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Thirteen(5)
「当時の資料を読みましたが、Sig.ベルダンディ率いる特殊部隊が動かなければ、軍医団の下部組織が全滅していた可能性が高いのです。こちらとしては動いていただけ、且つ早期撤退の判断をして頂けたからこそ最小限の被害にとどめることができたと考えています」
あきらかにしょぼんとしているミカエラを見かねたのか、珍しく二コラが口を挟んだ。
「ご自身を最優先されなかったのは、悪手と言われても仕方がないかもしれませんが、あの判断がなければ、もしかするといまよりも状況が悪化していた可能性は否めません」
アレクシスが二コラに視線をやる。「それなら身体を這った甲斐があったってもんっすわ」と暢気に言ったら、アスラの隣にいたイザヤがふんと鼻で笑った。
「それで自分が死にかけてちゃ世話ねえよ、悪手どころかただの自滅じゃねえか」
「あ゛あっ!? てめえ、ミカになんてこと言いやがる!」
「こちらに生体移植を施せる医師がいたから事なきを得ただけで、体調が優れないことを隠して前線に出た判断は褒められたものではない。世話係の躾の問題だな」
「んだと、てめえっ」
ミカエラが微妙に居心地が悪そうにしているのをみて、アスラがイザヤに「やめなさい」と語気を強めた。
「気を悪くしないで、ミカ。イザヤはとても心配をしていたのよ。ミカがミクシアに行くことを、最後まで反対していたもの。でも、レミエラ兄上のことがあってから、あなたは少し気負い過ぎだし、おかしいわ」
「おい、おまえの躾もどうなってんだ、くそ女。慰めながら傷を抉ってんぞ」
「妥当な意見だろう」
「ふたりとも、静かに」
「もう子どもじゃないと仰るなら、最後まで意見を言わせてください」と不満げに眉を顰めたあとで、アスラがこちらに視線を向けた。まるで吸い込まれそうな目だ。本当に純粋で、なにも知らない、悪意のない目。胃のあたりがキリキリしてきて、無意識にそこを押さえた。
「トリニタをベースにした調合薬のことは、申し訳ありません。ミカからの報告を聞くたびに、本当に苦しくて、どうにかしたくて、気を逸らせてしまいました」
嘘を言っている目ではない。アスラの瞳に涙が浮かぶ。アスラはそれを上品に拭ったあとで、自分を落ち着かせるように静かに、細く息を吐いた。
「アンリ王と赤い目のイル・セーラのことは、古い言い伝えです。真偽はわからないし、その本にも詳細がありません。でも、もしかすると、その本はアナグラムのようにして本当に大事なことを第一王族にのみわかるようにしてあるのではないかと、そう思ったんです」
目を瞬かせ、アスラを見る。考古学者と言っていただけあって、その法則に気付くのは単純にすごい。彼女には第一言語の読み書きを教えたら便利そうだなと思う。
「アンリ王のお話は、よくレミエラ兄上がしてくださっていたので、亡くなられてからは悲しくなるので聞きたくなかったのだけれど、気になることがあったので調べたんです。
一族の成り立ちを子どもに読み聞かせをするなら、当たり前だけれど脚色をします。その脚色された部分を徹底的に調べたら、オレガノの最南端に位置する島に住んでいたノンノが、オレガノに来る際に王族を手引きした側近の一族の末裔だと分かり、その方に会いに行きました。
ミクシアがノルマ族に乗っ取られて、アンリ王が処刑されるまでに期間があります。それは単に民衆への見せしめなのだろうと思っていたのですが、そうではなくて、毒を盛られ続けても、アンリ王は死ねなかったからなんです」
「死ねなかった?」
どういう意味? と、問う。それはもしかして、自分が睨んでいたとおりなのではないだろうか。
「ノルマ族が武器を持って押し掛けた際、アンリ王は予めほとんどの民衆を城に集め、少しずつ、少しずつ外部に逃がしていたらしいんです。その間も毒を盛られ続けていても、それでもなおノルマ族との交渉を続け、民衆の命と、ほかの王族たちの命は助けてほしいと交渉を続けていました。
