84 / 108

Fourteen(5)

 地下通路の中はいやに熱く、おまけにガスマスクをしているというのに喉に違和感を覚えるほどの空気の悪さだった。ジジが頭を押さえて気分が悪そうに蹲った。 「ジジ、上でSig.エーベルヴァインと待機しておけ」  嫌だと言わんばかりに首を横に振ったが、二コラから地上に出るよう促される。しぶしぶといった表情で外に出るジジの背中を見送って、チェリオは二コラを見上げた。 「おまえ、案外優しいとこあんのな」 「彼はまだ子どもだし、プロエリムなら俺たちよりも鼻が利く。ガスマスクをしていてもこの不快な感じは彼には酷だろう」  暴れ出されても困るというセリフに、心底納得した。  ユーリの指示に従って地下通路を進んでいく。当初の計画ではこのあたりで通路を掘るのをやめる予定だったのだろうと分かるような雰囲気の場所に出た。けれどもその奥に通路が続いているようだ。頑丈な鉄格子に道が阻まれているが、この程度のピッキングなどお手の物だ。  バックパックから針金の束を取り出して、ピッキングをする。二コラの呆れたような声がするが、もう慣れた。 「正攻法ならここで詰んでんだからな」 「まだなにも言っていないだろう」 「言っとくけどピッキングで人の家からものを盗んだことはないぞ。逃げ道を作るのに、普段閉鎖されている場所を開けるのに覚えたんだ」  二コラはなにも言わない。不思議に思い顔をあげると、やれやれと言わんばかりの露骨な表情で溜息を吐かれた。 「誤解をさせたのなら謝る。そちらの生き方を否定するつもりはない。  自分たちに情報が入らないだけで、限られた手段を用いて生き延びようとする人が多い現実に戸惑っただけだ」  嫌味でのなんでもない、意外にも周りを顧みる能力のある人間のセリフだ。チェリオは目を瞬かせた。  狡猾じゃなきゃ地下街で生きていくことなど不可能だ。  スラム街は長い間、ドン・コスタ隊とドン・パーチェ隊が支配していた。スカリア隊もその一部だ。  彼らは度々デリテ街の住人をリンチしていたし、虫の居所が悪いと罪のでっち上げをしたり、殺さぬ程度の傷を付けて弱っていくのを楽しんでいた。売人から押収した薬物をスラム街の住人に高値で売りつける者すらいたのだ。彼らから逃げるために子どもたちはピッキングを覚えたし、他人の顔色を見ることに慣れてしまった。ひどい奴はドン・コスタ隊に尻尾を振って、自分が気に入らない相手の犯罪をでっちあげるようなのもいた。  チェリオは逃げ足だけは早いから、ピエタに追われても大体は逃げ切れる。  でも一度だけピエタに捕まったことがある。それがアリオスティ隊のエリゼだった。  最初はアリオスティ隊ともなんとも知らずに、やけに見た目が可愛いガキがうろちょろしているなくらいにしか思わなかった。私服だったこともあり新たに東側にぶち込まれたか、そうでなきゃ誰かに着いてきてはぐれたか。  初めてエリゼを見た時、『なにも知らない』子どもだと感じた。それは悪いことを企むやつらも同じだったらしい。そういう“無垢な子ども”にいろいろと仕込んで、地下街の娼館で働かせようと目論む男たちに声を掛けられて、裏路地に連れて行かれる現場を目撃した。  だから、コーサに知られると後々が面倒だからと助けに行ってやろうとしたら、屈強な男たち5,6人が声も出さずにのされていた。瞠目するチェリオを見つけた、ただひとりだけ意識があった奴が、『あいつが指示した』と切羽詰まったように叫んだせいで、エリゼとめくるめく鬼ごっこが始まった。  あの時は壮絶だったなと邂逅する。壁を駆け上がって別の地区に逃げたら、大体は捕まらない。ホッとしていたのもつかの間、エリゼも簡単に壁を越えてきて、逃げ足だけならだれにも負けないと思っていたのに、30分ほど逃げ回ってようやく地下街に逃げ込めると思ったら、息をあげているチェリオとは異なり、涼しい顔をしたエリゼに取っ捕まった。  