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Nine(5)

 駐屯地よりもさらに質の良い寝具が使われているベッドに寝かされていた。明らかに諸々違和感がある。ユーリはそばにいた男を睨んだ。採血をするのに使うスピッツを持ってそれを振っていたその男は、ユーリが起きたことに気付いたのか、向こう側が見えないガラス窓をトントンと叩いた。  リズのように背が低く、どちらかというと少年という表現のほうがあっているだろうか。見るからに髪質のよさそうな黒髪に、アーモンド形の目に濃いアメジストが嵌っているかのような澄んだ瞳。体躯も細く、どう見ても子どもだけれど、ベッドの上に置かれているトレイのなかにあるシリンジやスピッツに彼が触れているということは、ミクシアの医師免許を持っているということになる。大学では彼のような人を見かけたことがないけれどと思いつつ、警戒を緩めない。 「おーい、開けてくれる? 射殺(いころ)されそうなんですけどー」  間延びした声で誰かを呼ぶ。扉の鍵を開ける音が耳に届き、見知った男が姿を現した。ドン・クリステンだ。 「目を覚ますの早すぎない? 薬物嗅がされ慣れているからって、そんなチートな理由ある?」  煩わしそうな顔で彼が言う。 「おはよう、ユーリ。手荒にして悪かったね、少々データが欲しかったんだが、素直に言うときみは暴れるだろうと思ってね」  体を起こそうとしたが、さすがにまだ自由が効くまでには回復していないらしい。アレクシスが嗅がせたのはなんの薬だったのかに興味がある。割と薬物には耐性がある自分があそこまできれいに落とされるとは思わなかった。 「アレクシスは? あの野郎、絶対に後悔させてやるっ」 「そういうと思って、彼には別件を頼んでいる。あまり揉めてくれるなよ、オレガノとの交渉には必要な方々だ」  そんなもんしるかと声を尖らせる。微妙にまだ手が震えているのに気付き、ユーリは悪罵を吐きながらベッドに身体を沈めた。 「それで、そこの人は? あんたの知人っぽいけど、ノルマ族?」  じろりと見据えたが、彼は怯む様子も見せずに丁寧にお辞儀をした。 「まず、ミカエラを助けてくれたことに感謝するよ。彼はガブリエーレ卿の友人だし、戦友でもある。  だからそのお礼として、今回あなたに掛けられている容疑全てを晴らすと共に、あなたの兄に掛けられた容疑を晴らすためにもろもろと芝居を打った。  本来なら貴族は有事の際以外に権力を行使してはならない決まりになっている。それも元老院に指定された七つの家のうち、四つが許可を出さなければ動けない。でも今回はそのうちのひとつが我が子可愛さにやらかしたことだから、うちと、ディアンジェロ家と、もうひとつのゴリ押しでなんとか通した」  長台詞をしゃべっても、全くもたつきのない滑舌の良さに加えて、かなり聞き取りやすく、程よい高さと低さが融合した独特の魅力のある声が流暢に紡ぐ。ユーリはところどころ突っ込みたかったが、説明なのに全く説明口調ではなく演説をするかのように抑揚をつけた『こなれた』喋り方にたじろいで突っ込めなかった。元老院ってなに? と傍にいるドン・クリステンに怪訝そうに尋ねる。 「それとさっき血液と体液をもらったけど、それはまあキャリアじゃないか調べるためと、オレガノに血液で一族がどうか調べる方法があるらしいんだ。  あちらは殺害されたとされているけれども、行方不明で片付けられている第二王子を探しているし、あなたがミクシアの第一王族なのだとしたら、その方法で証明することができる。それをエサにオレガノ側と取引した。  諸々言いたいことはあるけど、割愛して結論を言うと、あなたの論文を勝手に使わせてもらった。アルマの毒性を緩和するための緩和剤、そして免疫システムが崩壊した際に生じる様々な全身症状とアルマの関係性を論じたもの。それをヒントに薬草を用いて薬を作ったおかげか一時的にパンデミアは食い止められているけれど、あれで全てが解決できるわけじゃない。徐々に北側と下流層街にも感染者が増えているって話だ。  もう少し確実に抑え込めるよう協力してほしい。オレガノの知識、あなたの知識、それからぼくの研究室を使えば、いい結果が得られると思うんだよね。  