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Thirteen(6)

「ミカエラの姉ちゃん来てんの? マジで?」  アレクシスに言われて、チェリオは大袈裟な声を出した。 「美人か?」  すぐにファリスが食いつく。 「かわいいに決まってんだろ、ミカと同じ顔だぞ。あ、言っとくけど、ミカに手ぇ出したら殺すからな」 「いや、逆だろ」  ふつうはレディーに手を出すなっていうんだと、キルシェが突っ込んだ。  オレガノの仲間が来ているのならそっちに行けばいいのに、アレクシスは2日に一回開かれるロレンのバール(カフェとバーの両方の機能を兼ね備えた飲食店)の常連だ。こうして管を巻きに来る。キルシェがレディーと言ったからか、アレクシスがふんと鼻で笑った。 「なーにがレディーじゃ、あの地雷製造女。Sig.オルヴェが辛うじて繋ぎとめていた感情の糸を、悪魔のように刈り取って行きやがったんだぞ、根こそぎ。ミカはハラハラしつつも止めねえし、こっちは止めるなって言われたら止められねえし。だれかあの女泣かさない?」 「それこそ不敬罪じゃねえか。で、ユーリはまだ拗ねてんのか?」 「夕方廊下ですれ違ったら、それはそれは親の仇でも見るような目で睨まれましたよ、ミカともども」  あーあとアレクシスが情けない声を出した。 「オレガノに帰りたい。そも、お守り役はもう卒業して、ゼロスとアーティを警護につけるって話になっていたのに、ミカがあんなことになったせいで話が立ち消えちまった。  ねーえー、ロレンおじさまー。オレガノが全部責任取るから、チビちゃんたちに神業スタイル教えてやってくださいよー」  まるで甘えるようにアレクシスが言う。ロレンは苦い顔をして、ふんと鼻で笑った。 「おまえさんのほうが腕が確かだろうが」 「ミクシアの戦法と、オレガノの戦法はちょっと違うんすわ。そもそも、この酒は誰が調達してきてやったと思ってるんすか、ねーえ、おじさまー」  ロレンが白けた表情をそのままに、アレクシスの前にネグローニ(ジン、ベルモット、カンパリを同量で混ぜたカクテル)をロックで置いた。 「飲んで寝ろ」 「ひっどいっすわ。Sig.カンパネッリも取り合ってくれねえし、俺は針の筵ですよ。チビちゃん、Sig.オルヴェが機嫌取り戻すなんか、知らねえ?」  言われて、チェリオはスプリッツ(スパークリングワイン、リキュール、ソーダで作るカクテル)を飲みながら考える。ユーリが機嫌をよくするものなんか、楽しい実験材料を見つけた時くらいしか思い当たらない。 「Sig.エーベルヴァイン、Sig.ベルダンディがリュカと一緒に作ったあの薬の実験台になったら?」  ほろ酔い気分のラカエルが、また物騒なことを言う。 「アレを俺に飲めと仰る?」 「ピペット0.2ml一滴でドン・クリステンを沈めた伝説の新薬を、アンプルごと行きまーす! とかやったら、喜びそうじゃない?」 「いや、死ぬっすわ」 「じゃああれだ、Sig.カンパネッリに『インセディオ』を盛る」  ラカエルがふざけて言ったら、ロレンたちが爆笑した。ひいひい言っている。 「なに、そのインセディオって」 「おい、ガキがなんかいってんぞ」 「売りを生業にしていたんだから、べつに構わんだろ」 「なにそれ、なんか精力剤みたいなやつ?」  チェリオが声を弾ませたら、ファリスが笑いすぎて目に溜まった涙を拭いながら、チェリオの背中をバンバン叩いた。 「それで済みゃいいがな、ありゃとんだ失敗作だ。しばらくトイレも苦痛なくらいイカれる」 「そんなもんSig.カンパネッリに飲ませちゃかわいそうじゃねっすか」 「笑いながら言ってんじゃねえか、悪い奴だな」 「インセディオをアルコールと一緒にかっ食らったら、いろんな意味で天国見るぞ」  調合してやろうかと、ラカエルが笑う。キルシェが呆れたような表情でテーブルに上半身を預けた。 「真面目そうな面ァしてるくせに、何気にえぐいことばっかり言いやがるな」 「ほんとっすね。キルシェおじさまは銃の扱いとかいけるんすか?」 