あのチェリオが捕まったとデリテ街の連中は騒然となったものの、エリゼが涼しい顔をして「鬼ごっこ楽しかった」と言って去ってしまったものだから、周りからは新顔の子どもと遊んであげているくらいに思われたらしい。  ただ、問題はそのあとだ。ドン・コスタ隊でもドン・パーチェ隊でもないピエタがスラム街に降りてきた。そのなかに、『あいつ』がいたのだ。チェリオが捕まったところを見ていた住人たちは当然エリゼをヤバい奴認定するし、そこから『アリオスティ隊はやばい』『絶対に関わるな』という暗黙の了解がうまれた。  アリオスティ隊が初めてスラム街に降りてきたときに、わいろを受け取らず、犯罪のもみ消しもしない、とんでもなく真っ当な奴らが来たと話題になった。ただそれはスラム街のーー特にデリテ街の生き方そのものを否定されたような気がして、みんなアリオスティ隊には特に辛辣だったけれど、彼らは犯罪のでっち上げもしなければ揺さぶりもしない。女性と子どもには優しいし、犯罪をにおわせるような現場を目撃されさえしなければ別に害がなかった。  虫の居所が悪いからとスラム街の住人に当たるようなピエタを確保したのを見た時、正直に言って目を疑った。アリオスティ隊はそれを絶対に許さなかったし、エルが地下通路に入るためにピッキングをしていた現場を見つかったときには収監されるかと思ったが、逆にエリゼがどうすればスムーズに開けられるかを教えてくれ、あとでナザリオにむちゃくちゃ怒られていたと聞いて、ひそかにエリゼには興味を懐いていた。  その興味が行き過ぎた。銃の密売をする男の情報を聞きつけ、エリゼが張り込みをしていた時、チェリオもまたエリゼとスヴェンの様子を遠目に眺めていたのだが、大体のピエタは気付かずにいるというのに、エリゼはいやに敏感で、壁を駆け上がって逃げる間もなくあっと言う間に捻じ伏せられたのだ。二度目だ。向こうも向こうで様子を窺っているのがチェリオだとは気付いていなかったらしく、捕まえたあとで『先日はどうも』と笑顔で言われた。  そしておもしろいことに、エリゼは捕獲したチェリオをすぐに収監だなんだとは言わなかった。ドン・パーチェ隊やドン・コスタ隊なら、デリテ街の連中がなにかを探っていると分かるや否や即収監対象か、情報を持っていそうなやつなら嚇して取引を持ち掛けてくる。だから覚悟はしていたが、スヴェンが彼は無実だろうと進言したこともあるのか、エリゼは虫も殺さぬような笑顔で『知っていることを素直に教えてくれたら逃がしてあげますよ』なんて強かなことを言ってのけたのだ。  狡猾で、人をだまして生きていかなければ生き抜けない。いつも騙し、騙され、脅し、脅され、気を落ち着けるところなんてどこにもなかった。地下街に戻ったときですら、寝ている間に殺されるリスクがあったからだ。  でも、エリゼにそう言われたとき、チェリオはなぜか笑ってしまった。嘲笑ではなく、腹の底から。ピエタやコーサに脅されるときは、枕詞のように殺すと言われてきたのに、逃がすだなんて言われたことがなかったからだ。  彼らがスラム街に降りてくることで、ドン・コスタ隊やドン・パーチェ隊からの不必要な締め付けが少なくなった。それ以前からデリテ街は密売などが平然と行われるため治安は悪いものの、強盗や人の家からものを盗むような相手は少なかったが、アリオスティ隊に睨まれるのを恐れたやつらは、それすらしなくなった。  地下街出身者は生き意地汚いなどと諸々言われるが、エリゼ曰くセッテ地区以東のほうカオスらしい。少ない食料を分け合って生きているのだから、統制を取らなければやっていけないというオレイのおっさんの考えから、案外デリテ街の連中は住人同士で盗みなどのトラブルを起こすことは少ないのだ。  それをセッテ地区以東のやつらは傷の舐め合いだと嘲笑していたが、レイプや強盗などの犯罪が横行するスキリブラート(セッテ地区、セーイ地区、チンクエ地区、クワトロ地区の総称。