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Eleven(3)

 ネイロがまさか船の運転ができるとは思っていなかった。じつはパドヴァン出身で海軍にいたことがあるらしいが、肺の病で退役したことをきっかけにミクシアに移り住んだらしい。  そういえば長いこと一緒にいるが、そういった身の上話を聞いたことがなかった。ネイロがミカエラに「ユーリは存外に強かで抜け目がないから、気ぃ付けな」と注意を促して、ユーリ自身も「悪意のある言い方だ」と笑っている。これは絶対なにかがあったなと思いつつも、聞かなかった。  ユーリがあの岩場とウォルナットが対岸だと知ったのは、あのヤギを世話している一家から教えてもらったからだそうだ。  昔、ミクシアのスラム街がまだ戦場だったころ、イル・セーラに先導されてここに逃げてきたのだという。そのときはまだ手漕ぎの船で大変だったが、そのイル・セーラたちは何往復もして炎に巻かれる寸前の人々を救ってくれたのだと。  彼らの中に耳が聞こえなかったり目が見えない人が多いのは、そのときの後遺症が残っている人たちもいれば、ガブリエーレ卿がどこかから連れてきて村の住人にするかららしい。もちろんちゃんと目が見え、耳が聞こえる住人もいるけれど、彼らは日中森に狩りに行き、動けない人たちは織物をしたりできることをして食い扶持を稼ぐ。そういう場所を作ってくれたガブリエーレ卿が連れてきた人たちなのだから、どんな人でも家族のようなもんだよと言われたとユーリが笑う。 「なにが子どもの頃は人見知りだった……だよ。コミュ力お化けじゃねえか」 「マジで誰とでも仲良くなっちまうな。坊ちゃん、こういう悪い大人には気を付けろよ」  俺ぁ純朴すぎて坊ちゃんが一番心配だとファリス。意外なセリフにネイロが変な声をあげた。 「どうしたぁ、デカブツ! 庇護欲でも沸いたか?」  むしろおめえにそんな人情があるとは思わなかったとネイロが笑う。 「飴ちゃんひとつで誘拐されそうな顔をしている」 「わかる、警戒心強そうに見えて案外そうでもないやつだろ」  ミカエラは外の景色を眺めながら頬にかかる髪を耳に掛けている。話を聞いているのかいないのか、ぼんやりしているのだけはわかった。すぐに「食べ物に釣られるわけがない」と素っ気ない声がした。 「食べ物にはってことは、ほかのもんには釣られるってことだぞ」 「坊ちゃん、『歴史的価値の高いもんが見られる』っつったら、ほいほい着いてくんだろ?」  悪乗りしたファリスに視線だけをよこし、ミカエラが真顔で「アレクシスから知らない相手についていくなと言われている」と言う。絶対にこれは前科がある。ファリスも同じことを思ったようだ。 「スコルザの北側に、シェミハザって小さな町がある。あの周辺には大昔にイル・セーラが作った遺跡があるらしいぞ」  ファリスは大概悪い奴だ。ミカエラが反応するのを分かっていて言っている。遺跡と聞いて、ユーリもマジかと目を輝かせた。 「馬鹿、ユーリのほうが反応してんじゃねえか」  ネイロがファリスを非難するように言う。 「残念ながら、あそこはもう発掘されたあとだ。お宝もなんも残っちゃいねえよ」  そもそも、遺跡自体があったのはもう何十年も前の話じゃねえかと、ネイロ。 「俺ぁてめえと違って素行がいいから、まだ下流層街にいた頃に傭兵について調査に行ったことがあるが、あそこはお化け屋敷だぞ」  ネイロがそう言った途端、ミカエラが興味深そうに身を乗り出した。 「詳しく聞きたいのだが」 「マジか。ミカエラ、平気な人?」 「オレガノは元々、別の種族が治めていた場所ですが、開拓団が海辺の遺跡から貴重なものを盗掘したかなにかで、その種族が一夜にして滅びたといううわさがあり、誰もあの島に移り住もうとしなかったそうです。第二王族はそこに目を付けて海を越えて逃げ込み、オレガノ国を建国したと聞いています。  ですから、オレガノでは割とそういう事象が多いですし、細かな仕来りにはうるさい国です」 「細かな仕来りって?」 