65 / 108

Eleven(5)

「だるい」  リクライニングソファーに身体を預け、四肢をだらんと投げ出したままぼやく。腰が死ぬほどだるい。ただでさえ絶倫で好き勝手動くドン・クリステンの相手をした後に、見境をなくしたニコラに抱かれたのは悪手だった。  まったく気づかなかったが、昨日の情事をドン・クリステンに見られたらしく、ニコラもまた珍しくテーブルに突っ伏してぶつぶつなにかを言っている。腹の上で出せと言ったのに、ニコラは結局3回も中で出したし、ユーリ自身もニコラに抱かれるのが久々すぎて何度イッたかわからない。気を抜いたら少しの刺激でイキそうになるのを堪えながら朝の会議に出たせいで、もう体力がない。ぐでんとソファーにもたれかかっているユーリの耳に、ミカエラの声が入ってきた。 「体調が悪いのですかSig.オルヴェ」 「そう、最悪」  腹がおかしいと明け透けに答える。 「腹痛の薬でも煎じますか?」  素で心配された。「そうじゃないから大丈夫」と伝えると、ミカエラは不思議そうに「そうですか」と言った。 「Sig.カンパネッリも、いったいどうされたのです?」 「この人はメンタルやられてるだけ」  前髪が散るのが悩みらしいと嫌味を言ったが、ニコラはぴくりとも動かない。本当に珍しい。  ユーリはゴソゴソと身体を起こして、次の中間報告までにはどうにかしておかないとと考えながら、リュカの古文書コレクションからなにかいい発見はないかと背表紙を眺める。大概のものは読破したが、それらしい記述はなかった。イル・セーラとノルマのやりかたが融合できれば言うことなしなのにと思いながらも本棚から本を取り出して目次を見る。  疫学の本は大概読んだが理論めいたことばかりで核心に触れるものがない。やっぱりデティレじゃないとダメなのかなと思いつつ、隣の本を取った。  ページをめくり、ユーリは目を見張った。収容所でユルゲンに奪われ、焼かれたと聞いていたあの本だった。軍部が保管しているらしいとサシャが言っていたが、まさかこんなところにあるとは思わなかった。ページをめくり、中身に目を通す。大体のことはフォルスの地下室に置いてあった本と同じような内容だ。ある意味その書物たちよりも内容が薄い。暴かれても良いようにか、それともこの範囲内での情報提供をするために書かれたのか、とにかく有用な情報はなさそうだ。 「これもハズレか」  もう一回フォルスの地下にあった本を読み直すかなァとぼやいていると、チェリオが呑気な声で入ってきた。 「よーっす、ユーリ。相変わらず本の虫か?」  言葉と同時に腰を叩かれ、ユーリはびりっとした感覚に襲われた。 「ーーっっ!」  ミカエラの前だ。声を出さなかっただけでも褒めてほしい。床に崩れ落ち、ビクビクと震える。腹が、奥が疼く。ユーリは涙目になりながらそれを収めるために息を整えようとした。 「大丈夫ですか?」  ミカエラが駆け寄ってくる。いま触られたら喘ぎそうで、大丈夫と声を荒らげた。震える声だ。絶対にバレた。なにかを察したらしいチェリオが「強く叩きすぎちゃった」とおどけたように言う。ナイスフォローだ。  とはいえ声を出したらよがりそうで、ユーリは口を塞いだまま考える素振りを装って床に落ちた本のページを捲った。パナケインの記載はあったが、以前サシャが言っていたように調合に必須な薬草がいくつも抜けている。アルカはもちろんのこと、イェルナのことも記載がない。これは誰に宛てられた本なのだろうか。  パラパラとページをめくり、手をとめた。ヴァシオへと書かれている。ヴァシオと反芻するように言うと、ニコラがガバッと身体を起こした。 「ユリウスのことか?」 「マジ? この本、ユリウスに宛てて書かれたものらしい。収容所に連れて行かれる時に、この本をサシャがユーリに渡されたって言ってた」  チェリオがあっと大声を上げた。 「ニコラ、覚えてねえ? 俺がドン・クリステンに渡したあの紙に書いてあったろ。『例の書物はフォルスの地下』って。もしかして、あのことなんじゃ」  そう言われて、ユーリはまたページを捲った。最後まで流し見するが、肝心なことへの記載はなにもない。なにもないけれど、この書物がユリウスではなくサシャの手に渡ったということは、必ずなにかがあるはずだ。  