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オメガのおじさま5
「春さん」
エレベーター待ちをしている私は振り向いた。少し高い位置におじさまの顔がある。帰り支度を済ませて、もうカシミヤの温かそうなコートを羽織っていた。また午後もうるさい上司にぐちぐち言われていたから、少しぐったりしている。けれどそれもなんだか、陰があるようでかっこいい。この人がオメガだなんて、本当に信じられない。
おじさまはグレイヘアを撫でながら、照れたような笑みを浮かべた。
「下まで一緒に行きませんか」
「是非、ご一緒させてください。ゆっくり行きましょう」
「よかった。若いお嬢さんを誘うなんて、初めてでして」
「初めてをいただけて、光栄です」
フロアは17階にあるから、しばらくの間エレベーター待ちがある。おじさまが隣にいるとそわそわしてしまう私がいた。だから話しかけられたとき、びっくりして肩が大きく動いてしまった。
「昼の話なんですが…」
「はい!」
「威勢の良いお返事をどうも」
いたずらっぽい顔をして、おじさまは手を差し出す。私も手を出すと、その上にころんとあめ玉が置かれた。透明なビニールの中に、みどりと紫のきれいな玉が入っていて、まるで宝石のようにきらきらしている。
おじさまは、口元に指を立てて、私にウインクした。胸が高鳴る。
「パートナーからの就職祝いで、ちょっと良いものです。そして……今から話すことの口止め料でもあります」
「! ありがたく頂戴します」
みどりのほうのビニールを剥いで、口に放り込む。じゅんとマスカットの甘い味がした。ただのちょっと小さなあめ玉なのに、しっかり果物の味がする。小さい一個で満足感があった。
おじさまは私を見ながら、少し視線をうろうろさせていた。エレベーターが30分くらい来ないままでいたら良いのに、と思いながら私は言葉を待った。エレベーターはまだ最上階と一階にとどまってる。
「今日の昼の話なんですが……あれは、彼の手前そういうべきかと思いまして。もちろんあれも、本心ですよ」
「ええと」
「僕が働き出した理由です。もちろん、今後が心配になったのもあります」
ああ、と大きく頷く。忘れたわけではないが、そういえば最初はそんな話題だったなと思い出した。決して忘れていたわけではない。
「もっと大きい理由があります。彼と、対等でいたいからです」
「対等?」
ええ、というおじさまは、晴れがましい顔をしている。オメガとかそういう性別以前に、立派に歳を重ねた大人の人だった。カシミヤの袖を撫でて、小さく自嘲するように笑っている。
「彼に経済的に依存することは、精神的にも彼に依存することになりかねないんです。お金というものは不思議なもので、そうでないと思っていても意外と心の支えになっていたりするもので…そのことに、彼が入院してから気が付きました。年齢的には、もっと前に気がついていたかったのですが」
「……」
「彼が稼ぐことはありがたいと思っています。ずっと感謝はしていますし、これからも感謝し続けるでしょう。けれど、それよりも僕は胸を張って、彼とこれからも共に在りたかった」
ぽん、と後ろのエレベーターが鳴ったのに、私は気付かなかった。おじさまの話に夢中で耳を傾けていた。おじさまがしわの刻まれた手で腹の下あたりをさすって、苦笑気味に笑いかける。
「子どもも三人産みましたし、もう孫もいます。発情期はもう二年前が最後。だから、働きに出るなら、彼のオメガとしての役割を終えた今だと思ったのです。ほんの少しでも、彼の負担を僕も背負いたい。肩を並べていたいんです。もしまた、どちらかが入院することがあれば、それくらい、僕のお金から出したいと思っています」
それが、僕の意地でも願いでもあるんです、とおじさまは笑う。
ああ、だからこの人は、あんなにオメガだからと扱き下ろされても、次の日会社にやってくるんだと思った。訴えにも出ず、ただ粛々と働くのだと、やっと分かった気がした。この人は、自分がオメガであることを恥じらっても後悔してもいない。
むしろ、オメガであることを誇りに思っているのだと。
「……と、思ってみたものの、実際働くのは難しいですね。また彼を一つ尊敬してしまいます。性別は関係なく、いいえ、性別で多少面倒はありますがそれ以上にお金をもらっているというプレッシャーが…。だから、春さん」
「!? はい!」
私に手を差し出してくる。手刀のような形で、まっすぐ。握手、とおじさまはつぶやいた。手を差し出すと、奪うように握られる。ぐっと力が込められた。
おじさまの手は、ずっと戦ってきたことが分かる、とても強くて、薄いけどしっかりした手だ。
「また、これからもどうぞよろしく。こんな僕ですが、足手まといにならないくらいには、頑張りますから」
「……斎木さん」
それはこちらの言葉なのに。そういう思いを、握り返して込めた。私は多分、第一も第二も性別のことなんて関係なく、この人のことをすごく好きになれる。この人が、好きになった人のことも。
片手じゃ思いが足りない。鞄を置いて、両手でおじさまの手を取った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
おじさまはちょっと驚いて、そのあとすぐに笑ってくれた。いつもみたいな、優しくまわりを和ませるような笑みで。
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