93 / 108
Fifteen(7)
一応蒸留水と粉末、丸薬と作ったはいいけれど、果たしてこれが本当に効果があるものかという気になって来る。
ただ、ドン・クリステンやアルテミオからは「薬を飲むな」と言われている。二コラでぶっつけ本番言ってみるかと笑いながら、遮光瓶に入ったそれを揺らしてみる。
「ねえ」
廊下に待機しているドン・クリステンに声をかける。少しドアを開け、その遮光瓶といくつかの薬包を差し出すと、ドン・クリステンがそれを受け取った。
「これが例の?」
「まずは1日1回で試してみて。効果がなければ2回。その間、べつのものの投与はやめておいたほうがいい。カルケルはオッケー」
「きみは来ないのか?」
ユーリが目をまん丸くさせた。ドン・クリステンは、当たり前のようにユーリを連れて行く気でいたようだ。もう一度シャワーを浴び直し、寝る準備をしている格好だというのにだ。
「いや、ダメだろ。大学に行ったら迷惑かからない?」
「二コラはいま大学ではなく、軍部の診療所で療養中だ。この時間なら夜勤の者しかいない。構わんよ」
「リュカの許可は?」
「出かけてくるとでも言っておけばいい」
ドン・クリステンの言葉に、ユーリは無邪気に笑って勢いよく抱き着いた。おいおいとドン・クリステンが笑う。
「薬品を落としたらどうするんだ」
「ニコラと話してもいい?」
「そのために行くんだろう」
話すなとは言わないと、ドン・クリステンが穏やかな口調で言う。頬を軽く撫でられたあとで額にキスをされる。
「名残惜しいが、そろそろ持ち主に帰してやらないとな」
「条件付きなら囲われてやってもいいんだけど」
「言ったはずだぞ。『人のものを寝取る趣味はない』」
ユーリは笑みを深め、ドン・クリステンから離れた。
「Sig.オルヴェ、おれも」
部屋に戻ってきて眠っていたジジが体を起こす。脱いでいた上着をごそごそと着てやって来る。背中から抱き着かれ、ぐりぐりと顔を擦りつけられた。まるでなにかを理解しているかのようだ。普段はこんなことをしない。やたらと甘えてくる。自分の顔がほころぶのを感じながら、ジジの頭をわしわしと撫でた。
「大丈夫、二コラに会いに行くだけだから」
顔をあげたジジの目が少し鋭くなった。見抜かれているのか、それとも二コラのことをあまり好きではないかのどちらかだ。
「あいつ、嫌い」
ジジが唸るように言った。ユーリが眉を下げて笑うのを見て、ジジがぎゅうっと抱き着いてくる。
「Sig.オルヴェ、おれの主」
「じゃあ、二コラのことも主と思えばいい」
「主はひとりしかいらない」
「あれ、ミカエラは?」
そう尋ねると、ジジは適切な言葉を探すように視線をさまよわせ、少しの沈黙ののちにうんうんと頷いた。
「ミカエラはおれのボス」
ボスは逆らうと怖いと、言ったあとで、「逆らわなくても怖い」とジジが言い換える。
「え、俺は?」
ユーリが尋ねると、ジジはきょとんとした顔で首を横に振った。
「Sig.オルヴェは優しい。おれはSig.オルヴェのようになりたい」
ぐりぐりとまた顔を擦りつけられる。ユーリはジジの頭を撫でて、短い髪を指で梳いた。
「俺みたいになっちゃだめだ。ジジ、今日からはドン・クリステンと一緒にいるように」
「いやだ」
「いやじゃない。ちゃんとドン・クリステンのいうことを聞くこと」
ジジは不満げにユーリを見て、またぎゅっと抱き着いてきた。
「ほら、行くぞ。ミクシアについたら、夜だけど一応ジャンカルロの店は開いているから、パニーニでも食べて待ってて」
しぶしぶと言った感じで頷いて、ジジがユーリから離れた。シャツの裾を握られている。離れたくないという意思表示のようで、ユーリは笑いながらジジを軽く抱き寄せた。
