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Thirteen(7)
アスラたちは無事にオレガノへの渡航船に乗ったらしい。もう一度ユーリと話がしたいとアスラが言っていたようだが、さすがにミカエラが言いくるめたようだとリュカから聞かされる。ユーリは返事すらしなかった。
リュカがなにかを言っているけれど、その感情を察するために思考を巡らせることすらシャットアウトする。もう放っておいてくれと言わんばかりに本に視線をおとした。
なにも考えたくない。一度リセットするために寝たり諸々やったけれどすべて効果がない。チェリオがあの湖に連れて行ってくれたあとで、すこし気分が変わったように感じたけれど、今日は丸薬の離脱症状のせいもあるのか、かなり気分が悪い。
サシャがいた時、自分はどうやってガス抜きしていたんだろう? それすらもあいまいになってきていて、もしかすると自分はこのままなにもできずに死んでしまうんじゃないかという懸念に苛まれる。頭と、心がバラバラだ。こんな経験はしたことがない。収容所にいた頃は、辛いことがあったけれど、サシャもいたし、同族もいた。いまは事情があってエドたちとも会えないし、それが気持ちを更に不安定にさせているのだろうかとも思う。
向こうから気配が近付いてきた。リュカが慌てたような声を出したが、相手が室内にはいってきたらしい。どうせ二コラかチェリオ、そうじゃなきゃエリゼあたりだろうと思って無視をする。
本の内容が清々しいくらいに頭に入ってこない。頭の中がクリアというよりはからっぽだ。識字を処理するためのシステムが壊れてしまったのではないかと思うほど、すべてがフィルターに飲み込まれていく感覚すらある。これはもうなにをしても無駄だなと感じる。
もう一回湖に飛び込んでみるかと、目を細くして考えていた時だ。誰かに本を奪われた。驚いて顔をあげると、そこには珍しい相手がいた。アンナだ。あからさまに嫌悪の色を浮かべた表情をしている。この顔を見るのは久々だ。
「なにをやっているんだ、貴様は」
二人称が貴様に戻っている。じろりとアンナを上目遣いに睨んだあとで視線を逸らした。
「考えたくないから、頭に諸々詰め込んでいただけ」
その戦法も無駄だったとは言わない。すぐにアンナから胸倉を掴まれた。
「昨日の報告書はなんだ?」
アンナが語気を強める。昨日の報告書と言われて、ユーリはふんと鼻で笑った。西側の土壌調査に赴く際に、他の要員は北側の駐屯地で待機して、自分だけが行くと書いたあとで、あとは政府と軍部に対する悪口雑言を殴り書きしたからだろう。
「俺の率直な意見だけど」
アンナが溜息を吐く。面倒くさそうに眉間にしわを寄せて、おいとぞんざいにユーリを呼んだ。
「それは政府やピエタ、軍部に対する当て付けか?」
「当て付け? 向こうがこっちに対して思っていることを論ってなにが悪い」
「ちょっと、アンナ、ユーリも落ち着いて」
いきなりケンカ腰なのはよくないよとリュカが言ったが、アンナが黙れと低い声で一蹴した。
「ならこちらも言わせてもらうが、貴様の兄の手術を請け負った際に、『あのような大事なことを即断していいのか』と、俺は確認した。おまえは『文句ならあとで言え』と言ったな。聞きたいなら言ってやる、自分のメンタルも推し量れないような軟弱な戯けが手を出していい術式ではない」
「ちょっと待って、アンナ! 追い打ち掛けないでよ!」
「追い打ちなものか、事実だろう。なにを自分だけが被害を受けたような顔をしている。ふざけるのも大概にしろよ。どうせろくなことを考えていない、そうだろう」
胸倉をつかむアンナの手に力がこもっていくのを感じながら、ユーリは視線を逸らしたままふんと鼻を鳴らした。
「べつに、気分転換に海にでも飛び込もうかなって」
泳げないことは言わない。でもウォルナット周辺の海には、一部だけ身体が浮かぶ場所があるとアイラが言っていたし、そこはリュカの許可がないとは入れない場所だと聞いているから、無理やりにでも許可を出させて行ってみようと思ってはいた。
よからぬことは考えてはいるかもしれないけれど、アンナが考えているようなことではないはずだ。こんな中途半端な状態で死ぬ選択をするほど馬鹿じゃない。
