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Sixteen(5)
王宮に赴いた際、城門の警護をしていた男がまるで化け物でも見たかのように大人しくなった。
ドン・クリステンと同じ顔の男がここに訪れたことは明白だ。王宮の人間ともなるとさすがに躾が行き届いている。男はレナトに深々と頭を下げたあと、銃に刻印されたエンブレムを確認し、ユーリたちを玉座の間まで案内してくれた。
玉座の間にはやはり“ドン・クリステン”がいた。本物がいつも着ているものと同じデザインの、ピエタの高官の制服を纏っている。
近衛兵たちがざわつく中、レナトはユーリを抱えたまま颯爽と玉座のほうへと近づいた。臙脂色を基調とした、縁に金色の刺繍糸で煌びやかな装飾が施されたじゅうたんが敷かれた階段の脇に立つと、ユーリの身体を支えるようにして立たせた。がくんと膝から崩れ落ちそうになり、慌ててレナトにしがみ付く。すぐさまレナトが庇ってくれたおかげで、事なきを得た。
レナトは怪訝な表情の王に向かって軽く頭を下げる。王がいる玉座から数段下にある場所に控えていた、赤い髪の男が、レナトを見て瞠目するのが見えた。
「謁見中に邪魔をするが、構わんかね?」
いつもの口調で王と対等に話をしているのを見て、ユーリは思わず顔を見上げた。ドン・クリステンの時とは違い、更に余裕があり、それでいて居丈高な表情だ。
「無礼者が」
ヴェロネージが吠えたが、それは絞り出すような声で、動揺があからさまに滲み出ている。
王の表情が明らかに変化した。
「これはいったいどういうことだ」
立ち上がり、傍にいた赤い髪の男に質問を投げかける。ヴェロネージは動揺するかと思ったが、すぐに居直った。赤い髪の男が、レナトを指さして、「あれは偽物です」と弁明を始めた。それを遮ったのはレナトだ。
「失礼を承知の上で言わせてもらうが、バルドよ、おまえは私の顔すら分からないほど耄碌したのかね」
「口を慎め、王の御前だぞ」
「ならば我が家のエンブレムを翳せ。君が本物だというのなら、持っているだろう」
ヴェロネージがしめたと言わんばかりにエンブレムを翳した。
勲章につけられたそのエンブレムと、レナトのエンブレムとは、あきらかに形状が異なっている。ヴェロネージが持っているのは、”ドン・クリステン”が軍医団の制服を纏っているときにつけているものとおなじものだ。王と側近がざわついた。
ヴェロネージの後ろには、謁見をする相手が妙な真似をしないためか、警備兵が控えている。レナトは顎をしゃくって彼に合図を送る。すぐさま男が動き、ヴェロネージの腕を捕えた。
「き、貴様っ、なにをする!」
触れるなとヴェロネージが吠えるが、彼は不敵に笑って、後ろ手に手錠を掛けた。
「うまく顔を変えたところで、雰囲気とその“におい”はごまかせませんよ、ドン・ヴェロネージ」
ナザリオだ。驚いて目を瞬かせる。「どういうこと?」と小声で尋ねると、レナトが軽く肩を竦めた。「あれが彼の本来の仕事だ」と、目配せしてくる。ピエタの隊長ではなかったのかと、驚きを隠せない。
「貴様は、死んだはずでは」
声を震わせるヴェロネージを見て、ナザリオが真顔で拘束を強める。
「遺体の確認はきちんとするようにという、基本すらお忘れですか?」
悔しそうに眉根を寄せる。ナザリオがレナトに視線を向けると、不敵な笑みを浮かべたレナトが口を開いた。
「バルド、おまえはどこの誰と、なにを話していた?」
「口を慎めと言っているだろう!」
慌てたように階段を駆け下りて、赤髪の男がドン・クリステンの肩に手を掛けた。その手を鬱陶しそうに振り払うと、彼をじろりと睨みつける。
「私は王と話をしているのだ。虎視眈々と王に成り代わろうとしている卑怯者こそ口を慎みたまえ。私を誰だと思っている」
赤髪の男は苦い顔をして舌打ちをした。じろりと鋭い目で睨みつけられる。この顔は見たことがある。たぶん、第一後継者のロイド――レ・デューカと名乗っていた、あの悪趣味な男だ。
「ヴィータを作成したイル・セーラの処刑をというのは、“ドン・クリステン”の案ではないのか?」
王が怪訝そうな表情をそのままに言った。
「そのような指示を私が下すと思うかね? ヴィータを作成したのは彼だ」
レナトがユーリに視線を寄越す。すぐさま赤髪の男が剣に手を掛けたが、後ろに控えていたジルに取り押さえられた。
「き、貴様っ、ジーノ!?」
