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Sixteen(6)

 ウォルナットに戻ったユーリは、想像通りにアレクシスからクソほど怒鳴られた。しらっとした表情で視線を逸らし、文句を聞き流す。それよりも、その隣にいるミカエラの視線のほうが怖い。射貫くような視線を向けられたまま、ユーリは気まずそうに唇を尖らせて、髪を解いてくれるベアトリスへと向き直った。 「ねえ、あの人たち怖いんだけど」 「しょうがないですねえ、怒られるようなことをしたんだから」  前向いてくださいと言われ、向き直る。肩辺りまで伸びた髪を纏められるのを不満げに思いながら少し疼く腹を撫でる。 「キアーラが無事だったんだからいいじゃん」  ぼそりと呟くと、アレクシスが声が出るほど大きな溜息を吐いて、勢いよくテーブルに手を突いた。 「てめえ、マジで言うこと聞かねえな! べべ、二度と部屋から出すな!」 「はいはい、分かってます。もうそのぐらいにしておいてあげてくださいよ。怖がりさんなのに頑張ったんだから」  ウォルナットに戻ってきたとき、まだ足が震えて立てなかったことを揶揄されている。あれは薬の副作用で……といつもならごまかすところだけれど、本当に怖かった。思い出しただけでも涙が出てくる。ぐすんと鼻を啜ったら、ベアトリスが溜息を吐いた。 「ほら、泣いてるじゃないですか。大佐殿の顔が怖いって」 「いまのはおまえが追い打ち掛けたろ」 「准将殿も、その顔怖いですよ」  鏡で見てみてくださいと、ベアトリス。ミカエラはなにも言わない。あーあと、ベアトリスが暢気な声で言った。 「これは本気で怒っていますね」 「怒ってはいない」 「鏡見ます? 史上最高にお怒りですよ」  可愛いお顔が台無しですよと、ベアトリスが笑う。ミカエラは眉間を不快そうに歪めたまま視線を逸らした。 「怒ってなどいない。そもそもわたしが言えた立場ではないからな」 「あ、なるほど。『勝手な行動をされた挙句に怪我をして戻ってきたらどんな気持ちがしたか』を噛みしめておられるわけですか。  よかったですねえ、ぼくと大佐殿の気持ちが分かって。術後だったから抑えて差し上げただけで、本当なら両手足ふん縛ってオレガノに強制送還する気満々だったんですよぉ」  暢気な口調で言ってのけるものの、ベアトリスの視線にはあからさまな怒気と殺気が孕んでいる。ミカエラはそれを察しているらしく、視線を逸らしたままもごもごと口ごもるように言葉を紡ぐ。 「ドン・ナズマやSig.ジェンマの部隊のおかげで、あちらの部下たちが制圧されていなければ、無事では済まなかったかもしれないのですよ」 「だから悪かったって言ってるじゃん」  もうみんなして何回も同じこと言うなと、投げやりな口調で吐き捨てる。いったい何人から同じことを言われただろうか。無鉄砲だったことはわかっている。ただ、自分を出汁に使ったあの腹黒男たちはなぜ文句を言われないのか。釈然としない。本当に釈然としない。 「セラフも、ドン・フィオーレとSig.ジェンマの的確な治療のおかげで事なきを得ましたし、栄位クラスの方のおかげで快方に向かっていると聞き及んでいます。それも含め、素直に喜ぶべきところなのでしょうが、『こうなる』とわかっていて貴方を連れて行ったのが許せません」  ふと、ミカエラの声色がいつもと違うことに気付く。ベアトリスが「史上最高に怒っている」と言っていたのは、間違いではないかもしれない。いつになく低い声だ。普段は感情が迷子なのかと思うほどに冷静極まりない口調で、ほぼほぼ表情を崩すことすらしないくせに。というか、キアーラの話をしたときすら、ここまで殺意を滲ませていなかった気がする。  アルテミオが言っていたとおり、居場所に目星をつけ、本当に“何事もないよう”奪還するつもりだったのかもしれない。だからこそ、自分の勝手な行動に苦言を呈しているのでは、とも思ったが、ミクシア側にしてみれば、オレガノが踏み込むということは国際問題だ。一応自分はミクシア国民だしと、自分がやったことを無理やり正当化する。 