「だったら目の届く範囲にしろ。准将の手術をすると決めたのは衝動的ではないだろうし、単なる興味本位でもなんでもないことはわかる。ただ、貴様はまだ学生の身分であり、オレガノでも親族に対する術式は行わないルールだ。
聞き及んでいると思うが、ドナーの名前も出身地等の情報は一切伏せられることになっている。施した側も、施された側もだ。それが何故か、貴様が一番よく分かったのではないか?」
「アンナ、言い過ぎ! 本当に言い過ぎだってば!」
「ここまで言わなければわからないだろう。なにがうまくやれるだ、本当に何事もなかったかのように振舞えるのなら、せめて准将の前では毅然としておけ、ド阿呆が」
おまえの兄の心痛が手に取るようにわかるとアンナが吐き捨てる。ユーリはアンナの手を振り払って、じろりと睨んだ。
「じゃああのとき、どうすればよかったって言うんだ? あのままミカエラを見殺しにしていればよかったと? それで俺になにも責任がかかってこなかったと、本当に思ってるのか?」
「手術を施したことを責めているのではない、『大事なことを即断したあとのこと』を責めているのだ」
「はあっ!? 即断しなきゃミカエラが死んでたかもしれないだろうが!」
「ではなく、そのあとのことだ!」
あとのことと言われても意味が分からない。ミカエラの手術を終えた後でアンナとフレオに任せて大学を出たことを責められているのかと思ったが、違うらしい。アンナはユーリの表情で意味を分かっていないことに気が付いたのか、あからさまな蔑みの視線を向けている。
「俺は言ったはずだぞ。本当にあのまま、サシャの身体を軍部に引き渡してよかったのか、と。ろくな別れも告げずに本当に良かったのかと聞いただろう。
どうせ貴様は准将が運ばれてこなければ、そのままセラフを探しに行方を晦ますつもりだったのかもしれないが、そういう無鉄砲で向こう見ずな貴様の性質が現状に反映しているとなぜ気が付かない。本当に馬鹿なのか?」
「バカバカうるせえわっ、それしか言葉知らねえのか、くそ野郎!」
「馬鹿に馬鹿と言ってなにが悪い、大馬鹿者が!」
「ほんと落ち着いてよアンナ!」
「こいつにははっきりと言わなければわからない節がいくつもある。自分の気持ちには疎いくせに他人のことばかり先行して考える。それが自分のトラウマを掘り下げていることに気付いていない」
「言い方とタイミングがあるじゃないか、ぼくは心療内科系のことは一切わからないから、一応は知人に任せてあって」
「おまえも馬鹿か? 学術のみに頼り、経験の伴わない者の言葉など、なんの意味がある?」
愚鈍にもほどがあると、アンナが冷静な口調で言う。
「リュカと伯父上が貴様をここに連れてきた理由は、市街の現状や喧騒に触れさせないようにするためもあるが、まずはフォルスに似た環境で貴様の心を整えさせ、気を取り直させるためだ。
そのためにはなにかに没頭させたほうがいいと考え、好きに研究をさせることを選択したが、俺はその意見そのものに反対だった。そうすれば貴様はより深みにはまる。自分でも気づいていないだろうが」
「はっ? アンナに俺のなにが分かるっていうんだ?」
「わかるわけがない、俺は貴様ではないからな」
ただと継いだアンナの声色が、やや穏やかなものに変化する。
「伯父上も仰ったかもしれないが、残された者の気持ちはよくわかる。友人の死もそうだが、俺の母は生体移植の目前で亡くなった」
瞠目する。ドン・クリステンの奥さんのこともアルテミオが言っていたけれど、アンナもだったようだ。自分が知らないだけで、割とノルマは異常を来たす人が多いらしい。食事的なものなのか、風土的なものなのかはわからないけれど、“ユーリ”が頼られていたのは、そういうこともあるのかもしれない。
ノルマがアンリ王の血を求めていた理由はなんなのだろう。血を物理的に使うとなると、やっぱり考え得るのは血清しかないけれど、もしかすると、アンリ王が処刑をされたあとに爆発的に流行ったとされる風土病は、血清病だったのではないかと懸念が浮かぶ。
もしそれが原因で、なんらかの理由で時々心臓の弱い人が産まれてくるのだとしたら、それは自業自得ではないのか。本来なら触れてはならないものに触れ、求めてはいけないものを求め、人を苦しめてまで手に入れたそれが、自分たちに牙を剥いているだけではないのか。そんな思いがふつふつとこみ上げてくる。
