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Fourteen

 翌日になって、チェリオはアンナから西側の土壌調査についての説明をされた。ユーリではないらしい。相変わらずユーリの姿は見えない。アレクシスが煩わしそうに眉を顰めている。 「ユーリが、西側に入るなら温泉水を持っていけと言っていた。特別仕様らしい」  言って、ロレンに借りているメルキセデックの瓶を指さす。西側を出たら、必ず地下街の温泉がある場所で身体を清めるように。それが無理なら、北側の駐屯地で、ラカエルとテヴィを別の部屋に隔離したあとで部屋に入れとも言っていたと、アンナが淡々とした口調で告げる。 「なにかの装置が設置されている可能性が高いから、専門家を連れていけ……と言っていたが、これは却下した。アレクシス、Sig.カンパネッリ、どちらかがいれば問題ないだろう」 「そりゃあ、普通のプロヴィーサなら問題ないっすけど」 「俺もそちらなら、ある程度は」 「ユーリ連れて行ったほうが早くね?」 「それは許可ができない。ドン・フィオーレからも言われている。あれはいますべての薬物から遠ざけて、いわゆる“薬抜き”中だ」  不用意に物を与えないようにと、アンナ。野生動物かよと真顔で突っ込んだら、アレクシスが吹き出した。 「アンナちゃーん、着いてきてくれません? それか、ほかにプロヴィーサに精通している人貸してくださいよー」  アレクシスが間延びした口調で言う。アンナは鬱陶しそうな表情をそのままに、「報告は以上だ」と、レザーファイルを閉じた。 「生憎と、その手の専門家は別任務中だ。それからミカ……いや、准将はやはりこちらでユーリを見張れとのことだ。もしも下流層街での様なことが起きた際に、同族のほうが対処がしやすい」  ミカエラは不審そうな視線をアンナとアレクシスに向け、口元に手を当てた。 「どういうことでしょう?」 「聞いていないのか?」 「ベアトリスが言っていただろ」  アンナと違い、アレクシスはあからさまにごまかすような表情だ。ミカエラは少し考えるようなしぐさのあとで顔をあげた。 「見張れというのは、行動を監視しろという意味ですか?」 「それかい」  アレクシスが突っ込む。 「ドン・フィオーレから、本人が“勝手に飲んでいた薬”も没収したし、リュカには研究室も使わせるな、近隣の雑草すら採らせるなと指示されている。だから今まで以上に離脱症状が顕著に表れることになる可能性がある上に、アスラが持ち込んだ“アレ”、本人曰く『史上最高に体調が悪い』そうだ」  ミカエラが驚いたような顔をした。 「そんなはずは。あれはイル・セーラにとって万能薬だと伝わっていますが」 「でも本人が言うのだからそうなのだろう。まあ、そのおかげで本音をぶちまけて、散々泣きわめいて、多少は落ち着いたようだがな。泣き止むまで付き合ってやったが、そのまま泣き疲れて寝るなどという、ガキのようなことをしていた」 「Sig.ジェンマ、いくらなんでも口外しないでやって頂きたい」 「まあ、それだけ鬱屈した気持ちがあったということだ。そういう時には身内や事情を知っている者よりも、他人のほうがぶつけられることもある。  俺とて母の時には伯父上や当時の補佐官に世話になったが、一番世話になったのはドン・フィオーレだからな」  アンナが言うと、アレクシスがほおと声を上げた。 「あの人、本当に面倒見いいっすね」 「そういう性分なんだ。だから今回はしくじるわけにはいかない。あの人の首がかかっているからな。存外に強かだから、“どういえば相手が動くか”をよく知っている。  政府は軍医団二部に自分たちの息がかかったものを入れたがっているのを逆手に取り、吠え面をかかせようとしているんだ」 「うへっ、穏やかそうに見えてそっちかよ」 「あのドン・ナズマの上司なのだから、普通ではないさ。