57 / 108
Ten(2)
リュカとの面会を終えたあと、ユーリはかなり広々とした部屋に通された。
わりと広めの窓があり、嵌め込み格子がついているわけでもなく、ちゃんと開くようだ。窓の外には森や畑、湖が見える。アンティーク調の家具がいくつも置かれ、明らかに高級そうなラグが敷かれている。このうえは土足で乗ってはいけないのだろうかとか、壁に設置されているステンドグラス風のランプを触って壊したら弁償しなければいけないのだろうかとか、諸々考える。
この部屋を自由に使っていいと言われたけれど、広い部屋に一人でいることも、なんとなく落ち着かない。そわそわしながら部屋を行ったり来たりしていると、部屋のドアがノックされた。
入ってきたのはミカエラだった。アレクシスも続いて入ってくる。部屋の入り口付近にある大きなワゴンに数冊の本を置き、ミカエラが『お役に立つかわかりませんが、オレガノの薬草図鑑と調合用の辞典です』と言って丁寧に礼をして部屋をあとにしようとする。ユーリはねえと呼び止めた。表情こそ変わらないが、瞬きの数が増える。多少なりとも驚いているらしい。
「ここ使っていいって言われても、暇なんだけど」
話し相手もいないしとぼそぼそと告げる。「ベアトリスを連れてきてもらえないか」と言うと、ミカエラがアレクシスを見上げた。
「申し訳ありません、ベアトリスはアレクシスの命によりミクシア市街に戻っています。明日まででしたら、わたしでよければ」
じゃああんたでいいやと言いながら、ベッドに突っ伏す。かなりふかふかだ。こんなに肌触りのいい寝具が使われたベッドに寝るのは、二コラの家に泊まったとき以来かもしれない。
「本当は、同族ってこともあっていろいろ話したいことがあったんだけど、最終的に処刑されるって決めていたから、懐くのも、懐かれるのももどかしいなって思って、意地を張った。ごめんな」
ユーリが素直に謝ったからだろう。ミカエラが目を見開いた。言われている意味が理解できないと言わんばかりにアレクシスを見る。アレクシスが困ったように笑いながら頭を掻いた。
「ミカも本当はちゃんと話したかったらしいぞ。牽制されているのが分かって踏み込まなかったんだと」
ミカエラは姿勢よく立っている。「ずっと突っ立ってるつもりかよ」と揶揄すると、そわそわしながら椅子を引き出してそれに座った。ピンと背筋が伸びている。緊張しているというよりも、なにか言いたいことがあるようだ。
「なに?」
ユーリが問うたからだろう。ミカエラはまたアレクシスを見た。「言えばいい」と呆れたような表情でアレクシスが促す。
「あ、あの」
やがて、ミカエラがなにか逡巡するように声をかけてきた。
「身の上話になりますが、ぼくには7歳と2歳離れた兄がいました」
一人称がぼくになっている。意外と子供らしい一面があるのかと思い、ユーリの目元が緩んだ。
「7歳上の兄は、アレクシスがお伝えした通り、8年前に他界しました。2歳上の兄はぼくが生まれて間もない頃に行方不明になり、写真でしか見たことがありません。その写真の兄が、その、あなたに似ていて」
ユーリはきょとんとした。俺に? と問うと、アレクシスも頷いた。
「そうなんだよな、マジでそっくり。行方不明って所見にはなっているけど、釈然としなくてさ」
オレガノはオレガノできなくせえ時期があったのよとぼやくように言う。
「なので、レオナ兄上が生きていたら、あなたのようだったのかなと思ってしまい、緊張していました」
ユーリはふうんと言いながらミカエラを見た。さきほどまではリュカもいたせいか軍人の顔だったが、いまは年齢相応の顔をしている。ほんのすこしだけれど表情に感情が乗っている。ユーリはなんともつかない感情を飲み込んで、ふうと息を吐いた。
自分の名前は、イル・セーラにとってある意味禁忌で、ある意味救世主となる花と同じ名前だ。そうそう同じ名前がいるわけがない。出自を気にしたこともなかったし、“ユーリ”の過去も少しも知らないけれど、もしかすると、あの日サシャに尋ねたように、自分が“ユーリ”の名を継ぐことになったのは、この名前を隠すためだったのではないかという疑問は、やはり疑問の域を越えてしまうのではないかという懸念に襲われた。
「その名前の由来って、知ってる?」
ミカエラが首を横に振った。アレクシスに振る。アレクシスもまた眉根を下げて肩を竦めた。
