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Thirteen(4)
「ユーリ、頼むから起きてくれ」
朝からずっと無視をしていたというのに、ついにドアの鍵を開けて不法侵入をしてきた。声をかけてきたのは二コラだ。ユーリは羽毛布団をかぶったまま動こうともしない。完全なるストライキだ。
西側の土壌調査のことでアレクシスがガチギレしていた日の夜、アルテミオの部下がガスマスクと共に通信が可能な装置を持ってきた。もちろんここにもリュカが使っているものがあるけれど、距離があるためにより精度の高い同型の通信機のほうが良いだろうとの判断だったようだ。
その時に、アルテミオの部下から政府の対応についてを少しだけ聞いた。アルテミオは確かに政府を黙らせ、西側の土壌調査をすることに対して一切口出しをさせないことを約束させたらしい。ただ、失敗したらアルテミオが二部の団長を退くことと、政府が進めたがっている発掘事業に携わるという条件付きらしい。発掘事業をしたいのは、東側のスラムのオット地区の未開発域。つまり政府は、あそこになにかがあることを知っていて、わざとスラム街を放置したということにつながる。
ふつふつと怒りが込み上げてくる。あそこの人たちは、あんなにも一生懸命に生きてきていたのに、踏み躙る権利が誰にあるのかと思う。
ユーリが二コラの言葉に応じる気配が一切ないからだろう。二コラがあからさまな溜息を吐く。ふと下の応接室から声がするのに気付いた。いまの声はミカエラだろうか? 彼にしては余裕がなさげな声だと思い、布団から顔を覗かせる。
「ユーリ、頼みがある」
ややホッとしたような表情で、二コラが言う。ユーリはそれを怪訝そうに睨んで、視線を逸らした。
「ノルマなんて嫌いだ。悪徳軍医団長の息がかかっているあんたも嫌い」
「毎回変なイカせかたしやがって」と腹を擦りながら睨むと、二コラが「それは俺のせいじゃないだろう」と困ったように言った。
「Sig.ベルダンディがお困りだ。顔を貸せ」
「嫌だ」
そう言ったはいいけれど、ミカエラが困っているというのは気になる。オレガノでも何か動きがあったのだろうかと考えつつも、のそのそと体を起こしてベッドを降りた。
二コラからちゃんと服を着替えるように言われてしぶしぶ着替えていた時だ。廊下からミカエラが焦ったような声がするのが聞こえた。いそいそとシャツを整えて、中途半端にしていたメッシュベルトを締めていると、二コラがなんともいえない声を出した。
「ユーリ、おまえはなになら食べてくれるんだ?」
明らかにまた痩せているからだろう。自分でも思ったところだ。そろそろちゃんと食べないと生命活動自体に支障をきたす可能性もある。なにが食べたいかと言われても、その日のコンディションによるとしか言いようがない。
「マチェドニアなら食べてる」
「まあ、栄養補給には丁度いいものだが」
「あれ、珍しく二コラが否定しない」
「スープとバケットだけしか食べないより、そのほうがよほど健康的だろう」
そう言いつつも、別にそこまで食べていないわけでもない。アルテミオに言われて、夜な夜な自分で食べられるものを作りに行っているし、ミカエラが作ってくれたリゾットは本当に美味しかった。あれなら毎回でも食べたいと思ってしまった。
いつかリュカが言っていたように、薬物を乱用された影響が今頃になって出てきている可能性がなくもない。いくつか中和剤を試しているけれども効果がないあたり、ただの副作用だけではなさそうだとも思っている。理由は一つしかない。そもそも人体の栄養源たる肉を食べていないんだから太れるわけがないと思いつつ、口に出さなかった。
部屋のドアがノックされる。不思議に思い顔を覗かせると、気まずそうな、それでいてどこか焦っているかのような表情のミカエラが立っていた。
「Sig.オルヴェ、大変申し訳ありませんが、少々お時間を頂きたく」
言いにくそうにしているミカエラの言葉を遮るかのように、耳によく馴染むほど澄んでいて、水のせせらぎのように落ち着きのある声がした。すぐさまミカエラが少し落ち着いてくださいと困ったような口調で言う。
状況がよくつかめない。こちらに背を向けて誰かを説得している様子のミカエラの向こうに、あからさまに敵意をむき出しにしているアレクシスと、見たこともない女性がいる。