「それはノルマが“ユーリ”を殺したからで、別に術式が悪いわけじゃない」
「誰もそんなことを言いたいわけではない。
母が亡くなってすぐに、俺は伯父上に引き取られる形でオレガノに移り住んだ。母が亡くなるまで、ずっと俺のそばにいたのは伯父上の補佐官だったが、彼も、伯父上も俺に同じことを言った。『気が済むまで傍にいて、落ち着いたらきちんと別れを告げるように』と。
子どもながらに母の病気のことは理解をしていたし、覚悟はしていたつもりだったが、その覚悟など母の死を目の当たりにすればないに等しい。ただ俺にはそれをきちんと教えてくれる方々がいた。
でも、貴様はそれをしなかっただろう。ずっと傍にいれば後悔や未練が残るという者もいるが、荼毘に伏すまではせめて傍にいるものだ。奴隷だった頃の習慣が根付いているからしなかったというのならそれこそ貴様は大馬鹿だ。もう奴隷ではない。違うか?」
そう言われて、ユーリはアンナから視線を逸らした。
「そんなことをしたところで、気持ちが落ち着いたとは思えない。それにあそこにいたら捕まっていた可能性だってある」
「そんなことを俺や伯父上が許すわけがないだろう。貴様はもっと周りを信用しろ」
「どうやって?」
ぐっとこぶしを握り締め、アンナを睨む。
「信用なんてできるわけない、いつも土壇場で裏切るし、サシャのことだってもとはと言えばピエタが難癖をつけてきたせいじゃないか。あのとき、もしなにもなかったら、頭を打たなかったら、いまは生きていたかもしれない」
自分の目に涙が溢れてくるのに気付いたけれど、止められなかった。
「だけどサシャが無事だったら、もしかしたらミカエラが助からなかったかもしれない。だったらキアーラが悲しむし、彼女にはそんな思いをさせたくなかった。俺たちを収容所から出してくれたのは彼女が友だちと間違えて話しかけてきたことがきっかけだったし、そのあとだってずっと彼女が面倒を見てくれて、栄位クラスにも推薦してくれた。
でも、ミカエラが助かっても、いまは彼女がいない。どこかで生きているかもしれないとは思うけど、そんなのわからないじゃないか」
ユーリはもう涙を拭うこともせず、まっすぐにアンナを見据えるだけだった。
「サシャのことも、ミカエラのことも助けたかったけど、なにも思い浮かばなかったんだ。開頭術の記述だっていくつも見たし、でもどれも術式不適合で死亡という文字しか見当たらない。だったらあれしかないって思って」
「なら何故、後悔をする必要がある?」
アンナに言われ、息をのんだ。でも、いま言葉を飲み込んだら、一生言えない気がして、自分の弱さを押しつぶすようにぐっとこぶしを握り締めた。
「後悔なんてしてない。してないけど、ミカエラを見ていると、サシャがいない現実を突きつけられているようで、でもミカエラの中にはサシャがいるっていう安心感とが綯い交ぜになって、わけがわからなくなるんだ」
「それはおまえが兄との別れをきちんと済まさなかったからだ。だからそれでいいのかと尋ねた」
込み上げてくるものを拭いながら鼻を啜る。
「それに、セラフが悲しむからと、おまえの兄が無事であればよかったと思えないのも違う。
セラフがおまえたちを解放するきっかけになったのは確かかもしれないが、それに対しておまえがセラフに遠慮をするのもどうかと思うぞ。彼女は単純におまえと友人でありたかっただけで、子どもの頃に連れて行かれた友人をおまえに重ね、おまえのことは守りたかったのだと思う。
そもそも准将のことは、おまえたちとは無関係だ。あちらはあちらで諸々と問題が生じていたことは確かなのだが、おまえの兄が無事で、ドナーがいないとなったとしても、それはそれで別の対処方法があったのではないか? それこそ、そこは俺の得意分野だ」
その言葉を受け、反抗的でいて驚いたように顔をあげたユーリは、溢れてくる涙をそのままに感情を吐き出すかのように息を吐いた。
「サシャがいたら、アンナと一緒にもっと別の対処ができたってこと?」
そうだなとアンナがつぶやく。
「現状として、おまえの兄は亡くなり、代わりに准将が生かされた。
けれどそれはおまえがどちらも救いたいと思ったからこその選択なのだろう?
