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Fifteen(5)★

「ユーリ、ひとつ聞いていい?」  図書室に入ってきたリュカが、怪訝そうな表情を浮かべた。当惑というよりは、呆れ半分、意外さ3割、怒り2割といった複雑そうなものだ。それよりも隣にいるミカエラのほうが表情が読めない。  ユリウスが作業の手を止めて、驚いたようにミカエラを注視する。「サボるな」と脛を蹴り上げるとユリウスから睨まれた。 「その人はミクシア、オレガノ双方の重要参考人であるはずなのに、なんでここで和気あいあいと作業をしているんだよ?」  「どうやって牢から出したんだ」と、リュカが語気を強める。ユーリは自分の前髪を止めているヘアピンととんとんと叩き、挑戦的に笑ってみせた。 「出してやれっていうのかと思って」 「冗談で言ってるんじゃないんだぞ」  リュカの目は本気だ。ユーリは挑戦的な笑みを深めてたあとで、目を眇めてユリウスを見やった。 「取引したんだ。この人一生タダ働きでいいって言うから、それで手伝わせてるだけ」 「いや、言ってないよそんなこと」  突然の大嘘に苦笑を漏らしながらユリウスが言う。リュカがますます怪訝の色を深めた。ミカエラはさすがにリュカとは違って冷静な表情だ。テーブルの上に置かれた数々の薬草を見やったあとで、口元に手を宛がった。 「お言葉ですが、Sig.オルヴェ」 「苦言なら聞かない」 「確認ですが、もしやこれは“ルルド”を製作中なのでは?」  ユリウスがまた手を止める。だからサボんなと語気を強めるが、ユリウスは驚いたようにミカエラを眺めたまま動かない。さすがにミカエラは鋭い。ユリウスを牢から出した理由はこれだ。  フォルスで“ユーリ”からいろいろ聞いたことは知ってるんだ、ある程度の年齢以上のイル・セーラしか知らない調合方法があるだろう、吐け! とアレクシスともども拷問する気満々で凄んだが、ユリウスはあっさり吐いた。だからこうしてここまで連れてきて、手伝わせている。ルルドにはユーリが触りたくない薬草――リビルドの葉が混じっているからだ。  ソルプレゾンができたのなら、解毒はできる。中和剤はカナップがなければ事実上無理だけれど、上位互換の緩和剤ならルルドでいけると踏んだ。ユリウスはこちらの手の内に、ドン・ガルニエたちも、そしてここに入り込んでいたネズミたちは一匹残らず捕まえたのだから、ほかに情報が洩れるリスクもない。 「きみはひょっとして、アリエル様の……?」  アリエル? と問い返したら、ミカエラはきょとんとした表情でユーリを見た。まるで「彼は何者なのか」と言っているようだ。 「言ってなかったっけ? 地下通路に捕まっていた、重要参考人」  忘れた? 聞いてなかったの? と、しっかりしているようで6割ボーっとしている特性を揶揄するように言ってやる。ミカエラは少し考えるように目を閉じていたが、すぐに目を開けてどこか面倒くさそうに眉をひそめた。 「なるほど、やはり自ら確認することこそ糸口が見つかる、ということか」  ぼそぼそと言ったあと、ミカエラはユリウスに視線をやった。 「アリエルは父の偽名ですが、それをご存知ということはオレガノ内でも割と立場のある学士か医師だったはずです。貴方が関わったとされる事件を担当した捜査官の名を覚えていらっしゃいますか?」  ユリウスがまたフリーズした。おーいと目の前で手を振ったが、動かない。目を瞬かせているから、死んでいるわけではなさそうだ。 「覚えては、いませんけど」  かつがつといった感じで、ユリウス。ミカエラはそうですかと端的に言ったあとで、また面倒くさそうな顔をする。 「なんか手がかりでも?」  ユーリが尋ねると、ミカエラはそれには答えず、「オレガノではルルドの調合の際にミエレッタの蜜よりもクオーラの蜜のほうが薬効が高いと研究結果が出ましたが」と言いながら、テーブルの上をみやった。クオーラの蜜とミエレッタの蜜の瓶があるのを見て、興味深そうにしている。 「フォルスでは両方使うのですね」 「配合率はナイショ。教えて欲しかったらおもしろい情報ちょうだい」  ユリウスの知識だというのに、まるで自分が教えたことのように言ってみる。すぐさまリュカが呆れたような溜息を吐いた。 「貴方が口は悪いけど平和主義者なのと、喧嘩っ早い割に冷静に物事を考えられる思考の持ち主だってことは認める。でも彼、ニコラの件にも、サシャの件にも関わってるんだよ?」  そうらしいなァと間延びした言い方をして、「おら、きりきり働け」と継いでユリウスの前に調合し終えた薬草の粉末が入った乳鉢を寄せる。「わかったよ」とどこか諦めたように言いながら、ユリウスがそれを受け取った。ユリウスの目の前にはいまから調合するための粉末が丁寧に乾燥剤入りの木箱に収められている。  それを見たリュカがおいと尖り声をあげた。 「よし分かった、その調合率を教えるのと、ユリウスがノンナたちを手伝って裏の畑で労働させるっていう条件なら、ここに置いてやってもいい」  「どうせそれが目的だったんだろう」と、リュカ。ユーリが口元を怪しく歪める。リュカがミカエラに「あとでぼくにも調合率教えて」とささめいた。 「沈着冷静なくせに感情に流されやすい平和主義者で助かったわ、リュカ」  少しの間ふたりは睨み合っていたが、その均衡を崩したのはリュカだった。はんとどこか小馬鹿にしたように笑って、まいったというジェスチャーのように肩をすくめる。 「彼が脱走でもしたら、きみは“アレ”の刑だからな」  げっと眉を顰める。“アレ”の刑とは、文字通りアレクシスとふたりきりで部屋に突っ込まれる刑だ。絶対に嫌だ。ミカエラはそれがなにかを知らない。リュカとユーリとふたりだけの隠語だ。 