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Nine(6)

「ふっざけんな、ノルマもオレガノのやつらも頭イカれてんじゃねえの!?」  怒りのあまり言語がステラ語になっていることに気付きつつも、止められなくて思いの丈を吐き捨てた。  こいつらと関わるなんざ金輪際ごめんだと喚き散らしたせいで息が上がる。はあはあと肩で息をするユーリをよそに、ドン・クリステンも、ミカエラたちも、ぽかんとしていた。ただひとり、エリゼだけが声を殺して笑っているのが見える。 「い、いや、すまん、ユーリ。きみの怒りは尤もなのだが、如何せん言語がよくわからず」  ドン・クリステンがエリゼと呼び、通訳するよう指示する。エリゼは笑いすぎて目じりに溜まった涙を拭ってユーリへと視線をよこした。 「ノルマは元々少数民族に対する理解もなければ配慮もないので、あからさまな罵倒だったということはご理解ください。  『下手な芝居を打たずに最初からエドたちが生きていることも、処刑が保留とか言わずに無罪だって言ってくれればよかったんだ。こんだけ毎回騙され続けたら疑心暗鬼にもなるわ、ふざけんなくそ野郎。中和剤が欲しけりゃ勝手に解読して勝手に使って勝手に死ねばいい、もう誰がどう頼んでこようが絶対に協力なんてしない。協力させるためになんでもするっていうならいますぐフォルスを自治区にして帰還させてくれ、こっちは頼まれてもなにも応じないけどな』……ですって」  「あと、第一王族が何者か知らんけど、そんだけ俺と顔が似てるんならおまえがすり替わればいいだろう……とも言っています」と、エリゼが告げる。なに食わぬ顔で淡々と告げたせいか、ユーリの嫌味が半減されている。 「俺はもう誰がなんと言おうがなんの賄賂を持ってこようが、この茶番に加担した奴ら全員と関わらないって決めた」  そう吐き捨てて、ユーリはずかずかと歩いて部屋を出ていこうとしたが、ドン・クリステンに腕を捕まれた。離せとその腕を乱暴に振り払う。 「あーあ、こうなったら長いですよ。うちの隊長も散々無視されていましたからね。  まあそもそも、少数民族にとってなにが地雷かくらい知ったうえで一芝居打つべきでしたね。言ってくだされば俺も協力したのに」  エリゼが笑いながら少しだけ両手を広げて軽く肩を竦める。ドン・クリステンは苦笑を漏らしたあとでホールドアップしてみせた。 「俺が悪かった。きみがあまりにも勝手な行動をとるものだから、少々懲らしめてやろうと思って、ドン・マレフィスにも協力してもらったんだ。ピエタも彼の言うことなら聞かざるを得ないしと思ったのだが、よもやきみがそこまで思い詰めていたとは考えもしなかった。申し訳ないことをした」 「つか俺はずっとエヴェラルド・バローニはおまえの仲間か? って聞いてたのに、おまえが知らんっつったんだろ」 「うるっせえわ、あんたが一番信用ならねえんだよ! 変な薬嗅がせるわ、いちいち癇に障る言い方するわ、いきなり人を押し倒すわ!」  マジで収監されろ、ド変態! とユーリが喚く。ミカエラがアレクシスを睨んだからか、アレクシスは気まずそうに目を逸らしてそっぽ向いてしまった。 「だってあんまり強情だからムカついたんですもの」  ぼそぼそと言ってのけるアレクシスを睨んだ後で、ミカエラが大変申し訳ございませんと頭を下げた。謝られたってもう知らんと言ってのけて、さっさと部屋を出ようとしたが、またドン・クリステンに腕を捕まれた。 「まあ待て、最後まで話を聞いてくれ。下手な芝居を打たれたことに対してもそうだが、相当な覚悟を決めて動いていたことを簡単に覆されたのだから、怒って当然だと思う。  でもこうでもしなければきみを“無傷”で奪還することができなかった。ピエタの下部組織は地下街できみたちを抹殺するつもりだったんだ」  ユーリは胡散臭そうにドン・クリステンを見上げ、その言葉には反応せずに手ぇ離してとぶっきらぼうに言った。慌てたようにドン・クリステンがユーリを解放する。 「そういえば、ロッカがあの場所に手引きをしたって」  ロッカはどうなった? と尋ねると、ドン・クリステンが呆れたように眉を顰めた。 「自分たちを陥れようとした子どもがそんなに心配かね? オレガノ軍の処置が早く命に別状はないが、ただもう二度と歩けないかもしれないね。当然の報いだとは思うが」 「当然の報い?」  ユーリの目が吊り上がる。 「状況的に無理だったけど、俺がスラムに行けていたら、ロッカはこちらに不信感を懐かなかった。ロッカにとっては母親がすべてだったんだ。一旦助けておいて、それなのに肝心な時に助けに来てくれないのなら、敵だとみなされても仕方がない」 「きみがそこまで背負う必要はないのではないか?」 「それは、俺の存在がオレガノとミクシアの国交正常のために使われるって意味で言ってる? それともパンデミアの件? いずれにせよ、地下街出身の子ども一人の行動ですべてが変わるところだったとでも言いたいのか?  