こういう説明でいいんでしょ、レナト」  レナトと呼ばれたことに驚いて、ドン・クリステンを見上げた。苦笑を漏らしつつ組んでいた腕をほどいて片手を軽く振った。 「この制服の時はドン・クリステンと呼びたまえよ、リュカ。  彼はリュカ・ディ・マリア。ガブリエーレ卿の弟だが、訳あって身分を偽っている。俺のお仲間だ。  彼の説明で概ね合っている。きみを拐かそうとした理由が第一王族の血が欲しいという証言だったのでまさかとは思っていたが、ミカエラたちもそう言っていた。彼らはすでにこちらに協力することを了承してくれている。あとはきみ次第だ」 「いますぐ決めろとは言わない。でもまあ、ぼくの部下が案外役に立ったでしょ? ナザリオのことはまあしょうがないけどね、死にたがりのドMだから、他の隊員を犠牲にしたくなくて深追いしたんだと思うし」  ナザリオの名前を出されて、ユーリは怪訝そうに眉を顰めた。どういうこと? と尋ねると、リュカと呼ばれた少年が軽く肩を竦めてみせた。 「聞いてない? エリちゃんはあの鬼みたいに強い人が死ぬわけないってそれはまあすごい取り乱し様だったけど、レナトと一緒にぼくも検視したし、まあ間違いないよねってことで」  腕一本しか返ってこなかったけどとさらりという。唖然としているユーリに視線をよこし、リュカが試すような口調で『死にたがり癖は無くなっていたはずなんだけどね』と言ってのける。 「まあ、ぼくもナザリオが死ぬとは思ってないんだよね。命令は絶対遂行が趣味だし、出す際にぼくは死ぬなと命令した。これがどこかの誰かの陰謀でなにかを探るために死を偽装しているのだとしたら……戻ってきた時にナザリオにはなにか極刑を与えなきゃね。その陰謀を目論んだ人にも」  リュカがまるで怪しむような視線をドン・クリステンに向ける。 「ともに検視をしたじゃないか、いつ俺が細工をできるというのだね?」  ドン・クリステンがさわやかな笑顔を見せた。まあいいけどと、リュカが訳知り顔で呟く。 「エリゼのあの手の傷は?」 「あれ? あんまり取り乱してうるさいし物騒な事をいうから、他の精鋭部隊とタイマンはらせたらまさかの全勝しやがって、へばってひいひい言ってるところでSig.エーベルヴァインと戦わせたら折れた」  ユーリは二の句をつげなかった。なんなんだ、このイカレ集団。引いているのがわかったのか、ドン・クリステンがユーリを呼んだ。 「彼はきみと先代の熱烈なファンらしくて、いくつか書いた論文を読んで、ずっと背中を追っていたようだ。だからきみたちが襲われたのも逸早くわかったんだよ」  少しだけ身体を起こし、腕の痺れがないことを確認する。体を起こしていても問題なさそうだ。怪訝そうな視線をリュカに向け、眉を顰める。変なやつとぼそりと呟く。イル・セーラに憧れを懐くノルマがいるとは思ってもみなかった。 「ちなみにきみが時折感じていた『妙な視線』は、彼と、彼の部下のものだ」  ええっ!? と驚きの声をあげる。リュカは気まずい笑みを浮かべて軽くホールドアップした。 「ごめんね、怖がらせていたって聞いて、反省したよ。大学で時々見かけるのだけど、声を掛けてもきっと警戒されるだけだろうしって思って、ついストーカーしちゃったんだ。  それにあなたは『軍部預かりの身』だというのに、勝手にアンゼラ地区をでるわ、勝手にスラム街に診療所を設けるわ、ルール違反も甚だしいから、少し懲らしめてやろうと思ってね。でも元奴隷だけに肝が据わっているというか、その監視の目も簡単に欺かれてしまって、監視から逃れつつ、目的地に到着する方法をあなたにレクチャーしてもらおうかとも考えたくらいだ」 「褒めてんの、貶してんの?」 「あなたのその勝手な行動に対する嫌味だよ」  リュカがさらりと言ってのける。 「でも、あの日はちょっと違ってね。嫌な噂を小耳に挟んだ。だから下流層街の警備を強化しておいたし、ぼくの協力者に諸々探らせていたら、ビンゴ。強盗の侵入経路は迎賓館の調理場にある地下室。外からは気付かれないようにしたつもりのようだったけど、鼻のいい犬を待機させておいて正解だったよ」  ねー、ジジとリュカが話しかける。まったく気配を感じなかったが、リュカの後ろに少年がいた。