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Eight(5)
地下の奥の秘密の抜け穴から辿り着けるギルスの回廊の最奥で、ユーリと共に見つけた薬草から、無事にパウーラ感染者およびベラ・ドンナ中毒者に有効な中和剤を作ることに成功した。
実際にパウーラに感染した可能性のある西側の住人に頼まれ実験したところ、熱に侵され精神に異常をきたしたのではないかと思う奇行が止まった。その丸薬を数日間服用させることで徐々に正気を取り戻し、自分の意思で動けるほどになるまで回復した。その様子を目の当たりにして、ユーリはホッとした表情をしていた。
北側のディエチ地区から動けるやつらをみな地下街に連れてきているが、こんな劣悪な環境で誰一人パウーラに感染していないということは、そう言うことなのだろう。ここにいるのは全員がユーリの実験に協力すると手を挙げた者ばかりだ。だからユーリが誹られる謂れはない。それなのに、ユーリはここのところ暗い顔ばかりしている。
暗い顔といえばそうかもしれないけれど、思いどおりに行かなくて少し不機嫌そうにも見える。
「大丈夫か?」
問いかけに対して、ユーリは表情を崩すことなく視線を向けてきた。
「疲れてんなら休むか? 経過観察なら俺が代わりに」
「特変があった場合に対処できるならな」
ぐうの音も出ない。うぐっと喉の奥で呻く俺に冷ややかな視線を向けていたが、ふいとそれを逸らして目の前で眠っている子どもに視線を落とした。
3日前に北側からこちらに投げ込まれた、重篤感染者だ。もう助からないと判断されたのだろう。北側に住む、下流層街と北側を繋ぐ門を警備する男の子どもだ。その男――レーヴェンはピエタでも軍部でもないが、北側随一の品行方正さでかなり買われていて、ことが起こらなければ下流層街に行けるのではないかと噂が広がっていた。
レーヴェンはガタイがよく上背もあるため、もしも子どもの症状が感染し、重篤感染者となった場合に取り返しがつかないと思われたのか、散々暴行されており、子どもと共に見つけた時には虫の息だった。いまは呼吸も落ち着いているが、予断を許さない状況だとユーリが言っていたのを思い出す。
「でも、休まないとおまえが倒れる。そしたら誰も対処できねえじゃん」
ユーリは面倒くさそうに眉間に皺を寄せて、前髪をくしゃりと揉んだ。
「ニコラかよ」
めんどくせえとあからさまに嫌そうな、いつもより更にトーンの低い声で吐き捨てる。おまけに舌打ちまでする始末だ。
「おっさんの方はなんかあったら鎮痛剤飲ませるのと、傷口はハーブオイルに浸したガーゼに血が滲んだら交換して対応すんだろ? んで、ガキのほうは3時間ごとに丸薬を飲ませる。もし唇の色が青白く変色して体に紫斑が浮かんできたら、息の根を止める」
一口に言ってやる。伊達にこの数ヶ月ユーリのそばで処置を見ていない。ユーリはふんと鼻で笑って流し目でこちらを見た。でもダメと表情を崩さずに言う。
「頑なに手伝わせないつもりかよ」
「あんたは医師免許持ってねえだろ。まあ、俺も大学を辞めた身だから剥奪されたも同然だけど、事が片付いたあとに医師免許もない、知識もない人間が治療したなんてバレたら、それこそ首が飛ぶぞ」
「街の法律がスラムで通用するかよ。おまえが診療所を作るまで、俺らはみんな自分たちで治療してきたんだ」
「知ってるよ。東側のデリテ街は北側やほかの地区と比較すると、平均寿命が著しく低いからな」
チェリオは舌打ちをして、簡易のベッドに腰を下ろしているユーリの頭から古びた毛布を掛けた。
「じゃあラカエルと一緒に見張りしてっから。なんかあったら起こす。いいから寝てろ」
おまえになんかあったら、ニコラに殺される。そう強い口調で言ってやる。毛布の中からユーリがくくっと笑う声がした。
「マージでニコラかっつの」
お節介にも程があると笑いながら言う。一頻り笑ったあと、ユーリは気の抜けたような声とともに大きく息を吐いた。
「2時間したら起こしてくれ。その間に何かあってもだ」
「了解」
