48 / 108

Eight(4)

「ほら、コレコレ」  何食わぬ顔でエルネストが例の薬草のところまで案内してくれたが、ユーリは最早放心状態だった。腰が抜けて立てないせいで、さっきからずっとロレンに抱きかかえられている。屈辱すぎると唸りながら、思い出しただけで溢れてくる涙を拭う。 「ユーリ、そんなんじゃ地下街で生きていけねえぞ」  エルネストが悪びれもせずに、頭の後ろで手を組みながら言ってくる。 「奥の部屋に閉じこもっておくからいい」  まだ声が震えている。こりゃ重症だなとロレンが呟いて、ぽんぽんと頭を叩かれた。 「でもまあ、でけえ声出してちっとは気が晴れたろ? みんなおまえが沈んでいるから、口には出さねえけど心配していたんだ」 「それは素直にありがたいけど、アレはないっ」  マジで怖かったと言いながら鼻を啜る。もう絶対やだと文句を言ったら、ロレンもまたやめとこうと苦い顔をした。 「鼓膜が裂けるかと思ったぞ。案外カワイイ悲鳴でおもしろかったが」  クックッと笑いながらも、エルネストがいる水場までロレンが歩いていく。成人男性一人抱えているのに、まったく重さを感じないと言わんばかりに、天井から染み出てくる水に打たれて形が変わってできた、天然の足場のようになっている場所をひょいひょいとわたっていく。 「おう、兄ちゃん。来たか」  ネイロがにいっと笑う。 「いい悲鳴あげてたじゃねえか、しかも、腰抜かしたって? かわいいねえ」 「うるせえっ、嫌だって言ってるもんを強要するなんざ、ただの拷問じゃねえか!」  もうみんな嫌いと言いながらロレンにしがみ付く。エルネストが不満げな声を上げた。 「いいなー、アレって俺らからしたらクソ楽しい遊びなんだぞ。危ないから、ロレンがいるときにしかやらせてもらえねえの」  遊び? あれが? 不信感満載の視線をエルネストに向ける。 「じゃれてねえで、こっちこい。あそこの薬草があんだろ、あのなかに取り逃してケガァさせちまった魚が入ったんだがな」  ネイロが水底からしっかりとした根を付けていて、水面からも20cmちかく顔を出しているものの根元を指さす。足元に落ちている小石をそこ目掛けて軽く投げつけると、そこから小さな魚が顔を出した。怪我をさせたと言っていたが、確かに背びれ付近から血が出ているのだけれど、魚が泳ぎまわるたびに水の中に筋を引いていた血が、そのうちに消えた。目を瞬かせるユーリを見上げ、ネイロが「な?」と満足げに笑みを深める。 「それと、ほれ」  見せてみなと、ネイロが先日復活した西側の男に声をかける。男は足にひどい傷を負っていて、痣と痕が残ることは覚悟したほうがいいと伝えていたが、その痣が薄くなっているのに気付いた。  きょとんとする。 「しかも、痛みも引いたんだ。ここを探り当てたのは偶然なんだが、あんたが薬草が欲しいって言っていたろ。だから子どもらに頼んで、釣りがてら捜索をしていたら」  ユーリは湖と男の痣とを交互に何度も見た。確かに痣が薄くなっている上に、確かこの場所はユーリが持っている懐中時計のレリーフを押し付けて回った場所だ。さっきの場所からは上から直接来るか、長い階段を下りてくるかしかできない。そのほかに道がないかと探したけれど、どこにも通じていなかったところだ。 「ここの水って、冷たい?」 「いや、さほどでもねえな」  ちょっと下ろしてと言って、水場の縁にしゃがみ込んで手をつけてみる。生ぬるい程度だ。少し手で掬ってにおいを嗅いでみるけれど、生くささもない。ふとネイロが水の中に足を浸けているのに気付いた。 「こっちは風呂みたいになってんだ。ちゃんと水が循環していて、汚くもなさそうだぞ」  そう言われて、きちんと整備された浴槽の中を見てみる。いつも自分がいるところにある浴槽に使用されている石と少し似ているけれど、違う。 「いっそ浸けてみるか」  ぼそりと呟いたあと、大声でラカエルを呼んだ。 「ねえ、上からディエチ地区の動ける人連れてきて!」  そう言ったら、上から「キルシェが連れて行ったよ」とラカエルの暢気な声が聞こえてきた。数分ののちに、キルシェがディエチ地区の人を連れてくる。