セラフが准将が助かったことを知れば当然喜ぶだろうけれども、おまえが兄を失ったことに対しては悲愴するかもしれない。それが生体移植の現実だ。だからこそオレガノでも術者が少ない背景がある」
それはわかる気がする。自分ではメンタルが弱いなんて思ったことがなかった。でも、これに関しては、よほど肝が据わっていない限り、選択に戸惑う。ひとつのミスが死に直結する。あの時は本当に夢中で、アンナとフレオのサポートがあったとはいえ、よくなにひとつ迷わなかったと自分でも思う。
「先ほども言ったが、俺の母は生体移植を受けることができずに亡くなった。
助かるものだと期待をしたし、術式不適合で亡くなるリスクも説明をされたが、それはそれで仕方がないとも思った。
でも現実は、手術を受ける数日前に先代が連れ去られた。それからは絶望しかなかったが、逆に俺は母が亡くなるまで傍にいられたことも、亡くなったあとも一人で歩く覚悟ができるまで母といられたことも、いまではいい経験だと思っている」
いつもの傲慢な態度でアンナが口元を綻ばせる。それがアンナの強さなのだと痛感した。
逆に自分はいつもサシャに守ってもらってばかりだった。
あの時、自分がサシャからの合図に気付いてさえいれば、あんなことにはならなかったかもしれない。サシャの言うことを聞いて、ノルマと関わらなければ、――。でも、やっぱりその選択は、自分らしくない。そう思うものの、後悔する気持ちが押し寄せてきて、両手で顔を覆った。
「おまえの兄は、おまえが立ち止まることをよしとしたか?」
そんなことはない。たぶん、いつまで燻っているんだと蹴られているだろう。そう思ったら、また涙が零れ落ちた。
手術のことは、たぶん言い訳だ。同族は裏切らないと思い込んでいたことも、“ユーリ”の名前を継いだこともそうだ。それよりも、もっと後悔していることがある。
「サシャの合図に気が付かなかったんだ」
自分の声が涙に濡れている。しゃくりあげるように泣きながら、なんとか言葉を紡ぐ。
泣きすぎて息が詰まる。涙にくれるユーリの耳に、アンナの溜息が聞こえた。
「ずっとそれを後悔していた」
涙声でぼそりと呟く。アンナもまた、「そうだろうな」と誰に言うともなく言った。わしわしと頭を撫でられる。
「おまえの兄もそう言っていた。きっとあそこで昔の名前を呼んでしまったことで、収容所で決めた合図と勘違いさせたかもしれない、とな」
弾かれたように顔をあげる。涙でアンナの表情が見えない。
「いつ?」
「容体が急変する前日だ。あの日はかなり調子がよくて、いろいろと話してくれた」
前日と言われて、更に涙が溢れた。サシャの誕生日だった。ひさびさに一緒に眠って、ふたりともがタオルケットに包まって眠りたい派だから、検診に来たリズに『ミノムシみたい』と笑われた。サシャの穏やかな笑い声を聞いたのは、あの日が最後だ。
「だから迎賓館に押し入った連中は殺された者以外軍部の収容所に捕えてある。
その時に、おまえの悪癖も教えてくれたぞ。
もし、自分の身になにかがあって、ユーリが自分のことを疎かにしてなにかに没頭している様子なら、それは自分の中にあるものを昇華しきれず藻掻いているから、尻を叩いてやってくれ……とな。
その昇華しきれない状態を、自分で気付いていないとも言っていたぞ。自分が我慢をすればすべてが済むと思っている節があるから、それを改めさせてやってほしい、とも。
それに、俺は子どもの頃の体験だが、親族が亡くなり悲しいと思うのは、子どもも大人も関係がない。特におまえの場合は子どもの頃から常に兄と一緒にいたのだし、ノルマとはまた少し感覚が異なっていると思う」
ユーリは鼻を啜り、「じゃあさっさと言えよ」と悪罵を吐いた。アンナが笑う声がする。
「諸々と事後処理で忙しかったんだ。伯父上の身に危険が差し迫っていることからも、なかなか市街から出ることが敵わなくてな」
そう言ったあとで、アンナが顔を覆っているユーリの手を取った。覗き込み、にやりと笑う。
「しかし、俺は子どものころに母を失ってから、自分とは同じ悲しみを人に味わわせないためにと、生体移植を施せる医師になると決めたぞ。貴様はその知識も技術もあるくせに、自分で決めた覚悟を自ら揺るがし泥むことで後悔し、浸っているがいいさ。
器用に立ち振る舞い人を巻き込んで動いていたころの形はすっかり潜んでいるが、貴様のその沈んだ顔を見ているのは実に気分がいい。沈んでおきたければ沈んでいろ、そのたびに存分に尻を蹴ってやる」
ユーリはムッとしてアンナの腕を振り払った。見るなと顔を隠すと、アンナはこんなふうに笑えたのかと思うほど楽しそうに笑うのが聞こえてきた。
「Sig.カンパネッリもリュカも、事情を知りすぎて踏み込めなかったのだろうが、こういう時に無駄な遠慮など却って邪魔になる。