そして避難を拒否した者も含め、すべての民衆を城から出して、ほかの王族たちも、子どもたちも、王妃様も、すべてが避難を終えたあとで、アンリ王は側近にも退避を命じた。たった一人だけ、赤い目をした同族の、アンリ王に毒を盛り続けた同族だけは、最期まで退避をしなかったそうです」
「それって、やっぱり“毒に対する代謝が異常”ってことだよな?」
「詳細はわかりませんが、おそらくは。
そしてこれはその赤い目を持つ同族の遺書に書かれていたもので、ところどころが滲んでいて解読できない部分もあったようですが、アンリ王はノルマが持つ手の中で最も強い毒を飲まされても、死ぬことができなくて、最終的にはその方はアンリ王の腹を裂くことで、致命傷を与えた。そしてそのままアンリ王をノルマ族に引き渡し、処刑をされることになったそうです。
その赤い目の同族は、アンリ王を引き渡したということで、殺されなかった。でも城の中には誰もいない。それを悟られれば自分も殺される。そう感じて、フォルスの至福者の丘に逃げ込んだ。そこで遺書を認めた。
アンリ王に毒を盛ったとされる赤い目の同族は、こう書き残しています。『自分が毒を盛ったのではなく、アンリ王が自らその選択をした。民衆やほかの王族たちを逃がし、先にオレガノで国を治めている王弟陛下にすべてを預け、自らが第一王族の負の連鎖を断ち切るために幕引きをした。けれどその王族たるための儀式のせいで王は死ぬことがままならず、自分が王に手を掛けた。だからそのすべての罪を背負って、至福者の丘からテラ・チエロ(大地の天)へ。我が一族にどうか祝福あれ』」
そこまで言って、アスラがもう一度、今度は深い息を吐いた。
「そしてその方は、ノルマ族に殺される前に、本当に至福者の丘から身を投げた」
「……それ、どこ視点の話?」
アスラが穏やかな笑みを浮かべ、上品に笑う。
「よくお気付きになられましたね。この話には続きがあります。
至福者の丘の下には、アンリ王の子どもたちや、オレガノに行くのを拒んだ王族たちが潜伏していました。だから彼は本当の意味での“贖罪”ができたんです。アンリ王の心の内を王妃様やほかの王族たちに言い残し、そして彼は息を引き取りました。
アンリ王の選択は、自己犠牲なのだと思います。だけどそのときにはそうするしかなく、自分の命だけでほかの命が守れるのならと、まさに即断だったそうです。
そのお話を聞いた王妃様や王族たちは、アンリ王の心中をお察しして、オレガノに逃れました。でも、第一王子と第二王子、そしてアンリ王の妹にあたる方だけは、ミクシアに残り、そしてノルマたちから逃れるために、そしてその方を祭るために、フォルスに残ったのだと、そう聞いています」
その話を聞いて、ユーリは口元に手を宛がった。たしかに、至福者の丘の下には、もう風化して読めない碑石があった。それがその人の墓なのだとしたら、アスラが言っていることはつじつまが合う。
「ねえ、その王たる儀式って、なんなの?」
「詳細はわかりませんでしたが、ノルマ族はほかの王族や残党狩りを一切しなかったそうなので、アンリ王を死なせたかっただけなのか、或いは単純にその血を欲しがっていたのか」
そう言われて、ぽかんとした。「え、こわっ」っと、ひとりでに口から出ていた。
仮に、彼らがアンリ王の秘密を知って血を欲しがったのだとしたら、おそらく風土病をしずべることが目的だったはずだ。そして文字通りその血を使ったのだとしたら、――。
当たり前だけれど、認識がおかしい。歪んでいる。イル・セーラのために犠牲になっていたものが、ノルマのために機能するわけがない。
「ミカは子どものころからそのアンリ王のお話が好きだったし、最近の自己犠牲はそれに似通っているような気がして、見ていられない。
きっとアレクシスやベアトリスがなにを言っても聞き入れないと思うから、だからそれを諫めに来たのもあるわ。でなければ、Sig.オルヴェの選択が間違っているということになってしまう」