少し前に回復した男が、心配そうな表情で見ているのを横目に、まずは彼の足を浴槽につけるように指示した。ネイロがひょこひょこと移動して、楽しそうに目を細める。 「今日の夕飯は俺の好物で決まりだな」  ネイロの好物には大体トマトが使ってある。ユーリは恨めしそうにネイロを見て、どいつもこいつもと唇を尖らせた。 ***  最下層の冷泉は、なかなかの効果だった。ラカエルが言っていたように、石を粉末状にして飲ませることはできなくても、石の成分が流出した水につけたり、その近辺で育った薬草を使えばある程度の症状は改善する。  ふとロレンが言っていたことを思い出す。イギンが地下街を火の海にしようとしていたのは、本当に偶然だったのだろうか。誰かからここの可能性や、なにかの噂を聞いて、それを潰そうとしたのではないか。チェリオを殺すだけなら、地下街ごと焼き払う必要がない。ここを住めないようにして、ここの奥にあるなにかを探していたのだとしたら、――。  考えても埒が明かないけれど、まったくの無関係ではなかったのではないかと思う。さすがに冷泉があることや、温泉があることは知らなかっただろうと思う。あとでもう一度エルネストたちに見回ってもらったけれど、あのレリーフを押し付けて岩を動かさなければどこからもあそこには入ることができない。中腹の広場がある場所の対岸からは死角になっていて、そもそもが見えないようになっている場所だ。古代イル・セーラが作った場所だと思うほかない。彼らは常に自然と共に生きてきて、持っていた知識もいまのイル・セーラとは段違いだ。  そういえば、フォルスにもいくつかの水場があった。なにも聞いていないけれど、たしかにあの冷泉の石と似ていたし、家にあった風呂の浴槽は、温泉のものと酷似している。でも、それでもアマーリは病気で亡くなったと聞いているし、自分は子どもの頃に風邪を拗らせて死にかけたとサシャが言っていた。本当にあの温泉と冷泉が解毒や感染症に効果があるのだとしたら、そうはならなかったのではないかという疑念すら浮かぶ。  そこまで考えて、やめた。そもそもの規模が違うのだ。地下街一帯にシャムスやシャラ(輝鉱石)が埋まっている。市街から遠く離れた場所の薬効と、ここの薬効が同じわけがない。フォルスにとらわれすぎていると自分を叱咤して、あのディエチ地区の人たちの経過を記録に残した。  紫斑は数日で消えた。効果を診たかったからその数日間は敢えて冷泉だけで様子を見たが、それでも肺雑は消え、土気色だった顔色も回復した。その後は、さすがに生水を飲ませる勇気はなかったから、煮沸したうえでその水と併せてオット地区の未開発域で採ってきた薬草で作った丸薬を飲ませて様子見をしたところ、当たった。どちらかといえば重篤患者に近かったけれど、手の痺れと足の痺れ以外はほぼ回復しているのだ。  問題は手の痺れが残る人が多いこと。これはアルマの感染によるものではなく、どちらかというと長期間薬物に暴露していたことで起きるものだ。自然に消えればいいけれど、そうでない場合もあるから、それに適合するものを探す必要がある。  いまから探すのは時間がかかるから、同時進行でいくしかない。チェリオも言っていたが、地下街の中なら治外法権。地上に出てから使用することができなくても、ある程度の目星はついた。 「さァて、反撃開始と行きますか」  俺を怒らせたことを後悔しろと不敵に微笑んで、諸々と纏めていたノートをばんと乱暴に閉じた。  いつも自分がいる場所から、ネイロがよく釣りをしている周辺までは10分少々かかる。今日は見張りではないから、きっと釣りをしているはずだ。階段を降り切って、奥を見やる。やはりあの冷泉付近にいた。木の切れ端を石でごりごりと削っている。足音を立てないようにそっと後ろから近付いて、覗き込む。集中しているのか、ネイロは気付かなかった。書いている内容を見て、ふうんと含み笑いをしたところで、ネイロが慌てたように振り返った。 「うおっ!?」 「ネイロー、ずいぶん集中していたみたいじゃん」  それはなにかな? と告げると、ネイロが舌打ちをした。 「なんでもねえよ。それより、上の連中はどうなんだ?」 「どうって?」 