ふいにエドから渡された封筒のことを思い出した。あれは検閲をかわす為にと二重封筒になっていた。とすると、この本も。  カバーを外して背表紙をくまなく見る。指で段差がないか確認してみたが、指先に引っかかりを感じない。ハズレかとユーリが落胆したような声を出した。  本当ならユリウスに渡す予定だったけれど、なにか関係が拗れてサシャに託したとも考えられる。もしそうなら、こんなところになにかを隠しているわけがない。  最後のページに見慣れない文字でなにかが書かれている。ミカエラを呼ぶ。その一文を指さし、これは第二言語かと尋ねると、ミカエラが眉根を寄せた。 「いえ、これはオレガノが移住者用に使う言語です」 「移住者用?」 「ステラ語は、第一言語も第二言語も慣れない相手には発音が難しく、習得するのに時間を要する傾向にあります。また、ファロ族、ネーヴェ族とも円滑にコミュニケーションを図るためにも、法則を崩し、簡易的にした言語が必要だということで、開発されたものですね。ファシール語と言って、フォルムラ語よりもやや容易なものになっています」  やっぱりだ。地下街にあった書物とは文字の感じがまったく違う。ユリウスはオレガノ出身と言っていたけれど、そうなるとそれすらも怪しい。“ユーリ”はオレガノとミクシアのイル・セーラでは言語形態が異なることも、ユリウスがオレガノの移住者であることも知っていたということになる。 「なんて書いてあんの?」 「『アマーリはアルマの感染で亡くなったのではなく、持病の悪化で亡くなった。フェネリでアルマの研究をしたせいでパンデミアが起きたわけではない。その旨をドン・フォンターナとドン・ナズマに伝えてほしい』……と記載されています」  ドン・ナズマと、ユーリがつぶやく。 「え、あの人たち、“ユーリ”のこと知ってたってこと?」 「そのようですね。『敢えてファシール語で書いた理由は、これがオレガノの移住者にしか読めない言語だからだ。貴方には大きな貸しがある。お二人にその旨と書類を届け、子どもたちをオレガノのベルダンディ家に預けてほしい。それがフェルマペネムの秘密を話す条件だ。子どもたちの安全が保障されないのであれば、二度と貴方がオレガノの地に足を踏み入れることはできないよう取り図らう』」  ミカエラがきょとんとする。 「後半脅しじゃねえか」  あの人マジで性格わりいなとぼやく。 「しかもなんか、さらりとすごいこと書いてない? ベルダンディって、あんたの名字じゃん」 「正確には、わたしではなく、オレガノに残してきたジュリスという近衛兵の名字です。わたしはオレガノ軍では彼女の孫という扱いになっています」  だから自国の王子って気付かれないのかと思う。ずっとそれが気にはなっていた。そのページを眺めて、ふと気付く。 「ねえ、ここ」  なにか文字が書かれたあとがあるが、読めない。ユーリはその箇所に鼻を近付けて、くんくんとにおいを嗅いだ。あたりまえだがにおいなどするわけがない。ただ、自分だったら、至極当たり障りのないことは”緊急時が起きたとき”のために教えておく。キアーラがやったような、文字を炙り出すために必要なもので、最も疑われないもの、――。 「チェリオ、左側の棚にある、温泉水の瓶取って」  はいよと軽く言って、チェリオが温泉水の瓶を持ってくる。ユーリはそれを手に取り、蓋を開けて少しだけ指を濡らし、読めない部分ににじませた。じわりと文字が浮き出てくる。今度はクリプトだ。ユーリはそれを見て、苦笑を漏らした。 「最悪、マージで教えるつもりねえやつじゃん」  じわじわと笑いが込み上げてくる。くっくっと笑いながら肩を揺らしていると、ミカエラが不思議そうに問いかけてきた。 「なんと書いてあるのですか?」 「『トゥルス、レジーナ、デティレ、ネスラ……と、□□□をもって、9年後から16年後のいずれかの10月3日以降に至福者の丘へ』」  マジで最低と、ユーリが笑う。トゥルスとネスラはともかく、レジーナなんてレア中のレアだ。異形の花の種なんて、そうそう手に入るものじゃない。そもそも文字が歪みすぎて解読不能なクリプトなんて初めて見た。それにもしこれが本当にフェルマペネムの中身なのだとしたら、あたりまえだけれど再現不可能だ。