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Thirteen(3)

 西側の土壌調査に行くからと、アレクシスがチェリオとジジを連れて行った。嫌がらせでジジはおいていけ! とごねたが、ジジはどうやらオレガノ側から賄賂をもらっていたようだ。本来ミカエラには市街で司令塔をさせようと思っていたらしいが、ユーリがあまりにごねるせいか代わりにミカエラを護衛としてアレクシスが置いてあった。  黙々と丸薬の梱包を手伝ってくれるミカエラを横目に、デスクに突っ伏す。  あれからやっぱりなにかがおかしい。奥を抜かれるのはニコラじゃないと嫌だと思っていたのに、普段の声はそうでもないが、やたらと真剣そうなアレクシスの声を聞くと奥が疼く。  あの衝撃的なまでの快感がそうさせているのか、それとも本当にアレクシスが言っていた「第一王族と第二王族の適合性」がそうさせているのか。そもミカエラにはなにもされたことがないのに、においに反応しているのか、それともアレクシスが言っていた「ミカエラに抱かれたら正気ではいられないのではないか」というセリフが妙な好奇心と期待を膨らませているからなのか。  そこまで思ったあと、ユーリは両手で顔を覆い隠した。顔が熱い。なにを考えているんだと口の中で自分を叱咤し、苛立ち紛れにどんと足を踏み鳴らす。 「なにを考えておいでなのです?」  呆れたような声色でミカエラが尋ねてくる。どうやら表情で諸々バレていたらしい。 「アレクシス許さない」 「もうアレのことは無視して構いませんよ、ぼくは子どもの頃から彼の冗談なのか本気なのか区別のつかない冗談で泣かされてきたので、多少の免疫がついていますが、あなたは別でしょう」  なにを言っても聞き入れなくて構いませんと辛辣なことを言う。ふと聞き慣れた足音が聞こえてきて、部屋のドアがノックされた。ユーリが入っちゃダメと声を尖らせたが、困ったような微苦笑が聞こえたのちにドアが開かれた。 「ユーリ、検診の時間だよ」  アルテミオだ。ユーリはテーブルに突っ伏したままで嫌と一言吐き捨て、大袈裟にため息をついた。 「アレクシスの弱点さぐってきて」  あんたなら簡単だろと顔を見ずに言う。アルテミオがなにかを悟ったような声色で笑った。 「弱点がわかったとしても、ユーリには無理じゃないかなあ」  はっ? と、ユーリが声を尖らせる。 「きみ、『ヴェノム』って呼ばれている毒蜘蛛を見たことあるかい?」  ユーリに尋ねたと言うのに、隣でミカエラがぐっと喉が詰まるような嫌そうな反応をした。顔を上げ、ミカエラを見る。普段の無表情だけれど、眉間のしわがいつもよりも深い。ふうんと楽しげな声を上げたユーリの耳に、ミカエラが第二言語でなにかを呟くのが聞こえた。 「ヴェノムは元々ミクシアに生息する毒蜘蛛なんだけれど、繁殖力が高いことと、どこにでも卵を産みつける習性から、20年くらい前からオレガノでも発見されてね。彼、その毒蜘蛛に噛まれて死に掛けたらしいんだよね」 「マジか。それって2回目噛まれたら高確率で手足が動かなくなるって言われている、あの?」  そうだと思うよと、アルテミオ。ユーリは目を瞬かせた。その毒蜘蛛を実際に見たことがない。湿地、或いは暗所を好み、日の当たる場所には滅多に出てこないと言われていることだけは知っている。フォルスでは見たことがない。仮にいたとしたら“ユーリ“が興奮しないわけがないからだ。 「ドン・フィオーレ、彼はオレガノ軍の精鋭部隊です。無闇に弱点を口外しないでください」 「ああ、ごめんごめん。でもいまはミクシアにもヴェノムはほとんど生息していないし、それよりももっと効果的な弱点は『きみ』じゃないかと俺は思っているんだけれどな」  いつもの穏やかな笑顔で不穏なことを言う。