「回復したかって聞いてんだよ」  ユーリがにいっと笑って片眉を跳ね上げる。 「フォルスってさァ、海がないんだよね。川も湖も、森もあるけど、海だけはない。少し遠くに出ないと見えないし、子どもだけで行っちゃダメって言われていたから、見たことがないんだ。  だから、海に関するあこがれが強くて、専門職しか使わないような知識とかも、わりと持っていたりするんだよね」  それ、海軍の諜報部が使う秘匿暗号でしょ? と言ってやる。ネイロが気まずそうに眉を顰めた。 「だったらどうだってんだ」 「それにさ、『俺が敵の懐に飛び込む気だ』って付け加えておいてよ」 「はあっ?!」  ネイロが驚きと呆れの色を隠せないような大声をあげた。 「どうせエリゼか誰かに伝わるんだろ? ずーっと気になってたんだよねえ。あんただけは俺がどう誘っても絶対に手を出そうとしなかったし、スラム街のみで情報収集をするには、“わかるわけのない”知識が多すぎる」  言いながらネイロの横にしゃがみこんで、くふんと笑ってみせる。 「本当に食えねえ野郎だなあ。俺を泳がせていたってわけかい」 「そんなんじゃない。“交渉”してんの」 「交渉だあっ?」 「そ、交渉。さっきも言ったけど、俺が敵の懐に飛び込んで、なにかをやらかすかもしれないって書いてくれたらそれでいい。それで、どこがどう動くかが判る」  ネイロが胡散臭そうな顔をする。ユーリはすぐにネイロの胸倉をつかんで隋と顔を寄せ、挑戦的な笑みを深めた。 「書いて、いますぐ。どうやってやりとりしていたかも、ぜーんぶ知ってるんだからなァ。  この回廊は外部の海につながっている。海で誰かがその木切れを回収して、返事は二コラが持ってくる食料と衣料品が入った箱の中。裏蓋か、あんたが食料を備蓄庫に持っていく時に、返事が書いたものを抜き取っていたか。  あいつはなにも知らずにせっせとスパイの真似事をさせられていたってわけだ」  ネイロが目を逸らした。瞳孔が開き、視線が泳ぐ。ほんの少し息遣いが変わったのを確認して、ユーリは薄ら笑いを浮かべながら胸倉から手を離した。 「咎めるつもりも、言いふらすつもりもない。あんたは自分の仕事をしているだけだろうし、おかげでこっちも外にいる相手に行動を知らせるツールができた」  かなりの間、ネイロはなにも言わなかった。大きな溜息を吐いて、ガリガリと頭を掻く。そして空いたスペースにユーリが告げたとおりのことを書き込んで、その木切れをぽちゃんと湖に流した。木切れは冷泉横の水路へと流れ、見えなくなっていく。 「あー、やっぱりあそこを通っていくんだ」 「……てめえ、マジで食えねえ野郎だな」  ユーリはふふんと自慢げに笑って、立ち上がる。 「悪いけど、これで最後にして。ここはもう塞ぐ。釣り場を別に見つけてほしい」 「おめえ、なんかにおってんのか?」 「確信はないけど、俺なら諸々とうまくいっているときに、相手の鼻をへし折りに行く」  ネイロが苦い顔をして、「おめえ、時々マジで性格悪いな」と誰に言うともなく呟いた。 ***  チェリオに頼んで、中層部にある拠点としている広場に、大人たちを集めてもらった。  表で蔓延している症状は、アルマの感染者がベラ・ドンナやその他の中毒性の高い毒物を吸ったことによるオーバードーズ、または複合毒物による錯乱ではないか。この2か月じっくりと研究した結果、そんな結論に至った。  大人たちが怪訝な顔をする。ユーリはチェリオがどこかから持ってきたチョークで地面に図を描いて説明をした。  まず懸念すべき大きな点は、北側の居住区により重症者数が大きく異なること。これはチェリオが軍部の無線を傍受して聞いてきたことだから間違いがない。  爆発事故が起きたとされる個所は3か所。ドゥーエ地区、セーイ地区、ディエチ地区。その周辺での感染率は非常に高く、且つ精神異常を来たしたかのような、リミッターを振り切った狂暴化が特徴の一つ。  次に爆発事故の爆心地数キロ圏内の居住者は、アルマに似た症状は多かったものの、リミッターを振りきった狂暴性はなく、ある程度の理性が残っている。  最後に地下街やディエチ地区周辺の居住者は、比較的軽症者が多く、爆発事故があったとされる現場を避けて逃げてきたものに関しては、アルマへの感染の有無により状況が異なる。