言わせてもらうけど、俺がいようがいまいが、サシャが生きていようがいまいが、ミクシアとオレガノの国交正常ができなかったとして、それはそっちの力不足だったってだけの話だ」  そもそも、そのほうがパンデミアを防ぐ方法がいくらかあったんじゃないのかと継ぐと、リュカが大袈裟にぱんぱんと手を叩いた。 「はい、熱くならない。あなたの言い分は尤もだし、でもレナトの言い分も一理ある。  背負う背負わないではなく、それがSig.オルヴェのスラム街に対する誠意の見せ方だったってことだよ。だからこそスラム街の住人たちが潜伏に協力したのでは? 彼らをあそこまで動かせるなんて、相当な信用を勝ち取らなければ無理だよ」  冷静な口調で言うと、リュカがつかつかとユーリの元に歩いてくる。少し呼吸を整えて、また丁寧に礼をした。貴族らしい佇まいと仕草に、そしてなにも言わなくても理解を示してくれる様子に、徐々に溜飲が下がる。 「数々の無礼、謹んでお詫び申し上げる、Sig.オルヴェ。あなたの怒りはノルマに対する諸々の悪感情を抑えてまで、どうにかパンデミアを食い止めようとしてくれたからこそだと思う。ただ純粋にスラム街やミクシアの住人を救おうとしてくれたんでしょ、情けないことにミクシアの誰もがそれを思いつかなかった。出世のため、地位や名誉のため、金のため。大問題だよね」  リュカがいたずらっぽく肩を竦めてみせた。 「それにぼくらがどう動こうが、誰のことを探っていようが、あなたには無関係だ。あなたは自分が駒のように動かされたのが腹立たしかったんでしょ? ぼくもあなたも、目的は違う。でもきっとその結果は同じようなところにたどり着くと思うんだ。協力してくれとも、知恵を貸してくれとも言わない。あなたはただ、あなたの思うように動いてくれればそれでいい。  その計画をぼくらにも少し手伝わさせてほしい。もう駒として使おうともしないし、あなたを奴隷のようには扱わせない。これは約束じゃない、契約だ」  互いが反故にした場合の罰則も一緒に考えようと、リュカが継ぐ。ユーリは胡散臭そうにリュカの話を聞いていたが、どこか面倒くさそうに眉を顰めて前髪を掻き上げた。 「ぺらぺらとよく回る口だなァ」  ニヤリと口の端で笑ってみせる。リュカもまた、小首を傾げて肩を竦めた。 「ぼくはあなたの論文をもとに緩和剤を作っただけだからね。相手のキングを取るのはあなたの役目。おいしいところを掠め取られるのはもう嫌なんじゃないの?」 「協力はしないし、手の内は見せない。そもあんたらを信用しない。それでも手伝わせろって?」 「信用は結束や親交を深めてこそ生まれるものだ。今日会ったばかりの相手を信用しろだなんて言わないよ。  もちろんそれがあなたの経験則だということはわかっている。だからぼくは、ぼく自身は、あなたから信用を損ねるような真似をしないと誓うよ」  レナトたちは知らないけどと、リュカが言う。癖が悪い人だとアレクシスが唸るように言った。 「お言葉ですがね、ガブリエーレ卿。オレガノは実害を被っているんですよ。Sig.オルヴェのおかげで助かったとはいえ、准将をハメた相手を追わないってのは、ちょっと」 「なに言ってるの? それを追うのはきみたちオレガノ軍と、エリちゃんたちだよ。この人には中和剤やイル・セーラに関すること以外関わらせない。関わったって危険が及ぶだけだ。  軍部や政府の尻ぬぐいはてめえらでやれ。なんのためにそこに手勢を入れさせたと思ってるんだよ。ねえ、レナト」  ドン・クリステンはやれやれと言わんばかりの呆れた表情のままで、まいったとでもいうように一度両手を広げてみせた。 「ユーリに好き勝手させないために一芝居打ったのが仇になったか」 「こちらとしてはピエタの下部組織も捕獲出来たし、裏切り者の炙り出しもできたから、僥倖だよ。あと、これはきっとオレガノのイル・セーラにも、普通のノルマにも理解ができない感覚だとは思うけれど、Sig.オルヴェは王制復権には反対っていうか、興味ないと思うよ。巻き込まれたくないし、触れられたくないって考えるんじゃないかな。  だから彼らの一族が第一王族だってことは、公にしないほうがいい。オレガノでも水面下で動いているように、その血筋が悪用されないとも限らない。……っていうか、たぶんその血筋が問題で、Sig.オルヴェは幼いころから狙われ続けたんだと思う」  覚えているわけないよねと、リュカが言う。 「それ、冗談でも、ふかしでも、誇大妄想でもなく、ほんとうなのか?」  ユーリのいうそれとは、ユーリたちが第一王族ではないか、という懸念だ。 「おそらくは、としかいえない。トート兄上とハピ兄上がご存命なら詳細を知っていたとは思うけど、あの二人は8年前の紛争が元で亡くなっているんだ」 「貴族なのにっ?」  ユーリが怪訝そうな顔をしたからだろう。リュカがそうだよと首を斜めに傾けた。 「意外だった? ガブリエーレ家は貴族だけれどほかの元老院とは少し立場が違う。