ミカエラはアルテミオに視線を投げ、注視した。 「わたしが彼の弱点だとする根拠はなんでしょう?」 「気を悪くしないでほしい、単純にそう思っただけなんだ。彼はあんな物言いだけれど、きみのことは大事にしているような気がしてね」 「子どもの頃から泣かされてばかりでしたが」  不審そうにミカエラが言うのを見て、アルテミオが肩をすくめる。ユーリはそのやり取りを見ながら、「ねえ」とアルテミオに声をかけた。 「俺がなにも気づいていないと思ったら大間違いだからな」  アルテミオが笑みを深める。 「それは牽制のつもりかな?」 「アレクシスの弱点と、西側の地下通路の地図」  それを探って来いと言わんばかりに語気を強めた。アルテミオは表情を崩さず、ホールドアップしてみせる。 「俺の仕事だからね。きみがどう思っているのかは知らないけれど、危害を加えるつもりはないよ」 「アレクシスの弱点と、西側の地下通路の地図と、ついでにくそ野郎の所在」  アルテミオはやはり表情を崩さない。 「きみが素直に検診を受けるというなら、考えなくもないな」 「考えなくもないってことは、反故にする可能性もあるってことだな? じゃあ受けない。自分の身体のことくらい、自分が一番よくわかってる。ほっといて」  カーマの丸薬の離脱症状なんて、検診なんか受けたって変わるわけがないと言い捨てた。ふとミカエラが口元に手を宛がうのが見える。 「なにか妙案でも?」 「カーマの丸薬そのものは、オレガノではリナーシェン・ドク以外が、ミクシアでは限られた者以外調合をすることは許されていないというのに、それがドラッグに変化した際の解毒方法を誰も知らないというのは、あまりに杜撰すぎるなと思っただけです」  言って、ミカエラがユーリに視線をよこす。 「かなり前に配合率を隠ぺいされたリストースのこともご存知だったようですし、じつはカーマの丸薬の解毒方法もご存知なのでは?」  きょとんとした。離脱症状がいつ訪れるかはわからないし、来たら来たでしばらく苦しまなければならないのに、なんのメリットがあって放置していると言いたいのだろうか。 「自分で人体実験をしているんじゃないかって?」  ミカエラは少しの間ユーリを注視していたが、すいと視線を逸らして目を伏せた。 「一石二鳥であると判断されるのではないかと」 「まあ、そのほうがユーリらしいと言えば、そうかもしれないけどね。  ちょっと試したいことがあるんだよ。協力してみないかい?」 「ジジがいないから嫌」  絶対に嫌と吐き捨てて、アルテミオを睨む。 「薬物に事関しては、誰のことも信じない。ジジがいるときじゃなきゃ、他人が持ってきたものなんて口にしない」 「俺や、リュカくんがなにかを盛るとでも?」 「そうは思わないけど、嫌なものは嫌。ここで、俺の目の前で材料を粉砕して作ってくれるんだったら、考える」  アルテミオが微苦笑を漏らす。まさか自分にも警戒し始めたのかというような表情だ。 「あんなに素直だったのに、ここにきて本来のイル・セーラの疑り深さが覚醒してきたな」 「だってあんたら、ドン・クリステンに新手の睡眠薬持った張本人たちじゃん」  ぼそりと言う。リュカだけならともかく、目的があったとはいえ、まさかミカエラとアルテミオが結託してドン・クリステンを強制的に落とすなんてことをするとは思わなかった。そんな前科があるのに、どこをどうやったら手放しで信じられるというのだろうか。 「あのときは、本当にジョスに対する暗殺命令があったんだよ。あの日、ジョスを殺して本物と偽物が入れ替わるという算段がされていた。ジョスは酒が強いし、こちらで良い潰すなんてことはできない。自制ができる男だから、そもそも酔いつぶれるまで飲むこともない。  