トゥヘッドの少々癖のあるロングヘアーをポニーテールに纏めている女性は、アレクシスとおなじ軍服を纏っている。スタイルの良さが際立つような美人だけれど、勝気そうなのが目に見えてわかるほど荒々しい雰囲気だ。そもアレクシスに中指を立てているあたり、ベアトリス以上に仲が悪いことが伺える。
なんだこのカオスは。絶対に面倒ごとだと思い、ユーリは部屋のドアを閉めた。向こうからミカエラの困ったような声がした。
「ニコラ、てめえっ」
「だからSig.ベルダンディが困っておられるから顔を貸せと言っただろう」
「あきらかにカオスじゃねえか、なにあれっ?」
「オレガノのからの使者と仰っていたが」
そう言って、二コラが耳を貸せと顔を寄せてくる。素直に応じたあと、ユーリは目を見開いた。
いま、王族と言わなかったか? 確かめるようにドアの外を指さすと、二コラが頷いた。ユーリは二コラに悟られないようにその場を離れて、勢いよく窓を開けて窓枠に足を掛けた。
「待て待て待てっ、引き渡すわけじゃないんだ、落ち着け!」
「離せっ、絶対に嫌っ! なんで次から次へと面倒ごとを持ってくんの!?」
マジでふざけんなと言いながら二コラを振り払って窓から飛び降りようとしたが、二コラの力のほうが勝っていて、まるで暴れる猫を抑え込むかのように拘束されてドアのほうに引きずって連れて行かれる。
「嫌だっ、マジで嫌だって! ジジ! ジジ助けて!」
本気で抵抗しながらジジを呼ぶが、ジジは部屋の隅で30センチ大の箱を抱えて優雅になにかを食べている。見覚えのないスイーツだ。とすると、ドアの鍵を開けたのはジジかと思う。これはきっとオレガノ側からの賄賂だろう。ユーリは恨めしそうにジジを睨んだ。
「みんな嫌いだ」
俺の味方は誰もいないとぼそぼそとぼやくと、二コラから朗報だと思うぞと言われ、ドアを開けられた。
「申し訳ない、Sig.ベルダンディ。捕獲してきた」
ユーリの両脇の下に腕を差し込んで、両手で抱えている状態で部屋を出ていく。プランと足元が浮いている。ユーリには抵抗する意思がない。むしろ素直に応じたほうがさっさと片付くと学習した。
「本当にレオナ兄上そっくりだわ」
またあの女性の声がした。ふと顔をあげて、驚いた。ミカエラそっくりだけれど、少し目元が穏やかそうで、ミカエラの感情表現が彼女に全振りされたのではないかと思うほどに表情豊かな様子だ。ミカエラが眉間をつまんでいるのが見える。
「姉上、お願いですから順序というものを覚えてください。いずれオレガノにお連れすると申したはずです」
そんなことは聞いていないと言わんばかりにミカエラを睨んだが、ミカエラから困ったような視線を送られる。話を合わせてくれと言っているのだと悟り、ユーリは嫌そうに息を吐いた。
「ミカはわたしの話を聞きもせずにこちらに戻ってきてしまったわ。だからちゃんと許可を得て使者として渡航してきたのよ」
「当たり前です。そもそも、レオナ兄上に似ているとは雖も別人なので、勝手に寝室に入ろうとするなど言語道断ですよ。わたしではないのですから」
困ったようにミカエラが言うと、彼女は不思議そうな顔で「ミカともジブリールとも同じでしょう?」と首をかしげる。
前から不思議に思ってはいたけれど、ミカエラ含む王家に関わる人たちは、「ミカエラとユーリがそっくり」とは言わない。「レオナ兄上とユーリがそっくり」と、必ず言うのだ。オレガノ軍の人たちや、こちらの知人は「ミカエラとユーリがそっくり」というのにだ。これは仮定に過ぎないけれど、もしかしてそのレオナ兄上というのは、自分とおなじ銀髪のイル・セーラなのだろうかと、ふと考えた。
「立ち話もアレだし一階に行こう」とアレクシスが促す。この二人は危機感皆無なんだなと悟り、ユーリは二コラに抱えられたまま一階の応接室に連行された。
***
彼女はアスラ――ミカエラの双子の姉だと説明される。丁寧にお辞儀をされ、ユーリはそれに視線だけを向けて軽く頭を下げるだけにとどめた。すぐに視線を逸らして二コラを睨むが、二コラもどうやらなにも知らされていなかったらしいことを表情で悟る。
「姉上、報告を終えたらすぐにオレガノに帰還をなさってください。ミクシアとはまだ国交正常化していないので、本来王族の出入りは禁じられているのです」
「だから使者として、手順を踏んできたと言っているでしょう。ねえ、イザヤ」
イザヤと呼ばれたあの女性が頷き、ユーリに対して頭を下げてくる。アスラ以上に所作の美しさが目立ち、ただものではないと悟った。