言いながらユーリの頭を毛布越しにワシワシと撫でてやる。ユーリは無抵抗のままごろりと干し草を集めたうえにシーツを被せて作った簡易ベッドに横たわった。
――2時間が経った。そろそろ交代の時間だ。地下街の入り口を見張っているロレンが戻ってくる。時間だぞとユーリに声を掛ける。ううんと唸り声がひとつ。余程疲れていたのだろう。すうすうと寝息が続く。
子どもも、レーヴェンにも特に変わりはない様子だ。規則正しい呼吸が聞こえてくる。子どもに丸薬を飲ませるまであと1時間はある。もう少しユーリを寝かせておいてやれる。余計なことをするなと怒られるかもしれないが、ここ最近ユーリは毎日2時間も寝ていないのだ。
「父親のほうも問題ない。もう少しユーリを寝かせておいてやれ」
ラカエルが言う。そのつもりだと伝えると、ラカエルは湯を沸かしに歩いて行った。
「彼は俺の時もこの調子だったのか?」
チェリオは頷いた。尤もラカエルの場合はもっと軽症だったこともあり、こんなに深刻そうではなかったと告げる。
「俺は医者じゃないが、基礎的な知識はある。本来ならもう助からないだろうレーヴェンを、彼は自分のなかにある罪悪感を拭うためにどうしても救いたいのでは?」
「罪悪感?」
「前に、重症者に関しては、申し訳ないがとどめを刺すしかなかった……と言っていたよな?
彼は多くの仲間を収容所で亡くしてきただろうと思う。想像することしかできないが、おそらくは想像よりもはるかに過酷で、辛い思い出だろう。
研究医であるうえに、この騒動の発端を作ったのは自分だという責任感と罪悪感がある。だから余計にでも状況の改善を図りたいと感じているけれど、それは収容所での出来事と似ているのではないかと思ったんだ。彼は最近ほとんど寝ていないのでは? 2週間くらい前か、うたた寝している間、夢に魘されているのをみた」
ラカエルはそう言って、ユーリを見やった。
「彼らの処置が済んだら、いまから入れるお茶に安眠効果のある薬果を混ぜる」
「えっ? 気付かないか?」
「レイシー紅茶だから安全だよ。以前にも飲ませたことがあるし、気に入っていたみたいだ」
「ユーリの“アレ”、やっぱり異常に映る?」
アレとは、夢で魘されているような症状のことだ。ラカエルは「普通を装ってはいるけど、よほどなにか嫌な出来事があったんだろうな」と継ぐ。チェリオはそうかと言うだけにとどめた。
「戻ったぞ、チェリオ。こちらは異常ない」
ロレンの声がした。二コラが置いて行ったのであろう荷物を持っている。チェリオはそれを受け取り、貯蔵庫付近に置いた。
「外の様子は?」
「風が強いせいか、今日はやたらと奴らを見た。一応東側と北側の堺まで見に行ってみたが、軍部もピエタも一人も見かけなかったぞ」
「交代の時間でもないのにと」、チェリオ。そういえば一昨日くらいに見張りに行った際に通信を傍受したが、風速何メートル以上の日は外に出るなとお達しがあったのを思い出す。風が強いとウイルスが蔓延しやすいとも言っていた気がするが、ユーリに言ったら鼻で笑っていた。
地下街に潜伏すると決めたとき、チェリオは軍部とピエタの無線を傍受するために付近を捜索して回ったが、最初に睨んだとおり、特に西側に近い場所の子局がいくつも破壊されていた。それをつなげるとバレるため、壁をよじ登ってその上をキルシェの店から持ってきた銅線でいくつもの簡易の子局を作った。
さすがに壁の上までは誰も登れまいと笑っていると、キルシェやファリスから「山猿がいるぞ」と冗談で石を投げられたのを思い出す。だから嫌がらせで傍受装置は自分用しか作らなかった。北側の親局ではなく、子局に繋いでいるせいで受信レベルは低いし雑音も入るが、なにも情報がないよりマシだ。
「じゃあ今日は入り口を封鎖して、各自ゆっくりするか。ピエタや軍部が近くにいねえなら、入り口を見張る理由もねえしな」
「スパッツァが穴から入ってくる可能性は?」
「ゼロじゃねえけど、こんなところまで下りてこられねえだろ。来てもこれだけの人数がいるんだ、よっぽどのゴリラ以外楽勝じゃね?」