だったら一服盛るしか方法がないじゃないか」 「そう? こっちに寄越しておいて、その隙に諸々算段することだってできたはず」 「きみがいなきゃ彼が“ドン・ヴェロネージ”だとはわからなかっただろ」  アルテミオに疑いのまなざしを向ける。それはそうかもしれないけれどと思いつつも、ジジはまだ待てができないから炙り出すにしてもソッコーでドン・ヴェロネージに向かって行ってしまい、計画がつぶれる可能性もある。確かに現実的ではない。 「知っていて、わざと俺をぶっこんだとか」 「そんなことをするわけがないだろう。きみは軍部預かりの身で、保護対象だ。本来なら彼らと接触させることすらさせられない。でも、あの時は本当に緊急事態だった。前にも言ったように、ジョスに死なれると困るんだ」 「ミカエラがいない時を狙ったのは? 陰険ド変態野郎と結託でもして、ミカエラがいないときに起こったことは、オレガノにも報告しないし活動報告書にも挙げないとかそういう取引してたんじゃ?」 「ああ、それは単純にSig.エーベルヴァインが、准将殿がいると反対するからと」  ミカエラがあからさまにイラっとした表情をした。第二言語で『不敬だ』と呟いて、丸薬を包む手を止めた。 「そのようなことを言っていたのですか? Sig.オルヴェ、戻ってきたら絶対に仕返ししてやりましょう」 「お、おう……。どした、ミカエラ。荒ぶってるな」 「西側の地下通路の地図と、くそ野郎の居場所の詮索についてのご協力はできませんが」 「ミカエラ、そのくそ野郎ってやつ、アレクシスの前で使っちゃだめだからな」  食い気味に言うと、ミカエラがきょとんとして、少しの間をおいてわかりましたと頷いた。 「アレクシスの弱点は、ヴェノムもそうですが、ああ見えて辛いものが一切食べられません」  そう言われて、目を瞬かせる。 「え、どういう?」 「とにかく刺激物が苦手なので、ひどいときにはパニーノの上のブラックペッパーすら取り除いて食べます」 「それって弱点に入る?」 「それ以外に彼が苦手なものはありません。戦闘狂なのでほとんどの武器を扱える上に、あれで毎年行われる軍部内の試験でも常にトップレベルですし、ああいう砕けた物言いをしますが交渉等も器用にこなします」 「……え、弱点ないじゃん」 「だから、強いて言えば准将殿が弱点じゃないかなって思ったんだよ」  俺が言った意味がわかった? と、アルテミオがにこやかに言ってくる。ユーリは怪訝な表情をそのままに、大袈裟に溜息を吐いた。 「ミカエラに悪い言葉を仕込んで、あいつの精神を擦り減らしてやる」 「やめておきなさい、復讐されるだけだから」 「だって腹立つじゃん! やられっぱなしは性に合わないんだ!」 「ユーリ、それはフラグっていうんだよ。彼に勝てるとしたらジョスくらいしかいないんだから」  アルテミオが微苦笑を漏らす。こうなったら、ドン・クリステンに洗いざらい話して苦情を言ってもらうしかない。そう考え付いたけれど、逆になにかされそうで怖いなとも思う。どうしようもできない苛立ちに舌打ちをした。 ***  とりあえず、体に異常がないかだけ、その場で確認されることにした。自分の身体のことくらいよくわかっているとぼやいたユーリを、アルテミオがはいはいとあしらう。脈を見られたあと、じっと注視される。眼振がないかを見られているらしい。 「なんもないって。前よりだいぶ落ち着いたし、無茶しなきゃ問題ない」 「少し脈が弱いのと、時々不規則になるのが気になるところだけれど。  夜はきちんと寝て、食事も摂ること。いつもスープとバケットしか食べていないことくらいお見通しだよ」  ユーリが思いきり怪訝な顔をした。いつも食事は部屋でしか摂っていない。そして自分で下げに行くか、リュカの使用人が取りに来るかのどちらかだ。思い当たるのは一人しかいなくて、舌打ちをする。