「ミカエラ、きみも気をつけたほうがいい。彼、ユリウスに絆されたのかなにか知らないけど、ぼくがそういうって知っていてここに置くことにしたんだ。  人の性質を読んで駆け引きするのはある意味でアレクシスよりも、ドン・クリステンよりも巧い。可愛い顔して……って、きみも同じ顔だけど、きみとは違って腹黒い上にずる賢い」  ミカエラが言葉に困ったような表情でリュカを見ている。リュカがドン・クリステンと呼んでいるあたり、そこは本当に知られるとまずいのだろうと踏む。 「協力するっていうから出してやったんだから、マジで逃げたりしたらぶっ殺す」  まあ逃がさねえけどなと言って、ユーリが立ち上がり、薬品棚から木箱を持ってデスクまで戻る。その薬品箱を撫でながら目を眇めてユリウスを見やった。ユーリが不敵な笑みを浮かべるときには大体ろくなことを言わない。それを知っているからか、ユリウスが怯むのが分かった。 「メテル・ドムとグラドュメルの混合薬、それからあんたの“大好きなカルマ”、グラドゥメルとセドゥレのハイブリッドが入っている。個人的には毎日コツコツとあんたにメテル・ドムとグラドゥメルを盛り続けた場合、どうなるかに興味があるんだよなァ」  脅すような口調ではない。新種の薬を開発した時のような弾んだ明るい声で言うユーリを見て、ユリウスが白けた表情を浮かべた。 「またそういう悪い冗談を」 「冗談? 飲んでみる?」  徐に薬品箱を開ける。ガラス製の瓶を慎重に取り出して、テープを貼り付けた箇所を外しながら蓋を開け、はいとユリウスに近づける。ユリウスはさすがに直接臭うことはせず、手で風を自分側に送ってにおいを確かめる。すぐに怪訝そうに眉を顰めた。 「なにもにおわないけど」 「そりゃそうだろ、無臭だし」  言いながらスポイトで中身をごく少量吸い取って、ユリウスに手の甲を出すように言う。渋々といった表情で応じたユリウスの手の甲に薬品を垂らすと、「なめていいよ」と言ってみる。ユリウスがあきらかに怪訝そうな顔をした時だ。ミカエラがやや早足で寄ってきて、液体が乗った方のユリウスの手首を掴んだ。驚いてユリウスが顔を上げると、ミカエラもまた意図せぬ行動だったらしく、申し訳ないと言って手を離した。反動で薬品がこぼれたのを見て、あーあァもったいないとユーリがもったいつけた声で言う。 「Sig.オルヴェ、それを彼が本当に口にしていたら、流石にオレガノは看過できません」  生成、所持自体違法行為ですよと声を尖らせる。 「本物だったのか!?」 「だから言ったじゃん。舐めてみればよかったのに。ニコラとジャンカルロの気持ちがわかって数ヶ月後に心底後悔する羽目になったのに、邪魔してくれちゃって」  なァ、ミカエラと挑戦的な表情で見上げると、ミカエラはユリウスとユーリを交互に見たあとで、両手で顔を覆った。 「なんだか非常にざわざわします」  リュカが心配そうにミカエラに声をかけるのを無視して、ユーリがユリウスに「ユリウス先生、お口開けて」と何食わぬ顔で続ける。「誰が開けるか」と語気を強めたユリウスを見て、ユーリは軽く肩をすくめて「まあいいや」とスポイトを空になった乳鉢の中に入れた。 「さっきの紅茶に仕込んだし」 「はあっ!?」  リュカとユリウスの声がハモる。 「いまミカエラが犯罪だって言っただろ!?」 「ここをどこだと思っている、ガブリエーレ卿の領地だ。オレガノの法もミクシアの法もグレーゾーン」 「そりゃそうだけど、本当にユリウスに紫斑が出てきたらどうするんだよ!?」  なにをそんなに慌てているのかと言わんばかりに、ユーリが首を斜めに傾けた。 「順調にいけば8日前後で紫斑が出てくるんじゃない? その頃には臓器が冒されていてなんらかの不調が生じる。ジャンカルロも二コラも、俺が作った丸薬を素直に服用してくれていたから紫斑だけで済んだけど、あんたはまだだもんなァ、ユリウス」  ニコラとジャンカルロが服用した量以上に入れたから、早くて4日前後かもとしれっと言ってのける。ふふんと笑うユーリを前に、ユリウスが呆れたような顔をしているのが見えた。冗談だと思っている。冗談のわけがない。ミカエラが顔を覆っていた両手を退けて、テーブルに両手を突いた。 「Sig.オルヴェ、それはさすがにやりすぎです。いくら固有領地内の出来事とはいえ、やっていいことと悪いことがあります」  ミカエラの言葉に、ユリウスがぎょっとしたような顔をした。液体が付着した場所と、ミカエラを交互に眺めている。 「俺はこいつに何度も騙されたし、サシャだって危険な目に遭わされた。なんの咎めもなく、大人しくここに置いてもらえると思うほうがおかしいだろ」  さらりと言ってのけると、今度はリュカが心底呆れたような息を吐いた。 「ユリウス、あなた、絶対に喧嘩を売ってはいけない相手に喧嘩を売ったんだよ。残念だけど彼がこの顔をしている時、『本当に怒っている』からな」  えー? といいながら、自分の顔をわざとらしく触ってみる。普段と同じだ。別に眉間に皺が寄っているわけでもない、いつもの可愛いお顔だろと言ってのけると、リュカがガリガリと頭を掻いた。 「この人、本当に怒ると罵声を浴びせるを通り越して笑顔で人を殺せるタイプなんだよ」 「ご自身では気づいておられないようですが」  ミカエラが体勢を戻しながら言ってのける。 「そう? 俺普通に実験したいだけだし、確かにユリウス絶対に許さないって言ったけど、なんかもうどうでもよくなった」 「その割には違法薬物を自ら摂取するよう仕向けておられましたが」 「自分がしたことの責任を取らせようかと思って。普段あまり人付き合いしないぶん、一回仲良くなった人を陥れようとする奴嫌いなんだよね。目には目を、歯には歯をだろ」 「うーん、さらりと怖いこと言ってるし」  でもダメだよ! とリュカが声を荒らげる。 