当然爆発事故があったとされる現場を通って逃げてきた者は、中毒症状にありがちな土気色の顔色になり、且つアルマへの感染の有無により中毒症状およびアルマの症状に極端な差が出る。  いま気になっている点は、西側が壊滅したとの情報が入っているものの、なぜか東側に流れてくる感染者および中毒者のなかに、ノーヴェ地区の居住者がほとんどいないこと。ディエチ地区の爆発が強大で住人諸共吹っ飛んだか、あるいは、――。  ユーリが細かく書く図を見て、ロレンが困惑したように声をかけた。 「もしかしてこれ、調べたのか?」  一人でできる範囲じゃないよととユーリが継ぐ。 「支配人さんとネイロが感染者の顔と居住区を覚えていた。もちろん彼らが居住区外で被災した可能性もあるから一概には言えないけれど、爆発事故に巻き込まれず一旦は助かった人たちのなかには、中毒者および感染者に殺された人もいる」  ユーリは政府が定めた『スパッツァトゥーラ』という侮蔑用語を使わない。彼らはすぐに区別をしたがる。単なる中毒者でしかなく、彼らを駒のように扱っている連中はほかにいるというのに、そこを精査しようとしない。未知の感染症と権威が判断し、パンデミアだと位置付けられているせいで、きっと盲目的になっているのだろう。 「これはみんなが協力してくれたからできたことだけど、まだ意識のある中毒者および感染者からの聞き取りによれば、大多数が『爆発事故が起きた場所を通ったあとの記憶がない』そうだ。ラカエルもそう言っていたって聞いた」  ラカエルが頷く。 「ものすごく気持ちが悪くなって、そのあとの記憶がないんだ」 「つまり、それは揮発性が高く且つ無臭の毒物が周囲に蔓延していた可能性につながる。いまのところミクシアではそういった類の毒物に規制がかかっていて、購入にも所持にも軍部の許可がいる。  でも秘密裏に手に入れることができるものが、ふたつ。ひとつはベラ・ドンナ。もうひとつはユーフォリア」  ユーフォリアのハイブリッドってことも考えられるとユーリが継ぐ。 「ユーフォリアっつったら、イル・セーラの収容所で乱用されていた、あの?」  キルシェが嫌な顔をする。キルシェの息子も昔薬物中毒で亡くなっているとチェリオから聞いた。だからキルシェはイギンやその他マフィアたちとの折り合いが悪く、利益になると言われても一切薬物を出回らせなかったらしい。ほかの地区はともかくとして、スラムのなかでもデリテ街のみ薬物中毒者がほぼいないと言ってもいいレベルだ。 「あれはじつをいうと、ある植物の根と葉を加工して作るものなんだ。詳細は言えないけど、根と別の薬品とを使用して蒸留したものがユーフォリア。そこからさらに加工することで、毒性のあるもの、自白剤的な効果のあるもの、さらに催眠効果の高いものに変化させることができる。  ちなみに原液で使うとどの効果がダイレクトに表れるかわからないうえ、合わない者が使われるとオーバードーズを起こすので、基本的には生食か精製水と混ぜて使う。中には別の麻薬を混ぜて使う奴もいるけど、それに当たったら最後、死ぬしかない」  イル・セーラの収容所でやたらと死人が出たのはそういう理由だと、淡々とした口調で告げる。ユーリの場合、ユーフォリアを打たれすぎて耐性があること、収容所周辺にある薬草でひそかに緩和していたこと、においに敏感だから混ぜ物がされていると思ったらそれを打たれないように“工夫”した。イデアはともかく、パメラがいるから一応ぼかす。 「そんな都合よく薬草なんてあるもんなのか?」 「それがあったんだよ。ノルマからみると単なる雑草でも、イル・セーラからすれば割と貴重な薬草だった。強制労働に出されたエドとシアンっていう友だちが見つけてきて、別の地区出身の子がめちゃくちゃ器用だし看守に気に入られていたから、国医や診療医がいない日を狙って誰かが腹痛を起こしたって騒いで、薬研とか調合道具を借りていたんだ。エドの父親は割と有名な国医だったから、すんなり騙されてくれてよかったよ」  ちなみにその薬草はおそろしく苦いと言うと、ラカエル以外の全員がおえっと嫌な顔をした。 