ジジだ。思わず溜息を吐く。自分の身体のことだと意地を張っているけれど、ジジに心配をさせるのはちょっと忍びない。 「ミクシアの食事が口に合わないのなら、ちゃんと言えばいいのに」 「……そういうんじゃない」 「おや、素直に言う気になったのか?」  揶揄うような口調ではなかった。ユーリの手を解放し、アルテミオがさらさらとカルテを書く。それを横目に見たあとで、ミカエラに視線をやった。  ミカエラは黙々と丸薬を包む作業を手伝ってくれている。立場のある人だとエリゼも言っていたけれど、意外とこういう地味な作業は嫌いじゃないと、文句も言わない。ユーリはふうと小さく息を吐いて、床に視線を落とした。 「特定のもの以外を食べると、気持ちが悪くなる」  ぼそりと言うと、アルテミオはなにも言わずにユーリが言うことをカルテに認めた。 「いつくらいから?」  もう一度、ミカエラを見る。そのあとでアルテミオに視線をやると、アルテミオが言いたいことに気付いたように「ああ」とだけ言って、ペンを置いた。アルテミオの手が頭に置かれた。髪を撫でられる。なにを言うわけでもなくだ。少しして、手が離れていった。 「じゃあ、どういうものなら食べられそうかな? イル・セーラの文化にも麵料理があったりしないか? ああいうのは?」 「麺料理?」 「え、知らない?」  アルテミオがミカエラを呼ぶ。 「准将殿、イル・セーラも麺料理って食べるよね?」  ミカエラが手を止めて、顔をあげた。 「パスタ等ですか? 基本的には食しませんが」 「えっ?」  アルテミオが瞠目する。 「オレガノにはそういう習慣がありませんし、おそらくフォルスにもないでしょうね。そもそも麺類がないことはありませんが、簡易的に作るタイプのものではないので、作って乾燥させたものを、少しずつスープに入れて食べるくらいでしょうか。  イル・セーラの伝統食は、ミクシアのように炭水化物中心の食事ではないので、Sig.バロテッリが作ってくださるバケットは、じつをいうとSig.オルヴェ専用です」 「知らなかった。じゃあ、リゾットとかミネストリーネとかは?」 「あのタイプのものはふつうに食べられていますが、中身が違います。米ではなく別の雑穀を使いますし、調べたことがありませんが、そのあたりは姉上が」  そこまで言って、ミカエラが気まずそうな顔をして眉間をつまんだ。 「彼女は考古学者ですし異文化にも精通しているので、とても気が進みませんが、フォルスではどのようなものが食されていたのかを尋ねてみます」 「ありがとう、助かるよ。ユーリ、その症状は栄養不良からも来ていると思うよ。あまり食べずにいると消化器の働きが悪くなって、食べ物そのものを受け付けなくなる。きみもわかっているからこそ意地を張っていたのだと思うけれど、そろそろ改めないと、別の原因で死んでしまう」 「保護対象が餓死したなんて、軍部の汚点だわなァ」 「嫌がらせ目的じゃないことはわかっているから、そういう冗談めかしたことを言わない」  アルテミオは思案顔だ。ふと、なにかを思いついたようにアルテミオがユーリを呼ぶ。 「果物なら?」 「あるの?」 「リュカくんが言っていなかったかい? 少し離れているけれど、果物を栽培している村がある。あそこには、時期によるけれど、リンゴも、ネスラも、アルカも、桃もある」 「マジっ?」 「俺たちからしたら絶対有り得ないけど、食事を摂ることを重視して、朝からマチェドニア(様々な種類のフルーツを一口大にカットし、シロップや果実酒、発泡ワインなどをかけて食べるデザート)を食べたらいいんじゃないのか?」  ユーリがきょとんとする。朝からマチェドニアを食べるという習慣は確かにないけれど、それなら食べられそうな気がした。最近はちょっとでも味の濃いものを食べると気持ちが悪くなる。