「カナップの件はあくまでもぼくの研究の一環だからだ。メテル・ドムもグラドゥメルもそうじゃない」  説教がましくリュカが言うのを聞きながら、ユーリはユリウスの手を指差した。 「どうでもいいけどそれ、普通に経皮吸収するんだよね。  本来のメテル・ドムの用法は葉をタバコに混ぜて煙を吸うやり方と、成分を抽出したものを生食と毒性を中和するためのものを混和して摂取させるから、それをしていない状態でグラドゥメルなんかと混ぜたら、体内を蝕んでいくに決まっている」  フォルスのあの大男には、イル・セーラたちが微量にハイブリッドを盛り続けて死なせるつもりだったんだろうと言うことは伏せる。 「中和剤や解毒剤は?」 「あるけど、渡す必要ある? この人、それが危ないものだと知っていて、ニコラとジャンカルロに飲ませたんだけど」  自業自得と思わない? と尋ねたら、ミカエラがなんとも言えない顔をして左胸を触るのがわかった。 「ガブリエーレ卿、検診を依頼してもよろしいですか?」 「なになに、どうしたの?」 「未だかつてないほどざわざわするのですが」  明らかに戸惑った声色のミカエラを見て、リュカがなにかを悟ったように苦い顔をした。ユーリをジト目で見たあとで、わざとらしくミカエラの背中を摩る。 「ぼくも時々大学で見かけていたんだけど、ユーリが突拍子もないバカなことをするたびに、サシャがハラハラしたような顔で心配そうに見ていたからだと思うよ」  術件数自体少ないけど、元の持ち主の性格や感情が現れることがあるって論文を読んだことがある。リュカがそういうと、ミカエラは本当にどこか居心地が悪そうに眉を顰めた。ポーカーフェイスがくずれているのがおもしろくて、ユーリはニヤリと口元を歪める。 「あと、サシャはユリウスのことが大嫌いだったから」 「本人目の前にして言うことじゃないだろ」  リュカが冷静な口調で突っ込んでくる。でも事実だ。 「いえ、事実なので。物心付く前からサシャには避けられていました」  ユーリは懐いてくれていたんですがと、ユリウス。そりゃあ俺はシナモンスティックで誘拐されるんじゃないかと大人たちがハラハラするレベルで人懐っこかったらしいからなと不敵に笑う。ユリウスはどこか懐かしそうに目を細めて、液体が触れた場所に視線を落とした。 「解毒剤がない状態では逃げられないし、同族殺しをして欲しくないと言ったからこその嫌がらせなのだとしたら、十分な効果だ。もう逃げないし、絶対に騙さないと誓う」 「身体を蝕まれて限界に達したら人はどう動くのか……それを見たいだけだから、そうなったら解毒剤あげるね」  にいっと笑いながら言うと、ミカエラが眉間をつまんで溜息をついた。 「下に弟や妹をもつと、こんな独特な感覚を味わうものなのですか?」 「たぶんそれサシャとユーリの関係性ならではだと思うよ。ユーリは昔からサシャにそうやって心配をかけてきたんじゃないかな?」 「よく言われる」  笑い事じゃないよとリュカが語気を強めた。ミカエラは気持ちを落ち着けるためか、それとも呼吸を整えるためか、ふうと細く息を吐いた。 「アレクシスも、西側でこんな感覚だったのだろうか」  ぼそりと言う。そのやりとりをユリウスは不思議そうに見ていたが、すぐにもしかしてとユーリを見やった。 「サシャがドナーになったのは、まさか」 「さあね。オラ、昼ごはん食べたかったら喋ってないで10人分働け、サイコ野郎」  今日までにこの倍作るからと言ってのける。ユリウスはわかったよとどこかホッとしたような感情を漂わせて、緊張に強張っていた声色を緩めた。 ***  ユリウスの監視はファリスとロレンに任せて、ユーリはミカエラたちと会議室に来ていた。ドン・クリステンから冷めた視線を向けられる。 「リュカから聞いたが、きみはやはりドMなのかね?」  そうかもなァとユーリが笑う。笑い事じゃないぞとドン・クリステンが語気を強める。 「本来なら、ユリウスは収監されて然るべきだ。軍医団の幹部候補に毒を盛るなど断じて許されるものではない」 「幹部候補? あの石頭で人を見る目が絶望的などすけべが? やめといたほうがいい、ろくなことにならない。そもそも、見ず知らずの人間から出されたものを毒味なく口にしないって教えてないのが致命的だろ」  あんたの躾が悪いと揶揄してやる。ドン・クリステンは薄く笑って、組んだ足の上側を揺らした。 「きみの知人だからと油断したんだろう。そのあたりは確かに躾を間違ったかもしれないが、自分の親友が窮地に陥れられかけた毒物を生成するきみの倫理観はどうなっている?」  当たり前だけれど、リュカが報告したらしい。ユーリは猫のように目を細めて、少しだけ頭を斜めに傾けてわざとらしく笑って見せた。 「単なる興味と嫌がらせ。その“親友”がどんな症状に悩まされたかはしらないけど、体感したほうが罪悪感が増すだろ」 「つまり、ただでは許さない、と?」  そういうことと笑いながら言うと、ドン・クリステンが苦い顔をして前髪を掻き上げた。 「これは反省する気など微塵もなさそうだ」 「反省すべきはユリウスだろ。俺はちゃんと解毒剤も緩和剤も用意したうえで摂取させたけど、あいつはあれが毒物だと知りながらも二コラとジャンカルロに摂取させた挙句、黙っていたんだぞ」  咎めるならそっちだろとユーリが唇を尖らせる。 「緩和剤と解毒剤はどこ?」 「どこと思う?」  テーブルに頬杖をついて、頭を斜めに傾けながら。ドン・クリステンが呆れかえったように溜息を吐いた。 「まさかとは思うが、梱包を手伝わせていた、アレかね?」 「俺がそんな生易しいことをすると思うか? そう見えるんだったら、あんたの目も節穴。残念ながら俺はそんなにいい人間じゃない。  