アンナやセラフ、レナトもそうだけど、少数民族とイル・セーラ解放のために動いてきた家なんだ。  ミクシアが建国された折に最もイル・セーラを虐殺した家が貴族院……基、元老院の元になっている。イル・セーラが築いていたシャムシュ王朝最後の王であるアンリ王を処刑したノルマこそが、現王の血筋」  旧王朝とは教科書に書いてあったけれど、シャムシュ王朝という名は初めて聞いた。興味があるって顔をしているねと、リュカが笑う。 「誤解して欲しくないから言うってわけでもないんだけど、ぼくの家も、セラフの家も、レナトの家も、生まれた時からずっとそのことを教えられてきた。数多の犠牲の上に自分たちが成り立っている。地位、権力、金銭を振り翳して他人を蹴落とすのではなく、家にある財は少数民族や真に困っている人のために使いなさいってね。  だから二人の兄たちは、フォルスやパドヴァンの少数民族のために動いていた。いつかあそこを自治区にって、ずっと言っていたっけ」  議会に上っていたらしいんだけど、とあるイカレ貴族のせいですべてが一変したんだよねと、リュカ。アレクシスが驚いたように声をあげた。 「ガブリエーレ卿、それってまさか、ドン・レゼスティリって奴じゃないのか?」 「ご名答。さすがにオレガノは知っていたか」 「知っているもなにも、ミカエラの兄……レミエラがパドヴァンとミクシアの国境付近で紛争に巻き込まれたとき、確かにその名を聞いた。それにあそこにはひとりだけ恐ろしく不気味な男がいて、レミエラを見る目が異様だったことに気付いて軍事演習を注視して引き上げようとしていたんだけど」 「巻き込まれた――ってことね。彼はレジ卿を名乗っているけれど、養子の立場だし、しかも没落貴族の跡取りだった男とみても間違いない。別名をウィルフレド・デ・ラ・クルス。またはSig.オブリ。身バレを防ぐためか、デュークって呼ばせていた」  ユリウスも言っていたっけねとリュカが継ぐ。ユーリはユリウスが関わっているのだと聞いて、眉を顰めた。やはりサシャはなにかを知っていたのだろう。 「ユリウスとSig.オブリは協力関係にあったけれど、なにかを皮切りに拗れたみたいだね。だからユリウスはサシャ……あなたの兄を殺そうとした。なにがきっかけか知らないけど、ずっと執着していたみたいだ」 「そこまでわかっていたのに、なんでピエタや軍部は動いてくれなかったんだ?」  そう言ったあとで、ユーリははたと気付いたように責めたいわけじゃないとホールドアップしてみせた。 「動けなかったんだよ。敵が強大すぎる。場合によっては命を狙われるし、揉み消されること請け合いだ。  だからあなたのお友達――二コラ・カンパネッリが貴族院にある密書を届けに来た。友人を救ってほしいって。当時ぼくも兄上も仕事が忙しかったし、どうせ元老院を動かすには協力者が足りなさすぎるからって、静観していた。  でも、何度も、何度も届くし、挙句セラフからも協力を依頼された。彼女、ああみえて強情っぱりのくそ頑固だから、ぼくらが了承するまで粘られたよ。だからぼくの組織――エポカを使って調べさせてみたら、彼の父親であるジャンニ・カンパネッリも変死していることがわかったんだよね。それも、C区の収容所で重体に陥ったイル・セーラの処置をしたあとで」  それでレナトを巻き込んで、オレガノ軍にあなたのことを引き合いに出して諸々と調べさせた結果が、あなたたちの一族が第一王族で、その血筋を狙って誰かが王制復権を、そしてミクシアの国家転覆を狙っているのではないかという話になった。つらつらとリュカが言ってのける。  国家転覆を目論むあたり、相当にノルマに対する恨みを懐いているとしか思えない。通常それをやろうとするのは、イル・セーラかその他の少数民族だと考えるだろうけれど、じつはそれを目論んでいたのが没落貴族だった。あまりにスケールが大きい話だ。  ユーリは途中まで真面目に聞いていたけれど、壁に凭れ掛かって天井を見上げ、ぼーっとしていた。理解しがたい。というか、理解ができない。意味が分からない。それは単に、自分がいいように巻き込まれているだけなのではないかとも思う。アレクシスが横から「また現実逃避している」と突っ込んできた。 「まあそうなるよね。ぼくも何度も嘘だろって言ったよ。ねえ、エリちゃん」  リュカがエリゼに声をかけると、エリゼが白けた表情で肩を竦めた。 「ひどいんですよ、俺のご主人。この情報にちょっとでも誤りがあったら、もう二度と表に出させないし政務中心の仕事に切り替えさせるなんて脅しをかけてくるんです。それも貴族中心に色目使って情報取って来いとか、最低と思いません?」 「ノリノリで行ったくせになに言ってるんだ、エリちゃん。スパイをやってみたかったって志願しただろ」 「だから諸々忍び込んで、情報を取ってきたじゃないですか。俺が取ってきた情報なので、確実です」 「女装したエリちゃん、かわいかったなあ。ねえ、Sig.