軽い口調でチェリオが言う。ロレンがファリスに「穴を塞ぎに行くぞ」と声をかけ、ふたりが上がっていく。階段を上がりかけて、ファリスがチェリオに声をかけてきた。
「軍部もピエタもいなかったが、下部組織の奴らがウロチョロしていたぞ」
どうする? と、ファリス。
「地下街を探っている感じがなければ放っといていい」
「ファリス、てめえキルシェと一緒に感染者のふりして襲って来いよ」
ふと思いついたようにロレンが言った。
「それがいい。デカブツふたりに襲われちゃ、下部組織の奴らなんざ逃げらぁな」
悪ノリしてネイロも言う。ふざけんなとファリスがネイロの首に腕を回して首を絞めた。
「あいつら獲物持ってんだぞ、撃たれちまうじゃねえか」
「てめえは撃たれても死なねえだろ、百戦錬磨。ほら、離してやれ」
首が折れるとファリスの腕を叩くと、ファリスはネイロを解放して勢いよく頭を叩いた。
「オラ、ヤニカス。てめえいい加減にしねえと上に張り付けて奴らの餌にすんぞ」
「なんで俺に当たるんだよっ。一応見張りしてんだから文句ねえだろ」
怪我人に気を遣えとネイロが喚く。ユーリがネイロの義足の型をとり、実際にそれを作ったのはチェリオだ。最初は痛みに情けない声をあげていたけれど、徐々に慣れてきたのか最近では時々こうやって見張りに出るようになった。
「うるせえって。ユーリもおっさんたちも寝てんだから、静かにしろよ」
ロレンが行くぞとファリスに声をかける。ふたりが階段を上っていく背中を見届けて隔離部屋にはいろうとしたとき、ネイロと目が合った。ネイロはすうと目を細めて、足をポンポンと叩く。
「俺ぁ釣りに行ってくるぞ、チェリオ。ダニオが見つけた穴場、マジで釣れんだよ」
「今日はどっちが釣れるか賭けてんだ」と笑ったあとで、嫌に真剣な声色でチェリオを呼び、顔を寄せて耳打ちをした。
「下層に置いている女たちとガキども、念のために中層の広場の奥に集めとけ。あのふたりは楽観視していやがるが、ピエタの下部組織は手練れだぞ」
「どういうこと?」
「念のためっつったろ。ロッカが向こうに尻尾を振っていやがるとしたら、下層はもしかするとバレちまうかもしれねえが、中層のあそこは道知らねえと降りてこられねえし、その道は見張りが終わったら塞いじまうからまだ安全だと思う」
「オッケィ、あとでダニオに伝えといてくれ」
「俺が賭けに勝ってむくれてっかもしれねえけどな」
ひひひと笑いながらネイロが下りていく。こんなところでまで賭けをすんなと思ったけれど、案外みんなここの生活に慣れて、娯楽まで見つけているらしい。「たくましいったらねえわ」とぼやいて、チェリオは隔離部屋に入ってユーリの元に行き、体を揺すった。
「ほーら、起きろって。時間だぞ」
うーんと言ってユーリがようやく目を覚ます。目を擦り、ぼんやりとした表情のままでのそのそと体を起こす。
ユーリはふらふらしながらレーヴェンと子どものところに向かい、本当にさっきまで眠そうにしていたのかと思うほどてきぱきと動く。子どもの様子を見た後で、レーヴェンにも鎮痛剤以外の丸薬を口に含ませる。「これが効いてくれるといいんだけど」と言って、チェリオが拾ってきた時計を眺める。最初と比較するとかなり顔色はよくなっているが、重症患者に変わりはない。
約一時間が経過した。子どもに丸薬を飲ませる時間だ。ユーリは傍でレーヴェンの様子を見ていたが、さして変わりがない様子を見届けて、子どものもとに向かう。ベッド脇の棚に置いている手袋をはめ、薬瓶から薬匙で丸薬を取り出して、それをつまんで子どもの口に押し込んだ。嚥下する。眠ったままだけれど、呼吸の音は最初よりもかなりしっかりしてきている。
「重症患者にこれが効かなかったら、別の手を模索するしかないか」
言いながら、ユーリがもう一度レーヴェンの元に向かう。うん? と声がしたかと思うと、ユーリの驚いたような声がした。
慌ててユーリのほうを見ると、レーヴェンがユーリの腕を掴んでいた。ユーリはレーヴェンの目の前に手を翳して軽く手を動かす。
「わかるか? ここは地下街のなかだ」