で、二コラとジャンカルロの様子は?」 「ジャンカルロはネーヴェの血が濃いこともあり、割と毒物への耐性があったのか、紫斑もすぐに消えた。問題は二コラだ。以前と比較しだいぶ薄くはなっているようだが、しばらくの加療が必要だな」 「ふうん」 「あまり心配ではなさそうな言い草だな」 「“アレ”が効かないってことは、イカレ野郎がユリウスに教えたものの配合率自体が大ウソだったのかなって思っただけ」  解毒の観点からすると、ベアトリスに打たせたものは定石だ。その定石が効かないとなると、ユリウスはやはりそのときには既に排除対象だったのではないかと考える。二コラとジャンカルロに飲ませた薬品に合わせて作ってあるのだから、効かないわけがない。 「というと?」 「うーん、仮定段階だから言えない。でも、気を付けておいたほうがいいよ。死ぬほどカルケル飲ませるのと、カルケルの蒸気を吸入させてみて。それでも変化なかったら、毒を制するには毒の要領で、ヴェレナールでも飲ませてみたら?」  ドン・クリステンとリュカがぽかんとする。ミカエラは相変わらずのポーカーフェイスだけれど、瞳の中に驚愕と不安が伺える。 「それで二コラが死んだらどうするつもりだね?」 「アイソパシーって知ってる? 服毒自殺を図った相手により強い毒を服用させることで、最初に飲んだ毒の効果を打ち消したりもできるんだ」  あれ、ミクシアの人は知らないの? とユーリが勝ち誇ったような表情で言う。 「悪いけど、ぼくたちノルマは『常識人』なんだ」  常識人と言いながら、両手の中指と人差し指を曲げて見せる。 「フォルスのぶっ飛んだイル・セーラとは違って、人命優先なんでね」 「ひっどい言い草。昔俺を買いに来ていた軍人がさ、足にある蛇の噛み傷を見せて言ったんだ。『夜間演習中に毒蛇に噛まれて、おまえの父親に救われたことがある。その時に生汗が出るくらい苦くて不味い薬だったけど、おかげで死なずに済んだ』って。だからいつもアップルパイを差し入れてくれて、おやつ食べられるし、なにもされないし、ものすごく楽だったんだよね」  基本的に名前は聞いちゃいけない決まりだったけど、Sig.モルフォって言っていたと思うよと告げる。リュカが眉を寄せて本当に? と驚きと興奮が入り混じったような声を出した。 「Sig.モルフォって、8年前の紛争の時にイル・セーラを守って殺されたっていう人だよね? ドン・フィオーレの友人じゃなかったっけ?」 「手紙には確かそう書いてあったように記憶している。彼の一族が犯罪者扱いされないようにと、オレガノで保護してほしいと頼んできた、あれか」 「彼が亡くなったあとは、まあいろいろと面倒な奴らが多かったんだよね。だから奴隷解放と同時に大学に行けって言われた時には全員ぶっ殺すって暴れた。収監されたらされたで脱獄して、そのまま行方を晦ませてやろうかって思ってた。  でもサシャが、いまは言うことを聞いて、爪を研ぎ、牙を剥くのは完全に飼い馴らせたと思わせたあとだっていうから」 「リュカ、きみはそのときの書類のことを?」 「父上からもなにも聞いていないし、たぶんどこかが勝手に決めたんだと思うよ。ディアンジェロ家はイル・セーラ解放に積極的だったから、ある意味でそこに目を付けたんじゃないのかな?」  なるほどとドン・クリステンが納得したように頷く。 「だから彼女がやることにある程度は目を瞑り、軍医団を瓦解させる準備が整ったところで彼女を拐かしたということか」 「オレガノとの国交正常化を望んでいない連中の仕業と見せかけて、その実それはどうでもよくて単にどの線が彼女を誘拐したのかの目眩しに使ったんだね。相当な曲者じゃない?」 「まあ、そのように様々な人物を動かし、且つ姿を見せずにいられる相手など限られている。いずれ尻尾を出すさ」  ドン・クリステンがいうのを聞きながら、ユーリは不敵な笑みを浮かべた。 「どうだかなァ。俺が相手なら敵は別にあると思わせて絶対に姿なんて見せないけど」 「ドン・ガルニエたちの捕獲が済めば、姿を現さざるを得ないのでは?」 「そう思う?」  挑戦的なユーリの笑みはあきらかに何かを知っている表情だ。ミカエラがほんの少し口元を歪める。 「わたしも同意見です。首謀者と思しき相手を動かし、仮に彼が捕まったとしても絶対に捕まえようのない勢力が一つだけありますよね」  ドン・クリステンが苦い顔をする。 「俺はレジ卿が首謀者だと思っていたが」  オレガノにそこまで知られていては不味いのか、ドン・クリステンが話の矛先を変えようとしていることに気付く。オレガノが踏み込んだら、国際問題だ。さすがに国交正常化交渉もとんとん拍子にはいかなくなるだろう。 「多分そうだけど、他に複数絡んでるんじゃない?」  敢えて適当に言ってみる。絡んでいるのだろうけれど、ユーリには確かめようがないうえに、正直もう興味がない。ドン・クリステンが満足げに笑みを浮かべるのが見えた。 「それ、本当なの?」 「俺の記憶を消したかったのはそこ。子どもなんだから記憶なんて曖昧になるだろうけど、ヤバい薬物まで使って記憶を消そうとするってことは、断片的にでも覚えておいてもらったら困るから、だよね。  誰がどう絡んでいるかは、オレガノかエリゼたちに調べてもらうほかないけど」 「先ほどの、ユリウスがオレガノにいた時から、彼はおそらくその勢力に利用されたとしか思えませんね」  ミカエラが端的に言う。さすがに仕事が早い。最初からそう踏んでいたのか、それともミクシアではなくオレガノの通信網を使ってやりとりしたのか、既にユリウスに関する情報を集めているらしい。 「まさかその勢力も前王の暗殺に関わっているってこと?」 「あァ、やっぱり暗殺なんだ。妙なタイミングだと思ってたんだよね」  ユーリが不敵な笑みを浮かべる。