エーベルヴァイン」  アレクシスはそっすねと冷めた口調で言って、大げさな溜息を吐いた。ミカエラがいたたまれないような顔をするのが見えた。こいつは本当に誰でもいいんかいと言いたくなる好色さだ。ミカエラが無事なのは異様に強いからなんだろうと思う。不審そうな顔をしたからなのか、アレクシスが違うぞと白けた声で否定する。 「交渉含め、エリちゃんの護衛として一緒に調査に行ったんだ。可愛い顔してまあ怖い怖い。あまりの迫力に死にたくないからと向こうは簡単に吐くし、尋問しなくて済んだから楽だったけど、じゃあてめえ一人で行けよっていう、呆れの顔」 「あなたも大概でしたよ。この国の中枢連中は、オレガノを敵に回したくないがためにユーリたちイル・セーラにしてきたことを隠ぺいしてきたのに、それを全部暴露させたのはあなたじゃないですか」 「おっと、エリちゃん、それは言わない約束だぞ」  ミカが怖いんだよと笑うが、ミカエラは既に聞いていないと言わんばかりにアレクシスを睨んでいる。アレクシスはへらりと笑って、「国際問題になるほど暴れてはいないぞ」と明るく言った。  ミカエラはアレクシスに疑いのまなざしを向けていたが、その間もなにかを考えているようだった。常に冷静に、自分がどう動くことが最適解かを考えている。そしてそれを実行するのがアレクシスだ。ミカエラに足りない情報をアレクシスが寄越し、更にその精度を高める。このふたりはやはり厄介だなと思う。だからこそガブリエーレ卿やドン・クリステンが仲間に引き入れたのだろうと冷静に推測する。 「ガブリエーレ卿、オレガノの意見として、過去に起こった出来事――二人の兄上のことをいまさら追及するようなことは致しませんが、ミクシア出身とはいえ同族を貶めた男を、ドン・レゼスティリを捨て置くことはできません。ぜひ共に諸々の追究を」 「Sig.ベルダンティ、あなたって本当に発想が柔軟だね。前任の特使は1年半で病んで帰ったし、背後が背後なだけにビビって手を出そうとしなかったのに」 「父からそのように伺ったので、志願しました。ミクシアに住むイル・セーラのオレガノへの移送はずいぶん前から父が構想していたようですが、イル・セーラは本来なら生まれ故郷から離れることが少ない民族なので、それも不憫であろうと実行には移さなかったようです。  ですがそんな折に前王がイル・セーラを突如として奴隷化した為、オレガノはミクシアとの交渉を打ち切り、国交断絶せざるを得なかったと」 「なるほどね。19年も前のことだから、ぼくらの世代にはよくわからないことだよね。あなたはまだ生まれていないでしょ?」 「そうですね。ただ、調べていて不思議だったのですが、Sig.オルヴェはなぜ奴隷化宣言から収容所に連行されるまでに、4年のラグがあるのでしょう?」  みんなの視線が集まる。ユーリはボーっとしていたが、さすがにその視線に気付いて、眉間にしわを寄せた。 「な、なんだよっ? 収容所に連れて行かれたのは5,6歳くらいの頃だったと思うし、フォルスから出たことないんだからなにも知らないって言ってるだろ」  ミカエラが冷静な表情をそのままに、また踵を数回地面に打ち付けて音を出す。すぐさまドン・クリステンがまあまあと話に割って入ってきた。 「それに関しては現在調査中だ。先代とSig.オブリの関係を洗ったが、接点がない。先代が国医だったということもあり収容を免れていたか、或いは先代がなにか重大なミスを犯してきみとサシャを人質に取られたか」  ユーリは全くわからんと首を横に振った。 「そもそも収容所に連れて行かれた時のことなんて覚えていない」  そう言いかけて、ユーリはぞわりとした感覚が襲ってくるのを感じた。一瞬全身の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになったのを傍にいたアレクシスに支えられた。腹の奥から臓腑を抉られるような不快感と嘔気が込み上げてくる。口を塞いで呻くと誰かがユーリの背中を撫でた。 「大丈夫かね?」  またざわりとする。吐き気に呻く中、脳裏に映像が浮かぶ。家に攻め入ってきたのは、ピエタの高官が着る制服でも、以前見かけた軍医団の制服でもない。今日ドン・クリステンが纏っているのは、軍部の高官の制服だ。漆黒を基調に赤いラインがあしらわれた制服に、黒いオーバーコートを纏っている。あの日見たのは、この制服でもない。 「黒いハイネックに、ブルゾンっぽい制服」  ぼそりと言ったあとで、また嘔気が付く。吐くまでには至らないが、ユーリは息をあげながらその場にしゃがみ込んだ。気持ち悪いと呻く。 「それはひょっとすると、軍部ではなくアジェンテ(警察の意)か? あれを統率していたのは、確か――ドン・パーチェともう一人いたはずだが。生憎と当時の情勢には疎いのでね。  俺はこれで失礼するよ。心当たりをいくつか当たってみる」  ユーリの背中をポンポンと叩き、ドン・クリステンが部屋から出ていった。数回大きく呼吸をする。胃のあたりの不快感はまだあるものの、嘔気は消えた。