文字が読めない部分がなにかが分からない上に、配合率の記載がないうえに、例えばトゥルスのどこを使うかの記載もない。仮にユリウスがフォルス出身の、クリプトが読める相手を脅して解読させたとしても、適当にぶっこめば毒になる可能性大だ。  “ユーリ”は駆け引き下手のうえに性格最悪だなァなんて笑っていたが、ふと気付く。クリプトなら、ユリウスが分かるわけがない。とすると、これはクロードか誰かに対するメッセージではないだろうか。サシャもこのことを知っていたか、それともさすがにこのことまでは知らなかったのか、もう確かめるすべはないが、レジーナまでとはいかないものの、ノルマがよく使う“イーファ”という麻酔薬の中に、薬効が酷似したものが入っているはずだ。イーファが開発されたのは、確か、――。 「ニコラ、イーファっていつ開発されたんだったっけ? ど忘れした」  二コラが怪訝な顔をする。 「あの医療用麻薬か? あれは確か研究が15年程前からされていて、承認が下りたのは10年前だったと思うが。比較的新しいものの、薬価が高いうえに調合が難しく、それこそリナーシェン・ドクしかいまは調合方法を知らないと思うぞ」 「あァ、マジ? じゃあリズちゃん知ってんじゃない? ここに呼んで、いますぐ」 「リズが応じるわけないだろう、俺は未だに必要最低限の会話しか躱してもらえないんだ」  ユーリはもう一度その文面を眺めて、あっと声を上げた。 「昨日の調合率でも改善はみられたし、感染者の中には女性もいたからスルーしてたんだけどさ、ミカエラ、西側のスラムに行ったのに、なんであんたらは誰も感染してないんだ?」  そう尋ねると、ミカエラはなにかを思い出すように視線をさまよわせた。 「隊員たちには念のためにと『ネスラの種』から作った毒消しを服用させていました。  彼らを撤退させた後で、セラフが西側のスラムにドン・アリオスティと共にアレヴィ大元帥を捜しに来て、確かあの時は北側に戻ると仰っていたことを告げたのですが、その時に風向きが変わり、西側で舞い上がった粉塵を吸ってしまったのです。  じつは東側から西側に向かうにつれ違和感を懐いていたのですが、ミクシア軍の手前早期撤退ができずその場に留まったために不調を来たしたのかと思い、北側に戻るまで耐えられるだろうと思っていたら、途中で意識が薄れて。おぼろげにセラフがなにかの丸薬を含ませてくれたところまでは覚えているのですが」 「それだ、ネスラの種」  ユーリは開いていた本を勢いよく閉じた。 「東側の女性の感染者が極端に少ないことを、不思議に思っていたんだ。丸薬を飲まなかった人か、飲んだけれど効果がなかった人か、傷口から感染を起こした人か。統計的に東側の女性の感染者はセッテ地区以北の人がほとんどで、西側と北側はデータが少なすぎて不詳。スラム街の人に渡した丸薬は、子ども用、女性用、男性用で分けたんだよね」  だからネスラの種の薬効が関係していると告げる。二コラが意想外な顔をした。 「そんな細かいことまでやっていたのか」 「あの丸薬に含まれる成分の中には、避妊とか不妊とか、婦人科系の問題を引き起こす可能性のあるものがあって、特にキアーラなんて婚約者がいるって聞いてたから、なにかあったらまずいなって思って」  二コラたちがなにやら怪訝な顔をする。ユーリはその表情の意味が分からず、二コラとミカエラを交互に見た。 「え、俺なんか変なこと言った?」  チェリオに尋ねると、チェリオもまた面倒くさそうな顔をしてガリガリと頭を掻いた。 「基本的には上流階級や貴族はちゃんと婚姻関係を結んだうえでだな」  二コラが言い淀む。ユーリはきょとんとしたまま首を斜めに傾けた。 「だから、長期的に見て、なにかあったらまずいだろ」  感染リスクがある限り服用し続けなければいけないとしたら、なるべく体に負担のないもののほうがいいだろうと思いそうしたのだけれど、うまく意図が伝わらないようだ。ユーリはまあいいやと言って、続けた。 「男性用の丸薬と女性用の丸薬に含まれるものの大きな違いがふたつあって、そのどちらか、或いは両方が作用したと考えられる。でもひとつ問題がある」 「問題とは?」 「その時の丸薬を作った材料がもうなにもない」  アパート焼けちゃったしと、まるで気にするそぶりのない声色で、ユーリ。