均衡がとれているように見えてその実そうでないところからデリテ街の連中がそう呼ぶ)よりはマシだろと互いを侮蔑して生きてきた。  でも、二コラはいま、生き方を否定するつもりがないと言った。頭のいい連中……というより、育ちのいい連中は何故似たような解釈をするのだろうか。  エリゼが面白半分でチェリオをナザリオに引き合わせた際にも、似たようなことを言われた。生きるべく環境で生きてきただけなのだから、考え方や感覚が違って当たり前だと。  いつか、ユーリとサシャが言っていた、『字を覚えたら視野が広がる』というのは、こういうことをいうのだろうか。いろんな視点や、知識を身につけることで、狭い視野の中だけで生きなくてもよくなるのなら、自分もいつか、ナザリオやニコラのように、冷静に周囲を見渡しデリテ街をまとめる力が付くだろうか。そんなことを思いながら、二コラを眺めた。 「どうした?」  二コラが不思議そうに声をかけてきた。  ユーリが惹かれる意味が分かった気がする。こいつは融通が利かないとユーリが揶揄していたけれど、でもフラットで、自分の考えの範囲内にはないものにまで理解を示そうとする視野の広さがある。ユーリのことを優先するあまりに盲目的になる部分もあるだろうけれど、基本的には面倒見もいいし、いいやつなのだと思う。  軍部の人間に対していい奴だと思うなんて、少し前なら有り得ない。ユーリがスラム街に介入してこなければ、こんなふうに自分の感覚が変わることも、そしてもっと視野を広げたいと思うようなことも、ありえなかっただろう。 「おまえさ」  二コラがいつもの感情を悟らせない表情でチェリオを見下ろす。 「自分からしたら本音なんだけど、周りからしたら意外性のあるセリフ吐いて、妙な女に死ぬほど懐かれて絡まれたことあるだろ」  にひっと意地悪く笑いながら言ってやる。二コラの目が泳ぐ。やはりだ。チェリオは勝ち誇ったように肩目を細めた。 「気ぃ付けろよ、女は怖いぞ。そもそもユーリやキアーラみたいな美人侍らせてんだから、必然的にハードル上がるよな」 「侍らせてなどいない。そもそも、ユーリもキアーラも同僚で」 「へいへい、永遠に平行線やってろ」  いい奴だけれど、やっぱり鈍感だ。なにか文句を言っているけれど、無視して鉄格子のあるドアをこじ開けて、先に進む。  二コラの話をしていたのに、珍しくユーリが何事も突っ込んでこなかった。不思議に思ったが回線がつながっていないらしい。混線、あるいは受信圏外だと困ると思い、無線機のボタンを押す。 「おーい、アレクシス、聞こえるかー?」  暢気に言った時、耳をつんざくような爆音がとどろいた。 「うおっ!?」  頭まで響きそうなほどのきいんという甲高い音が耳を支配する。次に聞こえたのはアレクシスの普段聞いたことがないほどの真面目な指示だった。 『ジジ、こっちはなんとかなるから、ベアトリス呼んで来い!』 『殺されない?』 『俺は守りながら戦えるほど器用じゃねえんだ、とっとと行け!』 「アレクシス、俺らも戻るか!?」  そう尋ねたら、今度は破裂音が続いた。 『じゃーまだっつの。っとに、どっから沸いて出てきやがんだ、こいつら。  先に進んでくれ、セッテ地区の住人が少ないことをSig.オルヴェが不思議がっていたが、どっかに拘留されていたんじゃないのか? さっきから急にわらわら沸いてきやがって』  また破裂音がする。音だけでわかるけれど、アレクシスの戦い方はミカエラ以上に邪道で激しい。ミカエラがなんであれだけ体術に長けているのかがわかるほど、いろんな音と声がする。ひとりだけ地上でのんびりしやがってと思っていたけれど、ひとりでいたほうが襲撃にあったときに存分に暴れられるというアレクシスの意図なのだと悟った。 『Sig.カンパネッリ、ハンドガン借りてるぞー。あとでちゃんと申請すっから』  殺してねえから安心しろとアレクシスが継ぐ。