その点俺はおまえを気に入ってはいるが、同情もせず尻を叩ける権利がある。偶然とは雖も、手術に関わらされたのだからな」
確かにと誰に言うともなく呟いて、ユーリは涙を拭った。目の前でどや顔をしているアンナを恨めしそうに見上げると、皮肉そうな笑みを向けられた。
「事が済んだら大学に戻り、きちんとおしゃべりアルヴァンにも礼を言え、粗忽物が」
その表情を見ながら、考える。ドン・クリステンがアンナと自分を接触させたのは、やはり偶然ではないのだろう。ほかのノルマとはどこか違う雰囲気を感じていたのは、そういうことだったのかと納得する。
「サシャ、もう焼かれちゃった?」
そう尋ねると、アンナがあからさまに嫌そうな顔をして溜息を吐いた。
「話を聞いていたのか、貴様は」
そう言ったあとで、アンナははたとなにかに気付いたように眉を顰め、軽く両手を広げて見せた。
「そうだった、文化の違いか。
感染症で亡くなった相手は基本的に火葬されるが、地位のある者や遠方で亡くなった者はエンバーミングという技術で亡くなった当時と同じ状態で保存される。
つまり、おまえの兄もまだ大学に安置されている。当初は保管場所等の問題ですぐに火葬をという話が持ち上がったが、おまえがまだ兄と別れを告げていないことも、『オレガノに恩を売った相手』を許可なく勝手に荼毘に伏せるわけがないということも、俺と伯父上が上に掛け合った」
「あれは恫喝というんだよ、アンナ」
リュカが呆れたような口調で言うのが聞こえてくる。
「知っている。俺はおまえたち貴族とは違い、弱腰の政府にも意見書を突き付けられる立場だからな。だから、すべてが済んだら大学に戻って一度整理を付けろ、いいな」
ユーリはソファーの背もたれに身体を沈め、大きな息を吐いた。
「ひとつ、言っていい?」
これはたぶん、二コラにも、ドン・クリステンにも聞かせられないことだ。アンナにいうとどちらにも伝わる可能性があるけれど、きっとアンナは誰にも言わない。
「俺はノルマが嫌いだ。冗談でもなんでもなく、大嫌いだ」
ぼそりと言うと、そりゃそうだろうとアンナが言った。
「あのような目に遭わされておいて、ノルマを許せると言ったほうが神経がどうかしている」
「二コラも、キアーラも、あんたたちも、みんないい人だし、好きになりたいとは思う。そういう努力はした。
“ユーリ”は頭のいい人だし、平和主義者だから、ノルマに対してあまり嫌悪感がなかったみたいだ。平等に救いたいし、できるなら双方手を取り合って生きるのが理想だと。俺もそう思ってた。
でも現実は違った。ノルマとイル・セーラの考え方も技術も両極端だし、良いところを補い合って生きていくなんて、そうそうできることじゃない。だから“ユーリ”は殺されたし、俺たちも奴隷商人に売られた。
俺は“ユーリ”の名前を継いだ時、彼のようにならなくてはと必死だった。誰にでも平等で、他人を救うために強くなれる人でいなくてはと、そう思ってた」
そこまで言って、心を落ち着けるように呼吸を整える。ユーリの声色にはじわじわと憎悪が乗っていく。
「だけどそうしていくうちに、自分の心と頭に乖離が生じた。
サシャの言うとおり、見て見ぬふりをすればいい、ノルマがどうなろうが関係ない。パンデミアが起こって死ねばいいとすら考えた。“ユーリ”はそうは思わない。だから彼たらんとしてあの人が考えそうなことをやった。結果、サシャは死んだ。つまりは彼であろうとしたことが間違っていたってことになる」
サシャが言っていたように動いていても結果は変わらなかったかもしれないけれど、それを検証するすべはない。
「俺は“ユーリ”の名前を継いだけど、“ユーリ”にはなれないし、あんなふうに振舞えない。
ノルマなんて大嫌いだ。歩み寄りたくもないし、関わりたくもない。死んでしまえばいいって思っていたから、だからこんなことが起きたんじゃないかって、そう考えてしまうんだ」
「おまえは先代ではないし、それでいいのではないか?」
「でも、死ねばいいって思いながらも、助けようとする矛盾にも、モヤモヤする」
「それは徹底的に助けようと動いてきたからこその矛盾なのだろう。
おまえは一つ思い違いをしている。
普通なら、自分を苦しめた相手を『親の名を継いだから』という理由で助けようなどと考えない。それはおまえのなかに生じた迷いがそうさせているだけであって、当初は純粋にスラムの解放を望んでいただけなのだろう?
自分たちとおなじように、劣悪な環境で生きている相手に手を差し伸べたかっただけなのだろう?」
「そうかもしれないけど」
「俺なら許さんぞ。だからオレガノで様々な知識を付け、こちらに戻ってきた。そして母を悪用し、友人を殺した相手を収監した。目的は果たした。
それが自分の生きる目的だったために、それを果たしたいま、なにをするかわからんからとアリオスティ隊に編成されたが、俺にはもうひとつ生きる意味ができた。教えてやろうか?