「そうですね、遺跡に入る際には必ず祈祷師を呼ぶように言われたり、目では見えないものに対しても敬意を払うようにと言われていたり、ミクシアよりも少し宗教色が強いところでしょうか」  祈祷師と言われて、へえと反応したのはユーリだけだった。古代イル・セーラはまじないとか占いとかに精通していたと教えてくれる。オレガノに逃れたイル・セーラは、そういう血筋も存命だと、ミカエラが言った。 「じゃあ、坊ちゃんはミクシアの遺跡に行っても問題ねえかもな。そこに言ったやつは必ずのように高熱に浮かされるってんで、閉鎖されているはずだぜ」  ミカエラとユーリが、表情こそ違うけれどふたりがふたりして興味津々だと言わんばかりの反応をしている。チェリオは胡散臭そうに眉を顰めて、頭の後ろで手を組んだ。ノルマはというよりも、ミクシア国民は大半が呪いの類を信じる節がある。それはたぶん、自分たちがかつてイル・セーラを虐げてきたことが大いに関係していると思う。チェリオ自身はそうでもないが、ダニオも、エルネストも、そういう話を聞くのはあまり得意ではない。 「つか、こんな船、よくウォルナットみたいな田舎にあったな」  話の矛先を変える。そんな話を聞いたら、夜な夜なダニオとエルネストに聞かせてしまいそうだからだ。 「この船はリュカの私物。自由に使えって言われたから借りた」  ユーリに対して自由にしていいは一番危険なセリフだ。来月の請求を見て震えるリュカの姿が目に浮かぶようで、チェリオは苦笑を漏らした。前よりは元気になったように見えるけれど、明らかに痩せている。メッシュベルトにしているのはわざわざ新たに穴を開けなくていいからじゃないかと感じる。そういえば、最初にユーリが美味しいと言って食べていたのは鶏肉が入ったパニーノだったけれど、潜伏していた時に二コラが持ってきた肉の缶詰には一切手を付けていなかったのを思い出す。  自分が初めて人を殺した時、数日肉が食えなかった。生きて行かなきゃいけないから腹の膨れるものだと暗示をかけて、無理やり押し込んでは吐き、それでも何度も押し込んで飲み下すことを繰り返していたら、やがてそのスパンが短くなり、人を殺しても普通に食えるようになった。  もしかしてユーリは、自分の手で人を死なせたのが初めてだったんじゃないだろうかと思案する。仲間は多く死んでも間接的だし、仮にとどめを刺せと強要されたとしてもそれはもう虫の息の仲間に対してだったりすると、サシャの時とは心情がまったく違うのではないかと思う。  前のようにころころと表情を変えて、何事もないふうを装っているけれど、――。 「ほれ、見えた。あれが護岸だ。あそこに船を付けて、あとは徒歩で帰る。一応釣りに行ったってことにしてあるから、口裏合わせてくれよ」  ネイロが言う。器用に船を護岸につけ、桟橋の杭にロープで船をつなぐ。エンジンを切り、全員が船を降りたのを確認してからネイロがひょこひょこと船を降りる。さすがに段差が大きいからか、ユーリが手を貸した。 「おう、ありがとうよ」  おかげさんで大量だと笑う。それはよかったとユーリも意味ありげに笑って、首を斜めに傾けて肩を竦めた。分散して戻ったほうがいいだろうとロレンに言われ、ユーリとネイロが先に戻った。  向こうからダニオの素っ頓狂な声が聞こえてくる。声が聞こえなくなったのを見計らって森を出ると、ヤギの世話をしている老婆がいた。にこりと笑ってなにかを話しかけてくる。ミカエラをユーリだと思っているのか、口を動かしてなにかを言っているが、チェリオには全くわからなかった。 「わたしはSig.オルヴェではありませんが、釣果は上々だったようです」  30cm以上のものが釣れたようですよと、ミカエラ。老婆はミカエラとユーリが別人だとは気づかなかったようで、驚いたような表情をしている。 「きょうだいではない、とは思うのですが。わたしの出身地はオレガノですし、こちらに親族はいません」  きょうだいかと問われたのか、丁寧にミカエラが返す。老婆は口元でなにかを言って、チェリオたちに頭を下げて歩いて行った。ミカエラも少しだけ頭を下げて、彼女の背中を視線で追う。 