どこかに拘留されていたのでは? とアレクシスが言っていたのを不思議に思い、鉄格子付きのドアの溝を確認する。ドアの溝は同形のものとは違い、明らかに細工されている幅広い作りになっていた。もしかするとここが開いたことで、拘留されていた住人たちが解放されたのかもしれない。  これは急がないとと通路の先を急いだ。  奥に進んだ先にはスパッツァたちがいないようだ。そりゃあなにか重要なものを置いているところに拘留するわけがないかと思いつつ、先を進む。空間がひと際広い部分に出た。奥側には装置がある。それも、みっつもだ。 「ユーリ、聞こえてるか?」  返事がない。カチカチと何度もボタンを押していると、ノイズのあとにリュカの声がした。 『ごめん、ちょっと立て込んでて』 「ユーリに例の装置がみっつあるって伝えて」  向こうからエドの制止するような声がした。すぐさまユーリの不機嫌極まりない荒っぽい口調でエドに指図すんなと言っているのが聞こえた。エドにそういう態度を取るとは思わなくて耳を疑ってしまう。 『想定内だ。手順を間違えるな。チェリオは音の変化を聞け。装置の解除は二コラに』 「え、でも」 『あんた、装置の名称わからんだろ』  確かにと、チェリオが誰に言うともなく呟いた。 「それで、どうすればいい?」  二コラが荷物をほどきながら尋ねる。 『まず蒸留装置の熱伝導を止める必要がある。それと同時進行で装置の解除。チェリオはブレーカーを落として』  言われて、配電盤を見る。なんの名称も掛かれていない上、レバーが多すぎて意味が分からない。そう告げるとユーリの余裕気な笑い声がした。 『アルテミオとネイロのおじさまが張り切って情報収集してくれたおかげで、こっちには手に取るようにわかる。ブレーカーのレバーは、左端から横に6列、下に5列であってる?』  チェリオはそれを確認し、「合ってる」と答えた。 『じゃあ、上から3段目、左から1番目と2番目を同時に落とす。ただし、装置の解除と同時にだ』  蒸留装置の冷却水が入っている部分にシリコンが付けられたガラス製のキャップがあり、そこを外してシリンジで精製水を少しずつ注入する。減った冷却水を補いつつ循環を止める必要があり、この手順を怠るとあとが面倒だったとユーリが継ぐ。いわれたとおりに二コラが作業するのを横目に見ながら、ぼこぼことなる音が少し減ったのを感じた。 「おお、音が小さくなった」  冷却水の供給は近くの配水管を通じて行われているから、そのバルブを閉じろと言われ、それを探す。二コラからこの装置につながっている部分を探せと言われ、応じる。  壁に沿って設置された排水管らしきところに装置の一部が繋がっている。チェリオは壁際に近付き、その管に耳を近付けた。わずかだが水音がする。 「あった、これだ」 『ベラ・ドンナとグラドゥメルは同成分から生成されるから、ふたつめ……三連の真ん中に透明な結晶が入っているやつも一緒に止める』  言われて、二コラがその装置に近付いた。指示されたとおりに、順番に装置のコックを平行にして気体がもうひとつの装置に行かなくなったことを確認する。 「気流が止まった」  二コラが言うと、ユーリが「次は」と言いながら、なにかを叩くような音を立てる。ノートに図を描いている音だと気付いた。 『ブレーカーを落とすと同時に、ふたつの装置のコックを閉めろ』  言ったあとで、すぐに「ちょっと待って」と声がした。 「なんだよ、ビビるだろっ」 『装置のコックのところ、なんか文字がない?』  確認するが、なにも書かれていない。そう告げると、「じゃあ土台に十字状の傷は?」と聞かれる。装置の土台には確かに十字状の傷がある。念のためにライトを当ててコック付近を確認する。コック自体にはなにもないが、付け根辺りに小さな溝があると告げる。 「ユーリ?」  返事がない。ただつっかえそうな息をしているのだけが聞こえてくる。