「俺が行かなかったら、キアーラはたぶん無事じゃすまなかったぞ」  もう何事もなかったんだからいいじゃんと語気を強める。もう思い出したくないと耳を塞いだら、ミカエラが大きな溜息を吐いた。 「何事もなかった、とは?」  やべっ、地雷を踏んだかと思い、視線を逸らす。こいつの地雷は本当にどこにあるかが分からない。オレガノの連中はなぜこんなにも傷ひとつ、そして敵陣に乗り込むというミクシアのイル・セーラならやりがちな単純な行為で目くじらを立てるのだろうか。ファーストペンギンと同じで、ぶっちゃけ自分が危険に晒されようが、仲間が無事ならそれでいいという認識は、ユーリならではなのかもしれないが、それを「倫理観ゼロの危険思想は非常識だ」と、こちらに戻ってきて開口一番ミカエラに言われた。本当に意味が分からない。だったら、自分だって調子が悪いのを隠して西側に行くんじゃねえわと詰ったせいで、ちょっと乱闘になりかけそうになったが、勝てないことが分かっているからすぐに話を逸らし、いまに至る。 「ベアトリス、アレクシス、Sig.オルヴェを頼んだ。わたしはドン・フィオーレとドン・クリステンを恐喝しに行ってくる」  表情に変化はない。ただ、やっぱり、あからさまにキレている。 「おい、口が滑ってるぞ」 「滑ってなどいない。恐喝をしに行くんだ」  ただじゃおかないと唸るように言って、ミカエラが部屋をあとにする。あの表情と勢いは初めて見た。思わず目を瞬かせる。 「え、こわっ」  ドン・クリステンが「あれは怖い」と言っていた意味が分かった。ユーリと共にギルスの回廊を抜けた先にある教会に行った時、簡単に丸め込めた時とは全く違う。絶対にぶれない芯の強さを見せつけられたような気すらした。 「怖いぞ、あいつは。マージであれはリミッター振り切れているやつだからな」 「ぼくたちもあの部屋見ましたけど、いや、あれは普通に怖いですよ。あなたはあれを目の当たりにした挙句、取り調べ中にもサイコパシー全開で喚き散らしていた“アレ”に縛られて散々好きなようにされたんでしょう? 猟奇的を通り越しているというか、偏執的すぎてドン引きですし、先代を殺したのもあいつだったなんて、そりゃあもう恐怖でしかないでしょう」 「あんなところに閉じ込められていたSig.na ディアンジェロのことを思うと、一刻も早く出してやりたかった……ってのはわかるけど、オレガノ軍をわざわざ退けて、わざわざミクシア内で秘密裏に解決しようとしたってのが気に食わねえ。隠ぺい工作でもするつもりだったのか? それともこの期に及んで更生でもさせようってのか? あ゛っ?」 「オレガノが絡んだら国際問題に発展しかねないから、切り札の俺が手土産に持っていかれる以外ないかなあって」  ほぼほぼ示し合わせたわけじゃなかったんだけどとユーリが言うと、アレクシスから勢いよく頭を叩かれた。 「暴力反対っ!」 「るせえ! おまえはこっちにとっても重要人物だっつってんだろうが、勝手な真似ばっかりしやがって!」 「重要人物なら殴るな!」 「そうですよ、せっかく可愛くまとまったんだからやめてくださいよ」  大佐殿うるさいですとベアトリスが言う。アレクシスはベアトリスを睨んで、ガシガシと頭を掻いた。 「あの毒のことを教えたの、おまえだろ?」 「ひどいな、教えてませんよ。この人が勝手に遺跡から持ち出した数冊の本のなかに書いてあったって言っていましたよ」 「あ゛あっ!? 一冊しかもちかえってねえっつってたよなあ!?」 「ミカエラって本当に口が堅いんだ」 「話を逸らすな!」  アレクシスに怒鳴られるが、ユーリはふいと視線を逸らした。そもそも自分はただ協力をしただけなのに、怒られる謂れがない。そろそろ本気でイライラしてきた。暴れようにも勝てないだろうし、この部屋には薬物の類を置いていないし、ベッドサイドに仕込んでいたプリシピタルとシレンツィオは没収されたし、対処の使用がない。どうしてくれようかと思っていたら、ベアトリスが「大佐殿」と、アレクシスを呼んだ。 