「海に落ちないようにと、言われてしまった」  わたしはそんなに子どもに見えるのだろうかと、ミカエラ。テヴィが笑った。 「おもっくそ坊ちゃんっていったな」  くっくっと笑うテヴィを見て、ロレンが怪訝な顔した。 「わかったのか、いまの」 「行商人だったと言ったろ。ここの村にもよく来ていたし、買い付けもしていたんだ。ここの織物や糸は品質が良くて、わりと高値で売れる。ミクシア市街もそうだけど、少し離れた町や村では人気商品なんだ」  ふうんと返し、いま戻った体を装って館にはいろうとした時だ。二コラのものと思われる怒号が響いた。 「あ、バレた」  窓のところで二人が言い争いをしているのが見える。二コラがユーリの腕を掴んで、ユーリはそれを振り払おうとするけれど力の差は歴然のようだ。南側の窓付近の壁に二コラがユーリの身体を押し付ける。そのままキスでもしそうな雰囲気を悟って、チェリオが慌ててミカエラを呼んだ。こいつには刺激物だと感じたからだ。 「ミカエラ、ベアトリスたちはもう着いたと思う?」 「軍用車がないからまだだろう。思ったより怪我人の数が多かったか、どこかで油を売っているかだな」  楽しい実験材料でも見つけたのではないかとさらりと言う。隣からおおとファリスが感嘆の声をあげた。 「すげえな、あのSig.カンパネッリをボディーブローで倒したぞ」  チェリオが目を見開いた。 「嘘だろ、見たかった!」  下からは二コラの姿が見えないが、二コラに呼び止められたのか、ユーリがしつこい! と乱暴な口調で言って研究室にしている部屋に入って行った。そういえば最近あの二人は妙にすれ違っていないかと思う。別に付き合っているわけじゃないと言っていたけれど、そうはみえない。むしろお互いが遠慮して牽制しているようにも見えるのは気のせいだろうか。  かといって二人がくっつくことを望んでいるわけでもない。ワンチャンあればその隙を逃さないつもりでいる。でも、あの二人が一緒にいるのがなんか妙にしっくりくるんだよなあと思っていると、遠くから車のエンジン音が聞こえてくるのが分かった。 ***  いまの丸薬なら紫斑が薄く、且つ高熱に浮かされていない人は助かることが分かった。でもこん睡している人や濃い紫斑のある人にはあまり効果がない。申し訳ないけどやっぱりいまはまだとどめを刺すしかないし、これが効かなきゃ最初から比率を変えて調合のやり直しだなと、ユーリが言う。  ベアトリスが連れてきた、足を切断した男は事なきを得た。問題は北側のノーヴェ地区にいたという人たちだ。20名近くいたが、その中で改善兆候にあるのは8名程度だ。ふたりはもう手遅れ、残りの10人は様子見をして改善がなければ殺すしかない。そう言って、ぐっと伸びをする。疲れたとぼやいて、テーブルの上で腕を組んでそこに顎を乗せた状態でしゃがみ込む。 「エドがなにか知っているかと思ったら、既存品以外の調合率は知らないって言われるし、サシャはもういないし。どうしろっていうんだ」  もう嫌とぼやいて溜息を吐く。 「アップルパイが食べたい」  向かいの机で優雅に本を読んでいるエリゼに言うと、エリゼは本を閉じてにこやかに笑った。 「昼間に長い長いお散歩に出ていたそうですね、Sig.オルヴェ」  バレていた。そう思ったが、ユーリは敢えて視線を外さない。 「散歩にすら行っちゃいけないのか、もはやピッコリーノ扱いだな」  いつものように人を食ったような笑みを浮かべて「じゃあ寝るときにも添い寝して」と言うと、エリゼがすいと片眉を跳ね上げた。 「まあいいでしょう。今後は長いお散歩に出るときには一言いただきたいものですね。  昼間に子どもたちが食べた残りでよければありますよ。シナモン・ティーにします?」 「蜂蜜スプーン一杯、シナモン増し増しで」  頭使ったから甘いの飲みたいと告ぐと、エリゼははいはいと言って部屋を出ていった。 「で?」  エリゼを部屋から出したあとで、ユーリがなにかを言いたげにしていたミカエラに視線をやる。 「ベアトリスやSig.オズヴァルドは毒物に詳しいので、彼らに協力を要請するのはいかがでしょう?」  