ドン・クリステンは微苦笑を漏らしてやれやれと言わんばかりに肩をすくめる。 「こら、癖が悪いぞ」 「あの人たち、俺たちを売り飛ばしてフェルマペネムの権利を買おうとしていたっぽいんだよね。フェルマペネムのレシピさえ手に入ればオレガノに尻尾を振る必要がない。肝心のオレガノにはレシピがないし、あったとしてもトリニタっていう超レアなものしかない。そもそもユーリが作ったフェルマペネムはには、調合するための薬草の記述はあっても、配合率がないから詰み」 「ですね、オレガノに伝わるトリニタは緊急時以外使用しない決まりになっていますし、管理は王家がしているので裏切り者がいない限り外に出回ることはありません」 「つまり、”ユーリ”は自分の出自を知っていたことから、オレガノ王家に救いの手を求めに行ったってことになる。そこでユリウスと知り合ったのか、それとも最初から知り合いだったのかはわからないけど、多分その頃にはレジ卿に脅迫されていて、俺たちをオレガノに移送する計画を立てていた。でもそれが叶う前に旧軍部なのかアジェンテなのか知らないけど、組織が攻め込んできた」 「オレガノに移送する計画なんて、そんなの本当にあったの?」  リュカが不思議そうに尋ねてきた。 「本に書いてあったし、アレクシスも自分たちは逃げられた、って。フォルスって小さな村だけど割と面積が広くて賑やかでさ、多い時には100人近くいたんだって。  でもその中の半分はきな臭くなる前にオレガノに逃れ、残った人たちは収容所に連れて行かれたり、殺されたりしたらしい」 「わたしが産まれる前にはオレガノにいたはずですし、20年以上前の話かと」  ドン・クリステンが神妙な顔をした。 「俺が特使としてオレガノにいた時期だが、そんな話は聞いたことがない」 「王家の密約では? 姉上がおっしゃっていたトリニタの元となった花は、その時に持ち込まれたという可能性があります。だからアレクシスが王家の近衛兵として推挙されたのではないでしょうか?」 「では、それがミクシアでも20年近く前に咲いていたと?」  おそらくはと、ミカエラが言う。ドン・クリステンの視線に気づき、ユーリは知らないと肩を竦めた。 「もし、それが本当なら、ミクシアはパンデミアが起こることを分かっていて放置していたことになるぞ」  ユーリはリュカを見やった。以前リュカが似たようなことを言っていたからだ。リュカはどこか白けた表情で肩を竦め、大袈裟に両手を広げてみせる。  ドン・クリステンはあの花の薬効を知っているのだろうかと、ふと考えた。でなければ、そこからパンデミアを防ぐことができるという発想にならないからだ。この人は、本当に何者なのだろう。 「リュカはまだ生まれていないから知らないだろうが、やはりトートとハピが殺されたのは、ミクシアで起こるパンデミアの秘密を暴こうとしたから……とも考えられる。きっとなにかフィッチとミクシアの密約があるはずだ。だからユーリ、くれぐれも危ないことは考えないように」 「危ないことって?」  きょとんとして尋ねる。いまさらなにを言っているのかという表情だ。リュカが怪訝そうにユーリを睨む。 「無知なふりをするな、知能犯。きみは絶対に首を突っ込みたがる。  レナト、貴方も貴方だ。わざわざユーリの前でそういう話をしないで」 「“危ないことをするな”と注意したんだ」  微苦笑を漏らし、ホールドアップをして見せるドン・クリステンをリュカが睨む。これはなにかの合図だなと思いつつも、ユーリは「なにもしません」と白けた表情で言ってのけた。 ***  シャワーを浴びて戻ってきたら、部屋の中にドン・クリステンがいた。さわやかに「やあ」と笑って、右手を挙げる。今日は中間報告の日でもないし、何の準備もしていない。なにか理由があろうのだろうかと思っていると、ドン・クリステンが軽く肩を竦めた。 「鍵を掛けないのかね? 俺は覗かれても構わんがね」  言われて、そのつもりだと悟る。 「なんの準備もしていませんけど」  来るなら来るって言えよと文句を言いつつ、ベッドに腰を下ろす。そのままローブを脱ごうとしたら、腕を捕まれた。 「なに?」 「即物的なのはきみらしいが、少し話をしよう」  珍しい。口をついて出た言葉を、ドン・クリステンが笑う。 「ずいぶん手間取ってしまったことを詫びに来た。すまなかったね」  言って、手の甲をすりすりと指で撫でられる。くすぐったい。薬抜きをしている影響もあってか、やたらと体が敏感に反応する。 「きみが作っていた秘密兵器のおかげで、ドン・ガルニエは一命をとりとめた。容体が落ち着き次第、オレガノ軍が“尋問”をする手筈だ」 「自白剤を用いたおしゃべり大会ね」 「おもしろいことを言う。“尋問”だよ、それ以外の何物でもない」 「こっわい人。まあ、俺にできるのはこのくらい。あとは好きにしてくれていい。“元”奴隷でも案外役に立ったでしょ?」  ふふんと満足げに笑いながら言ってやると、ドン・クリステンが笑みを深めて顔を寄せてきた。耳のあたりにキスをされる。くすぐったさにぞわりと腰のあたりの神経が昂るのがわかった。 「んっ、っ」  鼻に抜けた声が出る。一気に顔が熱くなるが、ドン・クリステンがやめる気配はない。二度、三度キスをされ、解放された。 「きみはどうしたい?」 「どうって?」  質問の意図が分からず、尋ね返す。穏やかな笑みは変わらない。このままセックスに持ち込むつもりではなさそうだと悟る。 「フォルスに帰りたいか、残りたいかってこと?」 「それもあるが、このまま俺に飼われるか、二コラの元に戻るか」  きょとんとした。ドン・クリステンが言っている意味がやっぱり分からない。自分は元々二コラのものではないし、付き合っているわけでもない。 「ニコラは無事?」 