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Eleven(1)

 チェリオはロレン達と共に北側のスラムへと戻っていた。厳戒態勢が敷かれた際には、少しでも感染者と思しき者は問答無用で射殺されたと聞き、地下街に潜伏しておいてよかったなとロレンの勘の良さに救われた思いだった。  スラムに戻れると聞いてネイロは残念そうだったが、向こうで何事もないと限らないため、キルシェやラカエルとともに残してきた。東側と北側を隔てる壁は厚く、少々暴れた程度では破られないのだが、それ故に向こうにスパッツァがいないとも限らない。  チェリオはファリスを呼んで足場を作らせた。おらよと乱暴に言って両手を組んで合わせる。ミカエラが不思議そうにそれを眺めているのを横目に、チェリオが声をかけた。 「まだ門開けるんじゃねえぞ」  そう前置きをして、ファリスの手に右足を掛ける。手が外れないことを確認し、ぐっと踏み込んで、飛び跳ねると同時にファリスが勢いよく手を振り上げる。てこの要領だ。そのままひらりと壁上に飛び移り、勢い余ってこけないように体勢を整えた。  東側の門の向こうを覗き見る。感染者はいないが、住人と思われる相手と目が合った。北側の住人が増えてきたため、希望者は居住区に戻ったと聞いているが、彼がそうなんだろうかと思い、眺める。向こうも不思議そうにこちらを見ている。ウーノ地区の住人とはあまり面識がない。 「なあ、そっちは特に変わりねえか?」  壁の上にしゃがみ込み、尋ねる。男が手を振る。なにも聞こえない。 「なんて?」  そう尋ねたとき、視界の端でちかっと何かが光った気がした。銃弾が鼻先を掠めるほどそばを通っていく。チェリオは慌てて体を反らして、銃弾が飛んできた方向を見た。土気色の肌の男がアサルトライフルを構えているのが見えて、チェリオは本能的にやばいと察して北側のスラムに飛び降りた。 「おい、大丈夫か?」  ロレンが尋ねてきた。 「は、鼻ついとるっ?」 「こりゃ大変だ、高さが減っとるぞ」 「元々そんな高くねえわ」  うるせえぞ鷲鼻とファリスを蹴る。いまのは? とミカエラが冷静に尋ねてきた。 「たぶん、スパッツァと思われる奴がアサルトライフルで攻撃してきた」  ミカエラの眉間に皺がよる。 「そういえば以前にも、物を武器に攻撃してきた者がいると報告が上がっていたな」 「ああ、それ、俺も見た」  ニコラが殺したやつと継ぐ。数秒置かないうちにまた銃声がした。今度は悲鳴も続く。 「チェリオ、おまえは銃を扱えるか?」 「ンなわけねえわ。スラム街で獲物なんか持ってたら、即処刑なんだぞ」  ミカエラは少し考えるように口元に手を当てて、トントンと踵を鳴らす。すぐに「他に人影は?」と尋ねてくる。 「たぶんなかったと思うけど。反対側はウーノ地区の行き止まりだし、そっから攻めるより、いい方法がある」 「おい、チェリオ」  ロレンが首を小さく横に振った。教えるなと言いたいのだろう。 「ここを開けて、向こうに獲物持った奴がうようよしていたら、門の開閉だけで詰む可能性がないともいえない。もうしょうがねえだろ、ミクシア軍の所属っつったって、オレガノの人間だし関係ねえよ」  こっちだと言って、ノーヴェ地区の連れ込み宿へと案内する。オレガノ軍が駐屯地にしている北側のピエタの派出所前を通るが、既に移動した後なのかがらんとしている。 「オレガノ軍は下流階層街の警備にあたっている」  尋ねてもいないのに、視線で気づいたのだろうか。ミカエラが言った。あっそうと素っ気なく言って、そこを通り抜ける。チェリオ一人だと屋根を飛び越えて行ってしまうが、そういうわけにも行かない。案外この街も広いなと内心しつつ、ノーヴェ地区の連れ込み宿まで急いだ。  