「俺の用事が済むまで。だから心配ない」
ジジが頷くのを待って、ジジを解放する。もう一度ジジの頭を撫でたとき、複雑そうな表情で見上げているのに気付いた。
「ジジ?」
ジジが首を横に振った。「パニーニいっぱい食べる」と、ややいつもよりも沈んだ声で。ジジがなにかを察していることに気付いて、ユーリはまた「大丈夫」と、今度は自分にも言い聞かせるかのように告げた。
***
ミクシアに着き、ジジはドン・クリステンの補佐官に連れられてジャンカルロのパニーノハウスに向かった。
ユーリはいつものようにピエタのフードマントを被せられ、ドン・クリステンのあとを追う。
軍部の診療所は初めて来た。爆発の被害もすごかったのか、廊下にまで患者が溢れている状態だ。ユーリが連れてこられたのは、病室ではなかった。会議室を個室として使用しているらしい。ドン・クリステンが部屋のドアをノックする。二コラのやや掠れたような声がした。
「失礼するよ、二コラ」
調子はどうだね? と、ドン・クリステンが尋ねる。
「以前よりは良いようです」
そう言って、こちらに気付いたように二コラが視線を向けてきた。思ったよりも顔色がよさそうだ。いつもはちゃんとセットされている髪が下りているのが珍しくてつい注視してしまう。
「あちらは?」
ドン・クリステンが笑みを深める。
「きみに会いたがっていたのを連れてきた」
言って、ユーリを会議室に招き入れ、フードを脱がせた。二コラが目を見張る。
「ユーリ」
どことなくホッとしたような表情だ。ここに来る前はあんなに嬉しかったのに、実際に会うとなんだか緊張してしまう。不満げに眉を顰め、視線を逸らした。
「油断しすぎだわ、バーカ」
「下手したら死んでたかもしれないのに」と声を尖らせる。二コラは「悪かった」とよどみのない声で言ったあとで、こちらに来るように指示をした。
ドン・クリステンを見上げると、にこやかに笑って「しばらく席を外すから、ゆっくり話しておいで」と部屋をあとにした。鍵がかかる音がして、ドン・クリステンの革靴の音が遠ざかっていく。ユーリが素直に二コラの言葉に応じると、ぎゅっと抱き寄せられた。
「いろいろと試行錯誤してくれたと聞いた。すまなかったな」
「べつに、あんただけのためじゃないし」
離してと言ったが、二コラが腕をほどいてくれるそぶりはない。ユーリは二コラの背中をぽんぽんと叩いたあとで、腰のあたりをつねった。
「離せ、消毒液くさい」
「つねるな」
「いまさら謝ったって遅い。俺はあんたのそういう無頓着で人の感情の機微を察せない鈍さが嫌いなんだ」
二コラから離れ、持ってきていたバックパックから例の蒸留水と薬包を取り出して、サイドテーブルに置く。蒸留水はカルケルに混ぜて飲んでも薬効に変化がないことが記載されていた。サイドテーブルに置かれたコップに、サーバーから水を汲んで、そのなかに蒸留水を数滴混ぜたものを二コラに突き出した。
「これ飲んで」
二コラが怪訝な顔をする。
「大丈夫、苦くないから」
「本当だな?」
「苦かったらキスしていいよ」
悪戯っぽく笑いながら言ってやる。胡散臭そうにそれを眺めていたが、少しして、二コラがそれを一口含んだ。味に問題などなかったのか、コップに半分ほど入った水を、顔色も変えずに飲み下す。
「ほら」と勝ち誇ったように言ったが、二コラの手が伸びてきて後頭部を引き寄せられた。
唇が触れる。触れるだけのキスだったけれど、驚いたせいで微かな声が漏れた拍子に舌が割り込んできた。やめろと言おうとしたが、キスに応じて舌を差し出したと思われたのか、二コラの舌が触れ、ぶわっと体が熱くなる。熱を持つ粘膜同士が触れ合い、もつれ、絡み合う。静かな部屋の中にふたりの息遣いと濡れた音が響いた。