「まずはオレガノ王家の代理として、ミカエラ様をお救い頂いたことに深謝申し上げる。セラフィマ様の捜索、並びに同盟国へのパンデミアの善後策を講じてくださっていることなどへと謝恩を兼ねて、オレガノ王家はSig.オルヴェにこちらをお送りするようにと」
言って、イザヤが一冊の本をユーリのほうへと手で寄せた。さっきアレクシスに中指を立てていたのはなんだったんだと言いたくなるほど丁寧な所作だ。
「べつに、礼を言われたくてやったわけじゃない」
「それは承知の上です。状況的に他の方法がなかったと雖も、肉親を手に掛ける判断を即座になさったことへの慰労の意もあります。いずれその術式を受ける予定ではあったといっても、第一王族と思われる方からの移植とあっては、我々も驚きを禁じえず」
「その話がしたいなら、よそでやって」
時間の無駄だとぶっきらぼうに言って立ち上がる。すぐに二コラから腕を捕まれた。あちらにとってはそのくらいのことをしたんだと説明されるけれど、くどいとその腕を振り払う。
「蒸し返されるのは嫌いなんだ。逆に王家の人間を助けたわけじゃないなら、オレガノは謝意の表明もしないというように聞こえる。胸糞悪い」
そう吐き捨てたら、アレクシスがほらなとどや顔で大袈裟に両手を広げた。
「下手に出たらそうなるっつったろ、くそ女」
「ああっ? どうせてめえがSig.オルヴェのオレガノに対する心象を悪くしたんだろうが」
どすのきいた声に思わず瞠目する。イザヤは咳払いをして、失礼したと居直った。
「その本はオレガノに伝わる、ミクシアのシャムシュ王朝発足時から衰退までの歴史書で、そのなかにはさまざまな薬草の調合方法や術式に関して書かれています。
古いものなので現代では使用できないものがあるのも確かですが、オレガノとミクシアは風土が異なるために、それに記載されている薬草がオレガノには自生していないこともあり、Sig.オルヴェがお持ちのほうが有用性があると王家が判断いたしました」
ユーリはなにも言わずにその本に視線を落とした。随分古ぼけた本だ。オレガノのやり方は気に入らないけれど、本に罪はない。見るだけと言って、その本を手に取り、眉を顰めた。表紙に自分が持っている懐中時計にあるレリーフと同じものが書かれているからだ。
「その本に書かれている紋章は『クロッキオ・レオナ』と言って、第一王族の証明にもなる紋章です」
アスラが言う。ユーリはふうんと知らないそぶりを見せた。ベルトループに付けている懐中時計のものと似ているけれど、真ん中の花のことは聞いたことがない。そう思いつつも懐中時計を手に取り開いたとき、そういうことかと悟る。懐中時計の時針と分針を固定している鋲の模様が花のようになっている。秘密を暴かれたときにしらを切れるように細工をしたのだろう。
「レオナ兄上の名前の由来も、その花から来ているそうです」
「王様が殺されたときに咲いていなかった花のこと?」
そうですとアスラが声を弾ませた。ミカエラとは全く違う屈託のない笑顔を咲かせ、楽しそうに言葉を紡ぐ。それを聞きながら、ユーリはぱらぱらとページを捲った。
「あの花が咲いたときに生まれた王族は、みんな『レオナ』と名付けられ、そしてそれはイル・セーラにとっての重要な役割を持つものなんです。丁寧に摘花し、根も、花も、種もすべて薬用になることもありますが、数年に一度しか咲かないので、余計に貴重なものだとされています。
その花をとある石で削ったケースに入れておくと傷まないと言われていて、じつはオレガノにその花の種で作った薬がありました。それがトリニタという、オレガノでよく使用される万能薬です」
「そうなの?」
意外だった。オレガノとミクシアのイル・セーラは、やっぱり少し文化が違うらしい。この本はミカエラたちでいう第二言語で書かれているものの、ところどころに細工がされている。遊び心全開の本だ。第一言語を使う者だけが分かるような内容を伝えたかったのか、それとも別の目的があったのかはわからないけれど、目次を読むだけでも楽しい。自然と口元が綻びる。
「オレガノでも一度だけ、その花が咲いたことがありました。だから兄上が伝承通りレオナと名付けられたそうです。
でも、あの花はオレガノでは咲かないはずで、そもそもミクシアからオレガノに逃れてくるときにはほとんどなにも持ってくることができなかったと聞き及んでいますが、当時港として使っていた場所に出るための地下通路を通って出てきた先にあった教会周囲は、その花で一面覆いつくされていたそうです。