「まあ、それなりだな。俺はどちらかというと整備や改造のほうが得意だ」 「ふうん。ネイロおじさまは海軍っつってましたっけね?」 「おうよ。一応は飛び道具全般扱えるぞ」 「たくましいことで。それぞれ事情があってスラム街にいたってのはわかるけど、もったいないっす。オレガノに欲しいっすわ」  アレクシスが溜息交じりに言う。すぐにキルシェが笑いながらアレクシスの背中を叩いた。 「報酬次第じゃ買われてやるぜ、アレさん」 「おお、マジっすか。ミクシアより出しますよー、こんなクソみたいな国より諸々融通が利くんで」  ロレンが意味深な視線を向けてくる。ミクシアに戻った時に怒り狂っていたから、それの延長戦だろう。むかっ腹の立つ嫌味を言われたんだと、口の動きだけでロレンに告げる。 「俺らはスラム街であの兄ちゃんには世話になっているし、四の五の言うなら政府の連中全員皆殺しにしてやろうかって荒ぶるのはわからんでもねえが、アレさんはなんだってあの兄ちゃんの肩を持つんだ?」  アレクシスが不満げに眉をよせながらロレンに視線をやり、ネグローニを煽った。一気だ。 「おいおい、やめとけって。なに荒れてんだ」 「だって腹立つじゃないっすか。自分たちが話聞かなかったくせに、体のいいように罪を擦り付けるような言い方しやがって。  兄上のことはそりゃオレガノにも責任があるから強くいえねえし、地下街じゃちびちゃんやおじさまがたがいたから一人じゃないにせよ、同族もいない中で孤軍奮闘しているのを見て、誰も手を貸してやらないどころか、いいように扱ってやろうっていうのが透けて見えて……」  そこまで言って、アレクシスがテーブルにどんと拳を叩きつけた。 「こんなしがらみまみれのところにいたら、感情がバグるのも仕方ねえのはわかるけど、だいぶキテるっすよ。Sig.カンパネッリに裏切り者っつったみたいっすからね」 「マジか」 「まあ、本人は『いつもの八つ当たりだろう』って言ってたっすけど、あんな飄々とした感じを装って、腹の奥じゃそんなこと思っていたんだって思ったら、すんげえダメージきません? 俺だけ? ミカと同じ顔だから贔屓なだけっすかね?」  アレクシスの言葉を受けて、ロレンがキルシェに視線をやった。なんとかしろとでも言いたそうに見ている。キルシェが面倒くさそうな表情で軽く両手を開いた。 「アレさんよ、言い方は悪いが、あんたがそう思うのは、あの兄ちゃんに対する哀れみがあるからじゃねえのか?」  キルシェが唐突に爆弾を放る。ロレンが「おい」と声を荒らげたが、キルシェが止める様子はない。 「ほかはどうか知らねえが、俺はあの兄ちゃんが可哀そうなんざ一切思っちゃいねえ。ノンナの遺言だから、居住区の住民の手助けをしてくれたから、だから手を貸した。それだけだ。  スラム街はそれなりに脛に傷を持った人間の集まりだ。それぞれが家族を殺されていたり、自分が人を殺していたり、なにかしらしている。  中には人を殺すこともどうも思わねえ奴らもいるが、俺はフィッチとの戦争で、上官の命令とはいえ民間人を死なせたことをきっかけに、スラム街に降りた。国に対する不満と、疑念しかなかったからな」 「……マジすか、国際法違反じゃねっすか」 「実際戦闘になったら、そんなぬるいこたぁ言ってられねえんだよ。最初は俺たちもそれが普通だと思っていたが、普通じゃねえと気付いて、ばかばかしくなった。  だから、俺たちは付き合いが長いものの、誰がどう生きてきて、どんなことをしてスラム街に降りてきたのかを、互いに知らねえこともある。いつ、どこで、誰が死ぬかわからねえからな。互いに常に壁を築いて生きるのがルールでもあった。  だから、そういう意味で、哀れみを持っちゃいねえ。ラカエルだってそうだ。あいつはああ見えて、コーサの手下を3人ぶっ殺してるからな」  ラカエルが向こうから、そうだよーと暢気な口調で言うのが聞こえてきた。 「言い方はわりいが、相手に哀れみを持つことができるのは、恵まれた人間だけなんだ。さまざまな脅威に晒されて生きてきたあの兄ちゃんの心意を本当にわかってやれるのは、死んだ兄貴か、似たように命を狙われ続けてきたやつらだけだろうな」  アレクシスは押し黙った。