二コラが溜息を吐いた。 「ならどうしようもないだろう」 「薬効が似たものを試せないこともないけど、たぶん時期的にまだ咲いていないし、もう一つは指定外薬物所持違反で捕まっちまうからなァ。小心者の俺には怖くて作れない」  試すような口調で言ってのけ、ユーリが不敵に笑う。二コラがまた溜息を吐き、両手を軽く広げて見せた。 「ピエタを黙らせろ、と言いたいのか?」 「べつにそんなつもりはないけど」 「なら含みを持たせた言い方をするんじゃない」  二コラに辛辣に言われ、ムッとして唇を尖らせる。そうだとしても二コラには頼まないと文句を言っていると、ミカエラが声をかけてきた。 「ネスラの種なら、たぶんベアトリスが持ってきていると思いますが」 「オレガノの人間には有効でも、ミクシアの人間にはそうじゃない可能性がある。“ユーリ”は居住区の30Km圏内のもの以外使っちゃいけないって、クッソうるさく言ってたんだよね。  だから、ユリウスと初めてヴェッキオで出会った時、薬草を採りに来たって言っていたけど、たぶん別の目的があったんだと思う」 「それは初めて知りました」 「まあ、古い言い伝えレベルのものなのかもしれないし、土壌の成分が関係しているからなのかもしれないし、よくわかんないけど。  ベアトリスが持っているなら、試してみる? ここに実験台いんじゃん」  二コラを指さして言ってみる。二コラがおいと語気を強めた。 「人を実験台にするんじゃない」 「ネスラ美味しいよ、甘いし、ちょっと独特な味がするけど」 「ほらみろ。どうせ俺の嫌いな味なんだろう」 「それは食べてみなきゃわかんないなァ」  案外好きな味かもしれないと笑っていると、部屋のドアがノックされた。ラカエルがひょこりと顔を覗かせる。 「ユーリ、ガブリエーレ卿の研究室に行ってもらえないか? なにか話があるそうだ」  ユーリはふうんと浮かない返事をした。すぐにリュカに話を聞いてくると告げ、部屋を出る。途中までラカエルと一緒だったが、彼はガブリエーレ卿から頼まれごとがあると言って、地下室があるほうの階段を下りて行った。その背中を見届けて、ユーリはリュカの研究室に向かい、ドアをノックする。すぐにどうぞと明るい声がした。 「話ってなに?」  そう尋ねると、リュカが「おもしろいこと考えたんだよね」と声を弾ませて、手招きをした。促されるままにリュカに近付く。リュカはなにかの蒸留水を作っているようだ。 「まえにレーヴェンとベニートに飲ませたっていうオイル、あれ、カナップで作っただろ」  ユーリはきょとんとした。「そうだけど」と何食わぬ顔で答える。カナップは使用禁止の薬物だと言われているが、地下街で起きたことは治外法権だと不敵な笑みを浮かべて言ってのけた。 「もしかして、その意味もあって地下街に潜伏していたの? 悪いやつだなあ」 「彼らからは一応許可を取っているし、別に茎や葉をあぶって使ったわけでもあるまいし、グレーだろ」 「まあ、そうともいうね。そのオイルとネスラの種、それからネスラの種とノルマがよく使う“イーファ”の中のいくつかの成分を使ったら、おもしろいことができるんじゃないかと思って」  瞠目する。まさにユーリが考えていたことだったからだ。イル・セーラの知識だけで作ったとしても、どうせ政府があとから文句を言ってくる。だったら適切かつ的確に効果が出るであろうノルマが使うものと併せて特効薬をつくれば、文句も言えないだろうと思っていたところだ。ユーリはリュカの両肩をがっしり掴んだ。 「あんた最高」 「そう、ありがとう。やみくもにイル・セーラに関連する資料を集めていたわけじゃないし、政府の言いそうなことくらいはわかる。それで、そのオイルってすぐに作れたりする?」 「カナップがあれば、なんとか。でもネスラはちょっと時季外れだし、アパートが焼けちゃったから在庫もなくて」 「どの種類じゃないといけないとか、種はどのくらい乾燥させたほうがいいとか注意点ある?」 「種類は別にないけど、時季外れのものと居住区から30km以上離れた場所のものはつかうなって言われてる。時期的にアルスの種で代用できるから、そっちのが無難かも」 「じゃあ輸入はだめってことか」 「土壌が異なるから薬効が薄れるかもしれないって聞いてる」  リュカはふうんと興味ありげに言って、不敵な笑みを浮かべた。 