ノーヴェ地区の裏路地に入る頃には、また街の雰囲気が一変した。遺体がそこら中に転がっている上に、いまにも死にそうな連中がゴロゴロいる。自分たちが地下街に潜伏する前よりもひどい状態だ。ミカエラがそれを横目に気にしているようなそぶりを見せた。 「なぜ軍部は彼らを保護しない?」 「知るかよ、スラムの連中だからだろ。ミクシアはそんなもん。オレガノと違って誰もが平等なんてこたねえの」  ミカエラが立ち止まった。振り返り、まだ息のある連中に視線をやったあとで、くしゃりと前髪を揉んだ。さすがに置いていくわけにもいかず、ミカエラに駆け寄る。 「ほっとけよ、こいつら全員スラムの連中だ。政府と軍部の干渉を受けない代わりに、自分たちで生き延びてきた背景がある。だから軍部が放置しているだけだ」  あいつらに悪気があるわけじゃないと強い口調で言ったが、ミカエラはどこか納得のいかない表情だ。ファリスも立ち止まり、ミカエラに声を掛ける。 「どうした、坊ちゃん。この程度でビビってたら向こうはもっと悲惨だぞ」  ニヤニヤしながらファリスが言ったが、ミカエラは「そうではない」と素っ気なく言って、腰につけている無線機を取って起動させた。  聞いたことがない言語で誰かに指示をしているようだ。2、3やりとりをして、通信を切った。通信機をホルダーに収めると、チェリオ達の方へと向き直る。 「すまない、足を止めた」  チェリオが驚いたように目を見開いた。こいつ、意外に素直に謝れるのかと思う。まあいいけどと言って、ノーヴェ地区の連れ込み宿へと向かう。  入り口のドアは破壊されていた。ぐちゃぐちゃだ。部屋の中もかなり荒らされ、ユーリと遊んだベッドもぐちゃぐちゃに乱されている。奥で人が死んでいる。北側に残ると行って地下街についてこなかったオット地区の女性だ。犯されたのか衣服はなにも纏っていない上に、腹を食い破られている。チェリオはまだ入るなと言って、ベッドの上のシーツをその女性にかけた。  幸いなことに地下通路に通じる壁は無事のようだ。そりゃあこんなとことが動くとは誰も思わないだろう。チェリオはその壁をこじ開けた。狭い通路がのぞく。 「俺が後で閉めるから、一人ずつはいりな。ロレン、先導してもらっていい?」 「おう。坊ちゃんは土地勘ねえしな」 「その坊ちゃんというのはやめてもらえないか? ミカエラでいい」 「よかねえだろ。俺らまで准将殿と呼ぶわけにもいかねえしな」  口々に言いながら地下通路への道を通っていく。チェリオは壁を元に戻し、バックパックを漁ってライトを取り出した。ドン・クリステンからもらった軍部のものだ。流石に性能が良く、むちゃくちゃ明るい。 「こんな通路が」  ミカエラは相変わらず無表情だが、興味深そうな声色だ。辺りを見回している。さすがにこんなところに誰もいないだろうと思っていると、微かに呻き声がした。声のした方にライトを向ける。そこには数人が身を寄せ合うようにして震えているのが見えた。  顔色は普通、呼吸の様子もおかしくない。けれども異様に痩せていて、ガタガタと震えている。すぐさまミカエラが近づいた。 「大丈夫か?」  そのうちの一人がうなずく。 「こいつら、セッテ地区の奴らだ。なんでこんなところに?」  ファリスが尋ねると、反応した男が声を震わせながら言った。よく見ると、ノンナの一人息子・オスロだった。 「あいつらから逃げる途中、どこにも逃げ場がなくて、無我夢中で格子を掴んだらそこが開いたんで逃げ込んだんだ」  チェリオがちっと舌打ちをした。秘密の通路を通ったら、絶対に鍵を閉めろとルールを設けている。そもそもスラム街の住人と雖も、全員がピッキングができるわけでもなければ、秘密の通路の鍵を持っているわけでもない。