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発情期2

 ちょうど先週、そんな話をしたからだろうか。 「春さん、お忙しいところ申し訳ないんですが、手伝っていただけますか?」 「これを運べば良いんですね? うわ、大量…」 「すみません」  おじさまの首元を、ついついガン見してしまう。グレイの短い襟足から覗く白い首は、筋が立っていて、年齢を感じる。よいしょ、としゃがみこんで持ち上げるときに、うなじがちらりと見えた。たしかに、白いうなじに赤い歯型のような、等間隔のあとがある、ような…。 「これ、資料室で良いですか?」 「助かります」 「いいえ、力仕事は得意ですから」  私も段ボールひとつ分の上にファイルを数個乗せて立ち上がる。  あと少しで今日の就労時間も終わりだ。ぎりぎりで何か舞い込んでこない限り、今日は定時で帰れそうだと胸が躍る。別に特別な何があるわけではないんだけど、定時という響きにプレシャスを感じる私だ。  社員証をリーダーにかざして資料室に入ると、紙のかびたような匂いがする。紙を管理しているわりに、給湯室の隣で湿度が高めだから、あまり紙にとって良い環境ではないと思う。直射日光が当たらない場所がここしかなかったからと言うが、真実は闇の中だ。クラウド管理にいい加減すればいいのに、うちの会社は紙至上主義が抜けない。  蛍光灯が何本か切れているようで、室内は少し暗めだ。  段ボールの中から分厚いファイルを取り出して、図書館の書架のような本棚に入れていく。数字を間違えて違うところに入れると怒られるので、慎重に慎重に。  おじさまが戻しやすいように整理していてくれたようで、割とするする作業はすすんだ。 「今日は、僕が晩飯を作る日なんですよ」 「そうなんですか! じゃあ張り切って帰らないと行けませんね」 「はい。定時に上がれそうだから…」  少しだけ手の込んだ料理ができそうだ、と声が弾んでいた。  その時おじさまの顔を覗き見て、あれ、と思った。けれどその時は、そのあれ、の正体に気付けなかった。  裏側まで回って、私が運んできた分の青いファイルを戻し終えて、整然とした本棚になる。背表紙が揃っているとなんだか気分が良い。すっきりした気分で、私は逆側を整理しているはずのおじさまに声を掛けた。 「斎木さん、そっちはどうですか…斎木さん!?」  おじさまが、膝を突いて、本棚にもたれかかっていた。音がしなかったから気付かなかったけど、ファイルが散らばってしまっている。仄暗い中よく見ると、耳が赤くて、息がわずかに荒い。  失礼します、と早口で告げて、手を額に当てた。  熱い。熱でもあるかのようだ。心臓が煩いほど鳴っている。  急に感染熱でも出たのか、それとも持病か、とおじさまの苦しげな様子を見ていて悩む。おじさまは目を閉じて、堪えるように肩を上下させて呼吸していて、誰かを呼ぶか、それともこのまま帰すのが良いのか迷った。 「はるさん…」  熱に浮かされた声と、涙が膜のように溢れて蕩けた瞳。ベータの私でも、分かった。藤村の言ったことは正しかったのだと。 「斎木さん、立てますか」 「大丈夫です、定時まであと三十分くらいでしょう、どこかでじっとしていれば…」  資料室に籠もってしまいたいけど、それはできない。持ち出されないように、申請時間以上いると管理者に声を掛けられてしまう。だけど、こんな状態のおじさまを、課に戻したりすることもできない。  発情期です、と悔しさをにじませた声でおじさまが言った。弾みそうになる息を必死に抑えて、何度も肩で呼吸している。目を開いているのも辛いのか、瞬きの時間が長くなって、どうすればいいのかベータの私には分からなかった。 「僕の番以外のアルファは、匂いを感じ取れませんから、大丈夫ですよ」  大丈夫から、課に戻ろうというのか。 「それはだめです」 「じゃ、どうしますか。早退するにも、課長の許可がいるでしょう」 「……移動しましょう。ここじゃどうにもならない」  資料室は携帯電話が使えない。人が入っている間は、電波妨害装置が働いて、発信も受信もできないのだ。斎木さん、と私は再びおじさまを呼んだ。  おじさまは観念したように頷いた。立てますか、と声を掛けて、脇から体を支える。 「大丈夫ですから、戻ってください」 「戻れません。駄目です」 「……」  こっちです、と資料室から出ると、外の明るさにくらくらした。今から言って誰もいないところとなると、限られる。喫煙室は上役の人たちがいるだろうし、この状態のおじさまを信用ならないアルファの元にさらすわけにはいかないから、一階のロビーも駄目だ。  そうなると、オメガの避難場所でもある第二救護室しかなかった。幸いにも、この一本道の先だ。おじさまが倒れたのが、課の中でなくて良かったと、胸をなで下ろす。  救護室には人がいなかった。ベットが空いていたから、そこに座って貰うことにした。 「斎木さん、ちょっとここで待っててくださいね。抑制剤は持っていますか?」  ここにも抑制剤はあるが、注射用の液体しかないので、基本的に常駐している嘱託医以外は使用禁止になっている。しかしなぜ必要なときにいないのか、すごくいらいらする。  おじさまは頬も耳も赤くなって、手を握ると、じんわり汗ばんでいるのが分かった。体温が上がっているのだ。番がいるオメガのフェロモンを感じることはできないから、辛そうだと思うばかりで、どうすれば良いのか分からない。 「すみません…」 「大丈夫ですよ、荷物の中にありますか?」 「持っていないんです。処方されたのは、もうしばらく前で…二年前の発情期が最後だと…まさか、今になって」 「……」  そうか、そういえばおじさまは二年前の発情期が最後だと思っていたんだっけと、今更ながら気付く。そういえば私だって、初めて生理が来たあと1年近く来なかったら、もう生理なんて終わったと思ったっけ。 「良いですよ、私だってたまに失敗しますもん。早退扱いになりますけど、それで申請して、荷物とか持って来ますね」 「……」  おじさまは、こくりと頷いた。頼みます、と聞こえない声が聞こえた。私は久々に、自分がベータという性別で良かったと、こういうときに助けられる存在であった自分を嬉しく思った。  扉を閉めて、一応鍵も閉めておく。この時間からなら、救護室へ行くより帰った方が良いから誰も来ないと思うけど、念のため。おじさまは、番持ちのオメガなんだから、他のアルファに拒絶反応で恐怖を抱いていてもおかしくない。  人がいますという札を下げて、全力で課に戻る。終業まであと20分を切った。

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