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Eleven(2)
地下街に行く道中でやはりあのアサルトライフルを構えた男と遭遇したが、ミカエラがあっという間に……というか、まさに秒、一瞬で倒してしまった。
電光石火の早業で、さすがのチェリオでも目で追えず、気が付いたらアサルトライフルを構えた男がだらんとしていた。
普通にこっちに銃口を向けていたというのに、銃口の向きで自分には当たらないと確信しているかのように踏み込んでいった……ところまでは見えた。
「坊ちゃん、頼むから無茶すんな! 坊ちゃんになんかあったら、あのおっかねえイル・セーラにこっちが睨まれんだよ!」
ファリスが大袈裟な声を上げたけれど、ミカエラは真顔で「勝算がなければ踏み込まない」と言って、地面に落ちているアサルトライフルを指さした。
「この型式は8発までしか銃弾が装填できない仕様になっている。最初に3発撃った。そのあとに我々と遭遇するまでに4発同様の銃声が聞こえた。あとは初弾を見切れば問題ない」
「大有りだろう、あの兄ちゃんみてえなヤバい発想すんなよ」
ミカエラはなにを言われているかわからないという表情だ。紫斑も出ておらず、顔色もそこまで悪くないが、明らかにろれつが回っていなくてしかも言っていることが支離滅裂すぎる男を捻じ伏せたまま、ロレンとファリスを見上げる。
「オレガノでは普通の判断なのだが」
「マジかよ、俺らはそれは最終判断にしろって口うるさく言われたぞ」
「年代の違いかもしれねえけど、若いもんが死に急ぐな」
ダメだぞとふたりが言う。ミカエラは小さく息を吐いて、「アレクシスが増えたみたいだ」とぼそりと呟く。反省するそぶりがない。こんなところまでユーリと同じかよと毒づいて、チェリオは頭の後ろで手を組んだ。
「だぁからイル・セーラとノルマって相容れねえんだよ。ぶっ飛んだ発想ばっかりしやがって。ボスは出しゃばらねえのが鉄則だろうが」
黙って後ろ着いて来いよと揶揄するように言ってやる。ミカエラはまた理解ができないという顔をして、捻じ伏せている男が大声をあげるのに口を開けた隙に丸薬を口の中に弾き入れた。苦いせいで吐き出そうとするのは、オスロ立ちでわかっているからか、ミカエラが後ろから男の顎を掴んで少し顎を上げさせる。ごくりと嚥下する音がした。
この男を連れて行くとでも言うのかと思ったけれど、喚かないように猿轡を噛ませた。両手両足をロープで縛りあげた状態で、自分たちが通ってきた通路に放り込む。動線に置くということは、帰りに拐取するつもりなのだろうと悟り、今度は忘れずに鍵を閉めた。
地下街まであと一息だ。大岩があるほうの、西側のスラム街に近い入り口は、やはり入り口が崩壊して、瓦礫に埋もれているようだ。もうひとつの、正規の入り口は閉鎖したとアレクシスが言っていたが、本当に頑丈に鉄柵で覆われ、鍵が掛けられている。チェリオはそれを器用に外し、鉄柵をこじ開けた。
「俺が先導する。ロレン、後ろは頼むぞ」
「いやに張り切ってんな」
「臨時収入が入るからだろ」
ファリスは女好きだと公言しているが、その実それよりも金が好きだ。鼻歌でも歌いそうなほどご機嫌に通路を降りていく。やや遠回りになるが、こっちの入り口からも以前チェリオたちが潜伏していた場所まで行きつくことができる。その方法を知っているのは、チェリオと、ロレンと、ファリスだけだ。キルシェは「ボロが出るといけねえ」と地下街の秘密を知ることを拒否した。
少し時間がかかったが、元々潜伏していた箇所まで降りてきた。なにも変わりはなさそうだ。人の足音や気配もしない。
「よし、これならいける。こっちだ」
チェリオはユーリと共に見つけた温泉があるところまでミカエラを案内した。