外気の暑さで徐々に溶けていく氷を眺めながら、なにかを考えているような表情だ。 「だからガブリエーレ卿がやたらと気にしてやってんのか」  ぼそりとアレクシスが言う。 「それもだけど、ユーリってマジでくそブラコンだから、単純に羨ましがっていたりして」 「なにを?」 「ミカエラのそばにあんたがいることを」  端的に言ったら、アレクシスが情けない顔をしてグラスを手に取った。 「おじさまーっ、チェリーちゃんがいじめるからお代わり―っ」 「うるせえな、ちゃんと作ってやるから静かにしてろ」  ロレンが「夜だぞ」と声を尖らせる。夜な夜な外で酒盛りをしているこっちもこっちだけれど、室内にバーベキューセットを持ち込んで肉を焼いて食ったらイデア姉さんからぶん殴られた。二度とやるな! と追い出されたのはここに来てすぐのことだ。 「俺は別に自分にきょうだいがいたことねえし、がむしゃらに生きてきたからそんなよそ事を考えたことなんてなかったんだけどさあ。  スラム街を出て、ここにきて、無性に暇な時間あんじゃん。そしたら、やっぱしつい考えちまうんだよなあ。  ユーリがスラム街に降りてこなかったら、たぶん、俺らは全員もう生きていない。コーサがピエタと組んで、地下街を火の海にする計画を練っていたんだ。そこは回避できたとしても、そのあとの、パンデミアが起きる前に持ってきてくれた丸薬がなけりゃ、たぶん、詰んでいた」 「そこまで世話になってんのに、チビちゃんはあの腐れデブにあんな暴言吐かれても、割と冷静だったな」 「まあ、ぶっちゃけ俺のことじゃねえし。それにあいつら、自分らで言った矛盾になにひとつ気づいちゃいなかったろ。そんな浅はかな奴らになに言われたって、高みの見物決め込んでいるだけのくそ野郎が吠えてるだけだとしか思わねえよ。  いろいろ余計なこと考えて燻ってはいるけど、あいつもそうなんじゃねえの? 結果がすべて。その過程にどんな葛藤や失敗があったとしても、できたか、できなかったか、すべてそれだけで判断される。俺たちはそういう世界で生きてきたから、グレーがない。いまはグレーの世界にいるから、余計しんどいんじゃねえかって、そう思う」  アレクシスの視線が痛い。なにかを言いたげにしていたが、すぐに視線を逸らして、ロレンがグラスに入れたばかりのネグローニをまた一気に煽った。 「アレさんよ、飲み過ぎじゃねえか?」 「俺もうこの国こわいっすわ」  ぼそりとアレクシスが言った。 「しゃあねえ、そういう国だ。スラム街に生きる人間たちは、この国から出ていきたくても亡命権がなかったり、そもそも政府とかかわりを持ちたくない連中が多い。  スラム街の連中が武器の携帯を許されないのは、結局は暴動を起こされるのが怖いからだ。みんな脛に傷を持っていると言ったが、そのほとんどは冤罪だったり、犯罪を犯した者の家族だったり、相手を殺したいと思う衝動を抑えきれずにやっちまったようなもんだったり、そう運ばれたようなもんだったりな」  ロレンが言う。アレクシスは不満げな表情をそのままに、テーブルにグラスを置いた。 「こっちには落ち着くのを待ってやるくらいしかできねえってことか」 「まあ、それが一番だろうな」  テーブルに突っ伏したアレクシスの頭をネイロがわしわしと撫でる。 「もうちょいユーリが元気になったら、こっちから引きずり出してやっから心配すんな」 「そういうの、庇護欲っつーんだぞ、アレさん」 「そりゃ沸くだろ、庇護欲。ミカと同じ顔だし、ミカを助けてくれているわけだし」  それでなにも感じねえやつがいたらサイコパスだとぼそぼそと言う。リュカの館から誰かが出てくるのが見えた。アンナだ。 「アンナ!」  声を掛けたら、アンナがぎょっとしたような顔をした。 「こんなところでなにをやっている?」  言いながら、こちらに近付いてくる。そして酒盛りをしているのだと気付くと、呆れたような表情で前髪を揉んだ。 「暢気なものだ。本当におまえたちは逞しいな」 「そりゃどうも。