頭がふわふわする。二コラが触れた箇所から熱に侵食され、支配されそうなほどじんじんと体が熱くなるのを感じて突き放そうとしたが、ことりとコップが置かれる音が聞こえたあとで、ベッドに腰かけさせられ、そのまま押し倒された。
「んんうっ!?」
マジかと口の中で抗議し、二コラの背中をバシバシ叩く。二コラはもう離す気などないといわんばかりに、卑猥な音が立つほど口の中を犯される。上顎を肉厚な舌がなぞるように蠢く感覚で腹の疼きが増長するのを感じながら、ユーリはなんとか二コラの這い出ようとするが、二コラの手がするりと服の中に入ってきて、びくんと体が震えた。
抗議の声をだそうにも、キスに感じ入っているような甘えた声しか出て行かない。鼻で息をすることしかできずに上下する腹の上を二コラの手が這い、へそをすりすりといじられる。そうするとユーリにスイッチが入ることを知っているのだ。質が悪い。ゴンと二コラの後頭部を殴る。がちりと歯が当たった。
「おまえっ」
「最悪っ、消毒液くさいって言ったのに」
口の周りがべたべたで、手のひらで拭うと同時に、再びキスをされないように覆い隠す。じとりと熱を孕んだ視線を向けられ、両手を顔の横に押し付けられたあとで、こつんと額をぶつけられた。
「なに、甘えてんの?」
「正直に言って、死ぬかと思った」
「だろうなァ。じわじわと中から侵食されて、内臓がイカれていく。ヴィータの原型は一応そういう抗炎症作用が強いこともあって、通常よりも効果が出にくかったのはあると思うけど、そもそも適正な毒消しじゃないし」
「カルケルで淹れた紅茶を飲んだのもよかったのかもしれないな」
紅茶と言われて、ユーリは気まずそうに目を逸らした。あれは確かにアップルティーだが、ソナーが入っていたし、おまけにあの日はいろいろ盛った。本人が覚えていないのならいいかとすぐに表情をすり替える。鼻先が触れる。またキスをされた。今度は啄むようなキスだ。唇を軽く吸われ、甘噛みされる。
「おまえが泣くのを見るのが嫌だった」
「なにそれ?」
「再三注意を促されていたのに、パウーラの類似症状が現れた者が周りにいたとなると、どうせ責任を感じるだろう」
ユーリはそれをさっきまでの熱を帯びた表情とは打って変わって白けた表情で睨むと、顔を逸らしてキスを拒んだ。
「うぬぼれんな、バーカ」
「嘘を吐くな」
「嘘なんてついてねえわ」
「Sig.エーベルヴァインから、夜も寝ているふりをしていろいろと研究をしているようだと伺った」
きょとんとする。
「アレクシスから?」
「いや、小さいほう」
小さいほう? と、ユーリが目を瞬かせる。もしかしてベアトリスのことか? と思う。そういえば、みんなベアトリスのことをべべだのベアトリスだの呼んで、敬称で呼んでいるところを聞いたことがない。
「プロエリムの、サイコ野郎?」
「サイコ野郎かどうかは知らないが、そちらだと思う」
「マジ、あいつら苗字一緒なの?」
「詳細は知らないが、引き取られた先が同じだと仰っていたぞ」
なるほど、だからアレクシスはやたらと医療知識があったり、上官と部下の間柄なのにあんなフランクな関係なのかと思う。そのまま頬にキスをされ、ユーリはばたばたと足を動かして抵抗した。
「いつまで乗っかってんだ、降りろ!」
「こんなところでしないからな!」と声を荒らげる。二コラが顔を赤らめ、ユーリの上で蹲るように小さくなった。「そんなつもりはなかったんだが」とぼそぼそと言うさまを見て、なんとなく気分がよくなる。でも流されないと自分に言い聞かせ、二コラの腰を膝で蹴った。
「降りろ、どすけべ。職場で人を抱こうなんて、最低極まりない」