エドがもういいという声がして、ユーリがやはり本調子じゃないことを悟る。 『ふつうに止めるんじゃ止められない。一旦上に引き上げて、感触を確かめながら回して。どっかに引っかかりがあるから、そこで下に押し込む。二回クリック音がしたら、供給が止まる』  ユーリはしゃべるのも苦しそうなほど息を弾ませている。さすがにこの呼吸音は普通じゃないと眉を顰めた。それは二コラも同じだったようだ。 『ちょっとまって、いったん休憩しよう。きみ、そのままじゃ本当に危ないって』 『こっちを止めるのが先っつってんだろ。被害を増やしたいのか?』 『エドも言っていたけど、きみが倒れたらどうしようもないだろ!』  言うことを聞けよとリュカの焦れたような声がした。どう聞いても喉で浅く呼吸をしているのがわかるほど辛そうだ。聞いたこともないような、不機嫌さを凝縮してすごむような「黙れ」という声がした。つっかえたものをすべて吐き出すような、深い息をするのが聞こえた。 「ガブリエーレ卿、たぶん“もしもの時”を想定し、Sig.ベルダンディになにかを仕込んでいます。彼がいまそちらにいないのがなによりの証拠かと」  二コラが冷静な口調で言う。すぐにユーリの含み笑いが聞こえてきた。 『どうした、二コラ。やけに勘が鋭いじゃねえか』 「おまえがやけに強情になるときには、次の手があるときだけだからな。どれだけ傍でおまえを見てきたと思っている」  今度は少し満足げに笑うのが分かった。 『じゃあ、ぼやっとしてねえで手ぇ動かせ。これが爆発したら最後だからな。  グラドゥメルとベラ・ドンナのハイブリッドを解毒するもんなんざ誰も知らない。“ユーリ”ですら書き残していない。重篤患者のなかになんの手立ても通用せず亡くなった人たちがいたけど、たぶんその人たちは西側でそのハイブリッドを吸わされた人たちだ。特徴的な紫斑に加え、血管がもろくなるせいでちょっとの刺激で皮下出血を起こしていたやつらがいたろ』  「確かに」と二コラが言う。 『まあ、そのもしもの時を想定して、ミカエラにはいまこっちの最終兵器を作ってもらっている。ってなわけで、爆発しても文句言わないでね』  通信機の向こうでからからと笑う声がするが、少し震えて、いつもよりも掠れているように聞こえる。それが緊張からなのか、それとも不安からなのかはわからないが、この緊張感のないふざけたセリフは、自分の意識を逸らす意味もあるのではないかとふと思う。  二コラに合図され、ユーリが指示したとおりのレバーに指を掛ける。いつでも切れると二コラに視線をやると、二コラはコックを少し上に引き上げて、慎重にそれを回して押し込める場所を探す。探り当てたのか、行くぞと言ってこちらを見た。頷く。3,2,1とカウントダウンをした。0で同時にレバーを下げ、二コラもコックを押し込んだ。  ぼこぼこという音が少しずつ少なくなっていく。蒸留装置の中の水の動きがなくなったことをユーリに報告をすると、水を供給するバルブを閉めろと言われた。すぐにバルブの元に行きそれを回す。配水管に水音がなくなったことを確認する。 『次は隣の装置だ。これは単純に3連の真ん中上部の接合部についている活栓を閉じればいい。問題はこの後。圧力がかからないから当然これ以上のガスの発生はないけれど、中身が有毒だから取扱注意だ』  とりあえず活栓を閉じろと言われ、二コラが活栓を閉じる。すると3連の真ん中でぼこぼこと激しく動いていた水がすこしずつ上側に吸い取られるように上がっていった。おおっとチェリオが声をあげる。 『真ん中の反応が止まったら、ブレーカーの上から2段目、一番右のレバーを下げて熱源を止めて』  ぼこぼこという反応がなくなり、水と結晶が完全に分離したのを見計らってからユーリに指示をされるとおりにブレーカーを落とす。3連の一番下にある接合部の液体の揺れが止まった。それを報告すると、ユーリが安堵したような息を吐くのが分かった。 