それだけが取り柄なもんで」  アンナが周りを眺め、不思議そうな顔をした。 「あいつはいないのか?」  ユーリのことだ。チェリオはわざとらしく、いないという意味を込めて両手を広げて見せる。 「こういう場を好みそうなものなのに、珍しいな」 「そうか? あいつ酒飲めねえし、飲みたがっても面倒だから飲まさねえ」 「そういや、地下街にいた頃から、あの兄ちゃんは飲みの席には参加したこたねえな。近くにはいても、話に入ってこない」  アンナが驚いたような顔をした。当然の反応だ。街にいた頃のユーリを知っていたら、そう思うだろう。人懐っこく寄ってきて、酒も飲めないのに人の話を聞いていたんじゃないかと、俺でも思う。 「アンナちゃん、Sig.オルヴェのことなんとかしてやってくださいよー」  アンナが思いきり嫌そうな顔をする。舌打ちをして、くそがと吐き捨てた。 「その呼び方をやめろ。……なんだ、あいつはまたなにか仕出かしたのか?」 「違うんすわ、悪いのはSig.オルヴェじゃなくて、空気を読まない地雷発生装置女で、せっかく立ち直りかけていたところに可塑性混合爆薬ぶち込んできたんすよー。マジであのガキ、くそ女ともども海に沈めてえっ」 「なんだ、この荒ぶり方は」 「シャンパン一本開けた挙句にネグローニを10杯近くロックで煽った」  まだ酔ってねえっすわとアレクシスがぼやく。確かに酔った様子はない。アンナが面倒くさそうに溜息を吐いた。 「アスラにはミカもおまえたちも甘々だからな。そりゃあんな育て方をしたら倫理観皆無の地雷女にもなる」 「俺のせいじゃねえっす、全部イザヤと将官殿が甘やかすからっ」 「それで、あいつはなにを拗ねているんだ? 土壌調査の件は、時間こそかかったが問題なく進められるよう取り計らっている。カナップの承認もそのうちに降りるだろう。リュカもそうだが、あいつもカナップを使用した丸薬の依存性や副作用等をすべて細かくチェックしていたこともあり、政府連中はぐうの音もでなかったぞ」  それがと、アレクシスが言い淀む。アンナは遠慮なんてするたちではない。だからなんだと語気を強め、面倒くさそうに舌打ちをした。 「これを言うとアンナちゃんにもSig.アルヴァンにも非常に申し訳ねえっすけど、たぶん、兄上のことでいまごろになってじわじわと爆弾が効いてきてるんじゃねえかなっていう。  ほら、ちょうど3か月前後じゃないすか」  3か月という期間を聞いて、不思議に思う。なぜ期間が関係あるのかと思っていると、アンナが眉間にしわを寄せた。 「誰も気を遣っていわなかったことを、あの女は言ったのか?」 「そうなんすわ、しかもミカの前で。俺が海に沈めてえっていう気持ちわかってくれるっ?」 「まさか、サシャというおまえの愛称を呼んだり」 「おもっくそされたっす」  だから敢えて黙っていたのにと、アレクシス。 「おまえサシャなの?」 「短縮するとサシャとかサーシャになる。さすがにほとんど呼ばれてねえけど、アスラは未だに子どもの頃のくせでそう呼ぶんだよ」 「あー……そりゃ、間違いなくユーリの超絶ブラコン癖が大暴走しているやつじゃね?」 「だよなあ? っとに、あいつら。ミカのことが心配だったのと、Sig.オルヴェに薬を持ってきたかったのはわかるけど、空気読めっつんだよ」 「アスラが空気など読むか」  ですよねーっと、アレクシスが言う。ミカエラはちゃんと空気を読む感じだけれど、姉ちゃんは違うのかと思う。話を聞いていて思ったけれど、ミカエラと姉ちゃんはステータス補完タイプのきょうだいなんじゃないかと思う。ユーリとサシャもそんな感じだった。たぶんミカエラは姉ちゃんのブレーキになりきれていないような気がするけれど。 「アンナ坊ちゃん、なんか妙案でもあるのかい?」  ネイロがアンナに声をかけると、アンナははたと気付いたようにネイロに寄って行った。 「おい、おまえは酒を飲むな。先日処方した薬と酒の相性が悪いと言っただろう」 「飲んでねえぞ、こりゃアーチェ(野菜ジュース)だ」  怪訝な顔をして、アンナがネイロのグラスを引き取る。