最初に見つけた温泉がある場所は、みんなが風呂に入るのに使っていたから、ほとんどの連中は知っている。ただ、この奥のことはユーリとチェリオしか知らない。ラカエルにはそれとなく言っていたけれど、連れ込んだことはない。いままでのユーリなら、たぶんおもしろがって教えてくれたのだと思うけれど、「ノルマは信じない」と言っていたからなのか、単純に情報が漏れることを嫌ったのか、研究に没頭したいだけだったのか、一人でいることのほうが多かった。
ユーリから借りっぱなしの懐中時計をレリーフにはめ込むと岩戸が動く。それを見てミカエラが驚いたような顔をする。ミカエラが表情を崩したのを初めて見た気がして、チェリオは口の端で笑った。
「地下街は元々こういうレリーフがそこかしこにあって、なんだろうって思っていたら、じつはユーリが持っていた懐中時計で動く仕組みになっていたらしい」
言いながら先導し、温泉がある場所まで向かう。からりとした空間に程よい湿度が混ざった空気が漂ってくる。ファリスとロレンがすげえなと声をあげた。
「地下街にこんな場所があったのか」
「俺も知らなかった。ミカエラ、カルケルはこの温泉水から作るって、ユーリが」
「これから?」
「煮沸して水分を飛ばすと結晶みたいなんができるんだけど、それを普通の消石灰に混ぜるんだって言ってた。でも割合があるから、だから温泉水取って来いって言ってたらしいぞ」
ミカエラがきょとんとする。
「だから、勝手に地下街から引きずり出したくせにと怒っておられたのか」
「あいつ研究のことになったら人が変わるからな。カルケルを採取するには、ここの温泉水じゃないとだめなんだと。最奥のため池の水とか、地下街に流れるあらゆる水源を調べたらしい」
ミカエラは手袋を外し、ためらいなく滝のように流れ落ちる温泉水を手で掬って少し飲んだ。若干の塩味とわずかな苦み。それ以外はなんの変哲もないただの水だ。
「ノルマはシャムシュ王朝が所有していた地下鉱窟を掘り起こすために別の国からやってきて、そのまま国を乗っ取ったという伝聞がオレガノにはあるが、それが本当なのだとしたら、この水脈はイル・セーラが解毒に使う石の成分が融解されることで自浄しているのかもしれない」
「解毒に、石?」
「詳しいことはわからないが、そういう伝聞がある。ここの湯が濁ったり汚染されないのが何よりの証拠では?」
なるほどとチェリオが言う。ミリタリーバッグを漁ってリュカから預かった瓶をいくつも取り出して、その中に温泉水を注ぐ。変質する可能性があるから瓶じゃなきゃダメだよとリュカからくぎを刺されている。
とりあえず5,6本ありゃいいだろとミリタリーバッグに詰めていると、ファリスがもっとでけえのじゃダメなのか? と尋ねてきた。
「瓶じゃなきゃって、リュカが。ンなでけえ瓶なんざねえだろ」
「あるだろ、なあ、ロレン」
ロレンがあからさまに嫌な顔をする。
「ふざけんな、ありゃエリゼの野郎に集めさせた貴重な酒だぞ」
「飲み終わった瓶がカウンター裏に置いてあるこたぁ知ってるんだ」
ファリスに言われ、ロレンがぐうっと唸る。
「そんなでけえのあんの?」
チェリオが尋ねると、ファリスがメルキセデックは30リットル入ると言ってのけた。そんなでかい瓶があるわけがない。ファリスのことだからどうせ嘘だろうと思いつつロレンを見やると、苦い顔をしているのが見えた。
「マジなんかいっ」
「そのように大きな瓶が存在しているとは」
「まあ、坊ちゃんもチェリオもティーンだし酒にゃ縁遠いからな。ロレン、もう一本くらい空いてんのあるだろ?」
ロレンははあと大きな溜息を吐いて、貸しだぞと唸るように言った。店にいけば、もちろん破壊されていなければの話だが、その酒瓶があるとロレンが言う。ちまちま瓶を運ぶのも面倒だし、5,6本持って帰ったところで足りないと言われたらまた取りに来なければならないも面倒くさい。
「空き瓶が3本あれば楽勝じゃね?」
「ふざけんな、貴重なもんだっつってんだろ」
「坊ちゃん、オレガノが買い取るって言ったらロレンの奴くれるかもしれねえぞ」
ファリスがミカエラに言う。ミカエラは少々戸惑ったような表情でチェリオを見た。明らかに助けてほしそうな顔をしているのに気付いて、チェリオはおっさんと声を荒らげた。