間違っていると言われて、ユーリはおもしろくないと言わんばかりに肩を竦めた。
「こっちは学長に脅されたからやっただけ。たまたま血液型も適合する同族のドナーがいた。
もちろん拒絶反応等起きる可能性も考慮したけど、結果何事もなかった。すべて運がよかった。
選択にいいも悪いもない、ただその時にそうするべきで、常に最適解を求めた。それだけだ。そうじゃなきゃ、人間は常に誤った判断を避けて続けて生きていることになる」
「それだけと簡単に仰るけれど、それは違うわ。食べ物や、プレゼントを差し出すわけではないのだから、命そのものに対する選択は、もっと慎重になるべきだわ。
もちろん、Sig.オルヴェがそうしてくださったことで、ミカは無事だった。わたしにとっては大事な人を助けてもらったことに変わりはないんです。でもあなたは逆に大事な人を亡くしてしまったことになるし……ああ、どういえばいいのかしら」
アスラが困ったような表情で両手を頬に宛がった。言いたいことの意味が察せず、眉間にしわが寄る。ミカエラに「マジでこいつなんなの?」と言いたげな視線をぶつけると、視線と仕草だけで「大変申し訳ございません」と謝られた。
「これはわたし個人の考えだけど、ミカが助かったと聞いたとき、わたしはミカがあなたのお兄様を、そしてあなたのお兄様がミカを助けてくださったのだと思ったの。
その至福者の丘から身を投げた赤い目の同族は、本来ならばしてはならない自死をした。でも、それは至福者の丘から身を投げることで、すべての罪を祝福に換える儀式でもあったの。
その方が残した祝福が、ミカのなかにも、あなたのお兄様のなかにもあって、引き合わせてくださったのだと思ったら、涙が止まらなくて。
ミカの身体はあなたのお兄様のおかげで生きることができている。ひとつの命が、身体が失われたことは確かなのだけれど、そのおかげでミカがいままで以上に自分の身体を労わることを覚えてくれればうれしいと感じたわ。そうでなければ、あなたのお兄様から生かされた意味がなくなってしまうもの」
言って、アスラが隣にいるミカエラの腕に腕を絡め身体を寄せた。アスラは表情こそ変わらないけれど、姉の顔になっている。本当にミカエラのことを心から心配していたのだろう。
ユーリ自身もひそかに思っていたことと、おなじことを考えていたようだ。でもユーリにとってそれは手術を施したことへの肯定と自己欺瞞でしかなく、日を追うごとに疑問と疑念となり現れた。それがいま食事を摂る気力さえ失っていることにつながっている。
それを口にすれば、きっとこの二人はまるで自分のことのように気を揉むのだろう。悪い相手ではないことくらいはわかる。わかるけれど、――。
「だからミカは無理をしてはいけないわ。前線はアレクシスとベアトリス、カシェルに任せること」
ミカエラが怪訝そうに眉を顰める。「連れてきたのですか?」と、それは嫌そうな顔でアスラに問う。アスラは何食わぬ顔でええと答えた。ミカエラが溜息を吐いて天を仰ぐ。
「アレクシス、助けてくれ」
「無理っすわ、俺にあの人止めれるわけねえだろ」
「将官殿は大層お怒りだった。ふたりして叱られるがいい」
不敵な笑みを携えて、イザヤが言う。ユーリは二コラと顔を見合わせた。オレガノ軍というよりは、王家の近衛兵のなかで立場が強い人のことを言っているのだろうとすぐにわかる。ミカエラが嫌がるということはよほどだろう。
ミカエラが静かに動揺している。サシャが動揺を悟られないようにしていた仕草によく似ている気がして、ユーリはもう一度深い溜息を吐いた。
最適解だと言ったけれど、正直に言って、後悔している。ミカエラが助かったこと、そしてミクシアにも、オレガノにも恩を売れる。それに関しては最適解ではある。でもそれは、自分が大学にいた間のことだ。いまは大学に所属しているわけでもない。なんのメリットもない。いや、メリットやデメリットを考えることも、なにかを天秤にかけることもニュアンスが違う。明らかな喪失感に苛まれて、ミカエラのふとした仕草にすらサシャを感じてしまって辛くなる。だから懐かれないように牽制していたのは、ある意味で正解だった。