かなり短くカットされた、角度によってはトゥヘッドに見えなくもないブロンドの髪。リュカよりも少し細いアーモンド形の目。ルビーのように鮮やかな色をした瞳。まるで猫のような風貌だ。細いと感じるリュカよりも更に細く、身長も低い。ジジ、あいさつは? と促すと、ジジと呼ばれた少年は立ち上がり、敬礼をした。  ジジという名前は聞き取れたが、その前後がなんて言ったかわからない。かなり発音とイントネーションが違っているが、ノルマ語を話したつもりのようだ。リュカが苦笑を漏らした。 「いつもの言語でいい、ここでは誰も気にしない」  そういうと、ジジが頷いて口を開く。 『エリザベートです。ジジとお呼びください、Sig.オルヴェ』  ステラ語……それもユーリたちにとって馴染みがあるほうの言語だ。さすがに驚いた。ステラ語を話せる種族はイル・セーラだけではないことはエリゼのネイティブさで薄々勘付いていたが、まさか実際に出会うとは思っていなかった。リュカが得意げに笑ってみせる。 「この言語はかなり古いものだし、喋れる種族は限定されてくる。ミカエラたちが言っていたようにミクシア古来のイル・セーラの第一王族、そしてプロエリム。プロエリムの場合は喋れてもそのほとんどに識字が伴っていないから、ミカエラたちが『失われた』と称するのも無理はない。第一王族しか使っていなかった言語だからね」  だからとリュカが怪しい笑みを浮かべる。 「ステラ語で指示を出せる人が現れるか、命令を仕込めるまで危ないから戦闘に出せなくて困っていたんだ。エリちゃんも日常会話程度しか教えられないって言ってたし、この子、あなたに預けるね。  ポポリっていうパドヴァンの向こうにある少数民族が住む多国籍国家の奴隷市で売られていて、面白そうだから買ったんだ。この子は暗殺要員にもなるし性奴隷にもなるって言われたけど、後者は仕込まなかったよ。本人は不思議そうだったけど、さすがに14歳のローティーンには健全に生きて欲しいしね」  自分はもっと前から諸々仕込まれていたがと内心する。何歳くらいからと言われると微妙に記憶がないが、ユーリがいた収容所はかなり無法地帯だった。奴隷解放された際に収容所で貯めた金は大半受け取ったけれど、自分のために使うのも気が引けると考えた末にスラム解放のために使うことにした。ミクシアでは収容所がなくなった代わりにスラム街が差別の対象となっていることを不満に感じていたけれど、外の世界にもまだ奴隷制度があるのだと知って、なんとも言えない気持ちになる。 「ミクシア内のイル・セーラたちにも、ポポリの少数民族たちにも、申し訳ないと思っている。ノルマが領地を広げようとしなければ、きみたちの乱獲につながることはなかった。  とはいえ、ぼくたちにはまだ当時『権力』もなく、『状況を変える権限』もなく、歯がゆい思いをすることしかできなくて、館の外で起きている現実を知った時、ぼくは自分の立場を嘆いた。  だからと言って、奴隷化されたきみたちを救えなかったことは理由にはならない。言い訳でしかない。そもそも貴族を始め、政府がフィッチとの戦争を起こさなければ、内紛も起きなかった。イル・セーラを差別しさえしなければ、オレガノは属国や同盟国が攻められれば手は貸してくれるんだけど、イル・セーラが奴隷にされているのに誰が助けに来るかって話だよね。何度も打診して何度も断られて、それで政府はイル・セーラアレルギーなんだ。ばかだよねー」  一息で言って、リュカが大げさに両手を広げる。すぐに白けた表情になり、ドン・クリステンに視線を向けた。 「肝心な時にこの国にいなくてなんの役にも立たなかったんだから、こういう時こそちゃんと動いてくれないと困るよ、レナト。前王のことだってエリちゃんが調べてきたとおりだとおもうし、元老院を潰すチャンスだと思うんだよね。いっそのこと解体してしまえばいいんだよ。  片や使いきれないほどの財を持ちそれを寄付してありがたがられる、片や今日食べるものにも困り人を殺してでも食べ物を手に入れようとする。同じ人間なんだからその垣根を壊さない限りこの国に発展はない。搾取して搾取して、貴族にとっては端金でも喜ぶ人を見て賎民だと嘲る。