「きみがユリウスから薬物の正体を聞き出してくれたおかげで、改善の兆候にある。そのことも謝らなければならないな。彼から口止めをされていた」 「前から調子が悪かったってこと?」 「そうだ。アルがこちらに赴いた際、『役目を解かれた』と説明をしただろう。あのときには既に少々問題があってね。ただ、一度偽物をあぶり出す前にウォルナットに赴いたあと、一時的にだが数値が下がった。あれはなにをしたんだね?」  偽物をあぶり出す前と言われ、あァと声を上げる。 「ソナー入りアップルティーを飲ませて、ミエレッタの蜜にリコステのエキスを混ぜた簡易のセックスドラッグを使って盛り上がって、あまりにしつこいからプリシピタルでオトした」  ドン・クリステンがふっと息を吐くような笑い声をあげ、肩を揺らした。 「ひどいことをするものだ。きみが使っているミエレッタの蜜には、なにか秘密があるのか?」 「教えない」  んふふと企みを絵取るような視線を送りながら笑って、自分の手を撫でるドン・クリステンの手を軽くつねった。 「必要以上のことを教えるのは契約に入っていない。俺がイル・セーラの知識を貸すのは、あくまでもパンデミアの終息を図るためと、それに必要な薬の開発だけ」 「小生意気なガッティーナだ」  徐に立ち上がり、ドン・クリステンがこちらにやってきた。そうかと思うとベッドに押し倒される。中途半端な体勢で苦しくないのだろうかと思っていたら、ふわりと体が浮いた。少しベッドの上側に移動させられ、足元にドン・クリステンが膝をつく。はだけて露わになった膝にキスをされた。  膝を折り曲げられ、少し開かされた足の間にドン・クリステンが入ってくる。ずしりとした重さと、固い軍服のさりさりとした生地の感触が肌に当たり、なんともいえないくすぐったさが広がるのに気付く。リボンタイプのローブのベルトをほどくこともせず、すこし開き気味の襟元を指でじわじわと開かれる。くすぐったさのせいでぷつりと立ち上がったそれがあらわになると、ドン・クリステンが喉の奥で笑った。 「随分と敏感だな、期待でもしていたのかね?」 「ちがっ、くすぐったくてっ」  ほおと楽しそうな、それでいて若干嗜虐的な声がした。ふっとそこに息を吹きかけられ、身体が竦んだ。直接刺激を与えられたらどうなるかをわかっているからか、反射的にそこが期待をする。へんな声が漏れそうで口元を押さえたら、ドン・クリステンの指がするすると胸を這った。 「それで、先ほどの答えはどうなんだね?」  直接そこに触れることはなく、まわりを指ですりすりと撫でられる。脇腹や、胸に啄むようなキスを落とされる。期待に色付くそれには触れられないのに、周辺を指先で擽るように撫でられるだけでずんと腹の奥が疼くのが分かった。 「フォルスに、帰るっ」  声が震えている。明らかに感じているのが分かるような甘えた声で、耳まで赤くなるのが分かった。思わず両手で顔を覆い隠す。 「それ、やめっ」 「では、俺と、二コラと、どちらに飼われたい?」  また胸に息を吹きかけられ、先端に触れるか触れないかのタッチでこしょこしょとくすぐられる。びくんと腰が跳ねたが、ドン・クリステンの重みで快感を逃がせそうにない。 「どっちも、いやっ、ぁっ、っ」  与えられる指先の感触ですら快楽に変わっていく。膨らみかけたそこにドン・クリステンの熱を擦りつけられ、自然と声が漏れる。自分が仕掛けていることとは真逆の上品そうな笑みを浮かべながら、ドン・クリステンがユーリの肌を愛撫する。触れられるところから神経が剥き出しになったような刺激と甘い痺れに襲われる。ぞわぞわと腹の奥が熱くなってくるのを感じて、思わず下腹部に手をやった。 「焦らすなっ」 「今日は準備をしていないのだろう?」  苦しいのはきみだぞと、ドン・クリステンが笑う。 「そんなの、他の奴らはおかまいなしで」 「こら、こんな時に“ほかの男”の話をするものではないぞ」  マナー違反だと、ドン・クリステンが覆いかぶさってきた。また耳元にキスをされる。今度は逃がさないとばかりに顔を掴まれ、ずしりと体重を掛けられた状態で腰を前後に動かされた。胸も、前も擦られるような形になって、堪えきれない声が喉から漏れた。  何度かそれを繰り返され、またドン・クリステンが体を起こす。たったそれだけの刺激なのに全身に媚薬でも垂らされたかのように熱くほてっているのが自分でもわかる。ごくりとつばを飲み込んで、ドン・クリステンの袖を掴んだ。 「いれて」  ドン・クリステンの手が身体を這いまわる。くすぐったさに身を捩っても、シーツに身体が擦れるのすら快感に変わっていく。ぞわぞわと熱が帯びてくるのを感じて、もう一度袖を引っ張った。 「焦らすなって」 「きみに命令をされる謂れはないぞ。俺の飼い猫ではないのだろう」  自分で言ったんだと、ドン・クリステンが笑う。悪い笑みではない。穏やかで、ただ自分になにかを自覚させたいだけのような、そんな目に見えた。 「アルのほかに、俺の考えを的確に悟れる相手が欲しかったんだが、残念だ」  言いながら、ドン・クリステンの指がするすると腹の上を這う。ローブの上からへそを指先でせせるように触れられ、身体が跳ねた。 「ほぼなんの“打ち合わせ”もしなかったが、何故ああするとわかったのだね?」  へそをくりくりとくすぐるようにしながら、ドン・クリステンが尋ねてくる。いつのことを言っているのだろうか。頭がふわふわして、考えられない。自然と甘い声が漏れる。ドン・クリステンの熱に自身を擦り付けるように腰が前後するのを止められない。頭上から笑い声がしたかと思うと、またドン・クリステンが覆いかぶさってきて、首筋を甘噛みされた。 「質問には答えろ、ガッティーナ」  耳元でささめくように言われ、ぞくんと熱が身体を駆け上がるような感覚がした。