自分だって研究室で二コラに仕掛けた前科があるが、棚に上げて言ってやる。二コラは気まずそうな顔をしたまま体を起こした。すぐさま二コラの下から這い出てベッドから降り、距離を取る。乱された服を整え、じろりと恨めしそうに二コラを睨んだ。
「ドン・クリステンに尻尾を振るなら、手を出さないって言ったくせに」
普通に出してんじゃねえかと詰る。二コラは苦い顔をして片手で顔を覆った。
「すまん、衝動的だった」
衝動的? 口の中で呟く。二コラが衝動で動くことがあるのかと、目を瞬かせる。ねえと二コラを呼ぶ。
「俺のこと好きなの?」
二コラが驚きと焦りを混ぜたような複雑な顔をしているのに気付く。
「離したくないと思った」
ぼそぼそと二コラが言う。ユーリはふうんと目を細くして二コラを眺め、くすくすと笑った。
「俺はあんたのこと好きだけど、恋愛感情じゃない。人として、友達として好き」
そもイル・セーラとノルマに恋愛感情なんて生まれんだろと言ってのける。たまにノルマとイル・セーラのダブルがいるが、あれはたまたまかなにかだと思っている。それはユーリ独特の考えで、もしかすると世の中にはそういうカップルもいるのかもしれないが。
二コラが居た堪れないような顔でベッドに座り直すのを見ながら、軽く両手を広げて見せた。
「そりゃあ抱かれるならあんたがいいし、奥を抜かれるのも二コラじゃないと嫌。触れられたら一番落ち着くのもそうだし、嫌いじゃないと思う。でも、それがなんなのか、正直分からないんだよね」
子どものころから様々なノルマに抱かれ、それこそ惚れられて身請け話が出たりもしたが、ユーリ自身はその気がさらさらなかったし、そのあたりの感情に疎い。嫌いな相手でも普通に抱かれていたし、触れられた際に生じる快不快以外の判断材料を持ち合わせていない上に、恋人と呼べる存在がいたことがない。自分の性欲を満たしてくれるなら誰でもいいとすら考える節があるし、対価さえあれば、そして目的さえあれば誰に抱かれても構わないとすら思っている。それはいまも変わらない。
ただ、抱かれたあとに一番満たされた感じがしたのは二コラだった。だから初めて二コラに抱かれたあとに、一方的に懐いただけだと自分では思っている。その感情がなんなのか、未だにわかっていない。
たぶん、ドン・クリステンが最後までしなかったのは、それを自覚させるためでもあるのだろうと、自分で言いながら気付いた。二コラがいい。でも、――。
「俺は、ユーリを自分の手の届かない場所にはやりたくない」
「なにそれ、庇護欲? あんたは家を継ぐ身なんだから、ちゃんとしたレディーを囲ったほうがいいんじゃない?」
前に街で一緒にいるところを見たあの子なんてお似合いじゃんと言ってのける。二コラの眉間が不快そうに歪んだ。
「おまえは本当に自分のことになると鈍いな」
俺も大概だがおまえは鈍すぎると、二コラが語気を強める。
「は? 自分の身体の微々たる変化に気が付かない朴念仁に言われたくないんだけど」
「だから、なんというか」
新緑のように清々しく、純粋な瞳に飲み込まれそうになる。言い淀む二コラの目を見て、その奥にある感情に気付いた。自分を囲いたがった貴族たちとおなじだからだ。
意味深な顔で、言い淀む二コラを眺めていたが、その言葉を聞いては自分の決意が揺らぐと思った。
二コラの口をキスでふさぐ。ついばむようなキスをしたあとで、悪戯っぽく笑って二コラの頬をつまんだ。
「言わなくていい」
「ユーリ、おまえ、なにか企んでいるな?」
ふふんと笑って、二コラに抱き着く。ぽんぽんと背中を叩いたあとで、今度は強く抱き着いた。二コラの腕が絡む前に、余韻を持たさずに身体を離す。