「ミカエラが困ってんだろうが。別にそんな貴重なもんでも無かろうに」
「てめえ成人しても飲ませてやらねえからなっ」
「とっくに成人だわ。っとに、酒が絡むと意固地になりやがる」
とりあえずこんだけでいいだろと文句を言っていた時だ。ガタンと奥から音がした。そうかと思うとギルスの回廊につながるほうの岩戸が開く。チェリオが警戒して姿勢を低くする。扉の向こうから現れたのはユーリだった。チェリオたちを見るなり、げっと嫌そうな声をあげる。
「てめっ、なにやってんだよっ!!?」
「Sig.オルヴェ、どうしてこんなところにいらっしゃるのです?」
ユーリがあからさまに嫌そうな顔をして、はあと溜息を吐いた。
「ドン・クリステンに言っても全然動いてくれないし、手持ちの薬草が尽きたから採りに来た。ついでにカルケルを採取するのと、ちょっと息抜きに」
視線を逸らしながら、ぼそりという。
「はあっ!?」
「ウォルナットとここが繋がっているって聞いたから丁度いいなって思って。そもそも俺があんな静かな環境でじっとしていられるわけないじゃん。監獄だ、あそこは」
「毎食決まった時間に出てくるし、22時には消灯だしもう嫌だ」とユーリが両手で顔を覆いながら言う。夜こそが俺の時間なのにとぼそりと言って、いつも自分が寝床にしていたベッドに吸い寄せられるように横たわった。落ち着くとそれはもう至福極まりない声で言う。
「ああ、そうだ。丁度いい。なあ、カルケルってどのくらいいるんだ?」
チェリオが問うと、ユーリが面倒くさそうに顔をあげた。
「蒸発させても少しか取れないから、せめて20リットルくらいあったらありがたいけど」
「兄ちゃん、ロレンの野郎がバカでかい瓶を持ってんだ。30リットルくらいゆうにはいる」
苦い顔をしているロレンを横目に、まるで揶揄するような口調でファリスが言う。
「マジっ?」
ユーリががばっと体を起こして、興味津々といった表情でロレンを見た。この顔を久々に見たような気がする。
「やらねえぞ、貸すだけだっ」
「え、いいの? アレクシスがオレガノのおいしいシャンパン持ってきたって言ってたから、もらっちゃう?」
ロレンがピクリと反応した。
「オレガノの?」
「らしい。わりとヴィンテージものだって」
「そりゃあ、ちっとでも分けてもらえるならメルキセデックの2本くらいなら貸してやってもいい」
「ほんとっ? いやー、やっぱりロレンもだけどデリテ街の人たちは話がわかるわ。
政府の連中、頭が硬すぎて話になんないんだよ」
いまから解毒薬をとか言ってるんだぜとうんざりしたように言う。チェリオがマジかと声を上げると、ユーリが煩わしそうな表情を隠しもせずに、冗談めかして肩を竦める。
「最悪だろ、後手後手が過ぎる」
「そんなん、最初にユーリがきた時に試したよな?」
「そう。ただの解毒じゃ意味をなさないから中和剤って言ってんのに、意味わからんらしい。そりゃ解毒薬も必要だけど、それは既存のものがあるんだから、わざわざ開発するようなもんでもない」
ほんと嫌になると、ユーリがぼやいてベッドに突っ伏した。もう数日帰りたくないと、ユーリがごそごそと態勢を整える。はたとミカエラがなにかに気付いたようにユーリを呼んだ。
「こちらに来られることは、どなたかに言って出られましたか? そうでなければ、あなたがいないことに気付いて、どなたかが騒いでおられるのでは?」
「んー? 村で仲良くなった人たちと遊んでくるって言ってきたから大丈夫だろ」
そう言って、あくびを噛み殺しながら伸びをする。潜伏生活のことを思い出した。ユーリが昼間からベッドに寝転がる、イコール、しばらく起きない。
「寝るなよ! このパターン的におまえ寝たら起きないやつ!」
「あそこのベッドは寝心地いいけど落ち着かないんだ」
ユーリは眠そうな目をしたままチェリオに抱きついてきた。うおっとチェリオが声をあげる。
「おいこら、ユーリ!」
「5分だけ寝かせて」
「ばかか、ガチ寝するやつじゃん!