レーヴェンは唸り声をあげるだけだ。ユーリになにかを仕掛けるそぶりもない。口元が動く。ユーリがそれを真剣な顔で見ている。『ベニーは?』とかすかに言った。
「あんたの子どもの名前か? 隣のベッドにいる。まだ眠っているし、正直どうなるかわからないけど、最善を尽くす」
レーヴェンが微かに頷いた。「助けてやってくれ」と口元が動く。
「そのつもりだ。ひとつだけ、試したいことがある。了承してもらえるか?」
レーヴェンの目に生気が宿ったように見えた。ユーリは微かに頷いたのを了承と受け取り、ありがとうと継いだ。薬品箱の中から、一本だけスポイド瓶の口を麻縄で縛ったものがある。それはなにかと思っていたが、ユーリはそれを取り出した。シリコンキャップを押して中の液体をガラススポイドに吸引し、それをベニーの舌下に落とす。レーヴェンにも口を開けるよう指示し、彼には二度液体を含ませた。
「それ、なんだ?」
「つか、いつ作ったんだ?」と問う。ユーリは「秘密」と言って、スポイド瓶を閉じて薬品箱に戻す。ユーリは緊張をほぐすかのように身体を伸ばしてうーんと声を出した。やけに色っぽい声だ。
「ダメだ、眠い。一服盛られたあとのように眠い」
反射的にラカエルを見るが、俺じゃないと言いたげに小さく首を横に振る。ユーリはふらふらしながら顔を洗ってくると言って隔離部屋を出ていった。
「今朝飲んでいたやつも、それとおなじ効果のもの?」
「いや、たぶん普通の紅茶だったと思うけど。でも、ユーリに手渡したのはネイロだったよな?」
さすがにネイロはないだろうと言いかけて、チェリオはいままで幾度かネイロが不自然な行動をとっていたことを思い出す。
あいつは情報屋だ。ファリスもそうだけど悪いことにはいやに頭が回る。そしてふたりともユーリのことがお気に入りで、ネイロはともかく、ファリスは隙あらばユーリを抱こうとしている。もしこの二人が結託していたとしたら、――。
「ファリスがいい加減に焦れてユーリのケツ狙ってたりする?」
たまに考えなしなことするからな、あいつはと言って、ユーリを捜しに行こうとすると、向こうからふらふらと戻ってくるのが見えた。あー、眠いと低い声で言いながらさっきまで仮眠をとっていたベッドに全身で突っ伏す。経過観察しないとと言い終えるよりも早く寝息が聞こえてきた。さすがにこの体勢では窒息すると思い、ユーリを抱き起して仰向けにさせた。
「っとに、限界まで仕事すんなっつの」
「そうすることで自分の精神を保っているのでは? 先ほど丸薬を飲ませたことだし、レーヴェンも子どももよく観察して、なにかがあったらユーリを起こそう」
冷静にラカエルが言う。ラカエルはユーリが眠っていることを確認して、ユーリの薬品箱を開いた。そりゃダメだろと突っ込んだが、ラカエルは興味ないか? とチェリオに言う。そりゃあ興味あるけどと恨めしげに言うが、ユーリの怒りを買いたくはない。チェリオをよそに、ラカエルは薬品箱から麻縄が巻き付けられたスポイド瓶を取り出した。キャップを開けて中の液体を嗅ぐ。
「キャリアオイルか」
ぼそりと呟いて、手の甲に一滴落とし、それを舐める。チェリオは呆れた表情を浮かべた。「学者連中はなんでも口にする習性があるのか」と嫌そうに言う。それを少し味わったあとで、ラカエルはわからんと首を傾げた。
「キャリアオイルになにかの薬草を入れて過熱し、成分を抽出させる方法がある。オイルだけの舌触りではないから、ユーリがよく使うイェルナかなにかの粉末を細粒にして加えているのだと思う」
それはもしかして、あの古びた教会があったところに咲いていた「お宝3号」のことだろうかと内心する。あれを見つけた時にユーリは嬉しそうだったし、頭の中でいくつもの手を考えているのだろう。ユーリがくれた薬草図鑑には記載がなかったから、本当に偶然見つかったのだと思う。そして現状でできる最終手段がこれだとも言っていた。これを試しても重症患者を救うことができなければ、どうするつもりなのだろうか。
ラカエルは薬品箱にスポイド瓶を戻して、すうすうと寝息を立てて眠っているユーリを見やった。