そしてにおいを嗅いで、酒のにおいがしないことを確認したうえでそれを突き返した。 「それならいい。ここでなにかがあるとあいつが気に病む。自重するように」  アンナが鋭く言ったら、おっさん連中が「うーい」とだれたような、やる気のない返事をした。かと言って、アンナを舐めているわけではない。毎回浴びるように酒を飲む連中だから、少々の無茶はいけると思っているらしいけれど、念のためにと飲まされている薬との相性があまりよくないから、いつもの量を飲むなと顔を合わせるたびに口うるさく言われるのだ。 「アンナちゃんも、意外なほどSig.オルヴェのことを買っているんすね」 「俺もサシャとミカの手術に携わったからな。そのあとにあいつの素振りからも、いくつか気になる部分があるから、何事もないように注意を払っているだけだ」 「それにしては、珍しく気に留めているような気が」 「そう見えるのならそうなのだろう。俺は帰るぞ、明日が早いのでな」  そう言ったあとで、アンナはもう一度ネイロを見やった。 「再度言っておくが、本当に飲むなよ」 「わかってますって。では、アンナ坊ちゃん、お気をつけて」 「おまえたちもそろそろお開きにしろ。22時を回っているぞ。あの怖いレディーに睨まれたくなければ大人しくしておくことだ」  怖いレディーというのは、イデア姉ちゃんのことだろう。すぐさまファリスが「おっかねえ」とわざと怖がってみせた。  アンナが別のゲストハウスに戻って行く。ユーリが煮詰まった時や、なにか考え込んだ時、なにか妙な行動を起こす。そうなる前に気分転換させてやるかと思いつつ、「お開きにするぞー」と声をかけたロレンの手伝いに徹した。 ***  深夜を回ったが、ユーリの部屋の明かりはついている。窓も開いている。これは起きているなと思って、チェリオは少し助走をつけ、勢いよく飛び上がった。  窓枠に手をかけ、にゅっと顔を覗かせる。ベッドに横になって本を読んでいたユーリが顔をあげ、目が合った。驚いたように目を瞬かせる。 「よう、ユーリ」 「なにやってんだ?」 「ちょっと降りて来いよ、おもしろいもん見せてやる」  にいっと笑いながら言う。ユーリは本を閉じて、ベッドの足もとで体を起こしたジジに、別の言語で話しかけた。わしわしと頭を撫でる。そのまま窓のほうへと歩いてきた。 「こっから降りろって?」 「怖けりゃ下からくれば? たぶん玄関にアレクシスが張ってるぞ」  ユーリが面倒くさそうな息を吐く。 「先降りてて」  言われて、チェリオはひょいと飛び降りた。高いところが苦手と言っていた割にはチャレンジするんだなと思っていると、ユーリが上からなにかを垂らしてきた。簡易はしごだ。これは夜な夜な絶対に脱走していたなと悟る。するすると降りてきて、小声でジジを呼ぶと、ジジがその簡易はしごを音を立てないように回収した。呆れたような顔でユーリを見上げると、悪戯っぽく肩を竦めた。  なんとなくだけれど、いつもよりも元気がない。目が腫れているわけではないから、泣いたわけではなさそうだ。 「おもしろいものって?」 「来たら分かる」  そう言って、チェリオはユーリを連れて、森の奥へと向かった。  数軒並んだゲストハウスのある開けた場所を抜け、森を抜けると、不思議な湖がある。リュカからは子どもたちだけで行くなと厳命されているらしいけれど、子どもじゃねえしなと開き直っている。かなり歩いてそこにたどり着くと、月明かりを見事に映し出す、綺麗な水面が広がっていた。  ユーリが感嘆の声を上げた。 「こんなところがあったんだ」 「あの向こうに、崩れた岩があるのわかるか?」  言って、湖の対岸の一角を指さす。ユーリが目を細くしてそこを見て、頷いた。 「あの下の付近、よく見てみな」  今日は明るいから、夜でも見えるだろう。ユーリはそこをじっと眺めたあとで、「あっ」と声を上げた。 「階段と、石の扉?」 「そう。ほら、ここにも」  言って、自分たちの足もとを指さす。水深1メートルくらいのところに、階段のようなものが見える。ユーリが目をまん丸くさせた。 