だからじつを言うと、スープすら飲んでいないと言ったら、首を絞められそうな気がする。そう思いながらも胃のあたりを撫でた。 「え、それなら普通に食べるんだけど」 「じゃあ明日からそうするように伝えておくよ。ほかになにか食べられそうなものは?」  そう問われて、ユーリはうーんと声を漏らして記憶をたどった。一番記憶があるあたりは、既に収容所にいたし、ひよこ豆の類ばかり食わされていたから、あれはもう見るのも嫌だ。フォルスでよく食べていて、食べられそうなもの、――。ふと、アマーリアの姿が脳裏に浮かんだ。彼女の膝に乗せられて、なにかを食べさせてもらったのは覚えている。甘くて、少し独特な味のもの。名前はまったくわからないけれど、あれは美味しくて、記憶に残っている。  でも、どう説明すればいいのかがわからない。 「記憶にあるのは、甘くて、ちょっと独特な味の、おいしいやつ」 「ざっくりすぎないか?」 「アマーリアが生きていたころのことだから、名前とかわからないんだよ。たぶん、風邪ひいたときとかに食べさせてもらったやつ」 「准将殿、わかるかい?」  ミカエラもまた微妙な顔をする。 「やはり姉上に尋ねるのが一番でしょう。オレガノでは風邪を引いたらひどい味のシロップを強制的に飲まされるので、あれが嫌で自主的に体調管理を徹底します」   「ひどい味のシロップ。なにそれ、超おもしろそう」 「やめたほうがいいです、本当にひどいですよ。アレクシスは子どもの頃によく熱を出していて、子どものころから力が強いからと大人三人がかりで飲まされていたと言っていました。だからもう二度とアレを飲みたくないと」 「アレクシスの弱点!」 「ユーリ、喜ぶのはそこじゃない。きみが少しでも食べられるものを探っているんだよ」 「わかってる。マチェドニアとか、食べられそうなものをちゃんと食べるから、その薬の調合方法教えて」  アルテミオのセリフに食い気味に言ったからか、ミカエラがしまったという顔をして両手で顔を覆った。 「あれはわたしも嫌いなので、ご勘弁を」 「そんなにっ? なに系統のものを使うかだけでいいから教えてよ」 「薬草の系統という意味ですか? 大概の国民はアレを嫌い、アレを飲まされてきた側が診療する側になっていることもあり、いまはほぼ使っていません。  調合する際に用いるのは、スウォームの実をメインにし、それを煮込んだものを加工していたはずです」 「スウォームって……あのすんごい気持ち悪い、タニシの卵みたいなのが枝に生っている、あの?」 「そうです」  言われて、ユーリはほおと感嘆の声を上げた。まさかあれがそういう使い方をされるとは思わなかったからだ。子どもながらに気持ちが悪いなと思いながら群生地を通り過ぎていたし、中にはあそこになる実の液は服に付くと落ちないから入るなと“ユーリ”から言われていたのを思い出す。ミクシアにもどこかに自生しているはずだ。絶対に嫌がらせをしてやろうと思っていると、軍用車の音がした。ミカエラとアルテミオが不思議そうな顔をして、時計を見やった。 「想定よりも早いようだ」  いつもよりも車の音が乱暴なことから、運転しているのが二コラではないことを悟る。ミカエラがなにかに気付いたように微妙な顔をして、呆れたように息を吐いた。 「荒れているな」 「これは何事かあったかな?」  アルテミオが言って、微苦笑を漏らしながらカルテが挟まれているレザーファイルを閉じた。そしてユーリの頭を軽く撫で、言った。 「少しずつでもいいから、ちゃんと食べるんだよ。それと、夜更かしをしないこと。以前リュカくんも言っていたと思うけれど、なにもきみひとりが背負う必要はないんだ。焦らなくていい」  その焦るなというのは、どっちの意味だと聞きたかったけれど、ミカエラの手前やめておいた。