だからもしかすると、誰かの服や靴に種が着いてきたのではないか……とも噂をされていましたが、何十年も前に落ちた種が発芽するというのは考えにくいので、わたしたちが知らないだけで、いつかのタイミングでその花が持ち込まれたのだろうという話で落ち着きました」
教会と言われて、はっとする。地下街の、ギルスの回廊を抜けた先にある、あの教会のことなのだろうか。ミカエラを見やると、ミカエラが頷いた。
「姉上はこの話をSig.オルヴェに一刻も早くしたかったそうです」
「なのにミカがわたしの話を聞かずにこちらに戻ってきてしまったの」
「だからそれは申し訳なかったと言っているではありませんか」
「悪いで済む問題ではないのよ。Sig.オルヴェ、フォルスが狙われたのは、あそこがシャムシュ王朝の要害でもあったからなんです。オレガノの考古学者に調べさせたことだから間違いありませんし、王家に伝わる伝承とも一致しました」
「ってことは、オレガノに出向するために使われていた港っていうのは」
「ここの港のことだと思います。それと、ミカから聞いたのですが、ここから海を渡って西側に行くと、古びた教会があるのだとか」
そう言われて、ユーリはミカエラを睨んだ。ミカエラは気まずそうに眉根を寄せて、姉上と困ったようにぼやく。すぐにアスラがあっと慌てたような声を上げた。
「ミカが喋ったわけじゃないのよ、わたしがミカを問い詰めたの。そもそもミカは口が堅いし、約束を破るような人ではないわ。本当よ」
この言い回しや話し方に既視感がある。そしてこの少々強引なふるまい。姿かたちは違えど、キアーラに似通っている部分がないか? とふと思う。よくよく考えたら、距離感や、しゃべるときの表情の変化や、ちょっとしたしぐさも、キアーラによく似ている。もしかしてと思い、ユーリは冷めた目でミカエラを見た。
「あんた、この手のちょっと強引な女性に弱いな?」
「言わないでください」
ミカエラが苦い顔をする。そういえば、キアーラとの婚姻も姉が絡んでいると言っていなかっただろうか。もしかすると、完全同意ではないものの、押し切られたのではないかと思ってしまう。案外ミカエラは苦労人だなと察し、ユーリは冗談めかして肩を竦めた。
「その古びた教会の周囲に咲いた花がその花だとして、オレガノは何故それを俺に伝えに?」
「その花には正式名称があるはずなのですが、じつのところその名前を誰も知らなくて、古文書にもどこにも記されていない。ただ万能薬としてその花が記載されていること、そしておその花が咲いた記録と対で必ずレオナと名付けられた王族がいることから、『アンリ王が亡くなった際に咲いていなかった花』と、そう推察されています。
オレガノが、というよりも、わたしがSig.オルヴェにこの花のことを伝えたかったのは、カーマの丸薬の解毒にも使えるのではないかと思ったからです」
そう言われて、もう一度ミカエラを睨む。ミカエラが自分じゃないというように小さく首を横に振った。
「アスラ、なんでもかんでも喋りゃいいってもんじゃねえんだぞ」
「でもサシャ、ディアンジェロ公爵が『カーマの丸薬を正規に使うなら問題ないけれど、ドラッグに変化させた場合にはもしかするとイル・セーラには重大な副作用が起きる可能性がある』と仰ったので、それが心配で」
「重大な副作用?」
アレクシスが怪訝そうに言うと、アスラが「ディアンジェロ公爵からの御指南だけれど」と、言葉を紡いだ。
「カーマの丸薬の離脱症状が生じる際に、不安発作等の症状が現れるそうなのだけれど、一番怖いのは、そのときに『操作された記憶』が脳になだれ込むことによって、一時的な記憶障害を引き起こすかもしれないと仰っていたの。
それも、ただの記憶障害ではなくて、大体は嫌な記憶を消すための用途が多いことから、その乖離に耐えられなくて神経系統の暴走が起きてしまう。自然死に見せかけて暗殺する方法でもあるそうよ」
「え、こわっ。あのクソ野郎、俺になに飲ませてんのっ?」
「それもあって、これは由々しき事態だからと上に掛け合ってきました。
貴方が第一王族でも、そうでなくても、わたしの大事なきょうだいを助けてくださった方に、万が一のことがあったらと思ったら、居ても立っても居られなくて。
だからこちらに来た時に、ガブリエーレ卿にもすべてをお話ししました。そうしたら、『カーマの丸薬の解毒ができるのなら、トリニタで重篤患者に対する対処ができるのでは?』と仰ったので、トリニタの材料に、カナップやネスラの種を混ぜて、こちらでひとつ試作品を作ってみたんです。それで、ガブリエーレ卿立会いの下で、それを一番の重篤患者に飲ませてみたところ、少しずつではありますが、症状が改善したと」
