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Two(6)
あれから何度イかされたのか、まったく記憶にない。綺麗に体を清められ、ソファーに横たわらされている。散々情事に耽ったあのソファーにだ。
目が覚めた時、二コラが真剣な表情のままでナザリオたちとなにかの打ち合わせをしているのが見えた。ユーリはさきほどまで自分に睦言を紡いでいた二コラの心地よい低さの声を聞きながら、ずんと腹の奥が重くなるのを感じた。ここは研究室で、ナザリオたちもいる。切り替えろと自分を叱責して、もぞもぞと体を動かした。
「あ、ユーリが起きた」
リズの声がしたかと思うと、こちらに駆け寄ってくる。なにを言われるのかと思っていたら、リズが手にしている丸めた冊子で勢いよくユーリの頭を叩いた。
「おいっ」
「いつまで寝てるんだ、寝坊助」
言って、リズがもう一度ユーリの頭を叩く。これは絶対に何度かやられたなと思いながらも頭を擦る。
「エルン村の報告書がまだだって、政府がお怒りらしいよ」
エルン村と言われて、ユーリは怪訝そうに眉を顰めた。その表情で察したのか、リズが大袈裟に肩を竦めてみせた。
「いくらユーリが杜撰で明け透けな性格だからって、仕事までもがそうだとは思ってほしくないね」
同チームとしても、友人としてもと、リズがまるで牽制するかのように言う。
「その報告書は、帰ってきてすぐに纏めて上に提出した」
言いながらユーリが体を起こす。散々イかされたせいか若干足腰に甘いしびれが残っているような気がするが、力が入らずに崩れ落ちるようなことはなさそうだ。
「じゃあどこかの手違いで届いていないのかも。エルン村でアルマの初期症状を抑制した薬の詳細を教えろって、政府がせっついてきているらしい」
ユーリはすぐそばのソファーの背もたれに身体を預けているサシャに視線をやった。サシャもユーリに視線を向けてくる。面倒くさそうな表情で軽く頭を掻いて、わざとらしく肩を竦めてみせる。
「ちゃんと提出したよな?」
ユーリが問うと、サシャが頷いた。
「俺とユーリとが連名で署名して軍医団に提出している。薬の詳細は従来通りのものを使っただけだ。ほかに特別なことはなにもしていない」
サシャの言葉にユーリが同意する。今度は二コラが困ったような表情で頭を掻いた。
「俺もそう伝えたのだが、軍部には肝心の書類がないそうだ。政府はおまえたちが大人しく従わないのなら、罰を与えることも辞さないと言っているらしい」
「マジかよ? なんで正式な手続きを踏んで治療した挙句にそんなこと言われなきゃいけないんだ」
ふざけんなとユーリが息巻く。リズもまた納得していないような表情だ。
ユーリはその時のことを思い出そうと記憶の糸を手繰る。
――エルン村。ミクシア郊外の辺鄙な場所にある小さな村で、妙な感染症が流行っているのだと大学に連絡が入った。ユーリとサシャは疫学を専門にしていることもあり、その正体を探るために派遣されたのだ。そのときに発生していたのは、何年も前にミクシアで発生し猛威を振るった“アルマ”という流行病によく似た症状で、念のために持参していた薬品でどうにか症状が治まった。一週間ほど滞在して村人の状態や感染者の変異を観察したが、ほとんど改善傾向にあり特変が見られなかったことも軍部に報告してあるはずだ。そのことが“なかったこと”にされるなど、横暴でしかない。
ユーリは研究室の入り口付近にたたずんでいるナザリオに視線をやった。
「なあ、政府はあんたになんて言ったんだ?」
ユーリがナザリオと普通に会話を試みたからだろう。リズが素っ頓狂な声を上げた。
「嘘だろ、どうしちゃったんだよ!?」
「状況から鑑みるに政府の意見書を持ってきたのはナザリオだろ?」
「そうだけど! いやそうだけどさ!」
で? と、ユーリが話の続きをナザリオに促す。ナザリオは軽く頷いて、研究室の中央にあるデスクに近づき、そこに置かれた書類をトントンと指で叩いた。
「軍医団からの正式な召喚状です。いまセラフィマ嬢が事の詳細を確認しに行っていますが、ユーリとサシャが提出したと言っている書類は誰も目にしていない、報告も聞いていないとの返答でした」
ユーリはふうんと訝しげにつぶやいて、口元に手を宛がった。サシャに視線をやる。サシャは首を横に振って関わるなという意を示す。少しの間黙っていたサシャだったが、すっくと立ちあがり、ユーリの傍にやってきた。