やがて所定の位置に軍用車が止まった。ものすごい乱暴にドアが開閉されたかと思うと、少しして館のドアも普段にはないほど勢いよく開かれる音がした。 「申し訳ありません、地が出ると無作法な男ですので」  暗にアレクシスのことを言っているとすぐにわかる。階段を駆け上がって来る音がする。 「アルテミオ、鍵閉めて、鍵!」 「もう遅いよ」  乱暴な足音が近付いてきたかと思ったら、ノックもせずにドアを張り開けられた。やっぱりアレクシスだ。椅子に座っているユーリの胸倉を勢いよくつかみ上げる。 「こんのクソガキ!! なんじゃあれは、バッキバキにあぶねえじゃねえか!!」  宛ら鬼の形相で怒鳴るアレクシスを、しれっとした表情で見上げる。すぐにふんと鼻で笑ってやる。 「だぁから言ったじゃん、俺を連れて行かなかったら後悔するよって」 「後悔するのレベルじゃねえ、ド級の毒物反応じゃねえか!!」 「そうだよ、あれを政府が放置していなければ、あそこまでになっていなかったんだ。文句なら政府に言って。あいつらがアホで間抜けなくそ野郎だからこうなった」 「その土壌調査自体、いつから打診していた?」 「え? なんとなくそうかなって思ったのは、割と初めの段階から。西側で爆発事故が起きた時に、毒物の可能性を考慮して調査諸々したほうがいいって政府に言ったんだけど、『貴様ごときに言われずともわかっている、口を挟むな』って偉そうなことを抜かしたくせに、なーーーーーーーんにもしてくれなかったのは、ミクシア政府です」  ユーリがしれっと言う。本当のことだ。ユーリは最初からその可能性を示唆していたし、土壌調査のことだけは言っていた。アレクシスがユーリを睨む。ユーリもまた、白けた表情をそのままに、アレクシスを睨んだ。 「俺の言っていた意味、ご理解いただけましたかァ、Sig.エーベルヴァイン」  挑発するように言うと、胸倉をつかむアレクシスの手に力がこもった。 「おまえはSig.カンパネッリたちを殺す気か!?」 「Sig.エーベルヴァイン、落ち着いて」 「落ち着いとられるか!」  アレクシスが語気を強めたとき、別の足音が近付いてきた。二コラだ。慌てたように部屋に入ってきたかと思うと、ユーリの胸倉をつかんでいるアレクシスを見て、気まずそうに眉を顰めた。 「だから俺を連れて行けって言った。あんたらは全員北側の駐屯地で黙ってみていればいい」 「てめえのことだから、絶対にその“自己犠牲”を前面に押し出した作戦を立てると思ったからこそ、それを阻止したんだ」 「じゃあ俺に文句言うなよ。西側の住人にせよ、デリテ街の住人にせよ、政府がああやって放置したからこそ被害が拡大し、結果重篤感染者は銃殺をという話になった。  俺は最初から一貫している。外出する際には防護マスクをつけて、できるだけ空気に暴露するな。窓も開けるなって、住民に働きかけるように政府に言った。軍部にだって言った。でも誰も取り合ってくれなかった。結果がこれだ。それって、俺のせい? なにひとつ言うことを聞いて、取り合ってくれなかった上層部のせいじゃないんですかァ?」  アレクシスの目に徐々に殺意が孕むのを見て、ユーリはすいと片眉をはねあげた。 「手ぇ離せよ。俺に怒りをぶつけるのはお門違いなのに、結局はあんたらも、ミクシア国民も、みんな俺がヴィータを作ったせいでこうなったと思っている」  だからここに隔離されたのはわかっている。市街にいたらなにをされるかわからないからだ。保護対象というのはそういう意味合いもあるのだろうと勝手に思っている。  アレクシスが乱暴にユーリの胸倉を解放した。息を荒らげるほど怒りに震えた目をしている。 「あ゛あっ、クソが!! 中止だ、中止! ンなリスクしかねえことやれるかよ!」 「腰抜け。