そんなくだらない人たちが治る国なんて滅びたほうがいい」 「あんた、貴族なのに変わってるね」 「他の人がばかなんだよ」  ばかをやたら強調してリュカがいう。 「面目ないが、こちらも手詰まりでね。元老院もみなが知らぬ存ぜぬを貫くつもりのようだ」 「ねえ、その元老院ってなんなの?」  全然意味が分からないんだけどとユーリが言うと、ドン・クリステンが『元老院は最高意思決定機関のことで、七大貴族がその任を任されている』と教えてくれた。 「そしてその元老院を担う貴族の中に、指示を出した者がいる。レジ卿といわれた際には聞き覚えがなかったが、ある貴族が対外的にレジ卿と呼ばせていたのを思い出した」  レゼスティリ卿と言われて、ユーリが弾かれたように顔をあげた。 「聞き覚えがある、というような顔だね」  ユーリは目を逸らした。言おうか言うまいか迷い、言わない選択をする。ドン・クリステンはユーリにかまわず話をつづけた。 「前当主は亡くなったが、彼には養子がふたりいた。そのうちの一人の行方がわからない。きみがフォルスで会ったという男を探りたくて一度前線に赴いたが、そのときにはもう国境警備隊は皆殺しにされていたよ。本人もいなかった」 「じゃあ」 「たぶん、きみが最初に訪れた男を挑発し色仕掛けをして彼の逆鱗に触れていなければ、きみたち全員無傷では済まなかっただろうな。ニコラとジャンカルロだから最悪の事態は避けられただろうが、あそこに配備していたのもまあまあの精鋭たちだったんだ。それでいまアリオスティ隊の一部には国境警備に当たらせている」  戦力を分散させられていると思えなくもないがと、ドン・クリステンが言う。ミカエラたちが言っていたことが本当なら、やはりドン・クリステンも狙われているということにつながる。一体なぜ? 視線をさまよわせ、考える。ドン・クリステンには敵が多いと聞いている。敵が多いどころか敵だらけじゃないかとも思ったが、貴族のいざこざにユーリ自身が巻き込まれていると取れなくもない。 「だからアリオスティ隊はほかよりも隊員が少なく見えたのか」 「さほど多いわけでもないがね。なにしろトップがナザリオだし、No.3がエリゼだ。緩衝材のスヴェンがいなかったらほぼ毎日物騒な会話がとびかうところには、戦慣れしていない連中は行きたがらない」  なるほどと思う。総合的な実力はエリちゃんがトップだけど、対外的にはナザリオが正しいことが9割だからナザリオがトップなんだよとリュカがいう。心底納得する。 「俺の悪口ですか? 残念ながら今日は参戦する気分じゃありませんよ」  エリゼの声だ。エリゼはユーリに会釈をして、ミクシアのものではない敬礼をした。 「オレガノ側に調印をしていただきました。ご確認を」  ドン・クリステンが書類をひととおり眺めてから口元を緩め、目を眇めてユーリを見た。 「きみは彼になにか言ったのかね?」 「出方に腹が立ったんで散々無視した挙句に嫌味を言いまくった」  しれっと言ってのける。 「なるほど。サシャのことは、言わないつもりか? 腹心はなにか気付いているようだけれど」 「言わないほうがいいと踏んだ。イル・セーラにとって親族殺しはいかなる理由があっても許されない。オレガノの法がイル・セーラの考えが主体になっているとしたら、理由が理由でもなんらかの処罰が降る。だからオレガノでも生体移植をできる医師が限られる……ってことなんじゃないのか?」 「そうだね。双方の同意が必要になる。今回は緊急時だったしある程度情状酌量されるだろうが、オレガノがどう考えるかは俺にも読めない」 「たぶん、サシャのことがわかったら、オレガノの地を俺が踏むことはない」  ユーリは冷静に言って、ドン・クリステンを見上げた。 「俺が本当に第一王族の末裔なのだと確定しても未確定でも、それを他言しないでほしいと伝えてもらえないか? いろいろ面倒だし、権力に興味はない。それに、王制復権を目論むやつがいたとしたら、俺はそれに巻き込まれることになる」 「やはりきみはエリゼが評したとおり、無駄に頭が回る。本当にきみの兄からなにも聞いていないのか?」 「サシャはいつも首を突っ込むな、関わるな、と。ミカエラに対する態度を咎めるなら、まずは向こうの出方について厳しくクレームをつけておいて。  