ユーリが目を細くしてミカエラを見る。その視線の意味に気付いたのか、ミカエラが姿勢を正した。 「もう試されたあとでしたか」  失礼しましたと、声色ひとつ変えずに。けれどユーリにはどことなくミカエラが焦っているように見えた。ミカエラの感情の機微を察するのはある意味で慣れなのだろうが、同族ということもあるのか、それとも表情の出し方がサシャに似ているからなのか、ユーリはミカエラの無表情にリュカ達ほど困ってはいなかった。 「そんなん最初に聞いたわ。毒単体ならまだしも、ウイルスや細菌暴露による症状のことまでは教わっていないと、ふたりとも同じ返答だった。ミクシアの奴らじゃ役に立たないし、オレガノの薬草はすぐに手に入るわけじゃないし、立派な研究室があっても手の打ちようがない」  そう言ったあとで、ユーリはふと思いついたように部屋の奥でポーカーをしているキルシェたちに声をかけた。 「ねえ、スラムにノルマ語で言ったらデティレっていう花が咲いているところ知らない?」  それを聞いたチェリオは飲んでいたソーダを拭きだした。うえ、きったね! っと大袈裟な声を出して、服にかかったそれを手で払うと、バカじゃねえのかと尖り声をあげた。 「ほんっとに懲りねえやつだな! ピエタに聞かれたらとっ捕まるぞ!」 「ミクシアじゃ特定取締法違反で、所持栽培使用は厳禁だ。スラムなんかにあったら焼きはらわれちまう」  そんなことも知らねえのかとキルシェが呆れたような表情を浮かべる。 「おまえが東側に降りてきていた頃だって、見かけたこたねえだろ。毎年鳥が種を落としやがるから、それを見つけて駆除すんのは酋長の役目だ」  突拍子もねえこと言いやがるなとロレンが継ぐ。そこまで言われたら気分を害しそうなものだが、ユーリはふうんと初めて知ったと言わんばかりの表情になった。ミクシアの文化に触れ始めて4年ほどしか経っていないため、そのあたりのことには疎い。 「カナップも?」 「それもほぼ同義だ」 「つかむしろ、カナップはコーサに見つかったら面倒なやつだわ」  チェリオが継ぐと、ユーリはむすっとした表情で溜息を吐いて、立ち上がった。テーブルに手を突いて猫のように伸びをすると、天を仰いでもう一度溜息を吐く。 「こんな国滅びてしまえ」  俺はもう知らんと投げやりに言って、乱暴にソファーに座りなおす。 「だったら権威がやればいいんだ、他人に協力しろだの手伝わせろだの都合のいいこと言っておいて、あいつらなんもしねえじゃねえか」と本音をぶちまける。  チェリオはユーリが行き詰まると妙なことをしでかす癖を潜伏中に覚えたらしく、呆れたような表情で「ヘンなもん食うなよ」とくぎを刺してきた。 「カナップの根を食べたらどうなると思う?」  冗談で言ってみると、大人たちがあからさまにわざとらしい咳払いをした。 「バカ、エリゼがピエタだってこと忘れてんのか?」 「最低2年は収監、罰金だってハンパねえぞ」 「そもそもあんなもん食ったら諸々飛ぶんだ、絶対にやめとけ」  ファリスの呆れたような声色が聞こえてきた。すぐさま「おまえも食ってんじゃねえか」とチェリオが突っ込む。ファリスたちは元軍人だということからも、元々は下流層街以上に住んでいたことが伺える。スラムにいるということは、薬物の使用がバレて居住権をはく奪されたのだろうか。 「オレガノでも当然薬物扱いだろ?」  チェリオがミカエラに問うと、ミカエラはいやと首を横に振った。 「オレガノでは所持および使用の理由があれば禁止はされていない。不治の病で意志疎通の図れない人に対して傷みを取り除いたり、精神的な症状の緩和をするなどの目的があれば、使用されることもある。  もちろんそうではない人が勝手に所持および栽培をすると法に問われることになるが、個人で使用することを申請すれば、そこに金銭の授受、他者への売買につながらなければ使用可能だったかと。申請をするので書類審査があるが、もちろんそれに違反すれば相応の罰則があるために、いまのところオレガノでもその手の犯罪は起きていない」 「じゃあオレガノの許可があれば」 「ミクシアがオレガノの属国であれば、の話ですが」  ユーリはもういいと言ってソファーの背もたれにだらりと体を預けた。  