「えっ!?」っと驚きながら、振り返る。ジーノという名前に聞き覚えがあった。たしかミクシア王の三男だ。王位継承権を放棄し、別の国に亡命したと聞いていたが、そのジーノがジルと同一人物だったらしい。ジルはやや安堵したような表情で、赤髪の男の腕を後ろ手に捻りあげた。
「父上、弁明の時間を頂いても?」
煩わしさと、怪訝さを抱えたような、苦い表情を浮かべ、王がジルに視線を向ける。なにを言うでもなかったが、ジルは軽く頭を下げ、抵抗する赤髪の男を拘束する力を強めた。
「次兄・エディンの事故死を境に、私は継承権を破棄しました。父上は変わってしまわれた。その切っ掛けがあまりに怪しかったもので、伯父上に頼み込んで捜査をさせてもらっていました」
言いながら、ジルが赤髪の男をレナトの前に連れてくる。
「父上、我が兄・ロイドは、元部下であるウィルフレド・レゼスティリ、並びにそこにいるエヴァルド・ヴェロネージと結託し、父上の失脚を企て、ミクシアをフィッチに占領させる目論見があったのです」
王の表情の変化は良くうかがえないものの、雰囲気があからさまに変化するのが分かった。ジルもそれを悟ったのか、「お聞き届けください」と、念を押すかのように言う。
「そのためにはまず、アルマを流行させ国民の大半を殺すこと、そして伯父上を殺し、ヴェロネージが伯父上に成り代わることが必須。その二つの計画が秘密裏に進められてきた。
ですが、アルマの流行をよしとしなかった父上の命により、そこにいるユーリ・オルヴェがアルマの中和剤であるヴィータを作成した。そのために計画を変更せざるを得なかったヴェロネージは、ユーリ・オルヴェを襲撃し、ヴィータのサンプルを奪い、拮抗薬を作成することで、パンデミアを煽ったのです。
処刑される理由があるとすれば、ユーリ・オルヴェではなく、ここにいる我が兄と、ヴェロネージではないでしょうか」
やはり赤髪の男はロイドだったらしい。ジルに押さえ込まれ、手を離せと暴れる姿を見て、別の近衛兵たちが駆けてきたが、レナトのひと睨みで大人しくなった。息を飲むような音がする。レナトはブラッキアリ家の当主だとは聞いていたけれど、近衛兵まで言うことを聞かせられるのかと、単純に考える。
「それは本当か?」
訝しげな声で、王が問う。
「ええ。伯父上に着いて、すべてを見てきました。我が兄は、父上の洗脳を見てみぬふりをし、失脚後は自らが国王になることを望んでいた。そのために彼らと手を組んだのです」
「でたらめを言うな!」
ロイドが吠える。暴れるロイドをさらに強い力で押さえつけて馬乗りになると、ジルがヒップホルスターからなにかを取り出した。ガラス製の、10ml程度の薬瓶だ。遮光性のそれにはラベルがないものの、開封済みだからなのか、うっすらと薬品のにおいがする。すんと鼻を動かして、においを嗅ぐ。トップにあるのは花のような、ハーブのような香りだが、それはすぐに少し刺激があって、独特なフゼア系の香水のようなにおいに変化した。思わず「あァ」と声を出したら、レナトが頭上から笑うのが分かった。
「正体が分かったかね?」
レナトを見上げる。視線だけで「言っていい」と告げられ、頷いた。
「香炉に入れて焚く、洗脳とか、精神操作系の薬効がある薬物だと思う。どっかで嗅いだことがあんだよなァ」
「奴隷風情が、口を挟むな! 貴様らがいた場所とおなじものがあるわけがない!」
汚らわしいと、ロイドが血相を変えて怒鳴った。こちらを振り向いたロイドは、目が血走っていて、ふうふうと息を荒らげている。そんな形相だと、正体を知っていると自白しているようなものだ。ふうんと挑戦的な笑みを深め、ロイドを見る。
「なんで収容所で嗅いだって思ったんですかァ、レ・デューカ」
ロイドがハッと息を飲むのが分かった。バレていないとでも思っていたのだろうか。じわりとした憎悪と殺意のこもった視線を向けられた。奴隷風情にしてやられると思っていなかったと、顔に書いてある。
「しらを切っても無駄ですよ、兄上。ウィルフレドが用いた薬はフィッチでしか使用が許可されていない、わが国では危険薬物に指定されているものと同成分。それらを生成するための薬草はわが国には自生しておらず、輸入することでしか入手できない。ドン・フィオーレとドン・ナズマが証明してくれましたよ。
それに今日の父上はやけに饒舌だとは思いませんでしたか?」
ロイドの唸り声がする。アルテミオがレナトに渡していた、あの薬品のことだろうかと思案する。ちらりとレナトを見やると、意味深な視線を向けているのが見えた。
「バルド、おまえはそこにいる私の偽物とロイド、それと私と、どちらを信用するのかね?」