「俺はレミエラの世話係だったから、彼が生まれた時のことはあまり知らないんだよな」
ユーリは「そう」とだけ言って、ベッドの上で伸びをした。
「珍しい名前だから、聞いてみただけ」
「単純に獅子座だからだと思ってた。日にちまでは知らないけど」
ミカもだよなとアレクシスが言うと、ミカエラが頷いた。
「ぼくは7月27日生まれです」
「マジか、俺もだ」
「嘘だろ、どんだけシンクロするんだよ」
怖すぎんだろとアレクシス。
「まさか嫌いな食べ物とかも同じだったりする?」
アレクシスが冗談めかして聞いてきた。ミカエラが視線をさまよわせる。ユーリはベッドの上で少し上半身を起こして、頬杖を突いた。
「ミカエラ、嫌いなものとかあるの?」
「軍隊ってなんでも食べなきゃいけないイメージだ」と足をぱたぱた動かしながら言うと、アレクシスが意地悪く笑った。
「ひよこ豆のペーストが食べられなくて、アレヴィ大元帥に呆れられた話でもするか?」
マジかとユーリが声を弾ませた。
「リズ以外の仲間がいた!」
「ひよこ豆アンチ同盟!」と好奇心あふれる顔でユーリが言うと、アレクシスが笑った。
「さすがにそこまで一緒だと気味悪いな。たしかにひよこ豆はオレガノではあまりメジャーではないし、かといってアンチ同盟つくるほどのものでもねえだろ」
「ノルマはみんな言うんだ。チェリオたちからも散々揶揄われたけど、無理なものは無理。
でもひとつだけ朗報。ひよこ豆はリンゴと一緒にポタージュにしたら食べられる、シナモン増し増しで」
地下街にいた時にパメラが作ってくれたけど、あれはひよこ豆って気付かないくらいおいしかったと告げると、ミカエラがあからさまに嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「ひよこ豆とリンゴ……ですか? なにやら取り合わせが悪いような」
「俺はあれならひよこ豆もギリ食べられる」
そう言ってみたが、ミカエラは気乗りしなさそうだ。どうやらユーリ以上のひよこ豆嫌いらしい。
「リンゴは単体で食べたいので遠慮しておきます」と、ミカエラ。初めて相違点があった。
「じゃあ好きな食べ物は? 俺はシナモンとリンゴがあれば生きていける」
「アップルパイとシナモンケーキがあったら最高」と言うと、アレクシスから「お菓子ばっかじゃねえか」と突っ込まれたけれど、収容所にいた頃に馴染みのゲストから差し入れてもらえるそれが唯一の楽しみだった。ミカエラは少し考えるように口元に手を当てた。
「考えたことがありませんでした。子どもの頃から軍部に所属していたので、供給されるものは食べるのが当たり前でしたので。
実家よりも軍部での食事のほうが量が多く、食べきれずに困った記憶しかありません」
意外だった。ミカエラはわりと大事に育てられていたように思えたからだ。ユーリが思ったことに気付いたのか、アレクシスが肩を竦める。
「まあいろいろあって、陛下の方針で5歳くらいからオレガノ軍に所属している」
「陛下?」
ユーリはその言葉を聞き逃さなかった。アレクシスがやべっと口を塞いだ。こうもわかりやすくて何故特殊部隊を率いているのかと呆れてしまう。
「陛下ってなんだよ?」
アレクシスが面倒くさそうに舌打ちをした。
「聞き逃せよ、耳聡い野郎だな。
どうせわかるだろうから言っておくが、ミカはオレガノ王家の嫡男だ。
オレガノの仕来り的に、有事の際は王族も前線に出ることになっている。イル・セーラ、ファロ族、ネーヴェ族のそれぞれの王族同士の決定事項で、守るべきは血筋よりも人民だからだ。
それで、本来ならレミエラ、レオナと来たら、三男のミカが継承権1位なんだけど、ファロ族とネーヴェ族の柔軟さを見習って女性も継承権を得ることになった。つまり、ミカの双子の姉であるアスラも継承権1位にいて、どちらが家を継ぐかは未定なんだ。
つか、どっちかっていったら陛下はミカにもアスラにも継がせたくなさそうなんだよな。だから小さい頃から軍部に入って鍛えに鍛え抜かれた結果、ミカは手の付けようがない暴れん坊に育ち、アスラは超絶偏執的な学者に育ったってわけ」
「姉上は偏執的ではない。少し行き過ぎているだけだ」
「あれは世の中では偏執的っていうんだぞ、ミカちゃん」
ミカエラがじろりとアレクシスを睨むが、いつものやり取りのようだ。まるで気にするそぶりがない。