この茶番の発案者はあんたと聞いたけど、諸々間が悪すぎて協力する気が失せた」 「そのとばっちりをオレガノがくらったわけか」 「もう会うこともないだろうし、懐かれても困るからな。オレガノ、ミクシアの国交正常化のために協力はする。ただひとつ、条件がある」 「こちらにできることならなんなりと」 「じゃあ、全部事が済んだら、処刑して」  フォルスの崖から放り投げてくれてもいいと、ユーリ。 「ねえ、話聞いてた? あなたを救い出すために、どれだけの人員と時間を割いたと思ってるの?」 「それはそっちの勝手な言い分だろ。俺は元々そのつもりだった。ちゃんと中和剤を開発して、それをオレガノかミクシアに託したら、南側のスラムの仲間たちの命と引き換えに殺してくれって言おうと思ってたんだ。それを、どこかの間抜けな貴族や軍部のはやとちりで邪魔された」 「それはミカエラへの手術を施した責任のことを言っているのか?」 「それ以外に何がある?  やると決めたのも、死ぬと決めたのも、俺自身だ。誰の責任でもない。だから、これは本人に返してくれ」  ユーリはずっとポケットに忍ばせておいた万年筆を取り出した。ペントップを回して、中から紙を取り出す。それを開いてテーブルにおいた。キアーラが書いてくれた証明書だ。 「誰も責任なんて負うことはない。彼女にとってもある意味賭けだったと思うよ。気持ちはありがたい。でも、サシャがいないなら、俺がいても意味がない」 「ミカエラは、セラフの婚約者だよ」  リュカが言う。ユーリは軽く肩をすくめた。 「知ってる。だから悩んだ。キアーラがミカエラを俺に託そうと決めた時、そのことで俺が窮地に立たされないようにそうしてくれたんだろうって、それはわかる。  でもいまはキアーラもいない。ミカエラを見ていたら、やりきれないんだ。いかなる理由でも、身内を死なせたことに変わりはない。幾許もない余命なのはわかっていたけど、それでも、あのときにはまだ、生きていたんだ」  ドン・クリステンが静かにため息をついた。 「きみの言い分は尤もだ。もし俺がユーリの立場ならと想像することすら愚かしい。所詮想像に過ぎないからな。  ただひとつだけ言っておく。先代が確立した手術で、何人もの命が救われたことは確かだ。逆に、ミクシアではその技術提供を受けることができずに命を落とした者もある。俺の妻がそうだ」  ユーリはハッとして目を見開いた。ノルマの性質上、輸血が必要なほどの大きな手術はしない主義だ。だからまさかノルマがその術式の確立を望んでいたとは思ってもみなかった。 「時期が悪かったんだ。ちょうど先代との打ち合わせが済み、手術の日取りもドナーも決まっていた。でもそれよりも早く、先代はどこかに連れ去られ、きみたちは奴隷商人に売られた。それを皮切りにミクシアとオレガノは国交断絶、特使として赴いていた俺は帰還すら許されなかった。情報を漏らされては困るからだろうね。だから妻の死に目には遭っていない」 「それが、仕組まれたことだったとしたら……」 「俺はそう思っている。妻が生きていれば俺はその時点で軍医団長だ。オレガノかぶれの団長など要らんと考えたのだろう。元老院の考えそうなことだ」 「貴族もいつ命を狙われるかわからないんだな」 「まあね、人の命を盤上のゲームの駒としか思っていないようなやつらばかりだよ。まともなのはうちと、ブラッキアリ公家と、ディアンジェロ公家くらいじゃない? フェロー家なんて、自分とこのど腐れぼんぼんを皇太子にしたがってそう。ロイド王子と気が合いそうな陰険さだもんね」  ロイド王子が王になるんだったら、ぼくは気が狂ってしまいそうとリュカが不敵な笑みを浮かべながら言う。 「ユーリ、ふと思ったんだが」  ドン・クリステンが言って、ユーリの顎を掴んで顔を上げさせる。 「きみ、処刑されたと偽装して、うちに飼われる気はないか? 衣食住保証するし、君が研究にいくら使おうが文句を言わない。南側のスラムの仲間たちの命も保証する」 「は? 全員死んだんじゃ…」 「ミカエラから聞いてない? フォルスとフォルス周辺出身のイル・セーラは全員無事」  リュカの言葉にユーリは二の句を継げなかった。アレクシスが言っていたことは本当だったのだ。 