鍵を持っているのは酋長であるロレンと、各地区のボス的な役割をしている連中だけだ。チェリオはデリテ街のトップでもある立場を利用する以前から、ピッキングでその秘密の通路を好き勝手に利用しているが、ロレンの甥という立場もあり、黙認されている部分があった。 「誰だよ、最後に鍵閉めなかったやつ」 「俺じゃねえぞ」 「キルシェは有り得ねえし、俺でもない」  チェリオは記憶を彷徨わせ、ハッとした。 「俺じゃん!」  ネイロが歩いて着いてきていたこともあり、つい閉めるのを忘れていた。そう言ったらロレンに勢いよく叩かれた。 「閉めろっつってんだろ」 「まあ結果的に人が助かったんだからいいだろ」  へらりと笑って誤魔化す。笑い事じゃねえともう一度頭を叩かれた。ロレンとじゃれている間にも、ミカエラは冷静に彼らの観察をしていたようだ。オスロは特に問題がなさそうだけれど、その横にいる少年は浅い呼吸で、詰まったような息をしている。見るからに顔色が悪く、ガタガタと震えているようだ。ミカエラが男の額に手を当てて、チェリオを見上げた。 「一旦壁を開けてくれ。このままでは命の危険がある」 「はあっ? 負傷者の面倒見るまでは契約にねえぞ」 「Sig.オルヴェならそうする」  ユーリの名前を出され、舌打ちをする。チェリオは言われたとおりに壁をこじ開けた。ミカエラは周囲の警戒を怠らず、無線機を繋いで誰かに指示を出しているようだ。 「しっかりしてんな、坊ちゃん」 「おまえより約2か月兄ちゃんらしいぞ」  ロレンに言われ、チェリオはマジかよと言った。軍部に所属しているから自分より年下はないだろうと思っていたけれど、まさかの同い年だったようだ。  通信を終え、誰かが壁を見張るように告げてこちらに降りてくる。すぐさまロレンが動いた。銃器の類を持つわけにはいかないが、ロンデル・ダガーならと借りた武器を構え、警戒を怠らない。壁周囲を見張るロレンに一瞥を投げたあとで、ミカエラが腰につけたポーチからピルケースを取り出した。その中の丸薬を飲むよう男に指示する。二人は意識があるが、もう一人はぐったりとして意識がない。ミカエラはその少年の頬を軽くタップしたが、呻き声も上げる様子がなかった。ミカエラは手袋のまま丸薬をつまみ、少年の口の中に押し込んだ。ぐっと喉が詰まるような音がしたが、飲み込んだようだ。 「それは?」 「Sig.オルヴェが作ってくださった、中和剤の改良版だ」  ユーリはようやく復活したのかと思う。あれからほとんど顔を合わせていない。暗い顔をしているか、寝ているか、水辺でぼんやりしている姿しかみなかったから、心配していた。  仕方がないとは思う。ずっとサシャとふたりで生きてきたと言っていた。そのサシャが、事情が事情とはいえ傍にいないのだ。口では大丈夫と言っていても、絶対に大丈夫ではない。あいつはそういうところの、自分の変化に気が付かないタイプだ。いつも人のことばかり優先して、キャパオーバーになるまでひた走る。  そういえば“八つ当たり”されたときも、いつもとは違った。余裕のなさや焦りのようなものを感じたし、人を惹きつける雲ひとつない空のように澄んだ瞳は、疑念や嫌悪感でくすんでいた。ノルマが嫌いだといいつつも、助けなくてはいけないという使命感に駆られて、そして自分が引き起こしたことへの責任感と重圧に塗れて、藻掻いているのはわかる。本当は、ユーリ自身の本音としては、もう何事にも関わりたくないんじゃないか、とも思った。  それが杞憂ならいいけれど、ユーリなら、自分の中にあるあらゆる感情を押さえ込んででも、人助けを優先する。それがたとえ自我の崩壊を招くとしてもだ。誰かがそこに気付いて、ユーリの“悪癖”を矯めるよう動かないと、そのうちになにかとんでもないことをしでかしそうな気がしてならない。  