俺はじきにある方の家を継ぐ。そうしたら、あとはこの国を根本から変えていくことに徹することにした。それが母への、そして友人への手向けでもあるからな」
ユーリはまっすぐにアンナを見上げた。涙に濡れた目ではあるものの、ゆるぎないものだ。
「なんで、そんなふうに切り替えられた?」
ぽつりと尋ねると、アンナはふんと皮肉そうに鼻で笑った。
「言っただろう、俺には生きる意味があると。おまえの生きる意味はなんだ?
そうして泥むことが兄から託されたことなのか?
一族に報いることなのか? もう一度よく考えなおしてみろ」
挑発的な表情だが、嫌な感じはしない。
どうすれば生きる意味を見出せるのか。そんなものは簡単だ。アンナも言っていた。“ユーリ”であろうとしなくてもいい。自分は自分として見ていればいい。
でも、本当にの自分はどんなだっただろうか。それすら忘れてしまった。
長いあいだずっと“ユーリ”の名前を継いだ重圧に耐えてきたつもりだったけれど、いつのまにかそれに飲まれ、押しつぶされそうになっていたのだと気付いた。
そういえばサシャも言っていた。昔は泣いてばかりいて、怖がりで、いつも自分の後ろに隠れていた。人懐っこさもあったけれどそれは本当に小さなころの話で、いつも人の顔色を窺って相手の思うように動いて、我慢ばかりして生きてきた。向こう見ずに動くことがあっても、それは自分の為ではなく誰かを助けようという思いがあるときで、それがないときの自分はどうだったのか、思い出せない。
そういう時はいつもサシャがいた。サシャがこうすればいいと教えてくれて、サシャの言葉をきっかけになにかが動き始めることのほうが多かった。
でもいまはそれがない。結局自分はいつも誰かに助けられていて、一人でなにかをすることなんてできないんじゃないのかと思ったら、また視界が滲む。アンナがやれやれと言わんばかりの声を出した。
「そうだ、そうやって泣き止むまで泣けばいい。無駄に我慢などする必要はない。おまえはもう奴隷でもないし、リュカやこちらの協力者だ。
何度も言われたと思うが、服従する必要などないし、あくまでもフラットな関係を築くためにわざわざウォルナットまで連れてきたんだ。
おまえがどう思っているのかは知らんが、Sig.カンパネッリなど伯父上に逆らってまでおまえを救おうとしたのだ。“あの”Sig.カンパネッリがだぞ。この国が亡びるのではないかと話題になったが、本当に根幹を揺るがす事態が起きたので、Sig.カンパネッリの呪いだと揶揄されていた」
真面目な口調でアンナが言ったのがおかしくて吹き出した。
「なにそれ、見てみたかった」
カオスじゃねえかと笑いながら目を擦ると、アンナが明朗に笑う声がした。
「Sig.カンパネッリが困った顔など初めて見たぞ。どうせ廊下で、『自分にはできないことを俺がやってのけたこと』に対して懊悩しているのだろう。
俺はおまえがかわいそうなどと思ったこともないし、遠慮などする理由もない。庇護欲に駆られどうにか振り向かせたいのかもしれないが、そうしたところで平行線をたどるだけだ」
くっくっとアンナが笑う。
「ただ、いい相棒ではないか。以前俺と伯父上は食事の好みも人の好みも似ていると言ったな。
Sig.カンパネッリは融通の利かなさが玉に瑕ではあるが、じつによく動く。おまえが相棒として使ってやらないのなら、俺がもらうぞ」
言われている意味が分からなかった。涙を拭って鼻を啜る。
「ニコラを抱く趣味でもあんの?」
「たわけ、どういう頭の作りをしているんだ」
自分で言ったあとで、絵面がおもしろすぎて笑えてきた。
「どうせなら融通が利くよう躾け直してきて。それまでに、立ち直る努力をしておく」
泣きすぎて頭が痛い。もう一生分泣いたと思うとぼやいたら、「どうせまたすぐに泣く」とアンナが揶揄した。
***
それからまた部屋にこもった数時間後、部屋のドアがノックされた。
取り合うのが面倒でジジに出てくれとお願いしようとしたが、なにかに気付いたのか、ジジが勢いよくベッドから飛び降りてドアを開けた。ふすふすと鼻を鳴らす様が面白くて顔を上げると、ジジの顔面を掴んでいるミカエラがいた。
「Sig.オルヴェ宛にだが、おまえのもある」
落ちつけと、ミカエラ。ごそごそと体を起こすとミカエラが丁寧に礼をした。
「先日は大変失礼いたしました。