「オレガノの連中は本当にポンコツばかりですが、どうせあなたも管を撒いて話を聞かなかったんでしょ」  アレクシスのこと嫌いそうですもんねとエリゼが継ぐ。 「西側で爆発が起きた時、チェリオが見つけてきた地下通路を介してほぼ全員逃がしています。怪我人が多数いましたが、准将の処置で事なきを得ました。そしてみんな見事に准将をユーリだと思って違う意味でカオスでしたよ」  誤解を解くのに大変でしたと、困ったように言ったあとで、ユーリの額を指ではじいた。 「そもそも人の話をきちんと聞け、クソガキ」  そっちのほうが見た目ティーンのくせにと揶揄したが、エリゼはどこ吹く風だ。 「話を戻すが、セラフィマ嬢はこの判断がきみを苦しめるようなことになるとは微塵も思っていなかったはずだ。そもそもきみが生体移植をできるなどと思ってもみなかっただろうしね。どうしてその手順を?」  ユーリは言わずにおこうと思ったが、ここには栄位クラスの仲間も、オレガノの連中もいない。それならと、少しの間をおいて口を開いた。 「子どもの頃に、“ユーリ”がやっているのを見たことがある。ほんとうは見ちゃいけないって言われたけど、黙ってテラスから覗いて、そのあとで“ユーリ”が付けた記録を、手順を、必要な薬物品を頭に叩き込んだ。  人間不思議なもので、興味のあるものはまるでシネマトグラフのように覚えられるんだ。だから覚えていた」 「なるほど。そのことを知っているのは?」 「むちゃくそ怒られたし、サシャとエドしかしらない。“ユーリ”と、エドの父親のクロード、それからディアナっていうクロードの奥さんがいた。誰の手術をしたのかはわからないけれど、患者も、それからドナーもイル・セーラだったことは確か」  ドン・クリステンが興味深そうな顔をした。 「とすると、やはりきみはサシャも、それからミカエラも救いたかったのではないか? だから自分を犠牲にして手術をすることを決めた」 「そうじゃない。学長から『ミカエラをただで死なせるな』って言われたから、じゃあいま自分にできる最善を尽くそうと思っただけ」  本当はそうではない。理由など後付けだ。無我夢中だった。ミカエラも、そしてサシャも助かる唯一の方法だと思った。  ノルマとイル・セーラは考え方も倫理観も異なるから、これを言ったところで理解されないだろうと思って黙っている。サシャはミカエラの中で生きている。ミカエラもまた、サシャの心臓のおかげで生きている。つまりそれは、自己満足かもしれないが、ふたりとも助かったということだし、ミカエラが死なない限り、サシャは生き続ける。  思いの外気持ちが落ち着かないのは、いつも隣にいたサシャがいなくなったからだろう。そこまでサシャに甘えていたつもりはなかったけれど、その実サシャがいないとなにもできないんだなと痛感した。自分が選択したことだけれど、サシャがいないのは辛い。だからミカエラを見ているとどうしてもサシャのことを思い出してしまって、ついぶしつけな態度を取ってしまう。チェリオたちに散々子ども扱いされたけれど、ほんとうにそういう部分は子どもだと自分でも思う。 「だからサシャのことは黙っておいて。もしミカエラがそのことを知ったら、いい気分はしないと思う。  政府は重箱の隅を楊枝でほじくるような判断をしたし、もしキアーラが書いてくれていた証明書があったとしても、本人がいないのだから提出したところで偽造だなんだと騒ぎ立てると思う。だから敢えて提出しなかった。  もう誰にも振り回されたくないし、なににも関わりたくないから、潔く死ぬことを選ぶ。まあ、事が済むまでは振り回してくれてもいいけれど、すべてが終わったらくれぐれも俺の助命を乞うようなふざけた真似はしてくれるなよ。  これだけ人員を割いて苦労して……って言っているのを聞いていたら、ますます処刑執行こそが最大の嫌がらせなんだってわかったしな。どうせ死ぬ気だったし、イル・セーラは自死をすると一族に不幸が訪れるって考えるから、自死をしない。それなら処刑される以外死ぬ方法がない」  ドン・クリステンが困ったような表情を浮かべる。それは屋敷で飼うという案すら撥ねつけたからも同然だからだろう。これ以上なにを言っても無駄だなとでもいうように、ドン・クリステンが目を伏せる。 