「アルスなら、隣村で栽培しているよ。10kmも離れていないし、収穫に行かせよう」 「問題はカナップだな」  怖い怖いピエタに睨まれたくないから、詰んだと思っていたところと何食わぬ顔で告げる。リュカはくすくすと笑って、首を斜めに傾けた。 「きみはここがどこか覚えている?」  ユーリはきょとんとした。 「ウォルナット村」  そうとリュカが言う。 「ここは誰の領地?」 「あんたの」 「軍部やピエタの介入は?」 「……ない、けど。って、えっ!?」  まさかと大袈裟な声をあげる。リュカはそのまさかだよと言って、目を眇めてユーリを見た。 「なんのためにぼくがここで研究をしていると思ったんだよ? 小うるさいピエタの介入を防ぐためだ。エリちゃんはピエタでありながらぼくの忠実な飼い犬だから、だからきっとなにをしても知らぬ存ぜぬを貫き通してくれる。あとは結果を出して、ぼくが司法と軍医団を丸め込めば、あなたの研究成果が存分に発揮できるってわけ」  ユーリは開いた口が塞がらなかった。ぽかんとしている。それをみて、リュカが満足そうに笑みを深めた。 「あれ、もっと喜んでくれると思ってた」  その発想はなかったって顔をしているねと、リュカが不敵な笑みを浮かべて言う。そのまさかだ。立場のある貴族がここまでするとは思ってもいなかったからだ。  ふと、キアーラが言っていたことを思い出した。ガブリエーレ卿なら自分でフェルマペネムの代替品を作ってしまう智識も財力もある、と。ではなぜこちらに協力をと求めてきたのだろうか? ユーリはリュカを見つめたまま口を開いた。 「あんた、じつは自分ひとりで諸々開発できたりするんじゃないのか?」  怪訝そうに言ったら、リュカは否定も肯定もせずに笑みを深めた。 「それ、意味ある?」  逆に問われ、ユーリは眉を顰めた。意味があるかと言われるとわからないが、早急にパンデミアを防ぐのが目的ならそうすべきだ。でもそこにはそれだけではないなにかがあるのだと言われているように思えて、ユーリは首を横に振った。 「言ったはずだ。貴族は有事でなければ動けない。ぼくは権威でもあるけれど、立場が邪魔でそういった問題に口を挟めないんだ。だからなにもできなかった。あなたの兄は『権威がやればいい』と何度も訴えていたようだけれどね」  耳に入っていたのかと思う。ユーリは眉間を指でつまんだ。 「あの人、関わるな、首を突っ込むなが口癖だったから。たぶん、諸々父親から聞いていたんだと思う。4歳年上だからそれなりに物事を教えてもらっていただろうし、性格的にも俺より慎重で保守的だった」 「その保守的さがあなたたちを救った、とも考えられるよ。ドン・フォンターナは収容所でなにが行われていたか、どんな計画が練られていたか、その一切をあなたの兄から聞いていたらしい。だからぼくたちに逐一報告を入れていた。それでなんとか収容所を解放できないかと諸々動いていたんだけれど、なにせぼくはまだこどもで、兄もまだそこまでの権限を持っていなかった。  だから、権限を持ったら真っ先にすべてを覆してやろうって、兄と決めていたんだ。この腐った国を根底から覆し、根こそぎ膿を出そうって。  ぼくはあなたに謝らなければならないことがある。そのためにぼくは、このパンデミアが起こることを知っていて、見て見ぬふりをした」  ユーリは二の句を継ぐことができなかった。言われている意味がわからない。それはなにものかの計画だったと言っているようなものだ。 「自然発生的ではないことくらい、分かっていたと思う。政府があなたたちが書いたエルン村の報告書を隠ぺいしたのも、そうすればあなたがフェルマペネムの代替品を作ろうと動き出すことも、すべて織り込み済みだった。誤算だったのは、あなたが意外と慎重で、ヴィータ作成に重要な薬草を省いたことと、調合率を変えたものを軍部に提出したこと、かな」  言って、リュカが資料をテーブルに置いた。それはあのとき研究室から盗み出された資料の一部の、無くなっていた材料と調合率が記載されたページだった。弾かれたように顔をあげる。 「だから政府はあなたを嚇すために、サシャ・オルヴェにドン・フォンターナ暗殺の濡れ衣を着せようとした。