罪悪感しかなかった。自分にはそれ以外になにもできなかったし、もしもミクシアの医療がもっと進んでいて、開頭術ができていたら、サシャは助かっていたかもしれない。誰が何の目的で、自分とサシャを襲ったのかとか、そんなものはどうでもよくて、ずっと守ってきてくれていたサシャを守れなかったことが、どうしても悔しくて、だから、発想の転換をした。
ほかのミクシアの人たちがどう思おうと関係ない。いままでずっと、自分とサシャを助けてくれたノルマ族のために、彼らが犠牲にならないようにするために、諸々の研究を続けてきた。そうすることで、自分の中の罪悪感と無力感を払拭したかった。
いまさらになって、アルテミオが言った言葉の意味が分かった。自分の感情に鈍い。本当にそうだ。本当はどうしたいのかなんて、そんなものは決まっている。サシャがいないのなら、生きる意味なんてない。だけどそれは自分が最初に感じたことを否定することになりそうで、希死念慮を必死で抑えた。頭を使うことでそれを考えないようにした。でもどんどんそれが膨れ上がる。食事を摂れないのもそうだと思う。肉なんて想像しただけで吐き気がする。本当に、いろんな意味でずっと守られてきた。いまは糸が切れたマリオネットのように、自分の心すら自分でコントロールすることができない。
ユーリは口々に話しているミカエラたちに声をかけることもせずに部屋を後にした。
ミカエラは本当に大事にされている。そんな彼がもし亡くなっていたら、きっと彼らは悲しんだだろう。だったら、やっぱりこれが最適解だ。自分にはほかに親族がいない。悲しむのも自分だけじゃないか。自分が飲み込んでさえいれば、ほかの誰も悲しむことはない。
ふと、リズのことが浮かんだ。リズはサシャのことで泣いてくれた。軍部のことが嫌いだから、本当はここに来るのも嫌だっただろうに、気を遣って顔を見せに来てくれた。時間がなかったとはいえ、いつもならもっと様々なことを考えていたと思う。リスクもだけれど、その先のことも。だけど、ミカエラがキアーラの婚約者なんじゃないかと思った途端に、無意識に体が動いた。サシャがただ弱って死んでいくのを見たくない。それなら、人助けになるようなことをするのがお互いの為なんじゃないか。そうしたら、少なくともキアーラが悲しまない。それはやっぱり、アスラが言ったようにただの自己犠牲でしかない。
二コラが追ってくるのに気付いたが、構わずに進み寝室までの道のりを戻る。それまでの道のりがやけに遠く感じるのは、視界が滲んでいるせいだろうか。溢れてくるものを拭いながら階段を上がっていると、二コラに腕を捕まれた。
「ユーリ、オレガノ側から例の粉末を分けてもらうことになった。安全のために薬を作っておこう」
「要らない」
二コラが瞠目する。自分の表情が別の感情に塗れているのに気付いて、視線を逸らした。ああ、ダメだ。二コラが悪いわけじゃない。なんの事情も知らなかったのだろう。責める謂れはない。
「手ぇ離せよ、裏切り者」
自分でも聞いたことがないような、嫌悪に塗れたものだった。不意に口をついて出た。心底思っているわけじゃない。でもどこかにそんな思いがなければ、そんな言葉が浮かぶはずもない。
本当にもう自分がどうしたいのか、なにをしたいのかがわからない。二コラを押しのけてそのまま逃げようとしたら、二コラに抱き寄せられた。
なにを言うわけでもなく、ただ、抱き締められる。二コラの体温が伝わってくる。心地よい。髪をくしゃりと撫でられて、まるで慰めるような感情が伝わってくる。いつもとは違う。いつもなら、二コラの体温は心地いい。安心する。でも、いまはただ不快なだけだ。
「離せ」
「離したらまた引きこもるだろう」
「あいつが言ったこと、真に受けてんの? 俺がどう思っていようが、どう感じていようが、あんたには関係ない」