「イル・セーラは自然に関する知識がすごいと聞いていたが、ここまでとは。さすがに俺が薬草学の本を書いた20年以上前よりも諸々進化しているとはいえ、通常は女性のマッサージやフレグランスに用いるキャリアオイルを、まさか治療用に転用しようとするとは、考えが及ばなかった」
そりゃあ貴族が挙って欲しがるわけだと、ラカエル。チェリオはその言葉を聞き逃さなかった。
「おまえもユーリを捕獲する依頼を受けたりしたのか?」
「話は来たけど、断ったよ。さすがに西側から東側のディエチ地区まで一人で来る勇気はないし、彼を捕獲しても俺にはなんのメリットもない。好きなだけ犯せばいいとは言われたけど、殺された息子と近い年齢の子を抱けと言われても」
言って、苦い顔をする。当然だとおもう。ラカエルは昔中流階層街に住んでいたらしいし、そもそもが妻子持ちだったのだから、男を買うだの男を抱くだの理解ができないだろう。むしろ嫌悪感を懐くタイプだ。もしかするとユーリは、ラカエルが自分に色目を使ってこないのを見抜いていて、それで妙に懐いているのではないのだろうか。
ユーリがうーんと唸る。ごろりと横を向いて、猫のように伸びをする。少し呼吸が早い気がする。そう思ったのは間違いではなかったらしく、呼気に混じってかすかに喘いでいるのが耳に届いた。「いちいち仕草や声がエロい野郎だな」と吐き捨てて、ユーリの腰を蹴った。
「おい、喘ぐなら起きろっ。チェリオジュニアの情操教育に悪いっ」
がすがすと続けざまに蹴ってやる。ユーリがまたううんと呻いて、そうかと思うとがばっと体を起こした。
「うおっ」
「そうだ、経過観察」
落ちてたと自分の両頬を叩いて、乾草のベッドから降りて二人に近付く。ベニーはよく眠っている。ユーリがホッとしたような表情を浮かべた。レーヴェンが小声でなにかをユーリに言っている。ユーリははにかむように笑ってこちらこそと返す。品行方正なレーヴェンのことだ。自分とベニーを助けてくれたことに、改めて礼を言ったのだろうと推測する。
ベニーの様子を観察したあと、ユーリはようやくいつもの表情に戻った。傷の痛みに耐えながら、レーヴェンがゆっくりと体を起こす。ベニーのほうへと視線をやり、安堵したような顔をした。
「唇の色も、口の中の色も、肌色も、だいぶ戻ってきた。紫斑もいまのところない。あとは意識が戻るのを待つのみ」
「薬は継続したほうがいい?」
「ちょっとこのままで様子見するか。あまり乱用するのもよくないんだ。まだ子どもだし、大人ほど臓器がしっかりしていないから、却って負担をかけるかもしれない」
「じゃあきみは休むんだ。こっちは俺とチェリオがなんとかするよ。いままでの様子から言っても、ここまで顔色が戻ればあとは何事かあってもいつもの丸薬でなんとかなるだろう」
ユーリはでもと否定的だったが、チェリオとラカエルが同時に「休め」と強い口調で言う。ユーリは「じゃあお言葉に甘えて」と言って、レーヴェンに軽く頭を下げてから仮眠用のベッドに戻っていった。
***
あれから一週間ほど経過した。レーヴェンはなんとか自力で動けるようになり、ベニーも意識が戻った。少し混濁している部分もあるが、このまま様子を見ながら治療をすれば問題ないとユーリが言った。
入り口を降りてくる足音がした。そろそろロレンが戻ってくる時間だ。
「こっちは何事もない。そっちは?」
「ユーリが疲れて眠りこけてるくらい。ほかに変わりねえよ」
ロレンが「マジで寝穢いな」と揶揄するように言って広場に近付いてくる。
「どうせ昨日夜更かしでもしてたんだろ」
「残念ながら昨日はレーヴェンとベニーの観察を終えた後で寝落ちした。で、二時間くらい前までは起きてたけど、吸い寄せられるようにベッドに向かっていった」
今日のユーリはいつもよりも無防備だ。寝返りを打ったせいか少し腹が覗いているし、チェリオがユーリに悪戯をしたときに履いていたオーバーサイズのジョガーパンツだ。腹部が覗いているのを見て、ふと気付く。