そう言われて、ユーリはふうんと目を細くした。居丈高でいて傲慢な態度を二コラからたしなめられたが、ユーリは苛立ったような表情を隠しもせずに手にしていた本をテーブルに置いた。
「これはオレガノに持って帰ってくれ。それから」
一呼吸を置いて、ユーリは自分の中の感情を吐き出すかのように深い息を吐く。
「王族だからって勝手な真似をすんな、迷惑」
遠慮のかけらもない勢いで吐き捨てて、すたすたとドアのほうへと向かっていく。アレクシスの楽しそうに笑う声がした。
「ほーら、怒らせた。なにがこっちならうまくやれるだ、無理だっつの」
「オレガノの連中って人の神経を逆なでさせる天才なの? もういいから帰って」
「まあまあ、怒るなって。その本は受け取っておけ。おまえの一族のことをたどることができる、貴重なものだ。知りたくないかもしれないけれど、それでも、そのほうがいい。
中和剤の試作品といっても、『居住区の30km以内で採れたものじゃないと薬効が薄れる可能性がある』と言ったのはおまえだろ? だからそれを量産しようとは思ってもいないし、本当にただ試しただけだ。政府への報告義務はない。ガブリエーレ卿もそう言っていたし、Sig.オルヴェが懸念しているようなことは起こらない」
ユーリはじろりとアレクシスを睨みつけた。実際にそれが起こったら? 初めてアレクシスと出会った時のような、地を這うような低い声でユーリが嚇すような口調でいう。
「なにか起きたら、そっちで責任がとれるのか?」
ユーリは苛立ったように言い放ち、ふつふつとこみ上げてくる怒りと共に深い溜息を吐いた。
「じゃあそっちで好きに研究をすればいい」
そもそも、これ以上俺になにができるっていうんだ。ぼそりと口の中だけで呟いた。
オレガノの言いたいことが分からないほど短慮ではない。けれど向こうはこちらが考えている以上に知識があるし、おまけに考え付きもしないような手を打ってくる。奥の手を潰されたらそれで終わりだ。ひとつひとつじわじわと確実に症状を封じ込めることのできる方法を取る以外にない。こちらが工作をしていることがバレたら別の手を打ってくるに決まっているのだ。
オレガノに対する恨みはない。恨みはないはずなのに、次から次へとこみ上げてくる感情を吐き出すように呼吸を整える。ふいにミカエラが切り出した。
「姉上、おそらくSig.オルヴェは一番初めにそれを考え付かれたかと思います。先ほど仰った組み合わせは、最も有用性があるとは思いませんが、定石として打つ手のひとつだと考えます。まずは人命の優先をと配慮され、研究をしようとされたのだと思いますが、オレガノと違い、ミクシアではカナップの使用が許されていない上に、代替品を使えば薬効が落ちてしまう。それに、そこから行くと力量と知識が露呈して、“誰が手を打ったのか”が相手に見透かされてしまう。
以前チェスのお話をしたでしょう。あれと同じく手の内は初めからみせるものではないのです」
とかくイル・セーラは素直にそうしがちですがと、ミカエラ。また見透かされた。そう思っていると、アレクシスが面倒くさそうな声色で眉を顰めた。
「アスラが思っている以上にノルマは狡猾だし、手に負えないんすよ。だから前線に出たこともねえお嬢様は黙ってろ」
イザヤがアレクシスに鋭い視線を浴びせたが、いつものことだと言わんばかりにアレクシスが肩を竦める。
「それに、アスラはミカが助かったことに安堵したかもしれないけど、同時にSig.オルヴェは兄上を亡くしている。立場上とはいえあんなふうに言われても、嬉しくもなんともない。もっと配慮ってもんを教えとけ、クソ女」
「わたしが前線に出なければ済んだのかもしれませんが、合同調査と言われれば断るすべもなく」
「ほら、こうなる。だからくんなっつったんだ。アスラ、ミカはいつまでもアスラの後ろをついて回っていたころのミカじゃねえの。おまえに博士の肩書があるように、ミカもオレガノ軍の准将なんだ。いつまでも子どもじゃないってことだ」
ミカが拗ねたらSig.オルヴェ並みにめんどうくせえのとアレクシスが継ぐ。アスラはやや残念そうに眉を下げてしまった。
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