ミカエラ、なんか目が覚めるようなやばい薬ねえの!?」
「その手のものはベアトリスが詳しいが」
「いや、もういねえだろ」と突っ込む。これはもしややばいやつなのでは? ベアトリスはウォルナットにあいつらを連れて行った。そしたらユーリを頼ってリュカが行くはずだ。ユーリがいないとなったら大事になる。「おい」と声をかけるよりも早く、すうすうと寝息が聞こえてきた。
「ミカエラ、さっきの丸薬よこせ」
「一旦味見をしたうえでの“試作”と仰っていたから、無駄だと思うぞ。おそらく、苦味や渋味に対しての感覚が鈍麻しておられるのでは?」
「5分と仰ったので5分経過したら叩き起こす」とミカエラが言う。チェリオはミカエラに白けた視線を向け、こっちこいと手招きをした。
「ミカエラ、ここ座れ」
ぽんぽんとベッドを叩くと、ミカエラが素直にベッドに腰を下ろした。すうすうと寝息を立てるユーリの腕を無理やり引き剥し、ソッコーで逃げる。ユーリはううんと唸りながら、体温があるほう……ミカエラのほうへと手を伸ばし、腰のあたりに腕を絡めてそのまままた寝息を立て始める。
それを見ていたロレンが、何かを察したような声を出した。
「この兄ちゃん、奴隷生活が長すぎてもしかして独り寝できねえタイプなんじゃ?」
マジかよ、エロすぎんだろとファリスが言う。
「どういう意味だ?」
ミカエラが不思議そうに尋ねてくる。前から思っていたけど、ミカエラはどうやら相当箱入り息子に育てられたようで、エロいことに関心がないというか、かなり独特な感覚を持っているらしい。
「奴隷ってのは一人一人の寝床なんかねえから、ほぼ雑魚寝だったらしいぞ。それにユーリはサシャがいないと寝れないって言ってた」
地下街にいた時も大体限界まで仕事をして身体を虐めまくって、それで漸く寝落ちしたと告げる。
「そういえば、以前に急に抱きつかれたかと思ったらそのまま眠ってしまわれたが、そういうことだったのか」
すうすうと寝息を立てるユーリを見下ろして、ミカエラが言う。
「5分したら起こすっつったよな」
そうだがと告げるミカエラをよそに、ユーリの腰を思いっきり叩いたが、まるで抗議するように唸っただけで、起きる気配がない。
「一回寝たら、その時にもよるけど、絶対に5分じゃ起きねえ。おまえらが踏み込んできたときも直前まで寝ていたし、銃声でようやく起きたくらいだ」
ミカエラがそうだったのかと、意外そうな顔をした。
「やべえギャップ持ちだな、この兄ちゃんは」
「こうなったらしばらく起きねえぞ。向こうから来たってことはギルスを通ってきただろうから、潮が引くまで通れねえ。しゃーねえ、ロレンは店までその馬鹿でかい瓶取りに行ってくれねえ?」
「そりゃあ構わねえが、この兄ちゃんはどうするよ?」
「最強のボディーガードがいるんだから、大丈夫だろ」
それが一番安全と言って、ミカエラを見やる。
「ここにゃ侵入者は来られねえし、頼んだぞ」
「いや、しかし。おまえたちは武器の携帯を許されていないと」
「はあっ? 俺らは元々こっちで生きてきたんだぞ。あんな連中、武器さえ持ってなきゃなんてこたねえよ。
そもそもこっちにゃロレンとファリスがいるし、銃器とかは持てねえけど、武器なんてもんはそこいらで調達するもんだぜ」
チェリオは何か言いたげなミカエラをほっぽって、ロレンとファリスと共に隠し部屋を出た。
ーーウーノ地区はなかなかの惨状だった。あのアサルトライフルを待った男が散々暴れたのか、外には住人の遺体が転がっていて、家の中にはまだ気配があったが、こっちの安全を考慮して放置した。
例の馬鹿でかい瓶を探しにロレンの家に入る。流石に鉄塔台に人が住んでいると思わなかったのか、それとも鉄でできているから頑丈で誰も手を出さなかったのか、ロレンの家の中は全く荒らされた様子がない。ちょっと待ってろと言ってロレンがカウンター裏をゴソゴソ漁る。いくつもの木箱の後ろに隠された馬鹿でかい瓶を取り出し、ファリスに手渡した。もうひとつは奥の倉庫に入れてあるようだ。まだ少し中身がある。飲んじまえばないも同義だと言いながらそれを持ち、カウンターの中から出てきた。
とりあえず2本ありゃ上等だろと、ロレンの家を施錠して、地下街への帰途に着く。あの男が暴れたせいなのか意外なほど人もいないしスパッツァもいない。途中に残してきたあいつの様子見ていくかと、ノーヴェ地区の地下通路の鍵を開けて、放り込んだ男を確認する。息がある。顔色も、表情も正気に戻っているようだ。なぜ自分が縛られているのかと言いたげにくぐもった声をあげる。
「どうする? 置いてく?」
「ぼっちゃんはあとで回収するつもりで動線に置いたんだろう。あの兄ちゃんが向こうから来たってことは、向こうからの出入り口があるってことだよな?」
「んー。じゃあ、しゃーねえから連れてくか」
チェリオは男を担ぎ上げ、地下通路の鍵をかけた。なんの問題もなさそうと笑いながら地下街に戻ろうとした時だ。軽い耳鳴りがする。チェリオが立ち止まった。
「どうした?」
ファリスが尋ねてくる。
「いや……なんか、耳の様子が」
騒がしいおっさんがそばにおるからかもと言いながらトントンと耳の付け根を叩く。耳鳴りはしない。さっきのはなんだったんだろう?