「ユーリ、もうすこし状況が改善してから決断しても良いのではないか?」 「俺がいなくても、リュカがいるし、アンナだって、ほかにも優秀なのがたくさんいるだろう。それにエドが生きているのなら、エドに頼めばいい。本人は医師免許なんて持っていないけど、彼の父親は“ユーリ”に引けを取らない国医だったと聞いている。ま、国医なのに殺すって意味わからんけどな」  だからノルマはもう誰が相手でも一切信用しないと付け加える。  ドアの向こうから誰かを制止するような声がしたかと思うと、ミカエラが入ってきた。相変わらずの無表情だが、少々焦りの色を浮かべているようにも見える。 「なぜそのような大事なことを教えてくださらなかったのですか?」  ミカエラの視線の先にはドン・クリステンとリュカがいる。 「待て待て待て、聞き耳を立てるとか失礼だぞ」  アレクシスがミカエラの腕を引っ張って退室を促そうとしたが、逆に腕をひねられて悲鳴を上げた。 「いでえっ、ちょっ、マジでっ」 「おまえも知っていて黙っていたのか?」 「直接聞いたわけじゃ……って、マジで折れる、折れるって!」  ミカエラがアレクシスを解放し、もう一度ドン・クリステンとリュカに視線をやった。ふたりはどこか気まずそうな表情だ。 「誤解のないように言っておくが、なにも騙そうとしたわけではない」  ミカエラの視線が鋭くなったことに気付いたのか、ドン・クリステンがホールドアップして見せながら言う。冗談と本気の区別がつかない部分があるが、詭弁を真に受けるほど間抜けでもない。波風を立てないように本当のことを言ったほうがいいと察する。 「俺が口止めした。イル・セーラの倫理的に、親族殺しは禁忌だからな」  ミカエラはユーリに視線をよこしたあとでなにかを考えるように口元に手を宛がった。とんとんと二度ほど踵をならす。 「オレガノの法的にも、ミクシアの法的にも、処刑から免れることができるとは思っていない。その処刑も全部事が済んだら、って言ったはずだ。なにが悪い?」  じろりと横目で見られ、気が散ると一蹴される。昨日の態度は何だったのかと思うほど居丈高だ。少しの間なにかを考えていたかと思うと、ミカエラがドン・クリステンに視線を向けた。 「オレガノはSig.オルヴェに処罰を言い渡した裁判官と、サシャ・オルヴェが関わったとされる事件を捜査した者全員の引き渡しを要求します。殺人など言いがかりも甚だしいうえ、手術を受ける側の意識がないのに同意を得るなどできるわけがない」  馬鹿も休み休み言えと、ミカエラ。なかなかに強い口調なのは初めて聞いたのか、ドン・クリステンが苦笑を漏らす。 「それはオレガノがユーリの減刑を求めるという主張かな?」 「罰を受ける謂れはありません。健康問題を公にするのも煩わしかったので黙っていましたが、わたしはいずれ生体移植を受ける予定でした。セラフもそのことを知っていたので、わたしの身に何事かあった時に障りがないように証明書を認めたのでしょう。わたしからの同意は得られなくとも、セラフはわたしの配偶者なのでその書面は有効です」 「えっ? 婚約者って言ってなかったっ?」 「ミクシアでは政治の関係上公にされていないだけで、オレガノではディアンジェロ家と調印式まで済ませています」 「ちょっと、レナト! 聞いてないんだけど!?」  リュカが慌てたように言う。ドン・クリステンも意想外な顔をして腕を組んだ。 「俺もそれは初耳だ。彼女はそのようなことを一言も言っていなかったし、それなら状況が大きく変わる。ユーリが言っていたように、偽造だと言われれば証拠にならないと思ったが」  言いながらドン・クリステンがキアーラが書いたメモに視線を落とす。ミカエラは失礼しますと言ってそれを手に取ると、アレクシスから手渡されたオイルライターで、不自然に行間が空いた部分を少しあぶる。文字が浮かび上がってきた。『ミカエラの生死問わず、栄位クラスや大学側、そしてユーリに責めを負わせることのないように キアーラ・セラフィマ・ベルダンディ』と記載されている。ドン・クリステンが興味深そうに目を細くした。 「なるほど、ミカエラが命を落としてもそうでなくとも、ユーリや大学側が窮地に陥れられないようにというわけか。