そう嚇せばあなたが言うことを聞くと思ったんだろうね。白昼堂々誘拐して、問い詰めれば吐くだろうって。  だけどずっとドン・パーチェのやり方を快く思っていなかったケインが邪魔をした。あちらはケインをアリオスティ隊に組み込むことで妨害を目論んでいたんだと思う。ケインの証言のおかげで、パーチェは有罪。  あなたが協力してくれることで、諸々膿を出せているのは確か。だけど、オレガノが思いの外犯人探しに苦戦しているっぽいんだよね」 「オレガノが?」 「ミカエラは病み上がりだし、それでこっちと市街の中継役に徹しているらしい。おもしろいよね、彼ら。階級的にはミカエラのほうが上なのに、アレクシスの指示なんだって」  リュカが穏やかに笑う。彼らはお互いを死なせなくないと思っているようだし、軍人と雖もいろんなタイプがいるんだろう。ミクシアでは上司の言うことは絶対だけれど、オレガノはそうでもなさそうだと以前から感じていた。ミカエラがミクシアでは成人しているとはいえまだティーンなのもあり、実質的な指揮はおそらくアレクシスが執っている。 「ミカエラがいればまた柔軟な発想からヒントを得られそうなものだけれど、どうもアリオスティ隊と折り合いがよくないらしいよ」  リュカが微苦笑を漏らす。ユーリは折り合いを悪くしている犯人を思いつき、鼻で笑った。 「エリゼか」 「エリちゃんもだけど、どうもナンドとスヴェンも難色を示しているらしいんだよね。その仲介に入っているのがアンナ。レナトはそれを見越したうえで、アンナをアリオスティ隊に編成したのかもね」  彼、ああ見えて案外人をまとめるのがうまいんだとリュカが言う。アリオスティ隊にしてみれば、ナザリオが亡くなる原因を作ったのがミカエラの救出要請だ。それをトップに据えているオレガノ軍と共同作戦などおもしろくないだろう。だからミカエラを外しているのかとふと思う。 「ミカエラはそうやって彼らに庇護されていることがわかっているからこそ、結果を出そうと黙々と手伝ってくれているんじゃないのかな。もちろんあなたが負い目を感じないようにするためもあるかもだけど」  ずいぶん嫌な言い方をする。ユーリは眉根を寄せて、「別にもう処刑されたいなんて思ってない」と投げやりな口調で言った。  思っていない。思っていないけれど、でもやはり時々考えてしまう。これは大規模なテロだと軍医団が提唱していると聞いたが、政府はそれを認めていないし、報道もまたそんなことは一切言っていない。市街に戻れば自分は針の筵だろうし、実験に付き合ってくれたはいいけれど命を落とした人もいる。そもそもヴィータがなければこの騒動に発展しなかったのではないかと思う気持ちがないわけでもない。遅かれ早かれ巻き込まれていたとドン・クリステンは言っていたが、それはそれできな臭さしかない。  やっぱりサシャの言うとおり、関わらなかったほうが、ーー。  そう思う反面、収容所での出来事を思い出す。サシャには言わなかった。だからきっと“ユーリ”に対するヘイトを知らないだろう。フォルスではない場所に住んでいたイル・セーラから、“ユーリ”が政府や軍部の言いなりにならなかったからこうなったのだと何度も言われたことがある。もちろんエドやクロードが自分とサシャがヘイトに巻き込まれることを懸念し、ふたりが“ユーリ”の子どもであることを黙っていたが、そんなものはいずれ露見する。クロードが殺されたときに、看守たちは自分とサシャの出自を隠ぺいしたからだと言った。知っていてどう動くか泳がせていたのだ。  当然ヘイトは溜まる。クロードが殺されたあとは守ってもらえるどころか、それこそイル・セーラからも回されたし、ずいぶんなことを言われた。でもそれをサシャは知らない。ドン・フォンターナの寵愛を受けていたサシャには、誰一人として手を出すことができなかったからだ。  だけどそのうちに大人たちが次々に亡くなっていき、同年代や少し上の世代の同族だけになると、そういうことも起きなくなった。むしろみんなで結託していたし、サシャがドン・フォンターナからの寵愛を大人しく受けているのは、いずれ変革を起こすためなのだとひそかにみんな思っていた。  