地下街の入り口まで辿り着き、ロレンから先に瓶を慎重に持って地下街の狭い入り口を降りていく。ファリスもそれに続いた。軍人時代の経験なのか、両手が塞がらないように2人とも瓶を身体に括り付け、バックパックでそれが抜け落ちないようつっかえをしているようだ。また耳鳴りがする。
チェリオは目を細くして西側を見た。今度はずんと重力を感じるような耳鳴りがしたかと思うと、遠くで爆発音がした。地鳴りが近付いてきて、地面が揺れる。チェリオが咄嗟に地下街の入り口に飛び込んで、穴を塞ぐ岩を全力で動かして入り口を塞いだ。熱風が岩の隙間から入り込んできて、チェリオは慌てて数歩下がった。
「あっぶねえ」
岩に触れていた指先がジワジワする。全力を出したからなのか、熱風で火傷でもしたのか。まあ大丈夫だろと楽観視して中腹まで降りようとした時、頭上から砂利が落ちてくるのに気付いた。このあたりは地盤が強く崩落の危険性はないが、入り口付近は度重なる爆発の影響か、上に少しヒビが入っていたのを思い出す。
「ファリス、ロレン! 立ち止まらず下まで駆け下りろ!」
言って、チェリオをもまた勢いよく階段を駆け降りた。地鳴りがして、大岩で塞いだ入り口付近の天井に亀裂が入るのが見える。これはヤバいと上層と中層を隔てるもうひとつの大岩のところまで突っ走る。男の足を支えている指にやはりピリッとした痛みが走ったが、気にしている場合じゃない。
「チェリオ、はよしろ!」
ロレンとファリスが既に大岩を塞ぐ準備をしている。チェリオは男が顔面を打たないように注意して隙間を縫うように滑り込み、ロレンの側から岩を押して大岩を閉じた。
耳を澄ませる。完全に崩落したような音はしないが、入り口のほうからバキバキと岩が砕けるような音と砂利が落ちてくるような音がする。この辺りの地盤を見回すが、流石にこちらには亀裂ひとつない。チェリオたちは胸を撫で下ろした。
「瓶は?」
「無事に決まってんだろ。にしても、おめえの耳がなきゃ爆発でおっ死んでたかもな」
「爆発が起きたってことは、またスパッツァが増える可能性があるってこったな。早いとこ兄ちゃんに瓶を届けて、向こうの出入り口から出してもらおうぜ」
それが良さそうだと、元いた場所へと降りていく。懐中時計を地面のレリーフに押し込んで岩戸を動かしてユーリが研究室にしていた部屋に入る。二人の元に戻ると、ミカエラは相変わらずユーリに抱きつかれたまま、少しも移動していないようだった。
少し伸びたユーリの前髪を指先ですいて、まだティーンだと言ってもおかしくないほど幼くて、ほんの少し唇が開いた状態で寝ているユーリの寝顔を見ていたようだ。はたと顔を上げる。
「戻ったか」
「すげえな、あんな抱きつかれ方して立たねえんだな」
ファリスがいうと、ミカエラは立つ? と問い返した。この状態でどうやれば立てるのかと言いたげな顔だ。ドンとファリスを小突く。
「西側でまた爆発だ。地下街の入り口がちょっと崩れたかも知れねえ」
帰りは向こうを通ると思ったけど、ユーリがいるならこっちからのがいいと思って連れてきたと、担いでいた男を転がす。男はミカエラを見るなり猿轡をかまされたまま怯えたようにひいっと声を上げた。くぐもった声で何かを言っているがわからない。ロレンが猿轡を外した。
「おう、てめえ坊ちゃんのこと知ってんのか?」
「なんでイル・セーラと弛んでんだ、おまえたち。こいつらが煽動して西側に爆発を起こさせたんだぞ!」
ミカエラが目を鋭くさせて、腰に巻き付いているユーリの腕を解いた。ううんと色っぽく唸ってユーリが身体を起こす。目を擦りながらボーッとした表情でミカエラを探しているようだ。取り込まれるなよと注意を促す。
「どういう意味だ? 我々オレガノ軍が手引きしたと?」
「おまえ、あの診療所のやつじゃないのか?」
そりゃこっちだと、ロレンがユーリの襟元を掴んで身体を上げさせる。まだ眠いのかボーッとしているユーリを見て、男が勢いよく首を振った。
「こいつはアリエッテたちを助けてくれたやつだろ! そうじゃなくて、北側の!」