「あいつはレオナ様の殺害容疑もだけど、レミエラ様の死にも関わっているっていう証言が取れたんだから、それでいいじゃないですか」  怒る気持ちはわからないでもないですけど、もうよしとしましょとベアトリスがなにかを悟ったように言う。 「それに例の毒だって、いくら耐性があるって言っても、身体には残ります。解毒されるまで負担がかかりますし、本当ならたぶん起きているのもつらいくらいなんですよ」  そうでもないけどと口の中で呟き、ベアトリスを振り返る。ベアトリスから目配せをされる。話を合わせろと言いたいらしい。ユーリはわざとらしく息を吐いてベアトリスに凭れ掛かった。 「ねえ、本当にもういいじゃん。いい加減聞き飽きたんだけど」 「まっじで反省の色ねえな」 「大佐殿、本当にしつこい。ヴァシオだって、Sig.オルヴェが准将殿に切り札を教えてくれていなければ、死んでいたかもしれないんですよ?  一応はオレガノのことを許容してくださっているわけですし、准将殿も、セラフィマ様のこともそうだけど、ヴァシオを死なせなかったという点でも、オレガノはこの方に頭が上がらないはずです」  心配しているのはわかりますけどと、ベアトリスが継ぐ。アレクシスは意外とこういうときにしつこい。そしてうるさい。普段はあんなにアバウトなくせに、人の命が絡むと途端に人が変わる。理由が分からないわけでもないが、ここまで感覚が違うと辟易してくる。 「そんなことより、オレガノからもあの伝承は誤解だったって言っておいて」  伝承? と、ふたりが声をそろえる。 「王様が飲まされていた毒は、ある意味で救世主で、ある意味で禁忌なのは本当。あらゆる毒を無効化するためのものを身体に仕込まれているから、身体が蝕まれていく間も死ねない。自死をするわけにもいかない。だからその赤い目をしたイル・セーラが、その王様にとどめを刺した。  オレガノに渡されたあの本にも似たようなことが書いてあったけど、べつに第一王族が全員銀髪だったわけでもないらしいし、赤い目のイル・セーラはべつに烙印を押されたわけでも、悪い意味を持つわけでもなくて、ノルマにも色素が濃いのと薄いのがいる、それだけの違いでしかなかったってこと」  それが真実と、ユーリが言う。アレクシスが怪訝な顔をした。 「まさか、ユリウスの減刑をっていうつもりか?」 「そうじゃないけど。でも、ユリウスはずっとミクシアに来て差別を受けていたって言ってた。赤い目を持つイル・セーラの立場を回復させたいって。俺も、赤い目をしたイル・セーラを信用するなって刷り込まれていたけど、赤い目をしていようがなんだろうが、イル・セーラはイル・セーラなんだ。差別するほうがおかしい」 「さすがはSig.オルヴェ、着眼点が違いますねえ」 「オレガノでも赤い目をしたイル・セーラは珍しがられるけど、べつに差別につながるようなことはねえかな。レミエラがそういう差別を許さなかったし」  アレクシスはいつも嘘を吐く。だから「そうなの?」とベアトリスに尋ねると、ベアトリスが頷いた。 「ミクシアは割と閉鎖的なところがありますし、ほとんどの住人がノルマだということも関係しているかもしれませんね。やはり同族――それも容姿のよく似た者以外は受け入れがたいと思う人も少なくはないでしょう。  ただ、ユリウスに関していえば、ぼくは減刑を乞うのも吝かではありませんね」 「おい、べべ」 「だってそうでしょう? 彼が洗いざらい話さなければ、西側の被害は大きくなっていたし、ひょっとするとあなたも無事じゃなかったかもしれないんですよ」 「ああ、なんか至福者の丘の管理人の子どもって言ってた」  アレクシスがあからさまに嫌そうな顔をした。 「知らねえな、俺はオレガノ国籍のオレガノのイル・セーラだから」 「先ほどの逸話が本当だとしたら、あなたに盛られた毒も、あなたの体を蝕んでいる……ってことですけど」  ベアトリスが言う。ユーリはしらっとそんなこと言ったっけ? ととぼけて見せる。無意識に腹を触ったからだろう。ベアトリスがユーリのシャツを掴んで捲りあげた。 「やめろよ、エッチ!」  ユーリの腹の傷を見て、うわっとベアトリスが声を上げた。 「なんで処置しなかったんですか?!」  