表向き伯父上が軍医団の指揮を執っていることになっているが、指揮系統が変わった途端に事が動き始めたのはこういうことだ。  伯父上がすべての根回しをして外堀を固め、ドン・フィオーレとドン・ナズマが動く。彼らは昔からそうだ。チェスの手の打ち方でも非常にいやらしいぞ。手に覚えのあるものは、今度挑んでみるといい。返り討ちにされる」  アレクシスがこわーっとわざとらしい声を上げる。ではなと素っ気なく言って、アンナがゲストハウスを出て行った。ミカエラはまだ何かを考えているらしい。 「どうしたんだよ、なにか引っ掛かることでもあったか?」 「そういうわけではないが」  静かに言ったあと、ミカエラがアレクシスに視線をやった。 「姉上がアレクシスのことをサシャと呼んだときに、Sig.オルヴェの視線がものすごく痛かったのだが、カーマの丸薬の作用がまだ残っている際に“特定のワード”を聞いたり“トラウマを抉るような事象”が生じると、神経系統を支配されて特にダメージを受けている部分に支障をきたす。だから体調が悪いと仰ったのでは?」 「あれってそんなやばい薬なのか?」 「ベアトリスが『オレガノではリナーシェン・ドク以外の調合が認められていない』と言ったはずだぞ。  わたしも調合方法は知らないが、興味本位でドラッグに変化させる際に用いる薬草や薬品を調査したことがある。それに“インクーバ”という薬品が使われていたとしたら、サシャという名前と、フォルスや収容所に関する情報を想起すればするほど、体調や気分に問題を来たすことになる。  インクーバとは悪夢と踊るという由来があり、その名の通り、抜けきるまで何度も悪夢を繰り返し、神経をすり減らし、姉上も仰っていたように、やがて身も心も衰弱して死に至ることから自然死や病死に見せかけた暗殺にも使用される」 「いや、なんでそんなヤベえこと知ってんだよ?」 「興味があったのでベアトリスに教えてもらった」 「ダメなやつじゃねえか! あのクソプロエリム、倫理観すっ飛びすぎだろ!」  アレクシスが吠えるのを、二コラがまあまあと苦笑しながら宥める。二コラは本当に巻き込まれ体質だ。  ユーリがそのヤバい薬をもらったのがフォルスに行ったあとだと言っていたから、やっぱり地下街に入る前にスパッツァが遺体を食っていたのがトラウマを想起したんじゃないかと思う。そりゃああんなのを見た日には、普通の生活をしているやつらはえぐくて夢に出てきそうだ。  上から足音が聞こえてきた。ユーリだ。ユーリは折り返し階段を降り切ったところで、リビングにチェリオたちがいるのに一瞥を投げ、すぐにふいっと視線を逸らした。 「西側の調査、アンナからも聞いたと思うけど、温泉水は絶対に持って行って。あと、ガスマスクは西側を出るまで絶対に外さないこと。  できればゴーグルもつけて、調査は一時間以内には撤収含めて終えるって約束して。あと、ネスラの種を使った毒消しの服用も忘れないこと」  そう言って、ふらふらとキッチンに入って行く。  珍しく二コラが声を掛けない。見上げると気まずそうな表情で眉間をつまんでいるのが見えた。 「アレは拗ねているぞ」  ぼそりと言う。 「拗ねてねえわ」  すぐさまユーリの鋭い声がした。聞こえていたらしい。キッチンから冷蔵庫を開ける音がした。がさがさとなにかを漁る音がしたあとで、ドアが閉まる。ふらふらとユーリがキッチンから出てきたところで、ミカエラがあっと声を上げた。 「Sig.オルヴェ、それもいけません」 「なんでだよっ!? 野菜くらい食わせろ!」 「それのどこが野菜ですか、蒸留水を作ればそれが胃腸薬代わりになることくらい知っていますからね」  没収ですと言って、ミカエラがユーリからそれを奪い取る。ユーリが恨めしそうにミカエラを睨んで、舌打ちをした。ユーリもユーリだけど、ミカエラもミカエラだと思う。