「それはもしかして、トゥルスか?」 「さすが薬草学者。トゥルスともうひとつ、レンセンっていう小さな花を咲かせる、見た目かわいくても破壊的に苦いものがある。これは雑草扱いされて大体除草しろって女性たちが言われていたみたいだから、こっそり持ってきてくれてたんだよね」  ラカエルが興味深そうな顔をした。センレンのことはさすがに知らなかったようだ。 「ユーフォリアはいま使用すると厳罰だから、さすがに名称を変えていると思うけど、材料と作り方さえわかればいける。  問題はベラ・ドンナ。20年以上前に使用禁止令が出されていることから、製造方法も入手経路も一切不明。ただ、ひとつだけ言語形態が違った資料があって、そのなかにベラ・ドンナの記述があった」  今度はキルシェが苦い顔をする。そんなもん、製造方法も製造に使う道具も、禁止された時点で全部破壊されてるぞとキルシェが呆れたように言った。がりがりと頭を掻く。 「引きこもってなにやってるのかと思ったら、そんなことを調べていたのか?」 「ひとつだけ言語形態が異なるということは、人に見られたくないって心理が働いたか、その研究をした人が一人だけ使用する言語が違っていたかのどちらかじゃないかって思った。  あの資料を残したのは言語からしてイル・セーラなんだけど、その言語形態が異なる資料にだけは、わりかしヘビーな記載が多かった」 「とすると?」 「それを書いた本人が、ベラ・ドンナの製造に関与していた可能性があるってこと」  ユーリの言っていることが突飛すぎてわからないという顔をする。ラカエルの膝に乗っているパメラなど、ぽかんとしている。さして難しいことを言っているつもりはないけれど、文化の違いと知識的探求心の違いだけはどうしても埋めようがない。  さすがにその資料を書いた相手が誰かはわからないけどと継いで、説明を続ける。  アルマはウイルスとされているが、それこそがブラフで、じつは神経毒を有する細菌ではないかと仮定した。ベラ・ドンナとユーフォリア最大の特徴は、長時間の使用または適正使用量以上の服用ないし吸引によりじわじわと内臓が侵食される。気化したものを直接吸えば最初に侵されるのは脳、鼻腔、口腔、喉、肺、心臓、臓腑。それらに汚染された水や肉を飲食すれば最初は口腔、喉、胃などの内臓、そして全身に毒が回る。当然水や土壌にも毒物がたまる。  ベラ・ドンナとユーフォリアの特性により侵された臓器に神経毒を有する細菌感染が起こった状態で放置すれば、いずれリミッターがぶっ壊れる。そうなると、異常に血を欲する者、血肉に対する執着を見せる者、本能にゆだねた行動をする者が簡単に作り上げることができる。  そして気化したユーフォリアを吸引した者が神経毒を有する細菌に感染した者と、感染はしなかったものの『とある方法』で精神コントロールをされた者を作り出した場合、ある一定の相手を殺すことも可能。  ユーリがつらつらと言ってのける。チェリオがああっと大声を挙げた。 「そうだ、ラカエルが最初に北側から来た時、二コラの軍服を見て襲い掛かったんだ!」 「マジかよ、よくSig.カンパネッリに殺されなかったな」 「あの兄ちゃんにはイオですらビビってたからな。むしろアグエロも関わりたくなさそうだった」  ネイロたちが口々に言う。 「それで、その作り上げられた奴らが、東側や北側の生き残りを襲ったってわけかい」  今度はイデアが言う。冗談じゃないよと悔しそうに眉根を寄せる。 「あくまでも仮定の話。でもそうすれば辻褄が合うんだ。イェルナにせよラカエルで試させてもらったものにせよ、あれはウイルスというより細菌に有効なもので、主な効能は解毒と血流改善と臓器の修復。それに温泉成分をプラスした場合と、そうでない場合も確かめた。  結果は良好。もう中毒症状もなければ、当初からずっと訴えていた頭の不快感と胃の不快感もない」 「中腹の大部屋に突っ込んでいるやつらも、軽症から中症の奴らはほとんど回復したものな」  ネイロが言って、感心したような面持ちでユーリを見やる。 「兄ちゃん、こりゃあひょっとしてアタリなんじゃねえか?」  左足を擦りながら、ネイロ。