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発情期3
「鈴木課長、斎木さん、早退するそうです」
「は?」
「私も今から付き添うので、その分の仕事は明日します」
左手でカシミヤのコートを持って、左手で革の鞄を提げた状態だ。私一人で戻ったら、何事かと騒がれて、課長に胡乱げな目で見られた。別にそれは良い。
「いやいやいや、待てよ。おかしいだろ。さっきまで元気にしてただろ」
「斎木さんは救護室にいます」
「は!? 上司に仕事させといて、自分は優雅に昼寝かよ」
課長は立派なご身分だな、と机を蹴った。一応会社の備品なのに、このクソ上司の机はべこべこだ。就業時間中に昼寝してて会議に遅刻したり、無駄に長く怒って人の仕事の邪魔をしたりしてるのに、立派なご身分はどちらなんだろう。わずかに怒りを覚えたけど、今は駄目だ。お願いする身なんだから。
「すみません。急病なので、どうしようもないんです」
「は? オメガだからかばってんのか? 劣等種同士の傷の舐め合いか」
「すみません」
日本語が通じない。埒があかないので、人事課には書類を提出します、と言って去る。上司がわめき散らしているのを、誰かが収めようとしてくれてる。上司以外、この課の人はいい人ばかりだ。
両手がふさがっているから、ドアを蹴り開けようとすると、アルファの先輩が先に回って開けてくれた。小声で話しかけられる。
「中田、斎木さん大丈夫か?」
「資料室で急に倒れました。そういえば昨日の昼の時、最近熱っぽいと言っていもいましたね」
「わかった、課長は適当になだめて良いようにしとくから斎木さんのとこへ行って」
はい、と私は大きく頷いた。ことの緊急性はさることながら、すごく思い使命を背負わされたようで、緊張が激しかった。なにかを察したらしい先輩は、ぽつりと続けた。
「……俺も、番にしたいと思ってる奴がいるから、心配なんだ」
「!」
同じアルファなのに、先輩も、クソ上司も、藤村も全く違う。人間的に素晴らしいと思う人もいれば、本当になぜ、この人がアルファなのか疑問しか湧かない人もいる。
先輩が開けてくれたドアを、頭を下げながら出る。一瞬、藤村の視線を感じて振り返ると、目線がかち合った。やっぱり、藤村も心配なんだと安心する。おじさまを思っているのは私だけじゃないんだと、思うだけで、心強い。
香水が仄かに香るコートを抱き締めて、救護室へ戻った。
就業時間はもう五分も残っていない。たった20分でも、初めて早退するおじさま(しかも終わったと思っていた発情期で)は、不安でいっぱいだろう。
そう思って早足でかけていったけど、おじさまは、ベッドで座ったまま寝ていた。オメガは発情期の時、丸くなって寝てしまう習性があると聞くから、職場でそれを出したくなかったのかもしれない。
揺すっても起きないから、もしかして気絶してしまったかも。
「どうしよう…」
荷物を抱えたまま、呆然とした。こんな状態のおじさまをどうしろというのだろう。
人事課へ行って連絡先を貰う?
私は、おじさまの家の番号を知らないし、おじさまの番の連絡先も知らない。そして恐らく、事務課の面々も知らないだろう。おじさまの苦しげな様子を見て、どうしようと右往左往していると、どこかでバイブ音が鳴った。
おじさまのコートのポケットだ、と分かった瞬間、救われた思いだった。探し当てて取り出す。すぐさま出る。相手の名前も見ずに。
「はい!」
『……だれだ?』
警戒心がむき出しになった声だ。
「あ、あの…斎木さんの同僚の」
『ああ、なんだ、初めまして。信治がいるなら替わって貰えるか?』
あ、信治っていうんだ、と今更そんなことを思っていた。焦っているわりに脳のどこかは冷静すぎて、いっそう焦る。おじさまが蘭のような繊細で凜とした声なら、電話の相手はお寺の鐘のようなどっしりした声だ。
直感的に、この人はおじさまの番かも知れないと感じた。
「今、斎木さんが」
『なにがあった。信治は無事か』
「無事というか…」
『何があった。怪我か、倒れたか、まさか病院に運ばれたり――』
「落ち着いて聞いてください、というか落ち着きましょう」
電話口で深呼吸した。相手も声を発さなかった。そこでやっと、コートを握ったままだと気がついて、おじさまの寒そうな肩に掛ける。
『なにがあった』
「番の方ですか?」
『! ……そうだ。20分くらい前に連絡をしたが、見た形跡がなかったんだ。それで嫌な予感がして電話したら、君が出た』