うまくいかないもんだなとぼやく。サシャが言っていたエトル語の数え歌を何度思い出してみてもうまいことハマらない。忘れている歌詞があるのか、それともやっぱりデティレの代替品だと限りがあるのか。困ったときにはそれを使えと言われても、そもそも栽培禁止ならあるわけがない。どこかにうまいこと種が散って咲いているとかないだろうかと考える。エリゼがお待たせしましたと言いながら部屋に入ってくる。  デティレがだめなら薬効が酷似したスネイプでいけばいいかもしれないけれど、時期的に咲いていない。根だけでもあればなんとかなるのにと思いながら足を踏み鳴らすと、エリゼからうるさいと言われた。更にどんと足音を立てる。 「そもそもこの国で使用禁止なら手の打ちようがないだろうが、くそピエタ!」 「俺に当たらないでくださいよ、ガッティーナ。使用禁止の薬草で作った丸薬のことを上に黙って差し上げている俺にそれを言います? 収監してもいいんですよ、Sig.オルヴェ」 「そうしてくれ、上を誑かしてデティレの使用許可を出させてやる」 「無理です。デティレだけは誰がどう言おうが使用許可が下りるわけがない。ガブリエーレ卿に言っても無駄ですよ、王命ですから」  そう言ってのけて、エリゼが肩を竦めた。 「何故ミクシア王はデティレをそこまで嫌うのです?」 「さあ。あれは毒性が強いから触れるなってミクシアでは言っているみたいですけど、ポポリでは普通に使っていますけどね」  文化の違いじゃないです? と、エリゼ。 「ポポリで使ってる?」 「はい、普通に。お茶にしたり、葉や茎を炒めて食べたり、傷薬に使ったり」 「じゃあ、俺が使っている薬草をエリゼが上に報告しないのって、もしかして」 「ポポリやパドヴァンではメジャーに使われる薬草もありますし、もちろん中には知らないものもありますけど、別に死人が出ているわけではない上にいまは有事なので、四の五の言う狭量さが面倒なんですよね」  だから組織って好きじゃないんですよと、エリゼ。ナザリオ亡き後、アリオスティ隊の隊長はスヴェンではなくエリゼが任された。本来ならスヴェンがなるべきなのだろうけれど、あまりに単独行動や規約違反が多いため、手綱を締める意味合いで選出されたらしい。エリゼが不満げに言っていたのを思い出す。  ユーリはエリゼが入れたシナモン・ティーを一口すすって、眉を顰めた。 「茶葉変えた?」 「いえ、普通のですけど」  温泉水を運ぶのに使った大瓶から出してきた水ですと、エリゼ。ユーリは片方にはまだ酒が入っていたとロレンが言っていたのを思い出して、ロレンを呼んだ。 「あれはなんのお酒だったんだ?」 「シャンパンだぞ。中身が入っていたのは、瓶がグレーがかっているほうだ」  エリゼはそっちから出しましたと告ぐ。 「えっ、待って待って、まえもあの温泉水で紅茶のんだけどこんな味しなかった」  カップを置いて立ち上がり、後ろにあるジャンカルロの家から運び込ませた薬草辞典を取り出してページを捲る。シナモン、シャルドの実の薬効成分を比較する。何度もページを捲りなおして、確認する。シナモンにシャルドの実、そして温泉水の中の成分を合わせて、そこにほんの少しアルコールを混ぜたら、――。  ユーリはその資料をもって、早足で部屋の出入り口に向かった。 「食べないんです?」 「置いといて、もしかしたらこれアタリかも」  やっぱりシナモン最高と言いながら、走ってキッチンまで向かい、グレーがかった瓶から温泉水をカップいっぱい拝借する。それをこぼさないように研究室まで戻ってドアを開ける。二コラとリュカが不思議そうにこちらを見た。 「おもしろいこと思いついた」  うわーっとリュカがドン引きしたような冷めた笑いを浮かべる。 「ねえ、一回その顔鏡で見てみなよ、ものすごい悪い顔してるよ」  せっかくきれいな顔しているのにと、リュカ。 「二コラ、ベアトリスが連れて帰ってきた人のなかで、一番ヤバそうな人で試すから、起こしといて」 「なにをするつもりだ?」 