傷の保護をしているガーゼには、まだ真新しい血が滲む。処置はしてもらった。痛み止めや解毒剤も、当然打ってもらっている。でもこの状態だ。理由を言うと絶対に面倒くさいから、死んでもいわない。 「ちゃんとしてもらった」 「毒消しは“通常のもの”しか使っていないでしょう? 特殊な毒なのだから、使用する薬剤も特殊なものに決まっているじゃないですか」  毒で頭までイカれたんですか? と、ベアトリスが辛辣なことを言う。だいぶ自由に体が動くようになったけれど、ここに戻ってきた当初は、黙っていたものの視界もぼやけていたし、手足のしびれと眠気がヤバかった。  ユリウスがカーマの丸薬を飲むように指示したことで、結果的に記憶が戻った。その記憶と、オレガノが持ってきた本の内容を照会し、“ユーリ”が血筋のことを隠ぺいしたがった理由が分かった。  第一王族は特性上、体内で“あらゆる毒に対する血清”を作り出すことができる。つまりそれは、毒を盛られても死ねないということにつながる。ウィルにその毒を飲まされたのが早かったのか、それとも元々耐性があったのか、子どもの頃に死ななかったのはそういうことだ。  イギンたちに違法薬物を飲まされたあともそうだ。体内で毒を代謝し、取り込む。その間異常な眠気に襲われ、体力回復と機能回復のために寝る。だからあのときはこん睡状態だったのか、眠っていたのか。これを言ったら全方位から怒られそうで、黙っている。地下街で異常な眠気を感じたのもそうだ。まだピルケースにカーマの丸薬が残っているのに、そこに本物のカルマを混ぜた、自分のずさんさとアバウトさが原因でもある。  アンリ王が殺されたのは、単純に国を乗っ取りたかったのか、それともその血清をと狙っていたのかはわからない。どこからその話が漏れたのかも、なにもかも。ただ、もしかすると、アンリ王自身がその伝統を断ち切りたかったのかもしれないとも、そう思った。オレガノに――特にベアトリスなんかにバレた日には、ハアハアしながら血を抜き取られそうで、怖くて話せない。あの本の内容もほぼ覚えたし、隠ぺいするに限る。 「王様がどんな気分だったか、味わってみたかっただけ」 「馬鹿ですか、あなた」 「ほれ、おまえも怒りたくなるだろ」 「完全に傷が治るまでかなり痛いだろうし、そこから感染リスクも考えられます。  そもそも、毒に強いはずのイル・セーラにここまで毒が回るということは、即死レベルのものですよ」  そりゃそうだろうと思う。だからアンリ王の弟は、苦しむ姿を見兼ねて手を掛けたのだ。実際にどんなものか興味があった。でも死ぬほど苦しいものでもないし、元々子どものころからあらゆる薬物を打たれていたこともあって、その毒を生成する成分を少量ずつでも体に取り込んでいたのだろうと推測している。ただ、たぶん、この毒が代謝する前に新たな毒を盛られたら、ちょっとどうなるかが分からない。興味はある。でもそれをすると、きっとオレガノは自分を監禁するだろうし、ミクシア側からもクソほど怒られるだろうし、怖くてできない。  ユーリはしらっとした表情でベアトリスから目を逸らした。自分がもう話を聞く気がないと悟ったのか、ベアトリスが呆れたような溜息を吐くのが聞こえた。 「大尉殿、見張っていてください。一応化膿止めだけでも塗っておかないと、痕残っちゃいますから」  それ以上体に傷を残したくないでしょと、ベアトリスが部屋をあとにする。 なんとなく視線を感じる。ちらりとそちらを見やると、アレクシスが頭上から睨みつけているのが見えた。一瞥を投げ、すぐに視線を逸らす。 「おい、弩級のバカ」 「なんだよ、ド変態」 「オレガノに突入させなかった理由、もう一つあるだろう」  大人だな、と思う。もしかすると、ミカエラがあの場所に行くのを止めたのは、アレクシスかもしれない。 「キアーラがもしなにかされている最中とかだったら、お互い嫌かなって思って」  目を逸らしたままだったから表情はわからなかったけれど、アレクシスは不満そうに息を吐いた後で、ユーリの肩をポンポンと叩いた。 「一応、ミカに替わって礼を言っておく。