ユーリはそれならいいけどと浮かない顔だ。 「ただ、中等度から重症患者に対する処置はほとんど効果が見られなかった。もうしわけないことにとどめを刺すしかなかったんだけど、そのおかげでどういう状況に陥ればもう手の打ちようがないのかのデータは採れた。  そもそも、本当にウイルス由来の感染なのだとしたら、こうして傍にいるだけで感染リスクがある。そうじゃなく、俺の仮定が正しかったとしても、呼気に混じって成分が流出していないとは言えない。  だからここの人たちには温泉水を飲むことと、定期的にイェルナとフィラゾンの丸薬を飲むことを了承してもらった。おかげで感染しなかったとも考えられるけれど、個体差は当然あるだろうから、それを確定させるにはまだデータが足りないんだ」  中腹にある一際温度と湿度の低い場所には治療の甲斐なく亡くなった人たちの遺体を安置している。念のために消石灰を撒いてはいるけれど、立ち入り禁止にした。地下街は温度差が激しく、一番寒い場所は天然の氷ができるほどだ。そこには輝鉱石がないため、当然熱源も光もない。ユーリはそこに目を付けた。  ユーリがチョークを指に絡めて回す。なにか質問は? と尋ねると、チェリオが勢いよく手を挙げた。 「軍部が言っていた、最終的には殺せってやつは、概ね合ってた、ってこと?」 「承服できないが、そうなるな。ただ彼らはまだ手の施しようがある人たちまで死なせているのは確か。オット地区で倒れていた人なんてそう。普通にしゃべってたし」 「おまっ、あれほど近寄んなつったろ!?」  チェリオが大声をあげる。 「軍部の連中はビビって逃げたんだから、結果見つかっていないじゃないか。  多分あの人は、消石灰が撒かれていない遺体から、或いは傷口から感染を起こした。軽症だったけれどうわごとのようになにかを言っていたことと、軍部の制服に反応して後を付けていたことで、撃たれたんだと思う。致命傷を負っていなかったけど、彼は治療そのものを拒否した」  チェリオは大げさな溜息を吐いて両手で顔を覆うと、心臓に悪いことすんなとか細い声で言った。  チェリオの気持ちはわからないでもないが、ラカエルが回復した後に見つけた唯一の軽症者だ。できることなら協力を得たかったけれど、ファリス曰くピエタの下部組織に所属している手前、イル・セーラの施しを受けたくなかったのだろう。  ユーリはその時のことを邂逅し、残念そうに息を吐いた。 「貴重なデータだったかもしれないのに」  ぼそりと言う。その発言に大人たちはみんな気まずそうな顔をしている。ユーリはあくまでも研究の一環のつもりだし、了承した人以外には丸薬を渡していない。けれども言葉の端々に妙な狂気を感じるからか、これじゃノルマに復讐しようとしているんじゃないかと思われても仕方がないとロレンやキルシェが度々突っ込んでいた。 「兄ちゃん、ひょっとして本当にすげえ学者かなんかか?」  ネイロが感心した面持ちでいう。俺の足もすっかり調子がいいもんなと、義足をあつらえられた部分を触る。 「いまさらかよっ」 「スパツィオ大学の栄位クラスって言ったら、周辺国でも超エリートだぞ」 「そんなことない、俺は理由があって推薦されただけ。俺より優秀な人なんてたくさんいるし、学力と知識はリズの方が上回っている部分もある。そもそも栄位クラスなんて狙っていなかったし、大学を卒業したら南側のスラムに入れてくれって頼むつもりでいたんだ」  正直に言って、地位にも名誉にも興味がない。ただ国医にさえなっておけば、自分の身の回りの世話をする使用人を幾人か国外に連れて行くこともできる。そうやって少しずつ南側のスラムから仲間たちを救出しようとしていた。いまとなってはそれも叶わないけれどと、ユーリ。 「イル・セーラってのは、本当に仲間意識が強いんだね。ノルマとは大違いだ」 「そんなことないと思う。少なくとも俺は、チェリオをはじめみんなにずいぶん助けられたよ。スラム街の人たちも、考え方や文化は違えど、いまはこうやって馴染めているじゃないか。有事の際こそ人間の本質が出る。みんなそれぞれ互いを見捨てずに助け合おうとしてやってきているんだ。なかなかできることじゃないよ」 「あんた、本当にいい男だね。