レナトの威圧感が伝わってくる。鋭く王を見据え、嚇すような口調で言ってのける。王はヴェロネージとロイドへと交互に視線を向けたあと、玉座に腰を下ろした。
「ロイドとヴェロネージを捕えよ」
「父上!」
ロイドが吠える。その声もむなしく、先ほどジルを捕らえようとしていた近衛兵たちがロイドの両脇を抱えて引き起こした。手錠を掛けるような音がする。
「黙れ。それから、ウィルフレド・レゼスティリを探し出せ。彼は重要参考人である。決して死なせるな」
「ああ、それならもう捕まえてある。ユーリが一肌脱いでくれたんだ。かわいそうに、毒を盛られてまで、“ミクシア・オレガノ間の国交正常交渉”の為に動いてくれた」
ヴェロネージの鋭い視線がこちらに向けられた。一瞬、ぞわりと悪寒が走った。反射的にレナトにしがみ付く手に力が籠る。
「あまり怖い顔でこちらを見るんじゃない。まるで化け物のようじゃないか」
レナトが「連れていけ」と告げると、ナザリオがヴェロネージを、そして近衛兵たちがロイドを連れて行った。敬礼をした後で玉座の間を後にする。
ほんとうに、この人は何者なのだろう。不思議に思ってレナトを見上げた時だ。王が玉座を立った。煌びやかなマントをたなびかせて、階段を下りてくる。そうかと思うと、じゅうたん上ではあるものの、レナトの前に立った。
王の顔を初めて見た。収容所や、フォルスで見たあの顔とは違う。想像よりも穏やかそうで、ただ、少し気弱そうな面が伺える。それはレナトの前だからなのだろうか。レナトとおなじサマーグリーンの瞳がこちらに向いたけれど、不思議と恐怖心がなかった。目を瞬かせ、王を眺める。王はレナトに視線を向け、静かに跪いた。
「兄上」
王の声だ。兄上? 「えっ?」っと声が上がる。
「あ、あに、うえ?」
きょとんとする。兄上って、あの兄上だよな? サシャとおなじ……と、当たり前のことを思案しながら、動揺を隠せない。頭上から穏やかに笑う声がした。
「ああ、言っていなかったかね。私は継承権こそ返上しているが、血筋的にはバルドの異母兄にあたる」
ふえ……と間抜けた声が出た。だから王にすらあんな口の利き方ができ、且つ近衛兵たちが言うことを聞くのかと納得する。
「バルドよ、私はおまえがこの国を変えたいと言ったからこそ、オレガノからわざわざ戻ってきてやったんだ。それがなんだ、この体たらくは。
おまえはこの4年間、いったいなにをしていた?」
王が頭を垂れている。状況が理解できないユーリに、ジルが「じろじろ見るな」と小声で、鋭く言った。
「収容所を閉鎖し、奴隷解放を推進したことは褒めてやろう。だが、それ以外はなにひとつ手付かずだ。私は先ほどナザリオが連行した男に、散々苦汁をなめさせられた。身分を偽らざるを得なかったとはいえ、おまえがもっとしっかりと政府の手綱を締めていれば、このようなことにはならなかったのだ。
なんのための王族だ。恥を知れ」
自分の前ではしないような厳しい口調だ。雰囲気もまるで違う。王が「申し訳ありません」と絞り出すような声で言うのを聞いて、レナトが王に「申し開きがあるのなら聞いてやる」と、地を這うような低い声で言った。
「面目ございません。エディンの死を機に臥せってしまい、暫くロイドに公務を任せていた時期があり、恐らくその際にロイドが企んだのでしょう」
「まるで他人事のようだな。そのせいで彼は、たった一人の肉親を失うことになったのだ。それでもミクシア国民のために動こうとしたイル・セーラを、私が処刑しろなどと言うはずがない」
「それに関しては、私も不審に思い、それで再度お話をお聞きするために、兄上をお呼びしたつもりでした」
レナトがこちらに視線を向ける。言葉の裏を読め、ということなのだろうか。嘘を吐いている雰囲気はない。でも、なにかが引っ掛かる。小さく首を横に振ると、レナトがふうと息を吐いた。
「ほかに、なにか隠し立てしていることがあるな?」
息を飲む音が、はっきりと聞こえた。王がまるでなにかを観念したかのように、更に頭を垂れた。
「体調の悪化を理由に、ロイドに全権を譲るつもりでおりました」
「やはりか。もしそうなっていれば、おまえが作りたがった国を、根幹から揺るがすことになるところだった。
バルド、我々が生き残ることができたのは、先ほども伝えたように、ユーリがヴィータを作成し、パウーラの正体を見破ったおかげだ。
おまえは前王の恐怖政治を間近で見て、あのような思想や悪政から民を救うためと言っていたのではなかったか?