「アルマの初期症状を抑えるために使用したのは、定石通りフェルマペネムだった。そうだよな?」
念を押すかのようなサシャの問いに、ユーリは素直に頷いた。フェルマペネムは軍から指示された時のみ使用できる薬品だ。ユーリたちが勝手にどうこうできる代物ではない。だからこそ軍医団に報告書を提出したというのに、それ自体がないというのがおかしい。許可を得なければ手に入らないものを、どうやって手に入れるというのか。そう考えて、ぴんときた。
ユーリはもう一度サシャに視線をやった。ユーリの視線の意味に気づいたのか、サシャの眉間にしわが寄る。言いたいことはわかる。ユーリはサシャに視線をぶつけたままで口を開いた。
「俺たちが使用したフェルマペネムは、”どこからきたのか”」
サシャの眼光が鋭くなった。それを見たユーリは満足そうに笑みを深め、ナザリオに視線を向ける。
「さすがに話が早い」
ナザリオが表情を綻ばせ、話の続きを促すように手で合図をしてきた。
「軍部から許可を得て持って行ったに決まっている。そのときの証明書もあるし、許可証だって」
「それはサシャを通じて上層部に確認させましたが、彼らの答えは『偽造文書だ』と」
サシャを見やる。サシャはうんざりしたような表情で膝を抱えている。
「偽造もなにも、キアーラのサインだって入っているのに」
「馬鹿にしているにもほどがある」と、聞いたことのないような低い声でサシャが言う。サシャはソファーの背もたれに身体を預けたままで苛立ったようにスラングを吐き捨てた。
「だいたい、虫が良すぎるんだ。俺とユーリが疫学を専攻していると雖もまだ学生の身分なのだから、その分野の権威や軍医団が派遣されるのが筋ではないのか?」
珍しく声を荒らげてサシャが言う。サシャの言い分は尤もだ。エルン村に赴く際、サシャは最後まで反対していた。
「その命令が覆されないようにと許可証までもらったのに、この手のひら返しはなんなんだ」
「お怒りは尤もです。いま上とセラフィマ嬢を通じて再度状況の確認と、書類の確認をさせていますが、政府の姿勢は変わらずです」
サシャが溜息を吐く。焦れたように靴で床を鳴らし、舌打ちをする。
「だから俺は関わるのが嫌だったんだ。ノルマはいつもそうだ」
「ナザリオやニコラに当たったってどうしようもないだろ。落ち着けよ」
「これが落ち着いていられるか、従わないのなら“国外追放”だぞ」
ユーリは国外追放と口の中で呟いて、首を斜めに傾けた。言われていることが分からないという表情のユーリに、サシャが「要はミクシアを出ていかせて体よく厄介払いをしたいんだ」と唸るように言った。きょとんとする。ミクシアを出ていったところで、なんの不都合があるのだろうかと考える。
「それって、家に帰ってもいいってこと?」
ユーリが尋ねると、サシャがばかと詰るように言った。
「国外追放だと言っただろう。フォルスはミクシアの一部、フォルスでもどこでもない、別の国に行けと言うことだ」
ユーリはようやく意味が分かったと言わんばかりに目を丸くしてほおと言ったが、事の重大さを理解していないことをサシャは見抜いているようだ。大きな溜息を吐いて、がりがりと頭を掻く。
「リズ、やはりユーリはバカだ」
「ほら言ったろ、絶対に理解しないって」
「旅行でも行けるのか程度にしか考えてないよ、このど阿呆」はとリズが継ぐ。さすがのユーリもムッとしたようにリズに視線をやった。
「ミクシアで過ごさなくていいってことは、国外に行けるっていうことだろ?」
サシャが溜息を吐いて、説明するのも面倒だと唸った。
「だからさあ、国外追放ってことは、どっか別の国で過ごしなさいよって意味じゃなくて、追放なんだよ。わかる? よその国で過ごすための許可証も下りないの。つまりはミクシアを出て、どっか別の国で居住権も得られずに放浪しなきゃいけないってこと」
代わりにリズが説明してくれるが、ユーリはいまいち的を射ていないような表情だ。リズはいつも冗談めかして説明をする節があるため、真相を確かめるためにナザリオに視線を向ける。ナザリオもそのやりとりを聞いてユーリの視線の意味に気づいたようだ。
「亡命ならばオレガノ、エスペリ、パドヴァン、若しくはカルド・シェルタあたりへの居住権を得て移住することは可能ですが、国外追放なので居住権を得ることは適わず、またミクシアを追放となると栄位クラスからも除名、つまり医師免許もはく奪されることになります」
マジかとユーリが誰に言うともなくつぶやく。けれどまだきちんと理解していないのか、サシャとは違って深刻そうな表情ではない。