背中が反ったけれど、ドン・クリステンが重くて快感を逃がせない。 「いつの、話ぃっ?」 「そうだな、ほぼ最初からか。きみがセラフを捜しに行くと、大学を出たあたりからだ」  そう言われて、ぼやけた頭の中から記憶を呼び起こす。ぼんやりとしているのが快楽に飲まれていると思われたのか、ドン・クリステンが首筋にキスをした。短い音がする。鈍い痛みとともに、じわりとした甘い痺れがそこにある。やだと抵抗をしたが、ドン・クリステンは次々と首筋や鎖骨あたりにキスマークをちりばめていく。 「んっ、ちょっと、まってっ」  身体も、頭もふわふわとして正常な判断ができない中、いつも二コラにするように、踵でドン・クリステンの腰を蹴ったら、絶対に十倍返しをされると思い、震える手で肩口を押し返す。 「話すから、待って」  そう言うと、ドン・クリステンがまたふっと息を吐くように笑って、ユーリの首筋にキスを落とした。そしてゆっくりと体を起こし、自分の身体とユーリの身体の間に隙間を作る。 「それで?」  ぐっぐっと熱を押し付けられる。やめるつもりなんかないんじゃないかと思ったけれど、挑発には乗らない。 「俺が相手の立場に立って、『されたら一番嫌なこと』をしただけ」  ほおとドン・クリステンが楽しげに笑う。 「何故わかったのかの、答えにはなっていないな」 「『くれぐれも出し抜こうとは思わないことだ』……なんて言われたら、出し抜けって言われているのかなって」  しれっと言ったら、ドン・クリステンの笑みが満足そうなものに変わった。 「これ以上の答えなんてある? 同族を疑わず、駆け引き下手で、でも疑り深いイル・セーラを動かすには、同族を引き合いに出すしかない。  ユリウスが“どっちか”は、ある意味で賭けだったけれど、エドがネズミの線でも考えた。だから、どっちがそうでも、向こうにはないべつのやり方で、じわじわと症状を抑え、気が付いたらパンデミアが収束していた……みたいな薬を作ってやろうと思った」  そう話す間も、煽るようにするすると身体を撫でられる。鼻にかかった声を上げながら言葉を紡ぐからか、次第にドン・クリステンの高ぶりが熱を持つのが伝わってくる。 「こちらが、オレガノ軍を投入しようと考えていたことはどこから知った?」 「そんなもん、こっちだって同じこと考えていただけ。ミクシア軍と政府は、きっと日和って地下街には手を出してこない。でもオレガノ軍にとってミクシアのルールなんて関係ないし、俺が書き残した資料に気付いてくれたら、踏み込んでくると予想した。  でも、なかなか来ないし、潜伏生活での研究も限界だったから、ネイロを使って“餌”を撒いた」 「悪戯好きなガッティーナだ。あれで俺は肝が冷えたぞ」 「嘘つけ、あいつらに北側のピエタの駐屯地に連れて行かれた時、あんたの高笑いが聞こえてくるようだった」  そう言ったら、ドン・クリステンが静かに笑いながらぷつりとたった先端を指先でまたこしょこしょと撫でた。 「補足することもなく、あそこまで綺麗に思いどおりに動いてくれるとは思わなかった」 「褒めてくれんの? なかなかによかったでしょ、俺の“駄々っ子具合”」  悪戯を終えた子どものような笑みを浮かべると、ドン・クリステンがなにかを思い出したように、おかしさを堪えきれないと言わんばかりに笑う。 「あれはおかしかったな、リュカが泡を食っていたのは初めて見たぞ」 「まァ、半分本音なんだけどな」  ぼそりと言う。半分と言ったが、半分ではないかもしれない。 「最初はオレガノ軍を使ってもっと引っ掻き回してやろうと思ったけど、実際にミカエラを目の前にしたら、サシャが本当にいないんだなって、現実を突きつけられたような気がして、処刑は本当にしてほしかった」  ドン・クリステンの手が伸びてきて、頬を撫でられた。親指でふにふにと頬を軽くつまみ、揉むようにされたあとで、頭を撫でられる。  たぶん、これだけは、誰に言っても理解してもらえない気がする。ミカエラやアンナに言われて、じつはそうだったのかと思ったら自分でも知らないうちに涙が溢れて、もう一生分泣いたと思ったのは本当だ。でも、改めて自分で“なぜそうなったのか”を反芻したら、そりゃあそうだよなと納得した。  サシャとは物心ついた時からずっと一緒にいる。数日間離れ離れになったことが過去に数回あるけれど、そのたびに心細くてずっと泣いていたし、エドにいくら励まされても、シリルに励まされてもダメだった。自分にはサシャがいないとダメなんだと、自分で自分に刷り込んでいた部分がある。  フォルスにいた頃はそんなことはなかった。ひとりでふらふらとどこかに行出掛けていた。麓に住むノンナたちの家に勝手に行って、そこで寝落ちして、気が付いたら家にいる……ということをやらかした記憶はある。エドやサシャがいうように、人懐っこかった。人が好きだったという自覚がある。  だけど収容所に行ってから、イル・セーラ含む周りの大人たちはいつも嘘を吐く。言葉にはしなくても、表情やにおいでわかる。同年代の子どもたちや、サシャはそんなことはない。でもそんな中でも、本音で話して向き合ってくれるのは、サシャだけだった。自分を肯定して、受け入れてくれる存在がサシャだったから、自分もそうあろうとした。それでも、ある程度大人になったら意見の食い違いもあったし、サシャが日和るのが気に入らなかった部分もある。確かにある。それが、選択肢として正しかったとまでは思わない。カーマの丸薬の副作用がある程度収まったころ、ふと思い出した。  家の中でだけ呼ぶ名前の由来だ。“ユーリ”からではなく、クロードが言った。古代イル・セーラの神話で、サシャの本当の名前は“守護神”から取っている。ユーリの本当の名前は、あの黄色い花から。