あのときはそうも思わなかったけれど、ウエストの部分がかなりぶかぶかだ。この潜伏生活でかなり痩せたんじゃないかと思ったのは間違いではなかったらしい。すうすうと穏やかな寝息が聞こえるのを横目に見て、ロレンがふんと鼻を鳴らした。
「一番あぶねえ狼がすぐ横にいるってのに、無防備なもんだ」
「はっ? 俺のことかよっ?」
「他に誰がいるんだ?」
そう言われてはぐうの音も出ない。たしかになかなか起きないユーリに如何わしい悪戯をしたことはあるが、あのときはまだロレンたちはここにいなかった。
「オラ、おまえのせいで妙な疑い掛けられただろうが、起きろ、犯すぞっ」
わざとユーリの胸倉をつかみ、揺すりながら言ってやる。間違いなく狼だろうがとロレンが笑いながら言う。ふいにチェリオは強烈な違和感を抱いた。ロレンの声に混じって別の音がする。チェリオは耳を澄まし、やはり別の足音がすることを確認して、ユーリをベッドから引きずり下ろした。
「おい」
ロレンが慌てたようにチェリオを呼ぼうとしたが、静かにするようジェスチャーをする。引きずり降ろされてもユーリは起きる気配がない。「だから悪戯されるんだぞ」とユーリの頬を軽くたたいたが、無防備に眠っている。このままここに転がしておこう。チェリオがなにか武器になるものを探して辺りを見回した時、微かに金属音がした。
今度はかちりと不気味な音がハッキリと聞こえた。
次に聞こえたのは銃声だった。奥にいた子どもたちから悲鳴が上がる。その音に流石のユーリも目が覚めたらしく、音がしたほうを鋭く睨んだ。
ロレンが反射的に振り向いた瞬間、ロレンの鼻先に銃口が突き付けられる。目の前の人物を刺激しないためか、ロレンがゆっくりとホールドアップして見せた。
岩場から覗く制服は見覚えのないものだ。ピエタのものでも、軍部のものでもない。上質そうな生地の袖口には金色のボタンが3つ付いている。そんなデザインの制服を着る部隊があっただろうかとチェリオは訝しく思った。ネイロが言っていた、ピエタの下部組織なのだろうか。
「誰だよ、てめえは」
ロレンが即座に首を横に振る。相手の指がハンドガンのトリガーにかかるのが見えた。口を挟むなと言いたいのだろう。
「ここにいるのは全員東側の生き残りだ。てめえがなにを探して付いてきたのかは知らねえが、俺らを殺してもなんの得にもならねえぞ」
「それはこちらが判断することだ。中層部の遺体はおまえたちの仕業か?」
冷徹な声に鋭さが加わる。そこに安置された遺体はピエタにリンチされて殺され、地下街に放り込まれた奴らの遺体と、処置の甲斐なく亡くなった人たちの遺体だ。ユーリが懸命に手を尽くした。けれどダメだった。中和剤があれば違ったかもしれないが、あの時はどうすることもできなかったのだ。
「だったらなんだ」
チェリオが吠えた途端、もう一度銃声がした。男たちが下りてくるほうから、唸るような悲鳴が聞こえる。やはりもう一人いたらしい。銃声を聞きつけたからか、奥からキルシェとファリスが出てきた。ロレンが下がっていろと手で合図をする。その間もロレンの鼻先に突きつけられた銃口も微動だにしない。トリガーを引けばいつでも殺せると言わんばかりだ。軍人上がりのロレンが気配すら察せないなんて、普通ではない。彼らは特殊部隊かなにかではないかと判断する。だとすると無駄に抵抗をすると死人が出かねない。
「聞かれたことにだけ答えろ。中層部の遺体は誰の仕業だ?」
小声でユーリに「逃げろ」と告げようとした。けれどユーリはチェリオの腕を引き、すっくと立ち上がった。
「俺だ」
バカかとチェリオが非難する。
「俺が処置をしたが、手遅れだった。事が済んだら軍部に検視を依頼するつもりでいた。嘘じゃない」
ロレンがホールドアップしたままじりじりと後退りするのに合わせ、相手は隙を作ることなく距離を詰める。凹凸の激しい岩場が入り組んでいるせいで見えなかったが、ロレンに銃口を突きつけていたのはイル・セーラだった。ユーリが目を見張る。チェリオも驚いた。髪の色は金髪だけれど、顔がユーリそっくりなのだ。その姿を見たせいか、どよめきが起きる。