事実、イル・セーラが収容所から解放されるきっかけとなったのは、シリルの死が大きくかかわっているが、キアーラが昔自分の家にいた使用人だと思ってユーリに声をかけてきたからだ。自分はその使用人ではないと分かっているのに、イル・セーラがひどい扱いを受けていることをキアーラがドン・フォンターナとドン・フィオーレに訴え、ドン・フィオーレがアレヴィ大元帥や息の掛かった貴族たちに訴えたことにより、状況が一変した。同時期に前王が死去し、内政に不満を懐いていた現王がイル・セーラの奴隷解放を行った……というのが自分が知っている顛末だ。  でも、もしかすると、それは表面的なもので、もっと別の思惑が渦巻いているのではないかというのは、前々から思っていた。  “ユーリ”は政府の言いなりにはならなかった。だから殺された。そのせいでイル・セーラたちが収容所に送られることになったと亡くなった大人たちは口々に言っていたが、それは違うと思う。ユーリ自身が政府に逆らってでも中和剤の開発を推し進めてきたのは、“ユーリ”やクロードが言っていることは間違っていなかったと証明したいこともあり、また自分の矜持でもあった。  日和ったせいで殺された男の子どもが結果を出したら、人心はどう動くのかといえば、手の平を返す人やどうせ身体を使って取引をしたのだと揶揄する人、純粋な気持ちで感謝する人もいるだろうけれど、その感情に触れるのが怖いと言って、サシャは決して手の内を見せようとはしなかった。  ユーリの言い分は違う。人の感情などどうでもいい。やることは“ユーリ”とクロードが提唱したものが正当か否かを確かめること、そして二度と自分たちがされたような少数民族への弾圧や差別主義者を出さないこと。そのためにある程度の地位がいると言って、大学に入ってからはサシャとよく揉めていたのを思い出す。どちらも間違っていないけれど、自分がサシャと同じ選択をしていたら、どうなっていたのだろうかと最近よく考える。    だいぶメンタルが弱っているんだろうと自覚している。前ほど食事が美味しいと思わなくなってきたし、ときどきすべてを投げ出したくなる。自分ひとりが責任を負うことなどないとドン・クリステンたちは言ったが、収容所で言われた言葉が、いまの自分を突き動かしている衝動になっているのは確かだ。その衝動がなくなったら、どうなってしまうのだろうか。 「処刑してほしいとは言わないけど、ある日突然テロを起こすかもな」  ぼそりと言う。ずっと考えていたことだ。これはある意味でテロリズムだし、到底受け入れられるものではない。リュカがふふっと笑った。 「あれ、気付かなかった? ぼくたちがやっていることはテロリズムに則った行動だよ。ある意味で国家転覆を目論んでいる。  あなたはイル・セーラに関することと、中和剤等の開発以外に関わるなと言ったのは、こういう意味もある。  テロリズムなんてものは、国を守らんとする意思か、国を潰そうとする意思かの違いでしかなく、事象はこうして動いていく。  100年間以上どことも戦争していないオレガノにもきな臭さがあったのだから、ミクシアなんてなにが起こっても不思議じゃない」  リュカが不敵に笑う。なんとなく釈然としなかった。でも、そう言われると、少し気持ちが楽になる気がした。じつをいうと、ずっと引っ掛かっていた部分がある。以前モルテードが『合成麻薬の生成を手伝え』と言ってきたことがあるけれど、いまやっていることは、それに近い。カナップだって研究の延長でと詭弁を弄すればリュカなら扱えるのかもしれないけれど、――。いや、あまり考えるとろくなことにならない。そう頭を切り替えて、ユーリは大袈裟に両手を広げて見せた。 「もし目論見がバレたら、俺はその計画自体を知らなかったってことにしてね。ミカエラに頼んでオレガノに亡命するから」 「そんなことさせると思う? オレガノに手伝わせているのは、ちゃんと理由がある。あなたがオレガノに亡命できるとしたら、その頃にはもしかすると、ミクシアとオレガノの情勢が一変しているかもしれないね」  リュカの目はマジだ。冗談を言っているように見えない。これはまだなにかを隠しているなと思いつつ、ユーリは「縁起でもないことを言うな」と一蹴して、カナップを採りに行くために部屋を出た。

ともだちにシェアしよう!