チェリオは眉根を寄せて男の胸ぐらを掴んだ。
「おい、ふかしてんじゃねえぞてめえ。ユリウスならナザリオと一緒に収監したんだ」
「本当だ、嘘じゃねえよ! あの爆発が起こる前、そのイル・セーラとフードマントを被った男を確かに見たんだ! 給湯装置とガス管の点検とか言ってたけど、俺はどうにもあのイル・セーラを前にどっかで見たことがあると思って、東側のウーノ地区の親戚んところに逃げてきてたんだよ!」
「収監って?」
男が騒いだせいでユーリが覚醒したらしい。バッドタイミングだ。
「ユリウスは用事で市街に出ているってニコラが言っていたけど、やっぱり嘘か」
そうだとは思ったけどと、ユーリ。やっぱりノルマは信用できないとでも言いたげな顔をしている。
「ねえ、詳しく教えて」
そう言って立ち上がると、ユーリはテーブルに置かれっぱなしになっていた銀製のカップをとって滝のほうに歩いていくと、そのカップを軽く濯いで温泉水を汲んだ。こちらに戻ってきて男の前に突き出す。
「あんた、感染者だろ? 名前と居住区教えて。丸薬を飲んだあとはこれがあったほうが抜けるのが早い」
それに喉乾いてるだろと、ユーリが人懐っこい笑みを浮かべる。男はすまないと言ってその温泉水を飲み干した。
「俺はテヴィだ。居住区は西側のセッテ地区」
「爆発事故が起きたときには、東側にいたってことであってる?」
そうだとテヴィが頷く。暴れていたことは覚えていないようだが、数日前に突風が吹いた日があり、外で親戚とともに片づけをしていたらしいが、そのあとでじわじわと腹の奥から憎悪が湧き出てくるような感情に蝕まれ始めたことに気付き、そのあとのことは記憶にないという。今日の日付を伝えたら、丸一日記憶がないと驚いていた。
「ユリウスを以前見たことがあるって言ってたけど?」
「そうだ。俺は元々行商人だったから、国内のあらゆる場所に行ったんだが、6年くらい前かな、ガノッサっていう小さな村で、ある女性が殺されたんだ。
その女性は村では浮いていて、その理由はイル・セーラの色だって噂があったからだった。俺が行商に行くたびにさまざまな物資を買ってくれていたからよく行っていたんだが、その日もそうだった。
ベルを鳴らしても出てこなくて、でもドアが少し開いていたから家に入った。そうしたら、彼女は複数人に乱暴されて殺されていた。それも、目からなにから臓器が全部くり抜かれていたんだ」
チェリオがまたおえっとえづく。
「なぜそのような殺し方を?」
「俺が知るかよっ。ただ、その女性は髪の色があんたに似ていた。光が当たったら銀髪にも見えるような感じで」
ミカエラを指差しながら男が言う。
「そりゃあんたらイル・セーラほどのとびきりの美人じゃなかったけど、田舎の女性にしては整った顔立ちをしていた。
そのイル・セーラと一緒にいるところを何回か見たことがあるけど、友人というよりは恋人同士のような感じに見えた。
それで、その女性を殺した犯人は誰かわからないままに、俺は行商人の立場を利用して彼女を犯し、殺したんじゃないかって容疑をかけられて、ふざけんなって暴れたら東側にぶち込まれたんだ」
「じゃあなんで西側に?」
「その例のイル・セーラを東側で見かけて、てめえがあの時の犯人だろってつっかかったら、パーチェの部下に取り押さえられて、そのまま」
ユーリが口元に手を当てがった。
「そいつがマジでユリウスなら、ユーリマジで狙われてたんじゃね?」
それこそその女性の代わりにってとチェリオが言うと、ユーリは釈然としないような表情のままベッドから降りた。
「気が変わった。ここで数日過ごそうかと思ったけど、帰る」
「はっ?!」
「それ、向こうで証言してくれない? いくつか不審な点があって、捜査隊も混乱してるって、ドン・クリステンが。
俺もなァ、いまの話を聞いてちょっと面白い仮説を思いついちゃったんだよね」
にやりとユーリが笑う。悪い顔だ。その顔やめろってとチェリオが突っ込んだ。ミカエラもなんだか左胸を触りながら苦い顔をしている。