「軍部の後ろ盾を無くしたおまえが、どのようにして軍部に検視を依頼することができる? 軍部に内通者がいるのなら話は別だが」
ユーリが舌打ちをして、苛立ったようにそのイル・セーラを睨んだ。チェリオが武器を構えたからだろう。今度はこちらに銃口が向けられる。
「武器は捨てとけ。おまえらは勘違いしているが、オレガノ軍は平和ボケしているんじゃなくて、有事以外は爪を隠す主義なんだ。少しでも動いたら殺す」
別のイル・セーラが居丈高に言う。ユーリそっくりのイル・セーラとおなじく金髪で、かなり髪が短い。二コラと大差ないくらいの長身で、威圧感がすごいうえに隙が無い。すぐにやばいと察した。こいつはロレンに銃口を向けているやつよりも鋭い殺気だ。男がユーリにこちらに来るように指示する。ユーリが素直に応じると、両手を後ろ手に縛りあげた後でユーリの後頭部に拳銃を押し付けた。
「こいつらはどうします?」
ロレンに銃口を突き付けている男に向けて、そいつが言う。男はロレンの鼻先から銃口を引き、顎をしゃくって下がるよう指示をする。
「抵抗するそぶりを見せたら殺していい」
ロレンがホールドアップをしたまま後ずさりでチェリオの元に戻ってくる。
「物資の無駄遣いをしたくはない。死にたくなければ抵抗をしないように」
短髪のイル・セーラが言う。ユーリの後頭部に押し付けた拳銃を下ろそうとはせず、逃げる隙すら与えない。
そもそもこの男はどこから付けてきていたのか。尾行され慣れているはずのロレンでも気付かないなんて、相当の手練れだ。ユーリと同じ顔の男は、ユーリとは纏う雰囲気がまったく違う。冷徹で、殺しも厭わないオーラがひしひしと伝わってくる。
「ユーリはなんも悪くねえ、全部俺たちが望んだことだ」
イル・セーラに告げる。だが男は表情ひとつ崩さない。
「やめとけ、チェリオ」
緊張に掠れた声で、ユーリ。
「大人しくあんたらに従う。だからチェリオたちには手を出さないでほしい。俺は彼らのおかげで生き延びられた」
「ユーリ!」
「ミカエラ、あんたには貸しがある。自分の体のことは、自分が一番よくわかっているのでは?」
ユーリがそこまで言ったときだ。男が拳銃の安全装置を解除する音が不気味に響く。止めようにも男には隙がなさすぎる。一か八かで男に飛びかかろうとした時だ。小気味良い銃声が3発こだまする。岩場の向こうで別の男たちの悲鳴が聞こえた。
「弁解は地上でするんだな、Sig.オルヴェ」
岩場のほうへと視線をやって、チェリオは「はあっ!?」と大声を上げた。ピエタの下部組織の制服を着た男が三人、倒れていたのだ。
「なんでこんなところにピエタが!?」
チェリオが思い切り背中を向けたが、イル・セーラが撃ってくる気配はない。
「中腹からこちらの岩場に上がってくることができると手引きした者がいる。彼は口封じに撃たれたようだが、致命傷は負っていない」
ユーリと同じ顔の男――ミカエラは端的にそう言うと、後ろ手に縛ったロープを引いてユーリを連行しようとする。すぐさまもう一人の男がチェリオの腕を掴んだ。
「おまえも連れてくるよう命令を受けている」
「はっ、なんで俺が!?」
「ユーリ・オルヴェの誘拐及び殺人ほう助だ。ああ、おまえらも一緒に死にたきゃ逆らってもいいぞ。どうせこいつらは処刑だからな」
真顔ならまだしも、いつでも殺せるとでもいうような不気味な笑みを浮かべ、男が言う。チェリオがこのまま飛び掛かってきても仕留められるとでも言わんばかりの余裕さで、後ろに控えていたであろう隊員たちにこっちこっちと手を振る。
「あの少年は?」
「別動隊に中継地点まで運ばせました。あの遺体はどうします?」
「ちゃんと死んでいるか確かめてから言えよ。急所は外している。上に連れて帰って誰に指示をされたのかを吐かせろ。くれぐれも顔は見られないように」
男が指示をすると、もう一人のイル・セーラが仲間を呼び、呻き声をあげる三人を抱えて出入り口へと向かっていく。男は下部組織の男たちが登ってきたと思われる崖を覗き込んで、口笛を吹いた。
「どこの部隊にも命知らずがいるもんだ」