チェリー野郎も紳士になれるよういろいろ教えてやっとくれよ」  バシバシと背中を叩かれる。イデアは基本的に男嫌いだけれど、それは単に肝が据わっていない男が嫌いなだけで、そうじゃない相手にはきちんと世話を焼いてくれる。 「ほら、パメラ。食事の支度をする時間だよ。今日はわたしらが当番だからね」  そう促され、パメラはラカエルの膝から降りてユーリの元に走ってきた。ユーリがわしわしと頭を撫でる。 「いまエルたちが釣りに行っているの。たくさん釣れていたら、魚介と豆類の煮込み料理を作るんだよ」 「へえ、それは楽しみ」  そう言って、ユーリがパメラに耳を貸してと促す。パメラが不思議そうに耳を貸すと、「俺のはひよこ豆入れないでね」と小声で言った。 「お兄ちゃん、嫌いなものあるの?」  パメラがきょとんとして言う。 「子どもの頃からダメなんだよなァ。ペーストとか本当に無理」  それを聞いていたチェリオたちが笑った。ユーリはバレたと小声で言って笑ってみせる。 「ペースト食えねえとかガキかよ! スラム街じゃ生きていけねえやつじゃねえか」 「パメラ、魚介抜きにしてひよこ豆ばっか入れてやれ、好き嫌いするやつなんざ許しちゃおけねえ」  ロレンとネイロが笑いながら口々に言う。 「原型があるものがだめなの?」  パメラが言う。ユーリはその言い方に違和感を覚え、詳しくと続きを促す。パメラは不思議そうな顔をして、イデアのほうを向いた。 「昨日お兄ちゃんが食べていたポタージュも、ひよこ豆が入ってたよ」 「あれにっ?!」 「ひよこ豆のポタージュ。わたしが作ったの。おいしかったでしょ?」  お代わりしてたもんねと、パメラ。ユーリはマジかと誰に言うともなく呟いて、パメラを抱き寄せた。 「あれは確かにおいしかった。でもペーストと原型があるのは無理。お願い」  チェリオがぎゃははと腹を抱えて笑うのが聞こえてくる。 「パメラまで手玉に取るなよ、色男。パメラだって好き嫌いなく食べてるんだから、おまえも食え」 「わかった、じゃあ原形を留めないほど煮てアホほどシナモン入れて」  それなら頑張って食べるとユーリがやや食い気味に言う。そんなにいやかよとキルシェが呆れたように言うのを聞いて、パメラは明るい表情で頷いた。 「わたしも貝が得意じゃないけど、エルたちが採ってきたら頑張って食べるから、お兄ちゃんが食べられるようにしてから出すね」  そう言って、手を振ってイデアと一緒に簡易の調理場のほうへと歩いていく。それを見届けた後で、少ししてチェリオたちが爆笑した。ユーリはなぜ笑われているのかがわからなかったけれど、なんとなく不満で眉根を寄せる。 「嫌いなんだから仕方ないだろ」 「すげえこと言ってっから、学者みてえだって褒められたあとに、『ひよこ豆食えない』とかガキかよ」  チェリオが腹を抱えて笑っている。なんとなく解せないが、食べられないものは仕方がない。正確には語弊がある。あれしか食べるものがなかったから、もう口にしたくないだけだ。 「パメラに諭されちゃあ形無しだなあ、兄ちゃん。ここの女性たちや子どもたちは基本的に料理がうまいし、ロレンが作るものもなかなかだぜ」 「おまえもたまには手伝え、キルシェ」 「俺ぁ見張りがあるからな。得意なやつが得意なことをすりゃいいんだ、適材適所ってやつだな」  豪快に笑って、キルシェがユーリの背中を叩いた。『ちゃんとひよこ豆を食って大きくなれよ、ガッティーナ』と笑いながら部屋をあとにする。ユーリは釈然としない様子で溜息を吐く。これ以上大きくなりようがないっつのと小声でぼやいた後で、資料を持って立ち上がった。 「どこへ?」  ラカエルが尋ねてくる。ユーリはやや拗ねた様子で『こどもだから』と言いながら両手の人差し指と中指を曲げ伸ばしするジェスチャーをして、お昼寝しに行くと言ってのけてすたすたと広場をあとにする。ユーリの後ろからチェリオたちがまた拗ねたとヤジってくるのが聞こえたが、無視だ。大学にいた頃に、二コラやリズから散々子ども扱いされていたのを思い出して、どうにも釈然としない。ユーリは自分の寝床がある場所へと早足で歩いて行った。

ともだちにシェアしよう!