考えたな」 「西側に赴いた軍部の隊員にはドン・アゼルの息がかかった者が多いので、検閲を免れるためにそうしたのかと思います。以前スパイ小説の話になり、薬品を使って字の炙り出しができることを話したのを覚えていたのでしょう。  8月末にはいまの調査が終わり、国交正常に向かう手続きをする予定でいたので、それが済んでから公にすると決めていました」  マジかと口の中で呟く。ミカエラがユーリを呼ぶ。ユーリはなんとなくミカエラの顔を見ることができなかった。 「確かにイル・セーラの倫理的に、親族を手に掛けることは禁忌に等しい。ですがオレガノでは家族の余命が幾ばくも無いときや、不治の病にり患したときに限り、尊厳死を認めています。  それにこれはあくまでも個人の感覚にゆだねられるでしょうが、親族を明確な殺意を持って、或いは悪意を懐いたことをきっかけに発作的に手に掛けたわけではないのなら、罪にはあたりません」 「じゃあ、俺がむちゃくちゃ悩んだことって、無駄だったってこと?」 「いえ、無駄というわけでは。  それだけ真摯に兄上のことをお考えになってのことでしょうし、同族や親族を手に掛けること自体が禁忌なのは確かですが、それならオレガノで生体移植が認可されることはなかったと思います。  あくまでも治療の範疇で甲斐なく亡くなったのだとしたら、それは殺人には当たりませんし、今回のようなケースは非常に稀ですので、ミクシアの司法はわかりませんが、オレガノの司法が罪とすることはまずないでしょう。  生体移植に執刀できる医師がオレガノでも少ない件に関しては、倫理的にというよりは、オレガノはミクシアと比較すると気候がよく、臓器の状態諸々を鑑みると相応の設備が必要だということに対し、患者数が少ないのでなかなかメジャーにならないといいますか、そういった意味で対応できる医師が少ないのは確かです」  淡々とした口調でミカエラが告げる。  ユーリはホッとしたのと、それとは別の感情で力が抜けたようにその場に座りこみそうになった。ドン・クリステンに抱き留められる。申し訳ありませんとミカエラの声がする。 「呼吸と心臓の状態がよく、もしかしたらと薄々気付いてはいたのですが、まさかと思い尋ねることすらせず、大変失礼いたしました」  言われている意味が分からなくて、茫然とする。オレガノでは受け入れられないだろうと思ったのは自分の思い過ごしだったのか、それともいつのまにか疑心暗鬼になってしまっていたのか。思いの外ミカエラの判断が柔軟だったとすべきなのかもしれない。 「ここまで言われても、それでもまだ処刑を望むかね?」  もういい加減自分を罰するのはやめたまえと、ドン・クリステンが穏やかに言いながらユーリの頭を撫でた。 「すぐに撤回しろとは言わない。きみも悩みぬいた末の決断だろうからな。だが、やはりもう少し局面を見定めてからでもいいのではないかね? 場合によってはきみを窮地に陥れた者たちの思うつぼになってしまう。それではきっと先代もいい顔をしない」  もちろんサシャもだと、ドン・クリステンが言う。 「それにもしもセラフィマ嬢が戻ってきたときに、きみが処刑されたと聞いたら、彼女が一番悔やむだろう。彼女のことだ。きっと生きている。秘密裏に捜索させているから、せめて彼女の安否がわかってから判断したのでも遅くはないだろう」  最初は心底ほっとしたというのに、安堵ではない感情がふつふつとこみ上げてくる。  それじゃあいままでさんざん悩んだのはいったいなんだったんだ?  診療所に関してはまあ百歩譲って許せないことはない。元々有事の際に使える場所が欲しかっただけのことだ。  だけど研究を献上しろだとか、殺人罪だとか、あまつさえグレーな部分を違法とまで言ってのけたのは軍部と政府だ。そこを死守するのはスラム街やミクシアの住人たちを守るためにもつながると思って、悪心を抑えて中和剤の開発にいそしんだというのに、殺されることは覚悟のうえでそれを勧めてきたというのに、蓋を開ければ情状酌量の余地があるとはどういう了見なんだ。  ユーリはドン・クリステンの手を振り払い、勢いよく突き飛ばした。

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