「ミカエラはオレガノの王族で、王様の子どもってことは……次の国王になる可能性があるってこと?」
アレクシスがそうだと言わんばかりに両手を軽く広げて見せた。
「だから本来はこんなところにいる立場じゃないんだ……って言いたいところだけど、オレガノは陛下も王妃陛下もまあファンキーで自由な方々だから、その時期が来るまでは様々なことを学べっていう教育方針だから、志願すればミクシアに来ることも可能ってわけだ。
さすがに今回のことでお咎めはあるかもしれないけどな。撤退するのが遅すぎたんだ」
「一旦はミクシアの指示に従っておかなければ、あとでどのように言われるかわからないからな。部隊に所属して日の浅い隊員は早々に撤退させただろう」
「いや、一番先に撤退すべきはおまえだ、バカ」
「優先順位を考えろ」と言われ、ミカエラは言われている意味が分からないという顔をした。
「有事の際にはオレガノではああする。総員撤退したことを確認の上で退避しなくては、逃げ遅れた隊員がいては困るだろう」
「有事は有事でも、ミクシアの有事で、オレガノの有事じゃない。そこを履き違えるな」
「アレクシスは同行していなかったのか?」
不思議に思って尋ねると、アレクシスがそうなんだよと言って困ったような顔をした。
「やけにきな臭い感じがしたんだ。俺もミカも共倒れになったら困ると思って、俺は別同部隊を指揮していた。したら、ミカの引きが良すぎてあたりを引いちまったってわけ」
マジで焦ったわとうんざりしたような顔でアレクシスが言う。
ミカエラはやはり釈然としていないようだ。まるで少し拗ねたように眉間にしわを寄せた。
「おまえその線引きがちゃんとできなかったら、継承権はアスラにってこっちから伝えるからな」
教育間違えたか? とアレクシスが言う。アレクシスは二コラよろしく心配性の過保護と見た。ミカエラの本音をすべて理解しているわけではないらしい。
「あんたはミカエラが即位したほうが都合がいいのか?」
そう尋ねると、アレクシスが言い淀んだ。珍しく複雑そうな顔をしている。
「あー、まあ、オレガノじゃねえからいっか」
そう言って、アレクシスはふうと小さく息を吐いて、肩を竦めた。
「正直、俺もアスラにもミカにも即位してほしくない。レミエラが死んだのは偶然だと思うけど、レオナの件はあまりにも不自然すぎる。オレガノは有事が起きることを前提に諸々訓練をしていることもあり、なにがあっても対応できるとは思う。それだけの人員もいれば、あらゆる想定もしている。
でも想定と現実は違う。軍事演習では判断ミスをしたこともなかったミカが、上官に従うべきか否か躊躇したことで退避する判断が遅れた。
オレガノでの有事の際、判断すべきは当主だ。当主の躊躇のせいで国民が死ぬことにつながらないとも限らない。もしこれがオレガノでの有事だったら、ミカは詰んでいた」
わかるだろ? と、アレクシスが念を押すように言う。ミカエラは少しの間視線をさまよわせていたが、いつもの表情にすり替えた。
「ならば姉上が即位することのないよう、もう少し人心を学ばなくては」
アレクシスが呆れたような顔をして天を仰いだ。だめだと呟く。
「ミカエラにとって、オレガノもミクシアもないし、イル・セーラもノルマもないって思ったからこその判断だったのでは?」
ユーリが言うと、アレクシスがあからさまに嫌そうな顔をした。
「それじゃ困るんだ」
「困らんだろ、オレガノは多国籍国家で、様々な国の住人が往来するのなら、有事の際にノルマがいたら、ノルマは自国民じゃないからと守らなくていいのか、っていうことになる」
「守らなくていいんだよ、オレガノが守るのはイル・セーラ、ファロ族、ネーヴェ族のみ。有事の際にほかがどうなろうが知ったことじゃねえ。渡航規約にそう書いてある」
「移住者も守らなくていいのか?」
そういう問題じゃなくてと、アレクシスが焦れたように言ったが、ミカエラはどこか意想外な顔をしているように見えるのは、ユーリのセリフが自分の考えと似ている為なのだろうと悟る。
「渡航規約とかはようわからんけど、そういう気持ちでいたらガチの有事の際に躊躇することになるし、どのノルマが自国民なのか、渡航者なのかの判断がつかずに時間をロスするくらいなら、一人でも多くの死傷者を出さないようにするっていうのがミカエラの考えなんじゃ?