リュカが目の前にしゃがみ込んでくる。 「それ、完全に心療内科の範疇だから。ぼくの知人に腕のいい医者がいるから、ちゃんと見てもらったほうがいい。エリゼ、あとでSig.オルヴェからカルマを没収しといて」  そう言ってのけた後で立ち上がり、元いた場所へと歩きながら、リュカが続ける。 「チェリオも言っていた。夢に魘されるんだって? ここは安全地帯だから、ゆっくり休むといいよ。脅威があるとしたら、そこにいるSig.エーベルヴァインくらいだね」  ミカエラがアレクシスを睨むと同時に、ユーリもまた上目遣いにアレクシスを睨んだ。本当に危険人物だ。  「おまえはもうSig.オルヴェに近寄るな」とミカエラが冷静な口調で言う。また妙な動悸が打ち始めた。カルマでなんでも対応できるとは思っていなかったが、それよりも自分にまだ繊細さが残っていたことに驚いた。  ミカエラがガラス製のコップに入った水を手渡してくる。じろりと見据えたからだろう。毒は入っていないというようにその水を少し飲み、自分が口を付けた場所をナプキンで拭ってからそれとは反対側をユーリのほうに向けて差し出した。気持ち悪さには勝てない。いつもならもう少し様子見をするが、ユーリはそのコップを手に取った。ほんの少し啜ってみる。水だ。若干レモンとミントのような味がする。ユーリがミカエラを注視したからだろう。表情こそ変化はないが、瞬きの数が増える。 「この水、オレガノでよく飲まれるの?」  ミカエラの瞳孔が開く。ユーリがまともに会話を試みたからだろうか。 「ハーブウォーターはオレガノではメジャーです。我が家は両親の趣味で様々な薬草、香木を栽培しているので、こちらでも使用できるよう持参しました」  リラックス効果がありますとミカエラが継ぐ。ふうんと相槌を打って、コップを揺らす。飲んだことのある味だ。 「隠し味になにか使ってる?」 「岩塩を少々。それとハーブウォーターを作る際には、イェルナと鋳物で水を清め、これには乾燥したレモンバームを入れてあります」  なるほどと思う。小さい頃に両親が作ってくれたこの味はよく覚えている。ユーリはもう一度水を啜り、懐かしさを噛みしめた。  ところでとミカエラが話しかけてくる。 「なぜあれほどにまで処刑をと望まれたのですか?」  ユーリはそう問われて、呆気にとられた。はっ? と声が上がる。アレクシスも慌てたようにミカエラの腕を引っ張った。 「バカ、せっかく機嫌が直ったのに最大級の爆弾落とすやつがあるか」  ミカエラは言われた意味を理解していないようだ。表情こそそのままだが、きょとんとしているのがわかる。 「あんたの手術のためにサシャの心臓を使わせてもらったし、そもそれはミクシアで認可されていない手術であり、そのあたりは法律的にグレーだったけど、イル・セーラの倫理的に親族殺しはいかなる理由でも禁忌だから、法律上の処刑を免れたら諸々引き合いに出して嫌がらせと罪滅ぼしで死のうとしてた」  あんたもイル・セーラなら察しろよと突っ込んだが、ミカエラはますます言われている意味が分からないという顔をした。 「それは連中の思うつぼなのでは?」 「こっちの権利を手に入れることが目的なら、死んだらなんにもならねえだろうが」  「ああ」と、ミカエラが納得したような声を出した。「理解しました」と言いながら、リュカに呼ばれるままに行ってしまう。“理解”しました? ミカエラのセリフに違和感を懐き、アレクシスに視線をやると、「すまん」と口元だけで言われた。 「子どもの頃から軍部にいたせいか、感情の機微がわからんらしい」  ユーリは冷めた目でもう一度ハーブウォーターを啜った。やっぱり懐かしい味がする。オレガノではメジャーだと言っていたが、そういえばフォルスでは“ユーリ”しか作っていなかったような気がする。オレガノに度々出掛けていたらしいから、それで覚えてきたのだろうか。  ミカエラはリュカから書類を受け取り、なにかを話しているようだ。相変わらずの無表情で 、なにを考えているかわからない。 「俺が処刑してくれって言った理由も、じつはあまり理解できないってこと?」  アレクシスが「たぶん」と言って、ユーリの横にしゃがみ込んだ。壁に身体を預けて、面倒くさそうに小さく息を吐く。 「まあ、悪く思ってくれるなよ。さっきも話したように、8年前に兄上が殺されてから、ずっとあんな感じなんだ。子どものころにはまだ年相応の可愛げがあったけど、いまじゃ誰がどう動けば一番犠牲が少なく済むかを考えている」 「ああ、だから地下街にいきなり踏み込んできたの? ほかにやりようがいくらでもあっただろ」 「こっちはあんたと違って、諸々立場ってもんがある。自由にできる“元奴隷”さんとは違うんだよ」 「じゃあ放っておいてくれればよかったんだ。ピエタの下部組織が乗り込んでくることなんて、そんなもん分かってた」  アレクシスが怪訝な顔をした。ユーリはそれをじろりと睨んで、コップの中のハーブウォーターを飲み干した。 