「これ、水底に続いているっぽいな」 「この階段を下りて、向こう岸まで行って、さらにあの階段を下りたら、あそこの石の扉まで行ける。ここの村の言い伝えで、あの扉はイル・セーラの村と、ミクシアにつながっているらしい。まあ、だから昔からここがガブリエーレ卿の固有地になっているんだってさ」  ユーリはなにも言わなかった。その場に座り込み、ちゃぽんと水の中に手をつける。思いの外反応がない。もっと喜ぶと思ったけれど、そういう心境ではないのだろう。 「ちなみに、対岸の扉の前にはこの水を堰き止めるための装置があるらしいけど、さすがにぶっ壊れてっから、水が抜けないんだと」  ふうんとだけ、ユーリ。そのままぱしゃぱしゃと手で水を掻き混ぜたあと、水面から手を引き上げた。なにも言わない。ぼんやりと湖を眺めている。チェリオはそれをしばらくの間頭上から眺めていたが、隣に腰を下ろした。  しばらくの間、お互いがなにも言わなかった。なにも聞いてほしくないんだろうと思う。こっちも別に、ユーリからなにかを聞き出したいわけではない。でも、たしかに、アレクシスが言っていたように、ユーリがひとりで藻掻いているという現実を突きつけられると、なんだかモヤモヤしてくる。 「チェリオはさ」  不意にユーリが話しかけてきた。 「チェリオは、自分が急に王族の末裔だって言われたら、どうする?」  視線はこちらを向いていない。王族ねえと言って、チェリオはその場に寝転がった。 「俺、実際そうだぞ」 「そうなのっ?」 「地下街の王様だ、俺は」  そう言ったら、ユーリがぶはっと笑った。ユーリが笑うのを、ひさびさに聞いた気がする。夜だからなのか声を押し殺しているけれど、くっくっと笑いながら口元を押さえた。 「そういう?」 「血筋なんてもんじゃ腹ぁ膨れねえし、みんな自分の世界の王様だよ。ガキっぽい考えかもしれねえけど、そうしなきゃスラム街では生きていけねえ。自分以外、自分を守ってくれるものもねえし、そりゃあそれなりに協力者もいるけどさ。そいつらだって、自分のことで一生懸命だ。みんなが自分の城を守ろうと必死なんだ」  ユーリはなにも言わなかった。目元を擦るような音がする。ふうっと小さく息を吐く。そうかと思ったら、ユーリがはいていたサンダルを脱いで、ぽいっと投げ捨てた。 「あっ、おいっ!」  どぼんと水音がした。絶対になにかやると思ったら、この野郎っ。 「おいコラ、バカユーリ!」  水面が暴れるわけでもなく、ユーリが上がって来る気配もない。そういえば、ユーリは山育ちだと言っていた。近くには川もあるし、滝もある。でも、泳げるとは言っていなかったんじゃないだろうか。そもそも服を着たまま飛び込むとか、水の怖さを知らない奴の所業だ。  慌ててバックパックに忍ばせているアンカーを地面に立てて、それを足で踏んで固定させる。靴とシャツを脱ぎ捨てる。バックパックのベルトを乱暴にのけて放り投げ、ユーリを引き上げやすいようにベルトを抜いて腕に巻き付けた。もし意識がない場合は、そのほうが手っ取り早いからだ。そのままハーフパンツを脱いで、急いで水に飛び込んだ。  かなり潜ったところで、ユーリを見つけた。溺れているのかと思ったけど、興味深そうに階段を眺めているらしい。  その手を取って、身体を引き寄せた。驚いたような顔をしたユーリが、なにかを言おうとしたけれど、口から大量の気泡が出ていく。気泡が消えたあと、苦しそうに口元を押さえているのがみえた。絶対にこれは水を飲んだなと思い、すぐさま水面に引き上げる。  ぶはっと空気を吸うチェリオにしがみ付いて、ユーリが派手にむせた。 「馬鹿か、水ン中で喋れるわけねえだろ!」  まだむせている。チェリオはユーリの湖の縁に立てたアンカーを握らせて、先に上がった。 「ほら」  手を差し出したら、ユーリがチェリオの手を掴んだ。ほとりに引き上げてやると、ユーリはげほげほと噎せながら草原に横たわった。 「泳ぎ方忘れた」 「やっぱりかよっ! アホか、絶対になんかすると思った!」 「ここに連れてきてくれたってことは、飛び込めってことかと思って」 「ンなわけねえだろ!」  まだ小さく咳をしている。