姉上がどうしてもと譲らないので持参致しましたが、もしお口に合わなければジジに食べさせてやってください」
一応全員分あるのはありますがと、ミカエラ。デザートボウルが乗ったトレイをテーブルに置く。ジジがふすふすと鼻を鳴らしながら寄ってくる。
「嗅いだことのないにおい」
「アマレットというリキュールを使用した、オレガノのデザートですが、これはリキュールではないもので代用しています。
これならSig.オルヴェにも馴染みがあるのではと、姉上が」
「お気遣いどうも」
素っ気なく言ってのけ、ベッドから降りてテーブルに近付く。ミカエラが目を瞬かせるのをみて、ユーリは少し不満げに眉間を歪めた。
「なに、その反応。態度が悪かったのは認めるけど、食べ物に罪はない」
「あ、いえ。そのような意味では」
「じゃあ、なに?」
「食べてくださると思わなかったもので」
それはなんの含みもないミカエラの本音だったのだろう。言ったあとですぐに、失礼しましたと頭をさげられる。
トレイを覆うガラスドームをのけるとふわりと甘い香りが漂ってきた。ジジはこれをガラスドームに覆われている状態でも感じるのかと微苦笑を漏らす。
「相変わらずいい嗅覚の持ち主だな」
ジジの鼻を摘む。ジジは期待に胸を膨らませた表情でユーリを見上げ、涎を垂らさん勢いではあはあと息を荒らげている。
「食べていい?」
「ひとつはジジのだろ?」
ユーリが言うと、ジジは勢いよく何度も頷いてデザートボウルを手に取った。
白いゼリー状のそれは、カップをひっくり返したような形で器に盛られ、その上に赤みがかったジャムのようなフルーツソースのようなものがかかっている。上にちょこんと乗っているのはミントと乾燥させたネスラの種だ。それをそのまま手掴みでジジが頬張る。リスのようにもぐもぐ食べる姿にユーリが吹き出した。
「スプーンくらい使えよ」
手ぇベタベタじゃんとナプキンを手渡すが、ジジは手についたフルーツソースをべろりと舐めてまた目を光らせた。
「Sig.オルヴェ、これは食べないと後悔する」
「そこまでかよ」
「オレガノには、これがたくさんある?」
ふすふすと鼻を鳴らしながらジジがミカエラに尋ねる。ミカエラはジジの手を予め用意していたのであろうホットタオルで拭きながら、目元を穏やかに下げた。
「一般的なものではないから、市街に出回っているかはわからない。体力回復のためと暑い日が続いた時に食べるデザートだ」
「俺、これが食べられるならオレガノに行きたい」
マジかと呟きながらスプーンを取り、ベッドに座る。かなり柔らかな感触のそれをスプーンで掬い、少しだけ口に運ぶ。ネスラの少し独特な甘さと風味が口の中に広がる。確かに美味しい。
「え、うまっ」
なにこれ? と素直に言うと、ミカエラがホッとしたような顔になった。
「よかった、さすがは姉上」
「でも、こんなの食べたことないけど」
「オレガノで改良されたものなので、ミクシアに住むイル・セーラには馴染みがないとは言っていました。これの原型はネスラミルクをゼラチンで固めたデザートだそうです」
「あー、なるほど」
それなら確かに食べたことがあると頷く。風邪をひいて伏せったあととか、何日も熱が続いた時に食べさせてもらえた、あの。作り方も、名前もなにも知らないけれど、あれなら食べられそうと言ったのを、アレンジして作ってきてくれたらしい。
ほとんど記憶はないけれど、高熱を出してほとんどなにも食べられなかったときに、アマーリアが膝に乗せてくれて、少しずつ様子を見ながら食べさせてくれた。
あの時の味は、こんなのだったのかと記憶をたどる。そのおかげか徐々に熱が下がって、息苦しさも胸の痛みも取れて、数日ぶりにサシャに会えた時のことが脳裏に浮かんだ。
サシャはいつから泣いていたのか、目が真っ赤で、しばらく離れてくれなかった。自分だけがクロードのところに預けられていたのが寂しかったと言っていたけれど、たぶん違う。
たぶん、あのとき、サシャはもうなにかの事情を知っていたのだと思う。いろいろと確かめようがないけれど、でも、誰がなんと言っても、本当はそうじゃなくても、サシャは自分の大事なきょうだいで、それ以外の何者でもない。
もう一口、スプーンですくって食べる。すんと鼻を啜った時、ネスラのにおいに混じって別のもののにおいがした。
「ミカエラ」
「なんでしょう」
ユーリはミカエラに視線をやって、少し挑発的な笑みを深めた。