「ポーカーフェイスのミカエラくんがおもしろい顔しているな」
まるで試すような口調で肩を竦めてユーリが言う。
「とてつもなくよからぬことをお考えのようですね」
えぇ? とユーリが冗談めかした声を上げる。
「ま、俺の仮説が正しかったら、あんたら全員びっくりすると思うぞ。
早朝に軍用車が来ているときには、俺の部屋には近づかないこと」
これも契約のひとつなんでねと言って、ユーリがギルスに通じるほうの岩戸を開けた。
潮の様子を見て、こちらに振り返る。
「あと10分以内に出発するぞ。ロレン、支配人さん、その瓶に2/3くらいずつ温泉水を汲んでくれたらいいよ。あんまり入れると重いだろ」
「このぐらいわけねえよ、元軍人舐めんなよ」
ロレンとファリスはバカでかい瓶いっぱいに温泉水を汲んで、本当に軽々と持ち上げた。おおっとテヴィが声をあげる。テヴィは自分で歩けるほど回復しているようだ。調子が悪くなったら言えよと声をかけ、ギルスの回廊に向かう。はたとユーリがなにかに気付いたように走ってきて、勢いよくチェリオの手を掴んだ。
「うわっ、おい!」
温泉水の滝まで引っ張って連れて行かれたあとで、ユーリが先ほどの銀製のカップを一度濯いで、滝の水を汲んでチェリオの手に掛けた。足元が濡れる。なにすんだと声を荒らげたあとで、ユーリの表情に驚いた。必死さの中に焦りと、そして恐怖が入り混じっているのに気付いて、チェリオは二の句を注げなかった。
「こっちで怪我をしたら、さっさと手を洗って消毒すること。カルケルはわりとその手にも強いから、覚えておいたほうがいい」
すぐに表情をすり替えて、ユーリがすたすたと歩いていく。チェリオはがりがりと頭を掻いて、大きな息を吐いた。おいと呼び止めたが、返事がない。拗ねさせたと瞬時に判断する。
「ユーリ!」
悪かったよ、忘れてたんだと弁解したけれど、こちらを振り返らない。
「数か月見てきたって、偉そうに言ってたくせに」
代わりにユーリの苛立ったような声がした。これはもう弁解の仕様がないやつだ。そう思ったけれど、ユーリは割と冷静に、ロレンやミカエラにも同様に、傷口はすぐにイェルナの細粒入りの水か、温泉水で洗うことと伝えている。さっきの表情は見間違いだったのだろうかと思うほどだ。
全員がギルスの回廊に出たことを確認し、地面に懐中時計を押し付けて岩戸を動かす。ギルスの回廊は以前来た時よりも歩きやすそうで、少し地面が乾いている。
「今日は大潮の干潮でしたか。まさかそれを見越してこちらにこられたのでは?」
ミカエラに指摘され、ユーリがまたニヤリと笑った。
「以前チェリオに連れてきてもらった時に、潮の満ち引きがどうとか言っていたから、釣り好きのネイロに教えてもらった」
「まさかここに連れてきたのって」
「そ、ネイロ。いまごろ釣りしてんじゃない?」
けらけらと笑いながら言うユーリを見て、ロレンが苦笑を漏らした。
「さっき数日ここに潜伏したいって言ってなかったか?」
「夕方までに帰ってこなかったら向こうで魚焼いて食ってキャンプでもしてろって伝えてある」
あの人話が分かるから好きなんだよねとユーリがにこやかに言った。チェリオとロレン、ファリスが溜息を吐いた。テヴィとミカエラはなんのことかわからないという顔をしていたが、ネイロは意外にもユーリのことを気に入っているし、できれば不埒なことをやりたいと考えていると思う。口は悪いけどその手の部分は意外に硬いところもあるから、手を出しはしないけれど。
ユーリが言ったとおり、あの古びた教会がある場所にたどり着くまで、潮が戻ってこなかった。鍾乳洞を抜け、古びた教会がある場所に出る。ミカエラが珍しく小走りでその場所に走った。
「すごい、シャムシュ王朝の建造物だ」
歴史的発見ですよと声を弾ませる。ミカエラが嬉しそうにしているのをはじめてみたとユーリが言うと、はっとしたように咳払いをして、失礼しましたと元の表情にすり替えた。
「やっぱ旧王朝の物であってんの?」