あんたが言っているのはオレガノが提唱する原理なのだろうけど、それはミカエラにとっての心意じゃない」
「レミエラもそういう考えで、同族を救出しに行こうとして死んだ。だからそれは最適解ではない」
なるほどと、ユーリ。そういうことかと笑いながら体を起こした。
「だからオレガノは100年以上どことも戦争をしていないってことなんだな」
よくわかったと声を弾ませる。アレクシスとミカエラが意図を理解できない顔をした。
「要するに、国民は王族を、王族は国民を死なせたくないから、国力を付けてどこからも侵略されない国になったってこと。
戦争は地の利を制するものと、資源がある国が勝つって書物にあったし、正直興味ないから流し見くらいしかしなかったけど、アンナが言っていたように薬草を市民が自由に使ってよかったりとか、基礎的な知識を習得することを義務付けられているとか、それが相互を守るってことなのかなって思ったんだ。
フォルスは比較的のどかな場所だったし、戦争とか紛争とは無縁でみんな平和ボケしてたからな。だから踏み込まれたときに誰も応戦できなかった。戦い方も知らなかったし、イノシシを打つための猟銃くらいしかなかった」
「そういう考えをしたことがなかったな」
確かにとミカエラも頷く。
「オレガノって興味なかったけど、そういう国なんだったら行ってみてもいいかなァ。
いろんな知識を得たいし、オレガノの薬草も見てみたい」
ぐっと伸びをしながら言うと、ふたりが顔を見合わせているのが見えた。眠くなってきた。ごそごそとベッドの上を移動する。
「解決したら、ぜひ一度オレガノへ。色々とご案内しますよ」
「あんまり人が多いところはパス。ただでさえ銀髪のイル・セーラは珍しいのに、人が多いところに行ったら諸々聞かれて面倒くさそう」
言いながらベッドの端までやってきて、椅子に座っているミカエラに少し前に出るように言う。椅子ごとミカエラが少し前に出てくる。だめだ、眠い。昨日ほとんど眠れなかったせいか、思いのたけをぶちまけてスッキリしたせいか、思考がぼやける。
「どうされました?」
ユーリが椅子に座ったままのミカエラの身体に凭れ掛かったからか、ミカエラの動揺したような声が聞こえた。
「ちょっとでいいから、こうさせて」
考えないようにはしていたけれど、やっぱりサシャといるみたいで安心する。ミカエラの体温と、鼓動を感じる。力強く、規則正しく打っている心臓の音を聞いていると一気に緊張が解れていく。朦朧とする意識の中で落ち着く体勢に変えながら、うとうとと微睡んだ。
***
ロレンやラカエルたちは全員無事だった。
ウォルナットという小さな街に連れてこられ、屋敷の一室に集められた。どうやらあのあとミカエラともうひとりのイル・セーラがベニーの処置をしてくれ、事なきを得たようだ。ロレンやファリスが口々に話してくれる。
アレクシスというミカエラの腹心以外は話がわかるとロレンがいう。彼は柔軟なようでいてそうではないし、ミカエラを色眼鏡で見ると殺すぞオーラを出してくると、ファリスとネイロがいう。ユーリと同じ顔だからと狙うなよと釘を刺した。ミカエラは銃の扱いだけでなく肉弾戦もいけるから、アゴ砕かれるぞと継いだら、ファリスが驚いたような顔をした。
「そんな強えのか、あの坊ちゃん」
「マジやべえぞ。おっかねえってなんの。コスタ隊のデブいんじゃん、いっつも偉そうにしてやがった、あの。あいつを一撃でオトした」
しかも相手銃持ってんのにと、チェリオ。ロレンがどこか気まずそうに目を細め、首を横に振った。
「まあ、俺が尾行に気付かない上に、あの至近距離でも銃を奪うことすらできねえ迫力だったからな」
たぶん俺らじゃ誰も勝てねえぞとロレンが言った。
ドアがノックされ、ミカエラが顔を覗かせた。チェリオだけ別の部屋に来るよう指示される。最早逆らうつもりはない。はいはいと軽く言って、ミカエラの後を追った。