「せっかくどこにアジトがあるのかを見極めようとしていたのに、余計なことしやがって」  協力どころか足を引っ張っているんだと吐き捨てる。 「それをされると困るから、こっちだって」  アレクシスがそう言いかけた時、ミカエラが急にフリーズして持っていた書類を取り落とした。書類が床に散らばる。リュカが大丈夫? と声をかける。アレクシスもまた、ミカエラの珍しい行動に驚いたようだ。目をまん丸くさせている。ミカエラが手のひらの汗までわかるような焦りの色を浮かべているのが見えた。いままでほとんど表情を崩したことがなかったから、ユーリもまた目を瞬かせた。 「わたしはなんということを」  ぼそりと声がしたかと思うと、ミカエラはすぐにしゃがみ込んでその書類を拾い上げた。リュカに一礼をしてこちらに戻ってくる。そしてアレクシスに書類を突きわたすと勢いよく頭を下げる。 「考えが至らず、申し訳ありませんでした、Sig.オルヴェ。  なぜあんなにも処刑を望まれたのかが理解できなかったのですが、もしかすると、手術やドナーの件が法に抵触している件や、イル・セーラの習わしに関しては詭弁で、手術のためとはいえ兄上を犠牲にせざるを得なかったこと、あなたの治療の甲斐なく亡くなった人たちや、スラム街で爆発事故が生じた際にすぐに駆け付けて人命救助ができなかったこと、そしてセラフやドン・アリオスティがアレヴィ大元帥に接触するために西側に赴き、未だ戻ってこないことに対する罪悪感から処刑をお望みになったのでは? そうだとしたら、すべてあなたの責任ではありませんよ」  唐突に言われて、ユーリは二の句を継ぐことができなかった。ミカエラがユーリの前に片膝をついて座る。無表情のままなのに、どこか微笑んでいるようにも見えて、ぼろりと涙がこぼれた。それに気付いて、ユーリは慌てて涙を拭った。 「べつにそんなんじゃない」 「ならばわたしも処刑をと望まなければなりませんね。この心臓が自分のものではないと、目が覚めた時から薄々感じていましたし、この手術を施した方はとても思慮深い方だと傷口の小ささからすぐに思いました」  そしておそらく、その方はドナーに対しても手術に対しても悔恨をいだいているのではないかと。そう付け加えられて、ユーリはふいと視線を逸らした。二コラも気づかなかったというのに、見透かされた。涙があふれてくるのを拭いながら、ユーリはそうじゃないと顔を背けてもう一度告げたが、ミカエラは納得がいったというような顔をしているのが視界の端に映る。 「法律を変えましょう」 「なんとっ?」  アレクシスが驚いたような声をあげた。 「そもそも旧体制の法律のままにしているのが悪い。多国籍国家とはいえ大半の住人はイル・セーラなのだから、生体移植を施す医者も、施される患者も、そしてドナーもイル・セーラである比率が多いはず。医師とドナーが親族であるケースも今後出てこないとは限らない」 「待て待て待てっ、なんでおまえは極端から極端に走るんだっ」 「そもそもオレガノが生体移植を始めた時に、きちんと明確な線引きをしておけば、Sig.オルヴェがここまで懊悩されることはなかった。ミクシアの杜撰な言い分はともかくとして、オレガノはたとえ患者が治療の甲斐なく亡くなったとしても、それを罪とすることはないと周知しておかなくては」  アレクシスがミカエラの腕を掴む。「マジで落ち着け」とアレクシスに言われ、ミカエラは真顔で「落ち着いている」と返す。床に座り込んだまま涙を拭うユーリに触れようともせず、ただ落ち着くのを待っているかのようにその場にいるだけだ。サシャならこういう時になにも言わず抱き締めてくれていたけれど、サシャじゃない。目の前にいるのはミカエラなのに、まるでサシャがそうしているような気がして、――。腕で顔を覆ったまま、声を殺して涙をこらえたが、無駄だった。嗚咽と共に次から次へと涙があふれてくる。 「あんたがそんなこと言ったら、もう処刑だなんだって騒げなくなるじゃないか」  人の気も知らないでと文句を言うと、ミカエラが「配慮が足りませんでした」と静かな口調で言った。その声はまるでサシャが自分を諭す時の声のようで、声色も、声質も全然違うのに、涙が止まらなかった。口の中でサシャを呼ぶ。目の前にいるのに、触れられない。その現実が苦しくて、辛くて、だからこそ処刑を望んだというのに、その逆を指摘されることを考えていなかった。遠くからリュカの暢気な声が聞こえてくる。  通信の相手はエリゼのようだ。 「Sig.ベルダンディがまとめてくれたって、レナトに言っておいて。ついでに役立たず、ともね」  アレクシスの明朗な笑い声が降ってくる。 「俺も親族いねえし、頼れるのはレミエラだけだったから、なんとなくわかるなあ。  ミカがヤバかった時のことは必死過ぎて覚えてないけど、助かったって聞いて、安堵した。常に命のやり取りをしている側だからそこまで深く考えなくなったってのもあるかもしれないけど、そこはミクシアとオレガノの違いもあるのかもしれないな」  頭をわしわしと撫でられる。