「全部終わったら、二コラと俺は別の道を行く。俺は故郷へ。二コラはここで。交わることのない道を生きる」
そうだ。本来なら、交点などない。平行線はどこまでも平行線で、セックスで物理的に交わったとしても、それは違う。前王がイル・セーラを奴隷化しなければ、ユーリと二コラは会うこともなかった。もちろん、栄位クラスの仲間や、チェリオや、ジャンカルロとも。その平行線にたまたま横やりが入ったからゆがみが、ねじれが生じただけだ。だけど、やっぱり、この気持ちがなんなのか、最後に知りたい。
「だから、無事に終わったら、最後に抱いてくれる?」
二コラの眉間にしわが寄ったかと思うと、腕を捕まれた。俯いたまま、なにもいわない。溜息だけが聞こえた。
「大学には残らないのか?」
「残る意味ある? あんたたちはよくたって、ほかの人たちが嫌がるだろ」
「他人など関係がない。重要なのはおまえがどうしたいのかだ」
二コラが顔をあげ、語気を強める。真剣なまなざしだ。また曇りも躊躇いもない目に吸い込まれそうになって、はぐらかすように笑った。
「なにそれ、俺が誰かのために大学に残らないって言っているみたいじゃん」
「実際そうだろう。大学側に迷惑が掛からないように、自分から退いたくせによく言う」
「違うよ、いても意味がないからやめるって言っただけ。開放すべきスラムももうないし、やりたいこともないし、サシャもいない」
「サシャのために。サシャが学びたかったことを、もう一度学ぶというつもりはないか?」
そう言われて、目頭が熱くなるのを感じた。不意に零れ落ちたものを拭い、二コラに見られないように顔を背けたが、遅かった。腕を掴む二コラの手に力がこもる。
「そんな気ないよ、余計辛くなるじゃん」
「なら俺の傍にいればいい」
離したくないと、もう一度二コラが言った。二コラの顔を見れない。溢れてくる涙を拭って、自分の腕を握る二コラの手を、指を、一本ずつ外す。二コラの手が力なく下がるのを見て、捕まれないように距離を取った。
「あんたのことは好きだけど、ノルマのことは嫌い。俺はこう見えて複雑で繊細なんだ」
「ユーリ」
二コラが人前では見せない情けない顔をする。その顔を見て眉を下げて笑って、まるで未練を断ち切るように踵を返した。
「蒸留水と薬包の中の丸薬は、1日一回服用して。分量は、蒸留水はスポイト半量分が一回、薬包のなかの粉薬は一回一包、丸薬は一回5粒ね。
倦怠感と悪寒が消えなければ、1日二回。割とすぐに効果が出ると思うけど、その間ほかの薬や丸薬と混同しないこと。症状が消えたら、あとは屯用してくれたらいい。二週間分くらいはあるから」
わかったと沈んだ声がする。ユーリは振り返らなかった。ドン・クリステンが鍵をかけたが、内鍵を開けて外に出る。言葉を掛けることもなくドアを閉め、そのドアに凭れ掛かった。ふうと息を吐く。涙がこぼれるのを拭いながらも、その涙の意味がわからずにいた。
人間は不思議だと思う。悲しくもないのに涙が出る。感情や繊細さなんてどこかに置き去りにしてきたと思ったのに、自分にもまだ残っていたんだなと感じながらも、吐息と共にそれを吐き出した。
足音が近付いてくる。顔をあげると、ドン・クリステンが歩いてくるのが見えた。涙を拭い、鼻を啜る。涙の意味を問われるのが癪だから故の行動だったが、ドン・クリステンはなにも言わなかった。
「渡してきたかね?」
頷く。大丈夫と自分に言い聞かせるように言って、ぱんと両頬を叩いた。
「こちらも準備が整い次第動く。彼が動いたあとで軍医団にもきみが作った蒸留水を手渡しておくよ。西側のと言っていたが、スラム街全体の土壌の改善が必要になるだろう。現状の量では在庫が足りなくてね、きみに戻ってきてもらえないと困る」