意識のない少年は、丸薬を飲まされても特に反応がなかったが、ほかのふたりはミカエラから渡された丸薬を口に含んだ瞬間に勢いよくむせ込んだ。ふたりが二人して苦みに呻くような声を出して、苦すぎるだのなんだのと文句を言いながら苦しんでいる。オスロがぐふっと嘔気付くように口元を押さえた。 「こ、これは毒か?」  毒殺されるのかと、オスロ。その様子を見たミカエラが少し驚いたような顔をしたが、すぐに持参していた銀製のカップに水筒の中の水を入れ、それになにかの蜜を垂らした。 「これで飲むといい。苦みが少し緩和される」  言って、ミカエラが二人にその水が入ったカップを手渡した。ふたりはそのカップの水を一気に飲み干して、丸薬の後味の悪さのためかおえっとえずく。 「え、あいつマジサイコパスじゃねえか」  この状況でいたずらする? とチェリオが呆れたような顔をする。ミカエラはすこしそわそわした様子だったが、ふたりに飲ませた丸薬を一粒手に取った。チェリオがおいと突っ込むよりも早くそれを口に運び、すぐにごほっと咳をして口元を覆う。少し眉間にしわを寄せているけれど、オスロたちほど騒ぐ様子がない。吐き出せばいいのに、育ちの良さが災いしているのか、それともユーリよろしく好奇心に勝てないのか、不快そうに咳をしながらもそれを飲み込んだのが分かった。やっぱりこいつもイル・セーラだなと思う。 「大丈夫かよ?」 「単純に薬草の粉末を固めるための“蜜”の性質によるものだと思うが、これは」  そこまで言って、ミカエラが小さく唸る。オスロたちよりは平気な顔をしているあたり、イル・セーラは総じて苦みに強いのかもしれない。とすると、ユーリと初めて出会った時に飲まされそうになったヤツも、苦かったのだろうかと邂逅する。 「彼らは、以前Sig.オルヴェが支給したものは飲んだのか?」  ミカエラの問いに、ロレンがガリガリと頭を掻いた。 「オット地区の奴らまでは大体は渡したが、家にいなかったり、拒否したりで、飲んでいねえ奴らが大半だな。セッテ地区に近い奴らはイル・セーラに対する差別意識が強くて、あの兄ちゃんが作った診療所に顔を出す奴らも少ねえ地域だ」 「俺らは飲んだが、こいつはたぶん飲んでねえと思う。前にイル・セーラを連れた男に親父と姉貴を殺されちまって、それからずっとイル・セーラを恨んでいたんだ。だから診療所を襲撃した時にもこいつも関わっていて」  オスロが言うと、「はっ?」とチェリオが声をあげた。 「許してやってくれ」 「イル・セーラを連れた男って? このガキ、イオが殺されたときに、なんも知らねえって言った奴だよな?」  俺の記憶力舐めんじゃねえぞと脅すように言う。少しの間、逡巡するような表情で俯いていたが、やがてオスロが話し始めた。 「俺らはたまたま見ちまったんだよ。その男がイル・セーラを連れて、普段使われていないもうひとつの地下通路に入ろうとしているところをな。  こいつの親父はそいつから金を渡されたが、チェリオに報告するって息巻いた途端にズドンだ。一緒にいた娘もろともな。偶然通りかかった俺らには、黙認する代わりにと金をくれた」 「そりゃどんなやつだった? 髪に強いウェーブのある、不気味な男か?」  チェリオが尋ねると、オスロは首を振って俯いた。 「すまねえ、すまねえチェリオ」 「いいから答えろ」 「そんな容姿じゃねえ。長身で、ガタイのいいやつだ。フードマントを被っていやがったから顔は見てねえが、髪は長くねえし、そうだ、左目の下に泣きぼくろがあった」 「……はっ?」 「嘘じゃねえ。目元より上は見えなかったが、相当な色男だった。俺はあれをどっかで見たことがある。たぶん、西側のスラムにコーサの親玉がぶち込まれる時だ。ピエタの高官が着るあの白い制服を纏った、あいつだよ、ほら。