「ええ、このレリーフは間違いなく。あの十字架の真ん中にある刻印は、多少風化していますが、懐中時計にあるものと同じです。アンリ王の一族である証の刻印で、伝聞なので真実と異なるかもしれませんが、我々はそれを『クロッキオ・レオナ』と呼んでいます」
ふうんと浮かない返事をして、ユーリはあまり表情に出さず感動しているミカエラを横目に見て、薄く笑った。
「子どもらしいところもあるんじゃん」
いつも背筋張っているから、感情がないのかと思ったと継ぐ。
「これはオレガノの学者がみても興奮する代物です。そもそも本物のクロッキオ・レオナは初めて見ました」
これがねえと言って、懐中時計のレリーフを見やる。ユーリはまあどうでもいいやと素っ気なく言って、すたすたとその場所を抜け、海に抜ける岩場に向かった。ネイロが入れるようにするためか、開けっ放しにしてある。古びた教会よりも鍾乳洞に近いほうには、テントまで張ってある。本当にここで過ごすつもりだったのがありありと分かって、ロレンとファリスが顔を見合わせた。
「あのヤニカス、兄ちゃんに頼まれたのをいいことに満喫してやがるぞ」
「放り込んでやるか、海に」
口々に言って、悪い算段をしている。さすがにやめとけよと突っ込んで、チェリオはユーリのあとを追った。
海岸べりでネイロが本当に釣りをしていた。しかもかなりの釣果だ。30cm級の魚がごろごろいる。
「すっげ、こんな釣れんの!?」
「おう、チェリオじゃねえか。ん? ぼっちゃんやロレンにデカブツまでいやがんのか」
こりゃお揃いでと言って、ネイロがひひっと笑う。
「よう、ユーリ。潜伏はやめたのか?」
「うん、気が変わった。ねえ、船出せる? なんかベアトリスたちが東側にいた怪我人を連れて、訪ねてくるっぽいんだよね」
俺がいないのがバレたらヤバいんだと、まったく緊張感のない口調で言ってのける。ネイロが咥えていた煙草をぽろりと落とし、あちちと灰を振り払った。
「お、おまっ、ちぇ、チェリオっ、ロレン、テント畳んでくれっ! 早く!」
すぐさま釣りを注視して、ネイロがひょこひょこと桟橋のほうへと向かっていく。桟橋には明らかに通常の船ではないものが括りつけられている。
「別にそんな急がなくても」
「バカ、ドン・クリステンの耳にはいったらどうすんだっ」
知らんぞとネイロが声を荒らげる。ユーリはそんな気にしなくてもいいのにと言いながら、ネイロを手伝っている。チェリオはテントを兵役経験者に任せ、船を手伝うことにした。
「なんでおまえが慌ててんの?」
チェリオが尋ねると、ネイロが辺りを見回し、ミカエラがこちらにいないことを確認したうえで、チェリオに小声で言った。
「ドン・クリステンに飼われることにしたらしいんだが、あの御仁、俺にユーリを見張れっつんだよ。だからユーリがなにかやらかしたら必然的に俺の責任になる」
「じゃあ連れてこなきゃよかっただろ」
「そりゃおめえ、船が運転できるのと釣りができるって聞いたら、じっとしていられねえじゃねえか」
自業自得だろと突っ込む。それだけじゃねえぞとネイロが声を尖らせる。
「この野郎、あの御仁に数日に一回抱かれてんだ」
「……マジ?」
「情報交換って言ってくれ」
「馬鹿野郎、昨日なんか声が廊下に響いてたもんだから、ラカエルと二コラが周りに聞こえねえかハラハラしてたんだぞ」
「聞き耳立てんなよ、エッチ」
だってあいつ無駄に激しいんだよなとあっけらかんとした口調でユーリが言う。チェリオと目が合った時、ユーリがすうっと目を細くして、口元を怪しくゆがめた。
「あんたと違ってちゃんと奥まで届くから、声が抑えられなくて」
しどけない仕草で言ってのけた後で、ぶふっと吹き出した。笑うんなら挑発すんなと足でユーリに水をかけてやる。そこまでするわけねえよとからからと笑うユーリを睨んで、いつか絶対奥でひいひい言わせてやると野望に燃えた。
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