二コラの腕に力が籠っていく。本当に不快だ。いまこうしてほしいのは、二コラじゃない。
「離せっつってんだ!」
二コラの身体を押しのけて、そのまま早足で部屋に入った。ドアを閉めて、素早く鍵をかける。すぐに二コラが声をかけてきたけれど、応じなかった。
本当に、自分はどうしてしまったのだろうか。情緒がおかしい。部屋の隅にいたジジが心配そうに声をかけてきた。
『Sig.オルヴェ、どこか痛い?』
否定の意味で首を横に振る。そういうわけではないと言いたかったけれど、声が出ない。二コラがもう一度ユーリを呼ぶ声がした。いつもよりも静かで優しげなそれは、まるでユーリの心情を表しているかのようだった。
ジジが不安げな表情でドアの向こうを見やる。ユーリと、ドアとを交互に眺めるのが分かった。
『あいつ、Sig.オルヴェのこと呼んでる』
ぼそりとジジが言う。ジジが唸らない。イザヤたちに対してもそうだったけれど、ジジはなにもしようとしなかった。それはつまり、敵意がないからだ。少しでも敵意や悪意を感じたら襲えと、そう教えた。それが裏目に出るとは思わなかったけれど、互いの自衛のためだ。
『ジジ、部屋の鍵はもう勝手に開けちゃだめだ』
『でもSig.オルヴェ、ごはん来なきゃ食べない』
『ジジは身軽だから、窓から出入りできるだろ』
『おれじゃなくて、Sig.オルヴェの』
ジジが心配そうに言う声にまで、ざわりとした感情が絡みついていくように思えた。
『開けるな』
ジジがびくりとする。いままでジジに言ったことがないような命令口調だったからだろう。ジジは心配そうな面持ちのままで、『Si,Sig.』と呟いて、いつものソファーに戻って行った。
どうかしている。このどす黒い感情は、いったいなんなんだろう。床に座り込んだまま、頭を抱えた。その黒い感情にすべて飲み込まれそうな感覚に陥る。いつもはなんとも思わない感覚がすべて不快一色に染まり、吐き気がした。
相変わらず、なにを言うわけでもなく、ドアの向こうに二コラがいる。話かけても応じないことを知っているからなのか、ただ傍にいるだけで慰めているつもりなのか。ドア一枚の隔たりは感覚も考え方も異なる種族同士の隔たりにも似ている。分かり合えることなどなく平行線だ。
「俺はどうすればいい?」
二コラの痛切な思いが滲んだ声がした。
「俺ではサシャの代わりにならないことはわかっている。でも、いまの表情のおまえがなにを考えているかくらいはわかるんだ。落ち着くまででいい、そばにいさせてくれ」
返事をしなかった。自分にもわからないものが、二コラにわかるわけがない。超絶鈍感のむっつりスケベのくせにと口の中で吐き捨てて、ドンとドアを叩いた。あっちへ行けと、暗に込めて。二コラが向こうへ行く様子はない。むしろ、ごそごそと音がする。床に座り込むような音がしたあとで、ドア越しに少し圧がかかったような気がした。
「ユーリ」
やっぱりなにもわかっていない。自分はただ、頭の中の整理と、感情の整理をしたいだけだ。なにも自暴自棄になってなにかをやらかそうとも思っていないし、泣きたいわけでもない。
「どうすればこの距離を埋められる?」
意外な言葉だった。たったドア一枚だけれど、大きな溝だ。決して埋められることがない。ここを開ければ、簡単にその溝を埋められる。方法はわかっている。そうしたほうがいいことも、そうすることで落ち着くかもしれないとも、頭ではわかっている。でも、締め付けるように痛む胸がそれを許さなかった。
触れてはいけない。いま二コラに触れたら、たぶん、なし崩しになる。
それに対する返事はしなかった。距離を埋めることなんて無理だ。自分はイル・セーラで、二コラはノルマで、その時点で大きな溝がある。そんなことは考えたことがなかったのだけれど、収容所での出来事が脳裏をよぎるたびに、そんな思いが身体にこびりついて侵食していくような、そんな感覚がした。
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