「パドヴァンあたりなら簡単に居住権くれそうじゃん」
「ミクシアとの関係性を考えたら、難しいでしょうね」
「そうかな? 風土病を抑えるとか、こないだ本で読んだパドヴァン特有の病気の研究をさせてくれって申し込んだら、案外受け入れてくれそうな気ぃすんだけど」
そこまで言った時、サシャからとんでもない殺気がこもった、射るような視線を向けられていることに気付いた。えへっとわざとらしく笑ってみせる。
「なんでおまえはそういうところにすぐに首を突っ込みたがるんだっ」
「だってミクシアを出て行けって言われたら、ほかに行ける選択肢なんてパドヴァンしかないじゃん。それならフォルスにも近いし、別にいいかなって」
「よくないだろう、なにを考えているんだ、どたわけ」
サシャの語気が強まるとともに、徐々に増してくるノルマへの嫌悪感に気付く。サシャは自分と違って、昔からノルマを嫌っている。“ユーリ”はあれだけフラットな考えの持ち主だったというのに、なぜかサシャにはその性格が微塵も反映していない。おなじ嫌味を言われるとしても、イル・セーラに言われたときとノルマに言われた時では、後者のほうがはるかに嫌そうな顔をする。いまは落ち着いているけれど、子どもの頃はユーリよりもサシャのほうがけんかっ早くて、収容所にいたネーヴェ族とイル・セーラのダブルの子どもとよくぶつかっていたのを思い出す。
なぜそうなったのかをユーリはまったく覚えていないが、彼がこちらに寄ってくるとサシャは必ずのように彼を追い払っていた。暴言を吐くことも、それこそ暴力に訴えることすらあった。いまのサシャの目は、そのときの憎悪すら入り混じった、絶対に許容できないと物語っている嫌悪の目に似ている。ここでふざけて知らないふりをして通すのは得策ではないと悟る。たとえサシャから怒られてもだ。
「国外追放をされたくなければと脅しをかけ、それを引き合いに出して俺たちになにかをさせたいんだろう、政府は」
ユーリの言葉に、ナザリオが肩を竦めてみせる。
「お察しの通り。先ほど貴方が言っていたように、エルン村で使用したフェルマペネムはどこから来たのか――というのが問題視されているのです」
「だからそれは許可を得て手に入れたと何度も」
サシャが焦れたように言ったが、ユーリがそれを制した。
「政府は俺たちが勝手に代替品を作っているのではないかと踏んだ……ってことか。イル・セーラ古来の技術で」
ナザリオがそうですと頷いた。サシャは眉間にしわを寄せたまま首を横に振る。
「それは俺たちにはどうすることもできない。重要な資料はすべて焼かれたうえ、代替医療の権威たちを殺したのはノルマだろう。俺もユーリも収容されたときにまだ10歳にも満たなかったんだ。覚えているわけがない」
サシャが言うと、ナザリオは複雑そうな表情を浮かべて両手を広げた。
「“覚えている”ことと“知っている”ことは同義ではありませんよね」
サシャが舌打ちをする。どうやらナザリオは“なにかを知っている”ようだ。サシャがなにかを隠していることを察して、揺さぶりをかけている。そう踏んで、ユーリは楽しそうに口元を綻ばせ、サシャがいるソファーへと移動した。
「つか、フェルマペネムの代替品って作れんの? だったら薬学の権威が作ればいいじゃん、軍部にいるガブなんとかっていうエリートとか作れそうじゃない?」
「ガブリエーレ卿のことか?」
「そうそう、その人。俺が最初に提唱したとき、その人だけは真っ先に同意をしてくれたって聞いた」
あっけらかんとした口調で言った時、サシャに勢いよく蹴られた。サシャを見やる。唇の動きで『どたわけ』と言ったのが分かった。
「提唱をしたということは、方法を知っているということになりますが」
「それは知らねえなァ。可能性の話を論文に認めただけ。まあ“ユーリから”聞いたことくらいはあるかもしれないけど、ノルマがそれをどの薬品名で呼んでいるかまでは理解できていないし、そもそも知っていたとして肝心の材料がない」
材料とナザリオが口の中で反芻する。
「そう、材料」
サシャにもう一度蹴られた。かと思うとサシャが身体を起こし、勢いよくソファーの背もたれに身体を沈められる。
「いい加減にしろ。そんなものは夢物語だ。“ユーリ”が再現方法を残していない以上、存在しないも同義だ」
