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小話-少しの間

『………わかった』  何秒も、何分も考え込んで、渋った末に絞り出したような言葉だった。顔も苦み切っていて、色々な感情が入り交じっているのがよくわかる。相手が素直だと、こういうときにありがたいものだ、とまったく関係のない感想を抱いたのを覚えている。 『条件がある。仕事は俺が見つけてくる。スマホに換えて、帰りの時間を毎日俺に教えること』  まるで若い子のやきもち焼きのようだ。ずっと自分の目の届く場所にいた僕だし、なにより、在宅勤務に切り替えて、また学生の頃のように四六時中いられると思った矢先のことだからだろう。このごろ、彼の考えが手に取るように分かるようになった。  思わず漏れた笑みを隠して、何度か頷いた。 『わかった、それでいい』 『まだある』  彼はすがりつくように、僕の手を握ってきた。日に焼けてしみができた手は、思うよりも分厚くて力強い。握られていない方の手で、労るように撫でてやると、更に強く握ってくる。 『……』 『なんだい。君が許可を出したんだ、条件は君が決めれば良い』 『お前の行動を、制限したいわけじゃない。自由を奪いたいわけじゃない。ただ…』 『…まさかと思うけどさ』  手を膝の上にのせてやり、中指の筋をなぞる。彼は泣きそうな顔をしていて、それがなぜだかおかしかった。 『僕が自由になると、浮気するとか思ってないよね』  心の中にぽかりと浮かんだ疑問を口にすると、僕は微笑んでいるつもりなのに、体は氷を飲み込んでように冷えた。そんなことを言えてしまう自分も恐ろしかった。 『そんなこと、は…ないだろ?』 『ないよ。絶対に』  その答えに安堵したように、もう両手で僕の手を包み込んできた。バレないように、安堵の息を吐く。僕よりも彼の方が体温が高いから、冷えた指先がじんわり温かくなるのを感じる。  多分理由を聞いて欲しいんだろうな、と怯えているときでも彼の心を察してしまう自分が悲しい。 『じゃあ、なんで? ただ、なんだったの』 『……』  待つのは得意だ。子どもが言い訳してるのを聞くのは、忍耐力が勝負だった。のんびり相手を追い詰めない程度に見つめて、待てば良い。まあ、その見つめている相手は、絶賛僕らの手を見て息を飲み込んでいるんだけど。  すまん、と彼は言った。 『嘘を言った。別に浮気なんて考えてないが、他のアルファに近づいて欲しくないんだ』 『それは、無理だ。僕だって若い頃、君がオメガの匂い漂わせてたら嫉妬したよ。でも働く場って、いろんな性別や人種の人たちが一ヶ所にいるから、仕方ないって諦めた』 『わかってる。わかってるんだ。……あと、今言ったそれが、俺の不安以上のものだったって言うのも理解してる』  番になってしまえば、もうその先の生涯、番相手の一人としか契れないオメガと違って、アルファは複数のオメガと番関係になることができる。ただし、ノーリスクでそんなことができるわけもない。複数のオメガと関係を結ぶと、他のオメガの匂いを纏わり付かせた自分のアルファに、オメガが大きなストレスを感じ、発情期がずれてしまったりもする。まあ、言ってしまえばそれだけだ。決して死ぬわけじゃない。  ……そしてそれは、僕が大昔にやらかしてしまったことだ。  職場にオメガもベータもアルファもいることは、わかっているし仕方ないけれど、秘書のものだと思われるオメガの香りは、一時期僕を苦しめた。普通は三ヶ月に一度の発情期が、一番ひどいときは一月に一度にまで狂ってしまった。 『本当に、想像も付かない。他のアルファの匂いをさせたお前に、俺はどんな風に接してしまうのか、本当に怖いんだ』  僕の番は見せかけだけ剛胆で、本当に臆病ものだ。僕らは運命の番でもないのに、僕に嫌われないよう、愛想尽かされないよう、ずっと嫉妬して貰えるように駆け引きしている。それが彼の安心で、ずっと目の届く場所でそうして彼の一挙一動にどきどきしていて欲しいんだろう。  それで、僕が働きに出たあと、自分がかつての僕みたいに、嫉妬と独占欲の怨嗟でがんじがらめになってしまうのが怖いんだ。  下を向いて、僕の方を見ようともしない僕の番。僕はするりと手を抜いた。びびって固まっている彼を、包み込むようにハグする。自分からするのは月単位で久しぶりで、鼓動がだんだん高くなるのを感じていた。  思ったより、こういうのは恥ずかしい。 『嫉妬も束縛も、一人じゃできないだろ。僕にぶつけて見ろよ、ちゃんと受け止めるし、理由も話す』 『………』  もう大丈夫かな、と思って離れようとする。自分からするのは十秒くらいが限界だ。腕を下ろすと、離れようとする意志が伝わってしまったのか、逆に彼に抱き締められる。腕の中に閉じ込められてしまった。  閉じ込められたのは仕方が無い。背中をさすってやると、もっとちゃんと抱き締めろと指示が出た。苦笑がこぼれるけれど、それも彼らしいと、背中をまた両腕で包み込んだ。肩が昔より薄い。いつの間に、こんなに痩せたんだろう。入院したから筋肉が落ちたのか、それとも歳のせいなのか。 『最後に一つ、条件を追加させろ』 『ん?』  話が飛びすぎだ。鼓動が跳ね上がったことが、少し恥ずかしい。 『なんだ、もうこれ以上条件を付けたらいけないのか』 『いやいや、それ自体は良いよ』 『……』  息を吐いて、吸って、顔を見えないように頭を首元に押しつけられた。また待つ。 『せめて、いっしょ晩飯を食べよう。朝は俺が作るし、晩も作ってくれれば後片付けは全部する。だから…』 『うん、うん…わかった、一緒に食べよう』  そう言うと、彼は大きく息を吐いた。気付くと、彼の背中に置いた指先から、早い鼓動がする。なにに臆病になっているのか。いつもあんなに大胆で、わがまま放題のくせに、僕の自由を制限するのにはすごく敏感になる。  子どもにしたように、背中をとんとんと叩く。ぽん、ぽんと中身が詰まっている音がして、それにも僕は安心した。 『そんなに僕に嫌われたくないのか?』 『そうだな。ずっと好かれていたい』 『………』  聞かなければよかった。彼の鼓動が移ったように、自分の心臓が煩い。彼にいつの日か噛まれたうなじが熱くなる。彼といると、いくら年齢を経ようと生娘のようだ。予想が付かない言動に振り回されてしまう。そして、それを嬉しいと、そう思ってしまう自分がいる。自分のオメガという性が喜ばせるのかと思うと、我がことながら変な気分になる。  胸が絞られたように息ができなくなる。頭がぼーっとして、彼の言葉を聞き逃した。 『……何月から働きたい? それまで、ちょっと旅行にでもいかないか』  頷いていた。そしてハッと気がついて彼の顔をのぞき込む。抗議する前に、唇をふさがれる。そんな雰囲気じゃなかっただろ、と怒ることもできたのに、僕はそうしなかった。忙しいのに、やることだってあるし、孫の面倒だって見たかったのに。  そう後悔しながらも、独占できるのはあと1年も満たない。30年以上、ずっと独占されてきたのだから、まだ覚悟ができないのだろう。もう残りは少ないけれど、それくらいの間、この臆病者に独占されていても良いかな、とつい甘くなった。

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