連れてこられたのは倉庫のような部屋だ。工具や機材が置かれている。チェリオが辺りを見渡すと、ミカエラが話しかけてきた。
「蒸留装置の部品を作れたりはするか?」
「そりゃあ、見本があれば。なきゃ無理だな。仕組みを理解するのに時間がかかる」
そうかとミカエラが言う。声色にも、表情にも変化がないから全く読めない。顔はユーリと同じでも、全くの別人だ。あのころころと変わる表情が懐かしく思える。
「なあ、ユーリは?」
「Sig.オルヴェなら眠っている。よほど神経が張り詰めた状態だったのだろう。昨日から起きない」
「昨日から!?」
チェリオが思わず声をあげた。寝穢いと思ってはいたけれど、次の日の夕方でもなお寝ているとか、呆れてしまう。「ずっとちゃんと寝てなかったからな」とチェリオがぼやく。
「彼は天然のひとたらしだな」
どういうこと? と問うと、故郷の話をしていたら急に表情が眠そうになってきて、自分に抱き着いたまま眠ってしまったとミカエラが言う。5分ほど待ったけれど起きる気配がなかったのでそのまま寝かせたら、まだ起きてこないのだと。チェリオは呆れたようにマジかよと言った。
「それでうっかりときめいたのか?」
あいつ取り入るのうまいから気を付けろよと揶揄するように言ったら、ミカエラが白けた表情を浮かべているのが見えた。
「ときめくとは?」
「ユーリのことを手に入れたいとか、自分のものにしたいとか」
ミカエラは少し視線をさまよわせたが、「そんな不埒な感情はない」と言ってのけ、取り合わないとばかりになにかの捜索を始めて、目的のものと思われる機材を取り出した。地下室にあった蒸留装置と似たもののようだ。
「これと、あとそこにある電極が付いた装置を上に運んでもらえるか?」
そりゃいいけどと言って、蒸留装置を持ち上げる。ミカエラがきょとんとしたのが分かった。
「なんだよ?」
ミカエラが少し首を傾げ、重くはないのか? と尋ねてきた。一緒に持ってくれるつもりだったらしい。チェリオはふんと鼻で笑った。
「俺はほかよりちょっと力が強いらしい。ユーリがタイタン族の末裔なんじゃないかって冗談で言っていたけど」
れっきとしたノルマだっつのと言ったあとで、チェリオはそう言えば自分の出自を聞いたことが一度もないことを思い出した。よく考えたら、ロレンとも髪の色も目の色も違う。ミカエラがずいっと顔を寄せてきた。
まじまじと顔を見られる。あまりに近すぎて、本当にユーリに見つめられているような気分になってきた。ごくりと喉を鳴らしたが、ミカエラは何食わぬ顔で鼻がくっつきそうなほど近くにいる。本当に綺麗な顔をしているというのに、ユーリ以上に凶暴のうえ乱暴で手を出そうものなら強烈な一発をお見舞いされるのだろうとわかっているからこそ自制しているのいうのに、どうやらミカエラはユーリ以上にこの手のことに関して無防備らしい。襲われた経験がないのか、強すぎて襲われることがないと思っているのか。
いいにおいがする。ユーリとはまた違う甘い香りだ。少しよこしまな思いがよぎった時、ミカエラがすっと離れていった。
「確かに他のノルマ族よりも髪や目の色素が薄い。体躯のバランスから見た手足の大きさも、タイタン族の特徴に酷似している」
「おまえも神話とかよく読むのか?」
「神話? タイタン族は実在しているし、プロエリム族のように、なにかを代償に他人よりも優れた能力を持つ者もいる。Sig.オズヴァルドがそうだろう」
「オズヴァルド……って、エリゼか。あいつもそうなのか。倫理観と協調性皆無だもんな」
けらけらと笑っていると、ふと気配がした。横にエリゼがいる。ぎゃあっと大声をあげた。
「協調性なんてものは羊が持つものなので、俺には必要ありません」
「急に現れんなよっ」
「准将殿、ガブリエーレ卿がお呼びです。研究室にお越しください」