だが現実は、なにひとつ変わっていない。イル・セーラやほかの少数民族に対する差別も、立場もだ。それに、私はこちらに来てから、誰の差し金かしらんが命を狙われたぞ。しかし彼が私の危機を察し、忠告してくれたおかげで免れた。私を救ってくれた恩人でもあるのだ。おまえがどう動くべきか、判断すべきか、わかるな?」
それはほぼ脅しじゃないかと突っ込みたくなる。王は頭を垂れたままでいたが、レナトに顔を上げろと言われ、応じた。
王自体は見たことがない。初めて見る顔だ。でも、サマーグリーンの瞳と、人柄の良さを物語るような目は、確かにどこかで見たことがあった。
この少し寂しげで、自分を理解されない子どものような物悲しさや、それでも強くあらなければならない覚悟を秘めた目は、覚えがある。
王様は悪い人だと思っていた。でもたぶん、それは誤解で、代理で務めていたロイドの指示や、意向だったのではないか。この人には、不思議なほど悪意がない。子どものころから見てきた悪政をどうにかしたくて、藻掻いて、苦しんできた人の目だ。
「ねえ、王様」
自然と口を突いて出ていた。
「レナト以外に、兄弟いる?」
王がハッとしたような顔をした。縋るような目で、レナトを見たのが分かる。
「それがどうかしたのかね?」
「俺が収容所に連れて行かれた時、高熱を出して、別のところで療養させられていたんだ。その間、面倒を見てくれた人がいて、その人の声の甘さや、目が、王様や、アルテミオに似ている気がして」
王の目に涙が滲むのが見えた。驚いてレナトを見上げる。レナトはどこか苦い表情になって、小さく息を吐いた。
「リアムという弟がいた。彼は16年近く前に亡くなっているはずだ」
「前王と共に紛争地帯に行った折に病死したと聞いたが」
あまりはっきりとは覚えていないけれど、その雰囲気の人とは、もう一度会ったはずだ。彼は軍服など着ていなかったし、いま覚えば、あれは、あの時にまとっていたのは、ノルマにとっては猛毒になり徐々に体を蝕んでいく花の蜜と、それを打ち消すための薬草のにおいだったのではないか。ユーリは首を横に振って、一度王に視線をやった。
「病死……と言われれば、そうかもしれない。でも、たぶんあれは、インヴェルサっていうものと、それを打ち消すデティレのにおい」
自分でそう言って、ハッとした。だから王様がデティレを使用禁止にしたのではないか。でも、その組み合わせで使う方法を知っているのは、たぶん限られる。
「もしや、デティレを禁止したのは、誰かにそう言い含められたのではないか? あれは使用する部位によっては解毒作用や麻酔薬に変化する。種と根を単体で使いさえしなければ、の話だが」
レナトの問いに、王が頷いた。
「前王が、そのように」
「なるほど。ではやはり、故レゼスティリ卿も絡んでいるというわけか。これはいくらなんでも、咎めなしとはいかんな」
レナトがジルに視線を向ける。ジルは頷いて、王を呼んだ。レナトの横で跪き、王に頭を垂れる。
「父上、どうか継承権の破棄の撤回をして頂きたく存じます。
伯父上は、アナスターシャをブラッキアリ家の後継にとお考えです。できれば、わたしはアナスターシャと共に、エディン兄上が果たせなかったことを、果たしたく思います」
王はその言葉を受けて、静かに、自分を落ち着けるかのように息を吐いた。長く、細いそれは、自分の中の鬱屈した気持ちや、積年の疑念と共に吐き出しているような、そんなふうに感じた。
「ジーノと共に、兄上のご協力の元、前王が敷いた悪政を正すことに尽くすを誓います」
レナトが静かに笑う。我が意を得たり、というような表情だ。なんとなくだが、レナトは最初からこれを狙っていたのではないかと考える。本当なら、自分ではなく、ミカエラを使って。
「それだけかね?」
その言葉の意味に気付いたのか、王が顔をあげた。また王と目が合う。穏やかな表情で微笑まれ、ユーリはまた目を瞬かせた。
「イル・セーラたちへの補償は、兄上の仰せの通りに」
