ、ラカエルの前にやってきて尋ねる。視線は彷徨い虚ろだが、ラカエルと呼ばれたことに対してか少し反応を示す。 「俺だ、チェリオだ。昔地下街で一緒に壁の修繕とかしてた」  覚えてないか? と尋ねる。ううと微かに唸ったが、ラカエルはニコラが視界に入ると後手に縛られたロープを外そうと暴れ始める。  ちょっと視界から離れてくれとチェリオが言うよりも早く、ニコラはラカエルの視界から外れた。いつでも対応できるようにするためか、ハンドガンを下げることはない。  もう一度ラカエルを呼ぶ。ひとつじゃ足りないのかもと言って、チェリオはニコラから薬包を受けとり、もうひとつ口の中に押し込んだ。吐き出されないように下顎を押さえ込み顎を上げる。今度はさっきよりもスムーズに飲み込んだ。 「そこの小屋に入ろう。俺が入り口を見張っておく」  ニコラが言う。チェリオはすぐ側の小屋のドアを開けてラカエルを運び込んだ。ネイロはニコラが肩を貸してこちらに誘導している。チェリオはラカエルを簡素なベッドに横向きに寝かせて反応が戻るのを待った。  ―― どのくらいか経った頃、ラカエルが唸り声をあげた。奇声ではない。ニコラが12時間強かと時計を見ながら言う。  あれからチェリオはラカエルをニコラに任せ、ネイロを地下街の奥に連れて行った。流石にキルシェから大目玉を喰らったが、ネイロはロレンとも懇意だし、こっちの見張りをさしゃいいじゃねえかというイデア姉さんの鶴の一声でことが収まった。ロレンがクワトロ地区に子供たちの様子を見にいった際、イデアはともかくとして子どもたちの怯えようがすごかったことから、北側に残ると選択した女性と子どもたちはディエチ地区の一番信用がおける連中に預けて連れてきたのだと説明された。そのなかにパメラがいた。生きていたのだ。ニコラが軍部の目を盗んで遺体の山から救い出し、処置をしてくれたのだとイデアが言っていた。  ニコラは悪いやつではない。それはわかる。顔は怖いし態度もクール極まりないが、ユーリが懐くほどだ。だけどドン・クリステンがどんな動きをしているのかが読めないため、手放しで信じるわけにはいかなかった。 「ラカエル、わかるか?」  唸り声のあと、ラカエルがうっすらと目を開けた。チェリオと口が動く。 「西側でなにがあったんだ?」  チェリオが問うが、ラカエルは震えてまともに喋れそうにない。なにもわからないとうなされたように言う。 「表がやけに静かで、地下街から出たらほとんどの連中が死んでいたんだ」  震える声でラカエルが継ぐ。 「ピエタの派出所に助けを求めて行ったら、ナザリオの野郎がピエタの連中を皆殺しにしていて」  そこまで言って、ラカエルは固く目を瞑って震え始めた。 「無我夢中で逃げて、それからはわからない。なにもわからないんだ」 「最初はみんな、殺し合いだけで、人の肉を食ってたりしてなかったってことか?」  ラカエルが何度も頷く。 「日に何十人も人が殺される場所だから、最初はいつものだと思ってたんだ。だけど様子がおかしいし、怖くなって」 「そしたら、ナザリオが?」  また頷く。チェリオはニコラを見た。どこか複雑そうな顔をしている。 「それからまた地下街に潜伏して、昨日こっちに出てきた。途中で爆発の元と推測される地形が変わった付近を通ったら、突然気分が悪くなって、なにがなんだかわからないんだ」  ラカエルの震えがひどくなる。歯がぶつかり合うほどガタガタと震えている。土気色の顔色は相変わらずだが目に少しだけ生気が戻っているように見える。 「西側で女性医師を見なかったか?」  ニコラがラカエルに尋ねる。一瞬目元が釣り上がったが、ラカエルは先ほどのように暴れ出すこともなく、首を横に振った。 「俺は見ていない」  先ほどよりも受け答えがしっかりしている。チェリオはラカエルの腕を拘束しているロープを解いた。攻撃を仕掛けてくる様子はない。 「ニコラ、こいつは俺が責任持って地下街に連れて行く」 「経過観察が必要だ、それは認められない」 「次に同じような症状が出たら殺すし、他の連中とは同じ場所におかねえよ。そもそもユーリが東側に降りてくる以前はずっと自分たちでなんとかしていたんだ。  どうする、ラカエル? こいつについて行くか、俺と一緒に地下街にくるか」  ラカエルはニコラを一瞥し、頷いた。 「連れて行ってくれ、チェリオ。軍部の世話にはならない」  いままでになく強い声だ。チェリオはよしと言ってニコラを見上げた。 「余計な報告すんじゃねえぞ。おまえはここでなにも見なかった。いいな?」  ニコラが観念した様子で頷いた。なにかできることはないか? と尋ねてくる。 「軍部の世話にはならねえっつったろ」 「俺個人として協力をしたい」  嘘のない真っ直ぐな目だ。なるほど、これにユーリはやられるのかと思う。チェリオはふんと鼻を鳴らして、両手を広げてみせた。 「ひとつだけ言っておく。軍部やピエタに渡すくらいなら、俺がユーリを殺す。おまえが……いや、ピエタや軍部の連中をひとりでも地下街内で見かけたら、ユーリを探して喉元を掻っ切ってやるからな」 「わかった、地下街には入らない」 「よし。それと、毎週火曜と金曜、夕暮れまでに約50人分の食料と処置道具を届けてくれ。簡易食でいい。わかっていると思うけど、生ものは要らねえ」  ニコラが怪訝そうに眉を顰めた。 「軍部には頼らないのでは?」 「さっきおまえが個人的に協力したいっつったじゃねえか」  そう言ってやると、ニコラはまた分かったと頷いた。 「チェリオ」  ラカエルを抱えて小屋をあとにしようとするチェリオに、ニコラが話しかけてくる。視線だけを向ける。 「ユーリのことを頼む」 「だから知らねえって、しつけえな」  そう吐き捨てたが、ニコラはきっと勘付いているだろう。それであえて突っ込んでこないのだと思う。ユーリはニコラのことを感情の機微がわからない鈍感だのなんだのと言っていたが、きっとそんなことはない。ただ口下手なだけで、そして真面目すぎてやることが裏目に出るだけで、おまけに金持ちだし囲われるにはもってこいじゃないかと考える。  なんだってユーリはニコラに囲われる選択肢を取らなかったのか。軍部に所属している自分と個人の自分とは違うような言い方をするくらいなのだから、ユーリが頼めばこっそり屋敷で飼うくらいのことはしてくれそうなのにとかんがえた。  ユーリにとって、それはただの逃げでしかなく、選択肢のひとつとして思い浮かびもしないだろう。自分がユーリの立場なら、色香を振り撒いてニコラに囲われる方がはるかに楽だと考えそうだけどと思いながら、チェリオはラカエルを連れて地下街に降りた。

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