『中身は厳重に強化ガラスの瓶に入れて、オレガノ軍にでも渡しといて。通常一般人が取り扱うものじゃないし、処理方法くらい知ってんだろ』 『わあ、素敵な役目をくれてありがとう、Sig.オルヴェ』 『なんなら原液飲んでみるかァ? とぶぞ』  いくつか試験薬を作っているから、適合すりゃ天国見れるかもなァと、ユーリがどろりとした揶揄や憎悪をぶつけるように言う。露骨な嫌がらせめいたセリフに、二コラが咳払いをした。 「帰りにカルケルを採取して戻る。ほかに必要なものはあるか?」  べつにとユーリの素っ気ない声がする。 『装置を止めたからと言って、油断するな。もしかすると別の場所にも同様のものが仕掛けられている可能性がある』 「なぜこの装置の止め方を?」  二コラが問うたからだろう。アレクシスとリュカの心の高ぶりと焦りを抑えきれない乱れた声がほぼ同時に聞こえてきた。 『どうしてあんたはそうやって場の空気を読まないんだっ!?』 『ユーリがバンビみたいになりながら必死にナビゲートしてくれているんだから察しろよ!』  本当にユーリ(Sig.オルヴェ)の親友なのかとふたりが語気を強めた。 「申し訳ない、単純に気になってしまい」  すぐにユーリが白けた溜息を吐くのが分かった。 『家にあったから、よく触って遊んでいた』 「遊ぶものなのかよ、コレ」 『“ユーリ”は基本いろいろ飛んでるから、実際の薬品を入れて気流がどう動けばいいのかとか諸々教えてくれていたけど、それをサシャからふたりして死ぬほど怒られたから、よく覚えてる』 『とんでもねえ英才教育じゃねえか』  アレクシスが呆れたような声色でぼやく。 『あとは、奴隷だったころに、同系統の装置を見たことがあるだけ。この装置を使って、仲間にとどめを刺す役割も担ってた』 『ユーリ、それは違う。あのときは誰もそんなことは知らなかったんだ』 『知らなかったから、なに? そんなものが免罪符になるわけねえだろ』  ユーリの声色が変わる。また喉で息をするようなつまった呼吸音が聞こえたかと思うと、どんと机に両手をつくような音がした。 『ガスを発生させるための液体は温度によって性質が変わる。気体化したものが抜ける可能性があるから、ガスマスクは外すな。それから』  そこまでいったとき、ユーリが小さく唸った。まるで喉に異物を押し付けられ首を絞められたのではないかというほど不自然な咳が聞こえる。 『それから液体は微量でも皮膚に付いたら火傷のような傷ができる。手袋をちゃんとするように』  わかっていると二コラが言うと、ユーリの鼻で笑うような声がした。 『くれぐれもそれをミクシア軍には渡してくれるなよ、ダーリン』  また喘ぐような短い呼吸を繰り返し、声を絞り出すように言った。了解したと二コラが短く言う。通信が切れた。  二コラを見上げると、どこかいたたまれないような表情をしていた。自分がミクシア軍に所属していることを知りつつも、ああいう物言いをするということは、ユーリ自身ノルマは信じないと言っているものの、二コラには信頼を寄せているということなのだろう。  少し離れていろと言って、二コラが装備を整える。 「俺もやりかた覚えていい?」  離れた場所に座り込んで、二コラに尋ねる。二コラは少し意想外な顔をしたが、すぐにこちらに手袋と分厚い布で作られた、少し変わった形のスモックエプロンを手渡してきた。 「服に付くといろいろ危ないからな、着ておけ」  言いながら、自らもそれを着込む。 「気体を吸い込むと厄介だから、説明は地上でする」 「オッケィ。見て覚えられるだけ覚えるわ」  そう言ったら、二コラが「入学したての頃のユーリみたいだな」と静かに笑った。ユーリもこうして二コラにいろいろと手ほどきを受けているらしい。手の動きでわかる。こいつはむちゃくちゃに器用だし、丁寧で、人に教えるのが巧い。二コラの手元を見ながら、チェリオはまた、ユーリとサシャの言葉を反芻した。

ともだちにシェアしよう!