「よろしい」と含みのあるレナトの声がする。ユーリは王を眺めたまま、目を逸らさなかった。
「なにか要求はないかね? 先日言っていただろう。フォルス周辺の、ジェオロジカあたりまで、イル・セーラたちの領地として欲しいとか、好きに要求してやるといい」
レナトの問いには答えなかった。「王様」と、王から目を逸らさずに、静かな声で。
「イル・セーラは、王制復権なんて考えない。だから、貴族を中心に、『旧王朝の末裔がいる』っていううわさが間違いだったって、そう流布してほしい」
また王と目が合った。本当に、まるであの人が目の前にいるみたいだ。顔も、なにもかもあいまいだけれど、この目の雰囲気だけはよく覚えている。
「王様の弟が、あの時、俺にあの言語を教えてくれなかったら、たぶんうまく立ち回れなかった。だし、旧王朝の末裔がいるってわかったら、いまはよくても、今後もまたそれを利用しようとする人が現れないとも限らない。だから、要らない火種は排除したほうがいい。
イル・セーラたちへの補償は、他の人たちに聞いて。俺は、この国の王様が、本当に悪い人じゃなかったってわかっただけで、それでいい」
「ユーリ、それは聊か人が好過ぎないか?」
「いい。賠償金死ぬほどふんだくってやるって思ってたけど、こっちが要求したら、それが要らない火種になりかねない。王様たちはよくても、そのほかの人たちが、いい顔をしないかもしれないし、住む場所があればいい。イル・セーラは基本逞しいから、環境さえ整えば、生きていける。
どうしてもっていうなら、フォルスを住めるような環境に戻してくれればいい。そこで、みんなと生きていく。ノルマと関わらず、イル・セーラだけで」
王はなにも言わなかった。ただ、なにかを考えるように黙っているだけで、穏やかな、そして覚悟の決まったゆるぎない瞳を逸らさない。かなりの間を置いたあとで、王様が静かに目を伏せた。
「ジーノ、彼の要求通り、他のイル・セーラたちから保障に関する聞き取りをしてくれ。それから、この国に旧王朝の末裔はいない、とも」
「かしこまりました」
「ユーリ、本当にそれでいいのか?」
逆にレナトのほうが驚いている。ユーリは顔をあげて、頷いた。
「リナーシェン・ドクの資格や、丸薬の権利収入も要らないのかね?」
「フォルスに戻るなら意味ないよ?」
お金を使える場所がフォルスにはないと、端的に言ってのける。そもそもが自給自足の村だ。売店もなにもない。ほとんどのものはそろっている。大人たちはパドヴァンに買い物に行ったりしていたけれど、それも診療の対価としてなにかをもらってきたり、その程度だ。
レナトが呆れたような溜息を吐いた。
「それではオレガノが黙っていない。あれは怖いぞ。国からの賠償だといえば、誰もなにも言わないし、黙っておけばいい」
「じゃあ……、スラム街を解放して」
「おいおい、それはきみのためにはならないだろう」
「なんで? 元々の目的ってそれだったし、イル・セーラが奴隷じゃなくなったとしても、スラム街の人たちがあのままなら、なんの意味もない。
スラム街の人たちが、元の居住区に住みたいって言ったら、それは仕方がないけど、でも適切な医療を受けることができたり、些細なことで亡くなるような環境を改善してほしい」
レナトは決して納得のいかないような様子だったが、王様は穏やかな表情でユーリに笑いかけ、リュカがしたような丁寧なお辞儀をした。急に頭を下げられて、面食らう。あからさまに動揺したユーリを、レナトが笑った。
「時間を要したとしても、必ずやそうしてみせよう」
王様が言う。この人は嘘が吐けなくて、二コラのようにくそ真面目な人だと悟る。善処するとも、前向きに検討するとも言わない。はぐらかすような意図はどこにもない。ユーリは快活さを取り戻したように見えるそのサマーグリーンを注視して、了承の意図を含んで笑みを深めた。
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