チェリオは濡れたパンツを脱いで、絞った。 「くそっ、びちょびちょじゃねえか。マジで突拍子もねえことしやがる」  文句を言いつつ、絞ったパンツを履いて、ユーリを見下ろす。 「んで? なんかおもしろいもんでも見つけたか?」  ユーリは身体を起して後ろ手に手を突くと、今度は足だけを湖に付けた。 「なにもない。ただの水の中だった。でも、ちょっとすっきりした」 「そうかよ。そりゃよかった」 「チェリオ」  なんだよと言いながら振り返ると、顔面に勢いよく水が引っ掛かった。ふぎゃっと声が上がる。濡れた顔を手で拭い去り、ユーリを睨む。ユーリは悪戯っぽく笑ったあとで、チェリオを見上げた。 「ありがとな」 「べつに。おまえが沈んでたら、気味わりいんだよ」  ぶっきらぼうに言ったら、またユーリに水を掛けられた。 「やめろって! つか、おまえもびちょびちょじゃねえか!」  ユーリが着ている薄手のシャツに胸がすけていてドキドキする。びちゃびちゃに濡れたシャツを脱いで絞る。チェリオはユーリの背中にある傷のひどさを改めて目にして、息をのんだ。かなりひどい傷だ。するりとそれを撫でたら、ユーリがうひゃっと声を上げた。 「び、びっくりしたっ! 急に触んなっ!」 「わり、改めて見たら、なんか」 「見るなよ」  シャツを絞って、水が滴らなくなったものを、パタパタと煽ったあとで頭からかぶった。つめたっと文句を言うが、自分が勝手に入ったのだから仕方がない。  ベルトを寛げて、ズボンを脱ぐ。たぶんユーリのことだからなにも考えていないのだろうけれど、大体オーバーサイズの、丈が長めのものを着ているから、ズボンを脱いでもギリギリ股間が見えるわけでもないのに、妙にエロい。  ズボンはなかなか絞れないからか、先にパンツを絞って穿く姿を横目に見ながら、なんだか背徳的な気分を味わった。一応ズボンを絞るけれど、なかなか絞り切れないからか、諦めてそのままの姿でサンダルを履こうとする。おいと語気を強めたが、ユーリはきょとんとして意味が分かっていないらしい。 「おまえ、自分がむちゃくそエロい姿してるって思ってねえだろ?」  言われている意味が分からないとばかりに、シャツの裾を捲る。 「ちゃんとパンツ穿いてるけど」 「いや、さっき穿くの見たし。じゃなくて!」  これ穿けよと、自分のハーフパンツをユーリに突き出した。 「チェリオは?」 「俺は別にいんだよ。犯されたくなきゃ、穿け」 「入る?」 「入るだろ、俺んがおまえより骨格いいんだから」  そう言うと、ユーリがもそもそとハーフパンツを履いた。普通に入る。むしろそれでもゆるいくらいだ。 「っとに、帰るぞ」  言いながら、自分もさっさとシャツを着た。ロレンのお古だから、元々がぶかぶかだ。普通に膝上あたりまである。靴を履いて、バックパックを手にして、ユーリの濡れたズボンを手に取った。 「漏らしたって言ってやる」 「別にいいよ、チェリオに犯されたって言うから」 「やめろよ、マジであぶねえやつじゃねえか、格好的にも」 「自分が言い出したんだろ」  この年で漏らすかとユーリが少し不満そうに言う。盛大に潮は吹いたじゃねえかと言ってみたかったが、怒らせそうだから言わずにおいた。  また無言のまま森の中を歩く。ユーリはこちらを振り返りはしなかったけれど、歩調を合わせているつもりらしい。ゲストハウスが見えてきたころ、ユーリがぴたりと足を止めた。 「どした?」  横に言って、見上げる。ユーリはこっちを向かなかったが、部屋にいるときの顔をよりもスッキリしているようにも見えた。 「さっきの、王様の話」  言って、ユーリがこちらを見た。少し悪戯っぽい表情で、すいと片眉を跳ね上げる。 「チェリオくんは案外かわいい面があるんだなって」 「あ゛あ゛っ!?」 「でも、本当にちょっとすっきりした。ありがとう」  言って、ユーリがチェリオの濡れた髪をわしわしと撫でる。チェリオは不満げに唇を尖らせたが、その手を払いのけることはしなかった。

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