じゃあ俺が行くから、政府にそう言っといて。このままじゃ、本当にフィッチに乗っ取られるぞ」  アレクシスがユーリに掴みかかろうとするのを、二コラが羽交い締めにして阻止する。 「落ち着いてください、Sig.エーベルヴァイン!」 「落ち着けるか!」  さらに語気を強めるアレクシスを見て、ミカエラが第二言語で鋭くなにかを命令する。オレガノ軍が使う合図だろうか。反射的にアレクシスが大人しくなる。さすがの二コラもミカエラの鋭い声に驚いたらしい。珍しく瞠目している。 「順序だてて説明をしろ。感情的になるなど思うつぼだろう。我々がイル・セーラだからミクシア政府が動かなかったのは、最初から承知の上だったはずだ」 「でもむかっ腹が立つじゃねえか、こんな屈辱的な思いをしたのは初めてだ」 「Sig.オルヴェはずっとそれを味わわされてきた。冷静になれ。怒りを滲ませて焦れば焦るほど、あちらの思うつぼだ。  それで、なにがあった?」  さすがにミカエラはアレクシスの扱いを心得ているようだ。アレクシスは眉間にしわを寄せたまま、怒りを振り払うようにガシガシと頭を掻いた。 「西側の感染者が妙に減ったのは、関所を封じて東側への流出を防いでいたからだった」 「それで?」 「俺たちが北側に赴いた際、重篤患者を集めて丁度銃殺している最中だったんだが、その銃殺する側に見かけたことのある顔がいた。そいつを捕まえてベアトリスと一緒に吐かせたんだが、あいつらが妙にフェルマペネムに拘っていたのは、その拮抗薬を作るためだったらしい。  ヴィータの拮抗薬は知っていたけれど、それ以上にムカついたのは」  そこまで言って、アレクシスがまた唸って妙な声を出しながらこぶしを握り締める。 「言えばいいじゃん、『ユーリ・オルヴェが初動でかく乱させたせいだ』っつってたんだろ?」  アレクシスが頭を抱えて勢いよく座り込んだ。 「あ゛あああああっっ、マジでぶっ殺したい!!」 「落ちつけ、みっともない。それで済むならわたしだってそうしている」 「おい、てめえ、自分だけいい子ぶるなよ。政府の要人の口んなかに銃口押し込んでえげつねえ嚇し方をしたのはどこのだれだ?」 「術後の錯乱で、単なる事故では?」 「あれを事故と仰る? うわあ、おっかねえ。そういう苛烈な要人警護しなきゃならねえこっちの身にもなってほしいっすわ」  アレクシスが冗談めかして言ったが、ふたりとも明らかに冗談を言っている目付きではない。 「ねえ、この人たちマジで怖いんだけど」  二人を指さしながら、二コラに言う。二コラは苦い顔をそのままに、小さく首を横に振った。 「さすがに今回は俺でもキレそうになった。むしろ、Sig.エーベルヴァインが言ってくださらなければ、ドン・ロッシの首を絞めていたかもしれない」 「マジか」 「ミクシアではイル・セーラに対する差別は未だに払拭されていないからね。  自分たちがしてきたことを棚に上げて、この期に及んで“復讐されるかもしれない”と恐れ慄いているんだ。民衆はラジオで語られる情報以外に情報の入手ができない。となると、水際対策の失敗が原因でパンデミアが起きたと御情報を流された日には、ユーリの身にも危険が差し迫る。だから彼をここで保護している意味合いもある。  それに、ジョスに対してもそうだ。軍医団が諸々と封じ込めることができなかったことを論われて、まあおもしろいことになっているよ。原因は政府なのだけれどね、民衆はそれを知らないし、俺たちも正直に言って針の筵だ」  わりとヘビーな内容だというのに、アルテミオは笑みを崩さない。むしろ、後半になるにつれて穏やかな笑みが含みを持たせた楽しそうなものへと変化していく。 「ただね、北側のスラム街の住人たちが、最下層に居住区を設けているのだけれど、きみの診療のおかげで助かった彼らを中心に、徒党を組んでなにかをしているらしい。