ミカエラはチェリオに蒸留装置を上の部屋に運んでおいてくれと告げ、部屋を後にした。エリゼの視線が痛い。
「俺はプロエリムですが、幸いにしてなにも欠けていません。そりゃあ多少ノルマとは考え方が異なる部分があるかもしれませんが、本当になにかを代償にしているプロエリムは、痛みを感じなかったり、ブレーキがぶっこわれていたりします。戦闘になると敵味方の区別がつかなかったり、食う寝る出すの三大欲求のみに支配されているやつとか、自分の興味を優先してさらりと毒を盛ってみたりとか」
「そういうの、サイコパスって言わねえ?」
「近しいものがあります。奴隷だったころのイル・セーラと同じですよ。薬で意志を奪い、洗脳する。俺はそういう手法よりも前に作られた暗殺要員ですからね。どこかの誰かさんとは違って、知性も理性もあります」
どこかの誰かさん? と言いかけた時だ。部屋の外からすごい音がした。慌てて廊下に出ると、見たこともないガキがミカエラに踏まれてじたばたしているのが見えた。
「ジジ!」
エリゼが苛立ったように言って、すぐさまジジと呼んだガキの首根っこを掴んだ。
「やたらと人を襲うな」
ジジがミカエラを指してぼそぼそと言う。エリゼは呆れたような表情で、ミカエラに頭を下げた。
「申し訳ありません、准将殿。どうも自分よりも強そうな相手を見ると突っかかっていってしまい。アレクシスにぎたんぎたんにされたせいか、戦闘パターンを勉強したいようです」
「アレは容赦がないからな。ウェイトもないし、リーチもない。わたしやアレクシスの戦法を学んだところで身につかないからやめておいたほうがいい。素直に暗器や毒を使う戦法に切り替えるのも手の内だぞ」
それならベアトリスに教えてもらえと、ミカエラがクールに言ってのける。エリゼがジジとなにかを話している。やりとりするときのエリゼの表情がころころと変わっておもしろい。エリゼが焦れたように舌打ちをして、ジジの顔面を思いきり床に叩きつけた。
「大丈夫なのか、それは」
「構いません、言うことを聞かない犬の躾です。准将殿、もし今後こいつが襲ってくるようなことがあれば、本気でやって頂いて構いませんので」
エリゼの腕を振り払って、ジジが体を起こした。またミカエラを指さしてなにかを言っている。指をさすなとエリゼが注意をしたが、無視だ。きらきらと目を輝かせて立ち上がると、勢いよくミカエラに向かっていった。まさに電光石火だ。この距離なら避けられないと思ったのか、ポケットから獲物を取り出そうとする。
「おい!」
チェリオが声をかけるよりも早く、ミカエラはポケットに手がかかっているジジの腕を取り、足を払っていとも簡単に床に捻じ伏せた。うつぶせに転がされ、じたじたとジジが暴れる。
「Sig.オズヴァルド、リーチが足りないから何度やっても同じだと伝えてくれないか」
エリゼがジジに告げるが、ジジはまた目をらんらんと輝かせている。ふすふすと鼻息を荒くして、ミカエラに捻じ伏せられた状態でさっき自分がミカエラにやられたことを反芻するように体を動かして、頷く。そうかと思うと身体を反転させ、その状態からミカエラに蹴りを繰り出そうとしたが、いとも簡単にかわされた。反動で立ち上がり、次の攻撃に転じようとした時だ。ミカエラが長いリーチを活かしてジジの後頭部を掴み、そのまま床に叩きつけた。建物が揺れる。さすがのジジも失神したのかピクリとも動かない。ミカエラは体を起こしたあとで、はっとした顔をした。
「申し訳ありません、戦闘能力が高い分、知性と教養が皆無でして」
「さっき言ってた、食う、寝る、出すのやつか」
「面倒なんですよ、こいつ。こないだまで俺に執着していて、そのあとはアレクシス。でもアレクシスにはそりゃもう血まみれになる勢いでやられたせいか、あいつには二度と手を出そうとはしません。ファリスやキルシェの戦闘相手になればいいって言ったら、こいつなんて言ったと思います? 『獲物は自分の体格に見合ったものを襲う』ですよ。どこがだって話ですよね」