互いにマニアックな知識を披露し合っているけれど、ドン・フィオーレがなぜミカエラにユーリを見張れと言ったのかが分かったような気がした。 「死ぬほど胃が痛いんだっ」 「でしたらあとでお白湯をお持ちします。薬効の高いものは摂取厳禁です」 「全部爆弾女が悪いっ」  ユーリが唸るように言った時だ。アレクシスがヤバいと思ったのかミカエラの腕を引いたが、不思議そうにアレクシスを見た。 「どうした?」 「い、いや」 「Sig.オルヴェ、姉上にはお帰りの際にしっかりと言い含めておきました。わたしの言うことをよく理解しておられないご様子でしたが、本国で彼女が最も苦手とする相手に手紙を認めておいたので、本国に戻ったらこんこんと説教をされるはずです。  イザヤもカシェルも、彼女には甘すぎる。そもそもわたしの意見は聞いてくださらないので、もう彼女に頼るほかありません」  アレクシスがものすごく意外そうな顔をして、するりとミカエラの腕から手を離す。ぽかんとしているのがわかる。 「え、あれ、ミカちゃん。なんかヘンなもんでも食った?」 「なぜ?」 「ミカがアスラの文句を言われてキレないのが珍しいなって思って」  ミカエラの表情は変わらない。別に怒っているのを隠しているわけでもなさそうだ。 「あの人は空気を読まないどころか、世の中はすべて善人しかいないという認識でいらっしゃる。Sig.オルヴェから悪感情を懐かれても仕方のない言い方をしていたし、わたしも正直あの言い方はどうかと思った。  だからお送りする道中に事情も含めお伝えしたが、あの顔はわかっておられない。爆弾女も、地雷発生装置も同意する」  彼女の精神世界はどこか別のところにあるに違いないと、ミカエラが言う。  ミカエラの姉ちゃんはそんなにヤベえやつなのかと思う。一目見て見たかったけれど、アンナ曰くミカエラの髪を長くして、目元を穏やかにしただけで、あとはほぼ同じらしい。小柄でふわふわしていると二コラも言っていた。 「俺はあやうく毒殺されるのかと思った」  ぼそりとユーリが言う。 「そういえば、正規の解毒薬を用いても、おまえには全く効果がなかったな」  なにかを思い出したように二コラが口を開く。 「正規の解毒薬?」 「コーサのアジトで、違法薬物を摂取させられただろう? あのときに、ドン・フィオーレとドン・ナズマがこれなら効果があるのではと持ってきてくださったものがある。まだその薬が使用禁止になる前に、解毒薬として調合されていたものだと仰っていたが、効果が出るどころか悪化したのでざわついたんだ」  タリスムという定石薬だと二コラが言った。ユーリがタリスムと口の中で呟いて、ミカエラを見た。 「知ってる?」 「いえ、さすがにそれは」 「聞いたことはある気がするけど。薬物代謝で臓器に影響が出るとかで、使用中止されたってやつ?」 「確かそうだ。調合方法もなにを使用するのかも教えて頂けなかったが」  ユーリがふうんとだけ言って、なにかを振り払うように頭を振るった。 「あー、だめだ。考えたら目が回る。ミカエラ、大人しくしとくから部屋に持ってきて」 「わかりました。ブラインドを下ろして、目元を隠して寝られるといいですよ」 「わかってる。ご配慮どうも」  そう言って、ユーリがふらふらと階段を上がっていった。嫌に大人しい。そう思ったのは二コラも同じだったようだ。不安げに二階を覗き込んでいる。 「Sig.ベルダンディ、窓の鍵は掛けてありますか?」 「もちろん。縄梯子も没収しました」 「アレは絶対になにかを企んでいる」 「マジすか、普通にあの離脱症状がしんどいだけかと思ったっすけど」  アレクシスが言いおえるよりも早く、チェリオと二コラが同時に「企んでいる」と食い気味に言った。

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