ドン・クリステンの含みのある笑みを見上げ、ユーリが挑戦的に口元を持ち上げた。
「“契約外”で俺を働かせる気?」
「手伝ってもらうことはまだまだあるぞ。セラフィマ嬢が戻ってきた後の引継ぎもそうだが、司法に証言してもらわなければならないこともある。オレガノとの国交正常の為にも、きみの存在が必要不可欠だ。
だから大人しくしておけ、ガッティーナ。きみが次になにをするつもりか、当てて見せようか?」
キアーラを捜しに行く前、大学でドン・クリステンが言ったセリフだ。ユーリはわざとらしく首を斜めに傾けて、肩を竦めた。
「当ててみて」
自明のことだと言うのにわざとらしく言ってのけたユーリを見て、ドン・クリステンがくっくっと笑う。
「くれぐれも単身敵の懐に飛び込むことのないように」
ドン・クリステンが目を眇めてユーリを見る。「残念でした」とユーリがどこか楽しそうな声色で言って、ドン・クリステンにしなだれかかった。
「ねえ、ご褒美にフォルス一帯を俺に頂戴」
ヴェッキオとリーチェあたりまでと、ユーリ。ついでにジェオロジカあたりまであったら嬉しいなァと甘えたように言ってみる。まるで小さなものをねだるかのような口調だが引き合いに出すものが大きすぎるうえに大胆な発言だ。ドン・クリステンが声を上げて笑った。
「なかなかの広範囲だな。情報開示をしないつもりならそんな範囲を渡すわけにはいかない」
「堅牢な壁を作って二度とノルマと関わらない」
いままでの甘えたような口調と同じ口調でしれっと言ってのける。だからちょうだいと、念を押すように言うと、ドン・クリステンがユーリの頬をふにふにと指で揉んだ。
「それは俺たちも含まれているのかね?」
「そりゃそうでしょ。当然の権利だと思うんだけど。もうミクシアではパンデミアのことを報道もしてないんじゃない? 爆発事故のことと諸々の事後処理に追われているって、エリゼがこないだぼやいていた」
あとはねえと甘えたように言うユーリの頬をドン・クリステンが軽くつまむ。
「そういう算段は事が終わってからにしろ」
「俺はご褒美が確定したときのほうが頑張れる。どうせ死ぬほど嫌な思いしなきゃならないし、だったら先に美味しい思いしておきたいじゃん」
クロードと“ユーリ”の研究が間違っていなかったっていう証明と、俺のリナーシェン・ドクの資格と、イル・セーラの復権と絶対的な身の安全の保障と、全員の一生分の補償金と、あと俺が手の内を見せた丸薬の権利収入ねと、人懐っこい笑顔のままで告げる。ドン・クリステンは呆れるところかくつくつと込みあがるようにしていたが、失笑に堪えなかったようだ。
「それだけでいいのかね?」
「え?」
「命には代えられないが、サシャに対する補償が入っていない」
そう言ってドン・クリステンはユーリの顔を両手で包み込むようにして、含みのある笑顔を見せた。
「まあ大人しく見ていろ。損はさせない。きみがいなければ二コラは命を落としていただろうし、俺も無事では済まなかった。きみからの忠告で、帰りのルートを変えて正解だったよ」
でしょ? と、ユーリが笑みを深める。
「人の顔色を見るのは得意なんだ。絶対になにか仕掛けてくると思った」
「しかし、俺に黙って動くようなタイプではなかったが、なにが彼を突き動かしたものやら」
「あんたも、自分の立場も、それから『国交も』守るためじゃない? そのためなら自分すら犠牲にするタイプ」
俺はあの人好きだし、怒らないであげてほしいなァと、間延びした口調で言う。ドン・クリステンは静かに笑って、ユーリを軽く抱きしめた。