庭のひよこでも襲っとれとエリゼが突っ込む。いや、聞いてないだろとチェリオが苦笑した。
ミカエラが少しムッとしていうような気がした。表情は変わらないのだろうけれど、なんとなくそんなふうに思えた。
「もしかして、アレクシスに比べたら背が低いの気にしてんのか?」
ニヤリと笑いながら言ってやる。エリゼから挑発するなと注意されたが、別に挑発したつもりはない。
ミカエラはすんとしているが、きっと図星だ。
「少なくともおまえほど小さくはない」
そう言って、ミカエラはリュカに指定された研究室へと歩いて行った。やっぱり図星だったようだ。ぶふっと笑うと、エリゼから背中を叩かれた。
「やめてくださいよ、あの人本当に怖い人なんですから」
「そうかあ? おまえとかナザリオよりマシだろ」
「ユーリと同じ顔だからと言って舐めた態度を取らないように。立場のある方ですし、それを抜きにしても、そもそも俺たちが本来顔を合わせられるような方じゃないんですよ」
ふうんと言って、チェリオはミカエラの背中を見つめた。立場がありそうな感じなのはわかるけれど、まだ青臭い感じがする。
「まあ隙がなさすぎて怖いってのはわかるけど、あいつ現場に出た時以外絶対に無防備だぞ。自分が性的な対象にされると思ってないやつ」
「あー……それは以前隊長も言っていた気がする。オレガノ軍はたぶん見慣れていることもあるのだろうし、立場もある方だからそういう対象では見ないだろうけど、ミクシア軍はわからないからってことで駐屯地を分けたし、諸々配慮したんですよ、あれでも。
あの方、ああ見えて朝むちゃくちゃ弱いので、寝起きに遭遇するとぼーーーーーーっとしていますからね。なのに会議になるとちゃんとしているので、そのギャップに庇護欲が生じるって」
「寝起き最悪なの? ユーリもじゃん。あいつ独寝できないのか、気を遣ってひとりにしても大体近くまで来てるし、寝起き最悪でマジで起きないし、起こしにきた相手を布団に引き摺り込もうとするから、ある意味ミカエラよりタチ悪いかも」
「だから常にサシャと寝ていたっていう証言が多いのか。フォルスではどうだったから知らないけど、収容所ではひとりでいると狙われるから固まって寝ていたっていってましたもんね」
じゃあ誰かに犠牲になってもらうかとエリゼが言う。チェリオは勢いよく手を挙げた。
「俺やる! 俺ならあいつの色香にも惑わされない」
そう言いかけて、語尾が尻窄まりになる。エリゼの無言の笑顔に気圧されたからだ。無言なのにあからさまな殺気が込められていて、あまりの迫力にごくりと喉がなる。
「構いませんけど、本人はまったくその気も自覚もありませんが、本来なら彼は軍部預かりの身です。居住区以外に出ることもそうですが、不同意性行は即刻収監対象です。
ユーリが本気で嫌がったときに手を出さずにいられる自信があるのなら、どうぞ」
明らかな威嚇だ。ユーリがあれこれ喋ったということはないだろうけれど、エリゼなりの牽制なのだと悟る。そんな自信はない。むしろ本気で嫌がられたら興奮する自信ならある。
「そんなシチュエーション来たら迷わず犯すわ」
無理だなと興奮で鼻息を荒くして言ったら、エリゼの笑みが深まった。
「ドン・クリステンの飼い犬と雖も遠慮なく収監しますからね。俺のご主人様は彼ではありませんので」
エリゼの目が笑っていない。これは選択を誤ったかとおもう。ドン・クリステンではなく、エリゼとおなじ相手に飼われていたほうが無難だったのではないかと感じつつ、チェリオは「向こうから誘ってこない限り手ぇださねえって」と明らかに嘘くさい言い訳と共に愛想笑いをした。
ともだちにシェアしよう!