ドン・ヴェロネージ」  そう言われて、チェリオは眉根を寄せた。自分はドン・ヴェロネージの顔を見たことがない。見たことがないが、ドン・クリステンには確かに左目の下に泣きぼくろがある。まさかとは思ったが、この顔を嘘をついている顔ではない。 「もっと早くに情報提供してりゃこんなことになってなかったかもしれねえ。うちのおふくろを丁寧に看取ってくれたってのに、あの兄ちゃんには悪いことしちまった。だからバチが当たったんだ」  勘弁してくれとオスロが涙声で言う。チェリオは深いため息をついて、ガリガリと頭を掻いた。 「そりゃもう済んだことだ、悔やんでも戻らねえ。  本当に悪いって思ってんだったら、生きてあいつのために動け。Sig.カンパネッリに本当のことを話せ。したらあいつが上官に報告するはずだ」  もう一人の男がチェリオを呼ぶ。 「もうひとつ、隠してたことがある」  言って、男が声を顰めた。 「イオを殺ったのは、そいつが連れていたイル・セーラで、その時の目撃者と、同行者も、そのイル・セーラが殺した。遺体はトレ地区の地下通路に隠してある。見たことねえ面だったが、少なくともスラムとか下流階層の人間じゃねえ」 「面が割れねえように顔潰せって言われたんだが、いくらなんでもそんなことまでできなくて、そのままにしてある」 「マジかよ、やべえなそいつら。  ミカエラ、どうする? 先にそっち洗うか?」 「いや、カルケルを採取しにいく方が先決だ。先ほどのノーヴェ地区の遺体にも掛けておいたほうが無難だろう。そちらは別働隊に洗わせる」  ミカエラが少年を抱き起こし、軽々と抱え上げて連れ込み宿との境に向かった。チェリオもまたふたりに立ち上がるよう指示をしたが、背が低い方の男は立ち上がることができなかった。よく見たら片足の足首から下が異常に変色している。 「この足」 「逃げる時に怪我しちまったんだ」  オスロが心配そうに言う。チェリオは舌打ちをして、ファリスを呼んだ。 「おい、デカブツ。こいつ運んでやってくれ」 「あぁ? 俺ぁ好みの姉ちゃんしか抱かねえ主義なんだぞ」 「あとでたんまり金もらえよ。そのおっさんに金もらったらしいからな」 「か、勘弁してくれよチェリオ」 「るせえ、黙ってた罰だ。金なんか持ってたっていまはどうにもならねえだろうが」  ファリスはご機嫌な声で「さあおいでリタス札ちゃん」と言いながら男を担ぎ上げた。ミカエラみたく横抱きじゃなく、荷物でも持つような担ぎ方だ。現金なやつだと思う。  やがてミカエラの部下たちがやってきた。ベッドに座らされた男の足首の変色を見るなり、うわあと声をあげて眉を顰める。 「これ、切らないとダメなやつですね。多分膝下半分はイッてます」 「そのようだ。こちらで処置をしても良かったが、ベアトリスのほうが適切だと判断した」   「それは嬉しいですけど。うーん、下は骨自体もイッてそうだし、少々設備が欲しいところですね。あ、東側の診療所を借ります?」 「あそこは半壊だぞ」  そも、アサルトライル持ったスパッツァが徘徊しているとチェリオが告げる。ベアトリスと呼ばれたそいつは、さして困った様子もなくうーんと眉を顰めて、小さく息を吐いた。 「じゃあ物理的に麻痺させるほうでいくか」  さらりと言う。ミカエラが男の膝下5センチあたりを紐でキツく縛り上げた。もう1箇所、下腿の真ん中あたりも同様にする。ベアトリスが、持参していたカバンから分厚いレザーケースに覆われた試験管を取り出して、コルクキャップを外し、その中の粉を男の傷口にかけた。呻き声が上がる。 「痛いですよぉ」  遅いだろとチェリオが突っ込む。相当な痛みなのか、男は踠きながら脂汗をかいている。 「そこの大きいお二人、動かないように固定してもらっても?」  