その二つは常に共にあり、対であり、仮にどちらかが先にいなくなったとしても、互いを守れるようにと祈りを込めてある。アスラがどこまで気付いているのかは知らない。でも、あの本にも書いてあった。アンリ王を殺したのは継承権を持たない弟だ。ミカエラたちが第二王族と言っているから、たぶん何か理由があるのだと思う。  それを知った時、この本に書いてある昔話と同じ結果になったなと、漠然と思った。不思議と涙は出なかった。ノルマに対しても、嫌悪感も、なにも生まれなかった。ただ、ただ、争いが生まれる理由はなんなのだろうと考えた。  そういう意味では、サシャのいう関わらない、触れない、知らないふりをするというのは手のひとつでもある。だけどそれは自分自身を押し殺しているような気がして、できなかった。ただ、その追われるべき血筋が無くなれば、“ユーリ”の知識を持っている相手がいなくなれば、イル・セーラが狙われなくなるのではないか。自分がすべての罪を被ることで、神話の中にあった至福者の丘から身を投げた人のように、様々な意味での牽制ができるのではないか。もちろんサシャや、助けられなかった人たちへの罪滅ぼしのような意味もある。エドたちはもういないと思ったからこその判断だった。  でもそうじゃなかった。エドたちがいるのに処刑されるのは、悪手でしかない。パナケインの作り方を教えてくれた時も、ミカエラの手術を終えて、キアーラを捜しに行こうとした時も、サシャは常に自分にとっての守り神で、傍にいても、いなくても、自分を守ってくれているし、本当は自分もそうでありたかったのだと。  いつもサシャには守られてばかりだったから、余計にそうなのかもしれない。“ユーリ”とクロードの研究の正当性を認めさせた延長線上にあるものは、自分とサシャの身の安全、ひいてはイル・セーラたちの身の安全の保障だ。そのために動いていた。でも肝心のサシャがいないんじゃ、やっても意味がない。そう思って泥んでいたけれど、意味がなくはない。キアーラだって言ってくれた。サシャは自分を守りたかったのだと。その思いを踏みにじることになるのが自分だなんて、絶対に嫌だ。そう思ったら、不思議とずっとつっかえていたものが抜けていった。ときどき悲しくはなるけど、前のように気分が沈むようなこともない。オレガノから寄越された本のおかげでもうひとつわかったことがあるけれど、“本当に”自分の中にサシャがいるのだ。 「あれはこちらの失策だ。本当に申し訳ない」  その言葉が嘘でも、社交辞令でもないことは、全身で伝わってくる。 「サシャの言うことを聞かなかった報いだと思う。関わらなきゃよかったんだ。最初から。ノルマなんかと」  そう言ったからなのか、ドン・クリステンが強く抱きしめてきた。触れる指先から、彼の息遣いに至るまで、後悔に苛まれているように思えた。人の死を間近で感じたことがある人のにおいだ。全身で抱き着かれているせいで、息苦しい。重いと文句を言って髪を掴んだ。 「でも、そうしたら、二コラにも、あんたたちにも会えてなかったんだよなって思ったら、後悔することもできないんだ」  それは自分の本音だった。 「スラム街に関わって、あんたたちと出会って、いいことも、悪いこともたくさんあった。最終的に処刑されるって決めていたから、自分でも結構な無茶をやらかしたなって自覚がある。ウイルスじゃなくて毒物や神経毒を有する細菌暴露が原因なら、時間が経てば経つほどに改善しにくくなる傾向があるから、だから早く動いてほしかったし、もどかしかった」  ドン・クリステンが少し体を起こして、また首筋にキスをした。 「キスマーク付けんな」  ドン・クリステンが肩を揺らす。ユーリの前髪を梳いて上げさせた。今度は額にキスをされる。 「それに関しても、申し訳ない。政府も及び腰だったうえに、軍部にはドン・アゼルがいる。軍医団は基本的に彼らのやり口をよく思っていない者が多いが、中には彼に心酔する者もいるために、根を張り、外堀を埋めるのに時間がかかってしまった」 「知らんわ、そんなの俺に関係ないし」  だから組織って嫌いなんだと揶揄するように言ってやる。ドン・クリステンは笑いながらユーリの頬を撫でた。 「もう少し、協力をしないか?」  有無を言わせない表情だ。キスマークをつけられた部分を指で撫で、視線を逸らす。  なにを言いたいのか、聞かなくてもわかる。  ミクシアはオレガノと国交正常化をしたい。ドン・クリステンはそのためにこちらに戻ってきた。でも政府がそれに難色を示すだろうからと、キアーラとミカエラが先手を打った。王位継承権のない王家の親族のキアーラと、オレガノ王家のミカエラが婚約するとなると、政府は首を縦に振らざるを得ない。  だからその国交正常化をよく思わない連中から狙われたのもあるけれど、それは隠れ蓑で、いくつもの思惑があった。ミクシア、オレガノ間の国交正常化交渉断裂。アルマのパンデミア。そしてフィッチの侵攻。そうしてミクシアそのものをフィッチに手渡したかった相手と、単純に“ユーリ”に執着している相手の利害が一致したからこそのこの騒動だ。  ミクシアがオレガノと国交正常をするために、どうしてもキアーラを取り戻さないといけない。 「居場所、わかんの?」  頭上からふっと息を吐くような、上品な笑い声が聞こえてくる。 「もちろんだ。俺の優秀な友人が目星をつけている」  ユーリは返事をしなかった。疼く腹を撫で、小さく息を吐いて、空いた手でドン・クリステンの襟元を掴んだ。少し開かれた襟元を掻き分けて、首筋にキスをする。いつもはぐずぐずにされたあとで付けるからか、それだけで身体が熱くなる。軽く音を立てると、ドン・クリステンが笑うのが分かった。

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