「上を説き伏せるのに思いの外時間を取ってしまった。だからこそ動かざるを得なかったのだろう。きみにも嫌な役目を背負わせてしまうな」
「俺は別に。慣れてるし。キアーラが無事ならそれでいい。問題は、戻ってきたらオレガノ側からくそほど怒られそうってこと」
Sig.エーベルヴァインよりミカエラが怖いと、ユーリが人懐っこく笑う。
「処方した薬は飲んだかね?」
ドン・クリステンがユーリの唇を触る。飲んだよと含みを持たせた笑みにすり替えて、とんと自分の胸を叩いた。
「もう隣にはいないけど、俺には『神聖な守り神』がいる。なにかあっても、サシャが守ってくれる」
ずっとそうだった。これからも、きっとそうだ。ユーリはドン・クリステンから離れたあと、挑戦的な表情で目を眇めて見た。
「俺からの条件、忘れんなよ。賠償金と補償金を死ぬほどふんだくってやる」
お手柔らかに頼むよとドン・クリステンが声を出して笑うのを聞いて、笑みを深めた。
ドン・クリステンと共に市街の出入り口にある門近辺に差し掛かる。いつもの門兵がいない。そのかわり、見知った姿があった。
ユーリとドン・クリステンの姿を見つけて、いつものように虫も殺さぬような穏やかな笑みを浮かべる。
「準備が整い次第、と思っていたのだが」
ドン・クリステンが含みのある笑みを浮かべ、ユーリの背をポンと叩いた。
「生憎そうも言っていられない。そこのガッティーナが秘密を解いてくれたおかげでね」
ドン・クリステンから視線を送られる。ユーリはなんのこと? と言って、アルテミオを見る。とぼけたつもりはないが、アルテミオが大袈裟に両手を広げた。
「首を突っ込むなと言ったはずだぞ、ユーリ」
「もしかして、あの人形の中間地点にあるキーアイテムってマジだった? 冗談で言ったんだけど」
アルテミオがふうと小さく息を吐いて、ドン・クリステンに視線を送った。
「仕方がない。ユーリ、責任を取って少し顔を貸してもらえるかな?」
「いいけど、高いよ?」
人懐っこい笑みを向け、冗談めかした口調で言う。アルテミオが肩を竦める。
「そのあたりは軍医団長に請求してくれるとありがたいなあ。足元を固めるのに思いの外手間取ってね」
ホールドアップをするように手を挙げていたが、アルテミオの小指と薬指に遮光瓶が引っかけられているのが見えた。はっとしてドン・クリステンに注意を促すよりも早く、腕を取られ、後ろ手に拘束された。ユーリの後ろにいたのはドン・ナズマだ。全然気配を感じなかった。空いた手でドン・クリステンに銃口を向けているのが見える。
「やはりネズミは“きみ”か。どうやらうちの野良犬が狩り損ねたようだ」
「そちらの野良犬は地下で牙を研いでいると思いますよ、ドン・クリステン」
ドン・ナズマがいうと、アルテミオが手にしていた遮光瓶のうちのひとつをドン・クリステンに向けて放り投げた。軽くそれをキャッチして、不敵な笑みを浮かべる。
「やれやれ、人使いの荒いやつだ」
「少し借りるよ、ジョス」
「あまり手荒な真似はしてくれるなよ、これからも動いてもらわねばならない大事な大事なガッティーナだ」
「心配には及ばない。本当に少し“借りる”だけだから」
言いながらアルテミオがもうひとつの遮光瓶をドン・クリステンにちらつかせる。
「先に断っておくけど、デティレはつかうよ。命令なんだ。恨まないでくれ」
ほおとドン・クリステンの声色が変わる。
「その命令は誰のものだね?」
「さあ、答える義務はない。少しでも妙な真似をしたら、わかっているね? 俺はきみよりも銃の腕が確かだ」
ドン・クリステンが軽くホールドアップをする。アルテミオはそれを見て薄く笑うと、ではと言ってユーリを市街を出る門の外へといざなった。
ともだちにシェアしよう!