ベアトリスに言われ、ファリスとロレンが男をベッドに押し付けた。はい、これ咥えてと口の中に入り切らない大きさの布をいくつか丸めたものが連なったそれを男の口に押し込む。男の踵をベッドと同じ高さのチェストに置いて固定させ、下腿を縛っている布の下あたりに指を触れてなにかを確かめている。  「この辺りでは?」とミカエラが言う。「どっちですかねえ」と自分が触れていた部分とミカエラが指示した部分を触れて確かめたあとで、「准将殿に任せます」とからりとした口調で言ってのけ、腰に付けているダガーを取り出した。男の足と、見るからによく研がれた、切れ味の鋭そうなそれにミカエラが液体を撒いた。酒のようなにおいがツンと鼻を衝く。ベアトリスが手際よくダガーの背に布を被せる。 「顔を背けておいたほうがいい」  ミカエラが言う。ロレンとファリスはなにかを察しているかのように既に顔を背けている。チェリオは意味がわからず呆けていると、ベアトリスが笑みを深めた。 「いきまーす」  楽しげに声を弾ませたかと思うと、ベアトリスが男の足にかけたナイフに足を乗せ、踏み込むと同時に一気にダガーを押し込む。骨を断つグロい音と共に男が一瞬悲鳴を上げた。布の下で血が噴き出し、乳白色の布が一気に赤く染まる。それを見たチェリオはひえっと情けない声をあげた。  ミカエラが手早くその布を取り、男の足の切断面と、床に落ちた足の切断面を確認する。「問題なさそうだ」と告げると、ベアトリスがニヤリと笑って「残りの足が少し伸びてよかったですね」と言ってのけた。  そのままミカエラが手早く断面を薬剤で消毒して、布を巻きつけたあたりから縛るようにして布を巻いていき、ジェル状の薬剤をたっぷりつけたガーゼで傷口を保護しながら布を巻きつけていく。ガーゼは外側に何重にも重ねて、男の足はネイロが最初にされていたように不自然に膨らみガチガチに固められている。 「すげえな、これで悲鳴あげねえ奴初めて見た」  ロレンがいう。戦場では割と当たり前の光景のようだ。チェリオはおえっと言って胸を押さえた。ミカエラが布でくるんだ男の足をベアトリスに突き出した。 「グロいもん見せんなよっ」  批判めいた言い方をするチェリオをよそに、ベアトリスがそれを受け取って不敵な笑みを浮かべる。 「このくらい序の口ですよぉ。御遺体の処置をして回っていたので、綺麗な血が出るだけまだマシです」  うふふとベアトリスが笑うのを見て、ロレンとファリスが苦い顔をしながら顔を見合わせた。 「いるんだよ、軍医で、こういう奴」 「だぁな、ドン・クリステンもこのクチだろ。怖えのなんのって」  ファリスが嫌そうな顔をする。ベアトリスは何食わぬ顔で特殊な加工が施されたミリタリーバッグに男の足をさらに布でくるんで突っ込むと、立ち上がってミカエラに視線を送った。 「北側に運びますか?」 「いや、少し距離があるがウォルナットに運んでほしい。感染の可能性もあるし、Sig.オルヴェにお任せする」 「あれ、もしかしてその役目はぼくが仰せつかる感じです?」 「向こうに着くまで痛みを緩和するためにも、頼みたいが」  ベアトリスは少しの間ミカエラを注視していたが、眉根を寄せてふうと小さく息を吐いた。大袈裟に両手を広げて見せる。 「まあいいですけど。准将殿はすぐにぼくを前線から下げるんだから。大佐殿ばかり頼らないで、たまにはぼくのこともちゃんと頼ってくださいね」  心得たとミカエラが言うと、ベアトリスは約束ですよと笑みを深めた。  あたりを警戒しながらミカエラが連れ込み宿を出る。チェリオもそれに続こうとして、ドンと体を押された。ぶつかってきたのはスパッツァだった。部屋の中で保護した男が悲鳴を上げる。ミカエラの姿が見えない。慌ててあたりを見回した時、頭上からどけと声がした。  