「上に乗っているネスラの実を使ったソースは、『ファーザ』の味隠しかァ?」
ファーザというのはカンフル剤のような、スタミナ回復や気力回復に使う珍しい蒸留液だ。ミカエラが急に気まずそうな顔になって、視線を逸らした。悪事がバレたときのような表情だとすぐに悟る。
「すみません、それはわたしが勝手に」
「責めてない。そろそろ、自分でも落ち着かなきゃなと思ってたとこ」
アンナからも尻を叩かれたし、サシャがいたらそろそろ割と本気めにいい加減にしろとキレられる頃合いだ。もう一口それをスプーンで掬い、口に運ぶ。
「ひとつ言っていい?」
ミカエラがはいと頷く。
「ネスラとカナップは最適解だけど、それに例の花の粉末を混ぜたら、薬効変わっちゃうんだよね」
「えっ!?」
ミカエラの驚いたような声は初めて聞いた。にやりと意地悪く目を細める。
「知らなかったでしょ? 俺も知らなかった」
「どういう意味でしょう?」
「トリニタの原型になった花は、フォルスでも一度しか見たことがない。だからその花の薬効は正直ちゃんとわかってないんだけど、ストライキ中に思い出したことがあって。
本来なら父親だけが読める本が地下室の奥にあって、俺はよくそこに忍び込んでそれを読んでいたんだ。古代の文字で書いてあるけど、ちゃんと読めて、意味はわからなかったけどニュアンスと内容だけは覚えている。
カナップはあくまでも『毒』。だからアイソパシーの要領で使用する。まあ厳密に言えば毒じゃないんだけど、その毒にもなる成分を例の花の薬効で打ち消されてしまう。つまりは例の花の最大の特徴はあらゆる毒を打ち消すこと」
「だからアルマに最適であり、取り扱いが難しいということなのですね」
「そ。だから成分分析できないでしょ? あれだけはマージで人智には理解できない仕組みなんだ。だから神の花、王の花、救世主でありある意味で禁忌だと教わっている」
向こうでも有事がないとは限らないから、無駄遣いせず大事に取っとけって伝えといてと、もう一口デザートを口に運んだあとで伝える。ミカエラが意想外な顔をしている。いつもの無表情ではなく、ちゃんと感情が乗っていて、興味深いと言わんばかりの顔だ。
「Sig.オルヴェ、やはり一度オレガノでちゃんとそのお話を聞かせていただけませんか?」
ミカエラの表情は真剣そのものだ。ミカエラに視線をやる。
顔と左胸とを交互に見たあとで目を閉じる。キアーラがミカエラを大学に運ぶよう指示をしたのも、あのときサシャの容体が急変したのも、偶然と言えば偶然だし、そうでないと言えばそうでない。でもどれも現実だ。抗いようがない。そして変えようもない。
いつまでも泥んではいられない。これ以上ぐずぐず言っていたら、きっとサシャが夢現に罵倒しにくる。
こっちだって言いたいことは山ほどある。庇わなくていいのに庇いやがってとか、あれほどせがんだのに昔の名前を呼ばなかったくせにいざという時には呼びやがってとか、ずっとそばにいると言ったくせに急にいなくなりやがってとか。
それこそ罵倒し合うぐらいに言いたいことを言い合えていたら、こんなに後悔しなかったのかもしれない。
もう二度と、同じ轍を踏みたくない。
アスラが言っていたように、至福者の丘から身を投げた赤い目をした同族の祝福が、自分たちを引き合わせてくれたのだとしたら、――。
「ねえ」
ユーリが声をかけたからか、ミカエラが不思議そうな顔をする。
「ちょっとだけ、触ってもいい?」
ミカエラが頷く。ユーリはデザートボウルをテーブルに戻して、近付いてきたミカエラの左胸に手を当てた。目を閉じて、息を吐く。
これは、同族といえども話してはいけないとユーリが言っていたことだ。一族の者でも、ユーリと、自分と、サシャだけの秘密。それをミカエラに話すのは掟破りかもしれないけれど、半分はサシャで、半分はミカエラだ。その観点から言えば、詭弁だけれども『一族だ』とも言える。それはあくまでもミカエラがオレガノ本国の誰にも話さないことを前提として、だけれども。
「これは独り言だから、聞いたら忘れて」
オレガノの誰にも言っちゃだめ。俺と、あんたとの秘密とミカエラに告げる。目を閉じているからミカエラの表情は見えないが、聞いたこともないようなとても穏やかな声で、はいと返事をした。
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