あいつの取り調べにもミカを関わらせないようにしている。それで、レオナはあの中にいたのか?」 「いたよ。心臓がホルマリン漬けにされていた。たぶん探せばほかの臓器もあるだろうし、儀式のための依り代に子どもの骨が使われていたなら、そのなかにあるんじゃないかな」  あとから見て余計にドン引きしたけれど、いつ殺したのか、それが誰のものなのか、採取したのがどこなのか、まるで昆虫採集のように丁寧に情報がラベルに書き加えられていた。それに、たぶんベアトリスが言っていたように、ユーリ自身が本当に孕んだら殺すつもりでいた。別に人形が作られていて、それにはひとつひとつの骨に、どこで採れたものか、性別等の情報があったし、アルテミオに目を塞がれてはっきりとは見えなかったけれど、“ユーリ”の「義足側の足の骨」がそれに使われていた。  本人曰く、あれは「研究結果」らしい。イル・セーラは実験体でもある。4年前までそうだった。研究のための実験をしてなにが悪いと喚いていたそうだ。とすると、ウィルはその血清のことを知っていた可能性がある。だから毒を盛って殺した。なぜ“ユーリ”の骨だと分かったのかと言われたら、他の骨にはあきらかに“毒を代謝できないが故の変色”が見られたからだ。“ユーリ”のものだけ、普通の骨の色だった。ユーリの足の骨を見て、色が違うことに気付いて、同じ体質のイル・セーラを捜していたのかもしれないのだ。 「あいつが言っていた復活の儀って、本当にできるのか?」  アレクシスが不意に話しかけてきた。 「あの花には幻覚効果があって、どうしても王様に会いたかった家臣が王様の幻覚を見た。そこから復活の儀の迷信ができたってだけだと思う。  もしかしたら、ウィルもあの花の幻覚作用で妄執的になっていた可能性も考えられる。  至福者の丘が厳重に管理されていたっていう観点から、もしかするとちゃんとした場所で、ちゃんとした手順を踏めば、なにかが起こるのかもしれない」  至福者の丘と呟いて、アレクシスが唸った。あの丘にそんな意味があったとは知らなかった。ユーリ自身は小さかったから近付いてはいけないと言われていたが、シリルたちは普通にあの丘の脇にある、岩肌を削ってできた部屋の中に入っていたし、サシャがあそこから変わった花を持って帰ってきたことがある。“ユーリ”はそこに入れないのか、その花を見て大興奮して、クロードから「まず子どもを止めろ」と怒られていた。どうも6歳から18歳までの子どもしか入ってはいけないというルールがあったそうだ。ひとつ年上のエドの妹からは、「あの中には語り部がいて、イル・セーラのいろんな話を聞かせてもらえるらしい」と教えてもらったのを思い出す。 「俺がオレガノに逃げたのは、うんと小さい頃だからな、それこそなにも覚えていない」  ぼそりとアレクシスが言った。オレガノ出身とは言わず、オレガノ国籍と言っていたから、そうだろうとは思ったけれど。 「養父から聞いているのは、たまたま先代に用事があってフォルスを訪れていた際に、きな臭さを悟ったうちの両親から、俺と妹とを託されたって。  その至福者の丘の管理人はうちの両親だった。代々そうだったらしいが、あの丘はなんなんだろうな?」 「それ、オレガノに聞かれたくない話だから、ベアトリスがいないときに話してる?」  そう尋ねたら、アレクシスは「そりゃあな」と、感情を悟らせない表情で言った。 「おまえ、たしかユリウスの身内もあそこから身を投げた……って言っていたよな? 迷信通りなのだとしたら、彼らはベラ・ドンナとグラドゥメルの生成以外に、他になにか知ったからなんじゃないのか? 生体移植を受けた相手のことを知っただけで、身を投げるだろうか?」  アレクシスの目は、すべてを見透かした目だ。こいつは案外こういうところがある。わかっていて尋ねてきているのだ。ユーリは「知らない」と言って、疼く腹を撫でた。 「ドナーが王族の末裔だった、とか」  アレクシスが言う。ユーリは唇を尖らせて、「だから知らないって」と目を逸らした。

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