言いながら、後ろからチェリオが攻撃を仕掛けようとしていたのを見抜いていたかのように、顔をこちらに向けもせずに足を払われた。背中から地面に叩きつけられ、反動で後頭部を強かに打ち付けた。
大袈裟に痛がるチェリオの首根っこを掴んで体を引きずり起こすと、男はそのままチェリオを引きずって連れて行こうとする。ユーリが手を出すなと言ったことを思い出したのか、男は軽く肩を竦めて「手を出されそうになったから、反射的に」と何食わぬ顔で言ってのけた。
「連行するのはふたりだけでいい」
端的にミカエラが言い、ユーリに先に進むよう背中を押す。
周りにいるオレガノの兵士たちはミカエラを守るためかハンドガンを構えてはいるものの、殺気がない。
ユーリは心配そうにしているロレンたちに視線を送り、小さく首を横に振った。手を出すなということだ。
「おまえたちが手を出さなければ、危害を加えはしない。死にたくなければそうしていろ」
「なにが目的か知らないけど、彼らに手を出したら俺は一切なにも喋らないぞ。舌噛み切って死んでやる」
「そうなれば彼らも道連れにするまで」
まるで隙がない。イル・セーラの文化的に自死は御法度だといつかユーリが言っていた。どうせそんなことをする訳がないと思っているのだろう。
「冗談で言っている訳じゃないぞ」
そう言ったら、ミカエラは溜息をついて後ろにいる部下に合図をした。すぐさま別のイル・セーラがユーリの口元を塞いだ。
「少し黙っていろ」
威嚇でもするかのように低い声で言ってのけ、ミカエラはチェリオを先に歩かせて地下街の外まで案内させるつもりのようだ。チェリオの後ろにもハンドガンを構えた兵士が、そしてユーリにハンドガンを突きつけているのはミカエラだ。逃げようがない。そしてなによりチェリオについている男はミカエラよりも隙がない。殺気の塊とでもいうような異質さを感じる。大人しくついて行ったほうが身のためだと思い、抵抗はしなかった。
後ろからレーヴェンの声がする。振り返るとミカエラがユーリの背中に銃口を強く押しつけていた。さっさと歩けとでも言いたいのだろうか。
「ちょっと待ってくれ、チェリオもユーリもなにもしていない! 俺たちを助けて……」
銃声がした。悲鳴も続く。硝煙のにおいだけだ。血のにおいはしない。さっきもそうだったが、本当に当てるつもりはないのかと思ったが、遠くで悲鳴のようなものが聞こえた。さすがに気配だけで人を撃てるなんざ、並みの技術ではないことくらい、チェリオにもわかる。
「おまえら、マジで抵抗すんなよ」
チェリオが大声で言う。
「せっかく助かったんだ、誰が無駄にするかい。ガキどもとレーヴェンたちは任せな、なにかしようってんなら、喉元に食らいついてぶっ殺してやる」
イデアの声がした。
「おう、おめえら! もし二人になにかしやがったら、北側ごと街を火の海にしてやっからな!」
ファリスがドスの聞いた声で吠える。獅子の咆哮のような迫力に、さすがにオレガノの兵士たちもどよめいた。ミカエラと、チェリオの後ろにいる男だけは、まったく動じる様子がないが。
「ばっかお前ら、挑発もすんなっつの」
「冗談じゃねえからな、俺もキルシェも昔は特殊部隊にいたんだ、材料さえありゃ爆薬造るなんざ造作もねえ!」
「やーめろっつの、こっちがあぶねえだろうが、脳筋野郎!」
チェリオが笑いながら言う。まったく緊張感のない。ユーリも「しょうがねえな」と笑っている。緊張感などないが、デリテ街の連中は昔からこうだ。いつのまにかイオやイギンが流れてきて変わってしまったが、こうやって助け合って生きてきていたことを思い出す。
ミカエラの視線が刺さる。早く連れて行けとばかりに視線で合図をする。チェリオの後ろにいた男が早く歩けと言わんばかりに引っ張ってくる。ミカエラの表情は無表情すぎて読めないが、ここまで踏み込んできたことから察するに、覚悟を決めておいた方がいいかもしれない。チェリオは観念したように男たちに連行されることにした。
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