語気を強めてサシャが言う。サシャの言い分が分からないわけではない。政府に、いや、ノルマに協力するつもりはないしあくまでもなにも知らない体でいろと言いたいのだろう。なにも知らないふりをしていたほうが身のためだというのがサシャの口癖でもある。ユーリはサシャを上目遣いで見て、口元を綻ばせた。
「なに熱くなってんの? サシャが知らないものを俺が知るわけねえじゃん」
収容所に連れていかれた時、ユーリはまだ6歳にも満たない年齢だった。そのことを鑑みても知らない、覚えていないというセリフは信憑性があるものの、普段のユーリの言動からするとそれはブラフではないかと疑われても仕方がない。本当のことを言っただけと発言するユーリを見て、ナザリオと二コラが顔を見合わせた。
「場を混乱させるようなことを言うな、たわけ」
サシャが低い声で言う。ユーリの胸倉から手を放して、空いた個所に乱暴に腰を下ろす。怒るなってと苦笑しながら言って、ユーリはサシャにじゃれるように近づいたが、こっちに来るなともう一度強く蹴られた。
「ユーリ、サシャ。本当にふたりとも、詳細を知らないんだな?」
二コラが尋ねてくる。ユーリは素直に頷いた。フェルマペネムがアルマに対する特効薬だとは知っていても、それがどう作られているのかまでは知らないのだ。「そもそも資料すらない」とサシャが荒い口調で言ってのける。関わりたくないが故の詭弁ではない。本当に知らないのだ。
「ナザリオ、なんとか国外追放を免れる方法はないのか?」
二コラが真剣な口調で問うが、ナザリオは首を横に振るだけだ。
「政府はユーリとサシャが首を縦に振らないのならば、事情はどうあれ国外追放を、と。白を切っているわけではないのなら、こちらも相応に働きかけますが」
言って、ユーリに視線を向けてくる。ユーリは肩を竦めて知らないと強調した。「そんなのおかしいよ」とリズが声を荒らげる。
「おかしいのは承知の上です。ですがいまのところ、俺たちではどうすることもできないんですよ。貴族院や軍部のみが関わっているのならば、ディアンジェロ家の威光でなんとかなるかもしれませんが、そこに政府と司法まで関わるとなると、あとは王家のみが口を出せる状況で」
「王家ねぇ」とユーリがつぶやく。このまま何もせずに罰せられるなど冗談じゃない。サシャに詰られることを覚悟で、ユーリが口を開いた。
「俺は知らないけど、可能性は“知っている”かもなァ」
サシャに勢いよく足を踏まれた。いってと大袈裟に痛がるユーリをよそに、サシャが首を横に振る。
「“可能性”なんて、単なる幻想だろう。理論上破綻している。数字なんてただのリスクだ」
「そうかァ? 俺は十分ロマンを感じるけどね」
「余計なことに首を突っ込むな」とサシャが強い口調で言う。怒りをあらわにするサシャを見やり、ユーリは不満げに唇を尖らせた。
「だってさァ。せっかく収容所から出られたのに、これ以上なにをされるかわからないような状況に身を置きたくないじゃん」
「それはそうだけど、安全だという保証はない」
ぴしゃりとサシャがはねつける。そういうと思っていた。
「してくれるよなァ? いや、するように交渉してくれるだろ?」
なァ、ナザリオと、ユーリ。拒否権はない。拒否する余地もないとでも言いたげな表情だ。ナザリオは二コラに視線を向けた後で静かにうなずいた。
「まずあなた方ふたりの絶対的な身の安全に関しては絶対条件だとセラフィマ嬢が交渉してくださっています」
ユーリは口元だけでにっと笑ってみせた。
「国外追放なんてありえないけど、フェルマペネムを作れなんてのはもっとありえない。資料も材料もないのに造れるわけがない、どたわけって言っておいて」
「ついでにパニーノの角に頭ぶつけて死ねって付け加えて」と、ユーリ。ナザリオが苦笑を漏らす。
「そもあのフェルマペネムは本当に軍部からもらってきたものなんだから、それを“俺たちが作ったものにすり替えた”だなんて、バカげているにもほどがある。
俺もサシャも方法を知らないし、覚えていない。“ユーリ”が再現方法を残さなかったのは、材料の取り扱いが面倒くさいか、希少価値が高いか、大穴で『偶然の産物だったか』」
「嘘だろ」とリズが驚きの声を上げる。けれどサシャがどこか気まずそうに眉間をつまんだのを見て、リズが更に「そんなんアリかよ」と目を丸くさせた。
「“ユーリ”はそういう人なんだ。とにかくこいつと似ている。仕事はちゃんとするけど、どっか抜けていて、本当に偶然特効薬ができたけれど、どの肯定でどう間違ってできたのかとかを覚えていないことが多い」
「よく研究室で嘆いていた」とサシャが言う。