それに下流層街の一部の人たちも賛同していて、ピエタと、ピエタの下部組織たちは、彼らを弾圧するために右往左往している。  まあ、そうやってふざけたことを言っていられるのも、いまのうちだよ。安心していなさい。俺とジョスを敵に回したらどうなるのか、政府の連中はそのうちに嫌でも思い知らされることになるよ」  アルテミオの話を聞きながら、怒り狂っていたアレクシスの表情が徐々に苦いものに変わっていくのが分かった。最終的に叱られた犬みたいなしょぼんとした顔になって、大げさな溜息を吐く。 「あの暴言もなにもかも、織り込み済み、ってことっすか?」 「そりゃそうだよ。じゃないと許可なんて出させない。この手の許可を出すのは、ジョスじゃなくて俺だ。あの弱腰男の世迷いごとをきみたちに聞かせたのは申し訳なかったが、それはユーリが常に浴びせられてきたことを、”同族”であるオレガノ側にも知っておいてほしかった節がある。  それと、西側が危険地帯なのは承知の上だから、すぐに出立しなくても構わないよ」  アルテミオが言うと、アレクシスがそのままの状態で、息を吐いた。俯いて、かなり長いことなにかを熟考するような表情で目を閉じていたが、やがて自分の中の感情を振り払うように手をほどき、立ち上がった。 「ドン・フィオーレ、わりと性能のいいガスマスクを貸してほしい。ここまで想定してねえから、オレガノ軍のじゃちょっと厳しいかもしれないうえに、基本的にイル・セーラは毒物に対する耐性があるから、諸々とがばがばなんだ」 「了解した。すぐに部下に持ってこさせるよ」  にこやかに言って、アルテミオが立ち上がる。そのままユーリを見下ろしたかと思うと、頭を撫でられた。 「幼いころからとはいえ、よく耐えてきたね。Sig.エーベルヴァインのあの反応は、普通の反応だよ。なにも過剰反応をしているわけではない。きみは自分の感情に対して鈍すぎるんだ」 「そんな鈍いつもりないけど」 「そうだとしたら、諦めてしまっているのかもしれないね。きみはなにかを諦めることも、自らを犠牲にしようとすることも、もうしなくていい。たまには大人に任せなさい。ジョスよりも俺のほうが、化かし合いが得意だからね」  穏やかにアルテミオが笑う。そのままユーリの頭から手を下ろして、二コラの肩をポンと叩いて部屋を後にした。 「あの人、そんなに化かし合い得意? 時々読めないのはわかるけど」  苦い顔をしているニコラを見上げ、尋ねる。二コラはアルテミオが階段を下りて行ったのを確認したうえで、ユーリに視線を落とす。 「なにも知らない連中は『事なかれ主義だから』と揶揄しているが、あの方が二部の団長をやっているのは、上流階級だから団長クラスにはなれないものの、アレティア語にも精通している上に頭も回るのに、階級の問題で仕事のできない相手の下で働くのは苦痛だろうと、新たに二部を設けたという話だ。要はドン・クリステンが敵に回したくない相手なのだと思う。  年代が違うから詳細は知らんが、元々は俺とおなじ麻薬医で、恐ろしく器用でなんでも熟すし、開頭術にも臨んだことがあると聞いたことがある」 「開頭術? マジで?」 「ただ、ノルマは輸血をするような大手術をしない傾向にあるから、結局は容認されなかったのだろう。  彼は収容所の診療医だったこともあり、そして政府が彼の研究を承認しなかったという背景もあり、ドン・フィオーレは政府を嚇す最終兵器だと、ドン・クリステンが仰っていた」  最終兵器と口の中で呟く。アレクシスが横で白けた笑いを浮かべて「ああいう手合いを敵に回したら、マジで身包みを剝がされるぞ」と唸るように呟いた。  

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