ユーリはその手を払いのけて、分かったように言うなと涙目のまま睨んだ。 「エリちゃんが言っていた通り、やっぱり同族じゃないとわからないこともあるんだよね。  Sig.オルヴェ、いまは叶わなくても、そのうちに南側のスラムにいた仲間たちとの面会ができるようにするよ。必ず。だからもう、処刑して欲しいなんて言わないでよ。ぼくはあなたからいろいろ学びたいし、あなたといい関係を築いていきたい。ミクシアも、ノルマも、イル・セーラも関係なくね」  ユーリは返事をしなかった。声が出そうなほど大げさな溜息を吐いて、両腕で顔を隠す。 「上流階級の考えることはほんっとにわかんない」  「やっぱり協力はしないけど、手伝いたいなら好きにしたらいい」とぼそぼそと言ってのける。向こうからリュカの笑う声がした。 「じゃあ遠慮なく手伝わせてもらうよ、Sig.オルヴェ。あなたは中和剤の開発を、ぼくたちは誠意をもってあなたや先代を陥れようとしたその没落貴族を追う。そこに優劣も格差も、もちろん種族同士の隔たりや身分の差もなく、ぼくたちはフラットな関係だ。いいね」  ユーリは少しの間黙っていたけれど、自分を落ち着かせるように一呼吸を置いた。涙を拭い、それが落ち着くのを待ってから、小さく頷いた。 ***  いつのまにか涙腺がゆるゆるになっている。思いの外ダメージを受けていたのかなんなのか、情けなさすぎると口の中で呟いて、ユーリは一階にある洗面所でバシャバシャと顔を洗っていた。窓の外から人の声がするのに気付いて、蛇口の水を止めた。タオルで顔を拭きながら窓の外に視線をやる。ドン・クリステンだ。大学の裏山で出会った時に一緒にいた補佐官ではない相手と一緒にいる。  さっきはミクシアに帰ると言っていなかっただろうかと思いつつも、彼の様子を窺う。話しているのは村に住んでいる男性のようだ。なにかを探るようにと指示を出している。少し距離があるせいでよくわからない。こういうときにチェリオならわかるのだろうけれどと思いつつ、壁に身を寄せて唇の動きに集中する。  村に住んでいる男性が死角に隠れるためかこちらの壁際に寄ってくる。しめたと思ったけれど、洗面所にいることがバレることを懸念して、その場に座り込んだ。 「ガブリエーレ卿が連れてきた例のイル・セーラはここにいる」  はっきりと声が聞こえ、ユーリは息をのんだ。 「でも警備が厳重だし、事を起こせば面倒なことになりますよ」 「なに、騒ぎを起こせとは言わない。探ってくれればそれでいい。例のイル・セーラがなにをしようとしているのか、どう動こうとしているのか、それが分かれば構わん」 「騒ぎはごめんですよ、ガブリエーレ卿はああ見えて鋭いし、職を追われることになりかねません」 「もしそうなればこちらに来ればいい。悪いようにはしない」  ドン・クリステンが言うと、男性はやや気まずそうな声で「勘弁してください」と苦笑を漏らす。 「きみは例の医学書を探してくればいい。ガブリエーレ卿の書斎か、例のイル・セーラの部屋にでもあるだろう」  医学書と言われても正直ピンとこなかった。その男性も的を射ないような声色で、俺にわかりますかねというのが聞こえてくる。 「俺は君にいくつも貸しがある。忘れてはいないだろう」 「そりゃあ、忘れてはいませんけど。ただ、面倒ごとはごめんですよ。どの医学書なのかくらいは教えてくださってもいいのでは?」  そう言ったあとで、男が怯んだような声をだした。壁に手を突くような音のあとで、まるで地を這うような低い声がした。 「君が起こした傷害事件はまだ時効が成立していない。それを蒸し返されたいのか?」 「か、勘弁してくださいよ。俺はノルマ語を読めたとしてもほかの言語に精通していないんですから」 「ならば彼を取り込んで聞けばいい。君のようにイル・セーラを性的対象にしていない相手にならころりと騙されるはずだ」  自分のことを言われているのだとわかる。眉を顰め、なにを企んでいるのかと考える。ガブリエーレ卿の館にある荷物といえば、オレガノの駐屯地から運び出したものと、そうでなければガブリエーレ卿の書物コレクションだろう。口ぶりからしても、この男性は館に入り込める権限がある。ただの村人を装っているのか、それとも本当に村人なのかはわからない。そう思っていると、男性がわかりましたと声を絞り出すように言った。 「ああ、そうだ。例のイル・セーラが抵抗をしてきたら使え。このことは他言無用だ」  ドン・クリステンが男になにかを手渡したのか、怪訝そうな声がした。けれど命が惜しいのか、それがなんなのかを尋ねるようなこともしない。壁際に身体を寄せたまま窓のほうに視線をやる。ほんの少しだけれどドン・クリステンの姿が見える。 「奴隷だった頃のアレに触発されなかった相手はいない。君も試してみるといい。きっと気に入る」  男性がごくりと喉を鳴らす。ユーリはその言葉に怪訝そうに眉を顰めた。