「だからサシャと“ユーリ”から、レシピはちゃんと作るように、工程を書くようにって、子どものころから口を酸っぱくして言われているってわけよ」
だから俺が作るものはほぼほぼレシピが残っているというと、サシャから睨まれた。ほぼほぼに引っかかったのだろうとすぐにわかる。
「秘密裏になにかをしていると?」
「してない。実験段階のものは書いていないだけ」
「だからそれをやめろと言っているんだ、“ユーリ”もそうやってフェルマペネムの調合法を書き残さなかったのだろうし、仮に書き残していたとして、論文形式ではないことから、あの人にしかわからない。
そもそもあの人はアルマの特効薬だけでなく、食中毒菌に有用な薬効を発見しておきながら、その薬効を発揮する調合法を書き残していなかったうえに興奮しすぎて忘れるというあの人らしい失敗をして、報奨金をもらいそこねたってずっと言っていたんだぞ」
「え、ユーリとおんなじことしてるじゃん」
リズが呆れたような声色で突っ込んでくる。
「あーあ―言わないでっ、本当に言わないでっ。俺の500リタスっ」
「生体組織の超音波吸収の測定結果がおもしろすぎて期限に間に合わなかったことを思い出させないで」とユーリが耳を塞ぐ。
「そういうわけで、フェルマペネム本体の作成は絶対に無理だ。聞きたければオレガノにでも聞けばいい」
サシャが素っ気ない態度で言ってのける。
「オレガノに尋ねたところで、教えてくれるわけがないでしょう」
「じゃあ無理だな。仮に“ユーリ”が殴り書きでも書き残していたとしても、有用な資料をすべて燃やしたのはノルマだろう」
「もう俺たちを巻き込まないでくれ」と、サシャが憎悪を孕んだ視線を向けて言う。
「そうそう、本体の作成は絶対に無理。それもだけど、フェルマペネムの代替品を俺たちでは作れないっていう証明をしておかないとな」
「証明もなにも」
「そこまでしないと政府は納得しないだろ。むしろずっと疑われたままでいたい?」
サシャが眉間にしわを寄せ、首を横に振る。ユーリは悪戯っぽく笑って、大丈夫とサシャにしかわからない言語で小声で言った。
「証明には時間がかかる。だから時間が欲しいと追加交渉してもらえないか? 2週間、いや、3週間は要る」
「3週間、ですか?」
「それと、フォルスの遺構への入構許可を出してほしい。さすがにあそこに行ってなにも成果がなきゃ、俺たちにはどうすることもできないくらい馬鹿でもわかる。それでわからなきゃ政府の連中は本当にただのくそ野郎ってことが分かるけどな。
で、どのくらいで用意できる?」
「フォルス、ですか? それは聊か」
「難しいって? こっちだって政府の無理難題に付き合ってやるんだ、そのくらいはしてもらえないと困る。あァ、安心していい。サシャをこっちに残しておけば、俺が一人で逃げるなんてありえないだろ」
そもそも逃げる理由がないとユーリが継ぐ。
「実家に戻ったことをきっかけになにかを思い出すかもしれないし、もしかすると“ユーリ”が書き残したものが見つかるかもしれないしなァ」
ユーリは収容所に入れられる少し前から収容後数年間の記憶がすっぽりと抜け落ちている。特に収容所に入る前の記憶は幼いがゆえに正確とは言えないが、とはいえ“ユーリ”がいないいま、それはかなり貴重なものだ。政府はそれを引き合いに出されると弱いことをユーリはよく知っている。収容所にいた頃、“ユーリ”を死なせたことを後悔しているという政府や軍部の要人たちのセリフをよく耳にしていた。同時に、サシャとユーリが“ユーリ”の子どもとわかってからは、極端に扱いが変わった。たった一人のイル・セーラがいなくなったことで、ミクシアの死亡率があがったというのだから、当時の軍医団はなにをしているのだと相当に責められただろうと推測する。
ナザリオは少しの間難しい表情をしていたが、ふうと息をついた後でユーリを見上げた。
「フォルスの遺構への警護は俺がやります」
「それはどうも。で、何日で出せる?」
それとも何週間もかかる? とユーリが試すような口調で問う。
「遅くて明日の昼、早くて今日の夜までには」
意想外なナザリオの答えに、ユーリはひゅうと口笛を吹いた。正式な手続きを踏めば通常なら1週間以上要するからだ。ナザリオはキャップを目深にかぶると、上に交渉してきますと言い残して研究室を後にした。
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