「いいから」  せがむように言うと、二コラは的を射ない様子のまま部屋を出ていった。ユーリはすぐに調合しかけていた粉末に薬事用のシナモンを少量加えた。蒸留装置の枝付きフラスコに温泉水、結晶化したカルケルを少量入れてよく混ぜる。枝付きフラスコに蓋をして、バーナーでそれを過熱する。冷却機に水を通して、蒸留されて出てきたそれがフラスコに落ちてくる。最初に出てきたものを破棄し、別のフラスコにすり替えて蒸留水がたまるのを待つ。  フラスコに蒸留水が少し溜まった。フラスコを換え、早く冷めるように銀製のカップにそれを移す。ミレッテの蜜が入った瓶を開けて、清潔な薬匙でそれを一匙掬って陶器の小皿に垂らす。そこに先ほど混ぜた粉末を混ぜ合わせ、簡易の丸薬を作る。飲める程度に冷めたそれと、小皿に乗った丸薬をもって、ユーリがすっくと立ちあがった。 「リュカ、水が減ったら適当にバーナー止めといて」  言って、男が安置されている部屋に駆け足で向かっていく。ドアを開けると二コラが男の身体を支えて起こしているところだった。丁度いい。 「水飲める? 飲めなきゃ吸い飲みかなんか持ってくるけど」  飲めると口元だけで男が言う。ユーリは口開けてと指示をして、男が口を開けるのを待つ。 「そんな苦くはないと思うけど、甘いのは最初だけだから、早くのみ込んでね」  後味はくそ悪いと思うけどと次いで、銀製のカップを男の口元に寄せる。少し、また少しと飲み下す。半分ほど飲み終えた時、男がぐっと唸ってむせた。 「苦いよね、ごめんな。こればっかりは改良の余地がない」  嫌がらせだとサシャと冗談めかして言っていたが、その実苦さばかりは変えようがない。男はカップの水を飲みほして、もう一度唸った。 「すぐには効果が表れないかもしれないけど、胸の痛みは変わってくるはず。ちょっと胸の音聞かせて」  ユーリは首にかけていた聴診器を耳に当て、男の服の上から心臓の音を確認する。夕方には聞こえていた肺雑が少し和らいでいる。昼間の丸薬が徐々に効いているのならいいけれど、やや紫斑が濃くなっているようにも見受けられる。 「気分は?」  わるかねえと唇の動きで男が伝えてくる。手首を触って脈を確かめる。あれだけ出ていた結滞が消えている。さすがに即効性は見込めないだろうけれど、昼間に使ったものと併用しても妙な副作用が出ることはない。一応そのあたりも考えて調合しているために、“自分が考えているもの”よりも効能が劣るものの、まだ手の内を見せるほどの段階ではない。いくつもの手を作っておかなければ、有用性のあるものを潰されてはかなわない。どこに“ネズミ”が隠れているかわからない上、現段階でアタリを作ってしまったら、政府がどう出るかが読めないからだ。  さすがにリュカやドン・クリステン、オレガノ軍が絡んでいる手前、以前のようにユーリの言ったことを無碍にはしないだろう。ただ、政府側にネズミがいるとしたら情報が洩れる上に、西側の土壌になにが含まれているかが確定していないのに“アレ”を使うと、副作用が起きかねない。すべての薬効が抜けたうえでじゃないとデータすら取れないのだ。  相手が重篤患者だからといって、無暗に実験するわけにはいかない。レーヴェンとベニーに関しては、居住区が東側だったこと、パナケインを服用してくれていたこと、そして北側にいたことで地下街で作ったものが有効だったけれど、この人たちは最初の段階でパナケインを服用していないはずだ。  しかも、聞けば西側にピエタが置いて行った物資を盗みに行ったらしい。長時間ガスマスクなしで向こうの空気に暴露したこと、どの付近まで盗みに行ったのかまでは聞き出せなかったものの、その物資にまで“なにか”が付着していた可能性がなくもない。ユーリは聴診器を外して、二コラを呼んだ。 「紫斑は濃くなっているけど、肺雑は消えているし、ちょっと改善傾向にあるかも。ほかの人にも試してみたいから、蒸留水と丸薬作ってくる」  そう告げて、ユーリは研究室へと急いだ。

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