自分がまだ収容所にいた頃、ドン・クリステンはオレガノにいたと言っていなかっただろうか? 不思議に思っていると、不意に体勢を替えたドン・クリステンの表情が見えた。いつもの穏やかそうな表情はまるで張り付けたような異質さがある。目の奥にはあからさまな侮蔑が孕み、イル・セーラを食い物にしてきた男たちと同じ目をしていた。ぞわりと体の芯から悪寒が込み上げてくるのを感じると同時に、喉が締め付けられるような不快感があがってくる。  ドン・クリステンが去っていくような足音がする。ユーリは徐々に自分の呼吸が荒くなるのを感じながらも、必死にそれを抑えようと口元を押さえていた。裏手にいた男が移動していくのが足音でわかる。ふと洗面所のドアがノックされた。 「ねえ、ちょっと、大丈夫?」  リュカの声だ。ドアが開いたかと思うと、リュカが心配そうな面持ちで入ってくる。 「顔を洗いに行くだけって言っていたのになかなか戻ってこないから」  そう言いかけて、リュカがこちらに駆け寄ってきた。 「なにがあったの?」  明らかに心配の色を浮かべて尋ねてくる。自分はそんなにひどい顔をしているのだろうかとと思ったあとで、納得する。声が出ない。また息が吐き切れない呼吸になっているのに自分で気付いた。遠くで車が走り去る音がした。 「軍用車の音? レナトが別の誰かもここに連れてきていたってこと?」  今度来たら問い詰めてやろうとリュカが言う。ユーリは喉が詰まるような息苦しさを感じながらも、リュカの腕を掴んだ。 「あの人、本当に味方なのか?」  リュカが怪訝そうに眉を顰めた。 「怪しい動きはしているけれど、ぼくたちに危害が及ぶようなことはしないはずだよ。彼にしか入り込めない部分を探っているだけだと思いたいけれどね」  そうかと誰に言うともなく呟いた時だ。表から男性の悲鳴が聞こえた。リュカが慌てて外に出たあとで、ジジ! と大袈裟な声がする。ユーリもふらつく足をなんとか奮い立たせて表に向かう。ジジが村に住んでいる男に馬乗りになっていた。 「ジジ、どうしたの?」  ジジが男のポケットを探り、遮光瓶を取り出した。男がそれを取り返そうとしたが、ジジが男の首を掴んで簡単にねじ伏せる。その瓶を持った手をリュカに伸ばす。リュカが怪訝そうに眉を顰めた。 「これは?」  ジジがノルマ語でなにかを言ったけれど、アクセントもイントネーションも無茶苦茶でまったく聞き取れない。 『なにかの薬物か?』  ユーリが問うと、ジジが眉間にしわを寄せて、ユーリの手を振り払った。 『イル・セーラ、触っちゃダメ』  そう言われてざわりとする。イル・セーラが過剰反応を起こす薬物と言ったら、ひとつしかない。 『ルツィナシオ。においでも酔う。でもプロエリム、ノルマ、効かない』 「ジジはなんて?」 「イル・セーラにとって毒になる薬品だって」  リュカがすぐさまそれをジジから受け取り、村人を見下ろした。 「あなた、少し前にここに来た人だったよね? なんの真似?」 「そ、そんな薬品だなんて知らなかったんだ」  慌てたように言う男を見下ろして、リュカはジジに上から降りるように指示をした。ジジもそれに応じる。 「これは没収。ぼくの領地内でいざこざを起こすっていうことがどういうことか、思い知らせてあげたほうがよさそうだね」  不敵に笑うリュカを見て、男がひいっとのどを鳴らす。リュカは男の手を引いて体を起こさせると、服に着いた草をぽんぽんと叩きおとした。 「あなたにも立場があるだろうから、この薬物は没収させてもらうけれど、指示されたように動けばいい。ただし言っておくけど、この村の人に手をだしたり、Sig.オルヴェに手をだしたり、なにか騒ぎが起きるようであれば、あなたと、あなたの一族郎党命はないと思ったほうがいいよ。ぼくはね、人付き合いをあまりしない分、守ると決めた相手に火の粉が降りかかるなら全力を出すタイプだから、気を付けて」  あまりの迫力に、男が頷いた。何度も頷く。リュカはすぐさま人懐っこい笑みにすり替えて、男を解放した。男が怯んだような声を上げながら自分が住んでいるのであろう館のほうへと走っていく。それを眺め、リュカがジジに声をかけた。 「彼を動かしていた相手と情報を探ってこい。彼は殺さなくていいし、相手も殺さなくていい。探るだけ。わかった?」  ジジは詰まらなさそうに眉間にしわを寄せた。 『返事は?』  リュカがステラ語で、語気を強めたからだろう。ジジが急にぴしっと背筋を伸ばした。 『Si,Sig.』  ジジが男の後を付けていく。リュカのステラ語はネイティブのそれではないと自分にはわかるものの、普通に聞き取れるレベルだ。ノルマ語を主言語とするノルマの場合、よほど練習するか、ネイティブレベルの人間がそばにいるかしない限り、習得することすら難しい。おそらくエリゼが教えたのだと思うけれど、やっぱりリュカはただものじゃないなと感じた。  

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