ミカエラがスパッツァの右腕を掴んで後ろに捻りあげる。嫌な音がした。男が呻き声をあげるのを、ミカエラがそのまま地面に捻じ伏せた。 「痛みがあるならまだ措置のしようがある。チェリオ、Sig.オルヴェはどのように判断していた?」 「あーっと。紫斑が出ているかどうかだ」  顔色が土気色でも痛みを感じるならまだ見込みがある。でも痛みを感じていないのと、また痛みがあってもなお抵抗しようとする場合はもう手遅れの可能性が大。濃い紫斑が出ていたらほぼ助からないとミカエラに告げる。  ミカエラは男の胸元を確認して、ほんの少し眉間にしわを寄せた。紫斑がある。 「これならまだ薄いほう。ユーリはたしか、例の丸薬を時間差で3つ以上飲ませろって言ってた。んで、紫斑のところにカルケルを砕いたものをなんかの蒸留水に混ぜたもので湿布していたな。紫色の、甘いにおいがするやつ」  チェリオが言うと、ミカエラがベアトリスを呼んだ。すぐに暢気な声がしたかと思うと、勢いよくなにかが飛んできた。ミカエラが方向も確認せずにキャッチをする。注射器だ。普段見る注射器の針よりも数段細い針を男に刺し、注意深く薬液を注入する。痛みに呻き、暴れようとしていた男の手足が物の数秒で地面に吸い寄せられ、落ちた。 「オレガノのやり方も怖えな」  ファリスが言う。男の意識がもうろうとしている状態であることを確認し、ミカエラが男の口の中に丸薬を突っ込んだ。ファリスが怖えことすんなと体を竦ませる。 「反射が出る程度に落としてあるから問題ない」  さらりとミカエラが言う。大問題だろとチェリオたちが突っ込みを入れる。オレガノの連中はやっぱりイカれてるぞとファリスが苦い顔をした。 「紫色の、甘い匂い。スコルーヴァか」 「へえ、おもしろいことを考え付きますね、彼。古典的な技法に斬新な発想を加えたら、そうなるのか。なるほど」  まあ、そんなものここにはないですけどねと、ベアトリスがにこやかに言う。 「仕方ありませんねぇ、ウォルナットに運ぶついでに調達してきます。  准将殿、また物資の無駄遣いをするって大佐殿に叱られないように、ご自重くださいね」  プリシピタルは高いですよぉと、男の血が付いたシーツや、ダガーを拭いた布などを黄色い袋に押し込みながら。 「オレガノの物資ではない」 「そうなんです?」 「ガブリエーレ卿がいくらでも使っていいから、とにかく死傷者を最低限に抑えろと」 「いましがた負傷者でただろ」  チェリオが真顔で突っ込む。ミカエラは言われている意味が分からないという表情をしたあとで、だらりと落ちている男の腕を掴んで動かした。またえぐい音がする。 「ぎゃっ、最悪だな! 追い打ち掛けんなよっ」 「関節を外しただけだ。折ってはいない」 「そもそも不全骨折なら折れた内には入りません」  ベアトリスが明るい口調で言ってのけたあとで、路地の向こうから近づいてくる隊員に手を振った。 「とりあえずこの四人をウォルナットに運んでくださいね。北側のノーヴェ地区の人たちはどうしました?」 「息のある者はSig.オルヴェから頂いた丸薬を飲ませ、元駐屯地に連れて行っています」 「了解。紫斑が出たら危ないみたいだから、よく観察して。暴れたら問答無用でプリシピタルを使って構いませんよ」  ベアトリスの隊員たちが男たちを連れて行く。その背中を見送って、ベアトリスがこちらに振り返った。 「では、准将殿。ぼくは護衛に行ってきまーす」 「頼んだ」  はいと元気良く返事をして、ベアトリスはまるで遠足にでも行くんじゃないかというような足取りで隊員たちを追っていく。チェリオは呆れたようにその姿を眺め、ガリガリと頭を掻いた。

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