「今、斎木さんは救護室にいます」
番さんが息を飲む音が聞こえた。いきり立つ気配を感じて、慌ててあ、違いますからね、怪我とかじゃないです、と付け加える。焦っているわりにちゃんと聞こえているらしく、良かったと漏らす声が聞こえた。
それでなんだ、と心配そうに促される。
「その…大変言いづらいのですが…」
オブラートに包んで言うべきか、直接的にいってしまって良いことなのか、迷う。プライベートな話に首を突っ込むのは苦手だ。横目でおじさまを見た。目を閉じて、意識がなさそうで息が荒くて、苦しげだ。上から見える耳が、リンゴのように真っ赤で、ともすれば熱病のように見える。
けれど。
「斎木さんは、発情期とおっしゃっていました」
『――……まじか』
「はい」
照れと喜色の混じった声で、そうか、そうか、と番さんは何度も言い直す。やっぱり、いくつになっても自分の番の発情期は嬉しいものなのか、とそんな場合じゃないのに、私まで嬉しくなった。そんな場合じゃないのに。
番さんはひとつ咳払いをして、威厳ある声に切り替えた。
『抑制剤は?』
大会社の重役アルファという感じの声だ。あんな、ハートの卵焼きを作るような人なのに、ひりひりするような威圧感と、尊厳を感じる。
「医者がいないので、投与できる人間がいません。救護室が空いていたので、そこに一時避難でいます」
『じゃあ』
私は、番さんが迎えに来るのかなと思っていた。
『じゃあ、タクシー呼ぶから、信治を自宅まで届けてくれないか』
「えっ?」
『頼んだ』
「なんでですか?」
だって、番だ。運命の番じゃないと言っていた気がするけど、それでも、アルファとオメガの間でしか存在しない、特別な縁であり、絆。発情期のおじさまだって、番がそばにいるだけで安心できるだろうに、なんで人任せにするのか。
そんなようなことを考えていたら、ついつい胡乱げな声が漏れてしまった。
『なんでって……お嬢さん、発情期って、なんだかわかっているか?』
「何って…」
答え方が分からないで口ごもる。ホルモンの高まりとかフェロモンの周期とか言い方はあるんだけど、どれもセックスに直結することで、25才の私にはハードルが高かった。
『そう、答えづらいことをする時期だ』
ヒート中の、自分のオメガに近づいたアルファはどうなる?
そう聞かれた時、あっ、と私は言うことになった。
『そういうことだよ。信治が、自分の職場でそんな状態になってる俺を見たいと思うとは、到底考えられない。迎えに行くでも、信治のヒートはかなり進んでるんだろ』
「…かなり、苦しそうです。熱そうだし」
『じゃあ、避けてやるべきだ』
私はちょっとだけ反省した。さっきまで、一番おじさまのことを考えてるのは自分だと思ってしまっていた。そんなこと全然なかった。
この電話の向こうにいる、顔もわからないおじさまの番は、誰よりおじさまの嫌がることを理解して、不快な思いをさせないようにしている。一見冷たく見えることでも、おじさまを考えてやってることだった。
顔に血が上って、熱くなった。うぬぼれ屋の自分が、何より恥ずかしい。
『もしかして、春さんか?』
電話の向こうでそんなことを言われた。何で知っているんだろうと思いながら肯定する。聞いてか聞かずかの間合いで、番さんはそうか、君がか、と満足げに言った。
「……なにか斎木さんが言っていましたか?」
『いや、悪いことじゃないさ。ちょっと前に、年の離れた良い友だちができそうだと嬉しそうだった。それだけだ』
「……」
それを聞いた瞬間、目が潤むのを感じた。
嬉しかった。一緒に働いてきて、かっこいいと思って、憧れて、もっと知りたいと思った。そんな人が、自分を友だちになれそうだと思っていてくれてた。鼻がツーンとして、涙がこぼれそうになる。
『春さんや』
「なんでしょうか」
『頼むよ、信治を。これからも働くだろうから、仲良くしてやってくれ。……これはあれか、過保護すぎるか』
快活に笑う、携帯の向こうの番さんはきっと、おじさまと真逆だけど似ている人なんだろうなと想像した。
大胆で、剛胆に見えるけど、些細なことにも気がつけるような。そして、おじさまが大好きで、おじさまのことを誰より理解しようとしている人なんだろうな、と思うと、関係ないのに自分まで嬉しくなって、私は「こちらこそよろしくお願いします」なんて答えていた。
*
電話が終わると、とりあえず顔を洗って、おじさまを起こした。ペットボトルをひとつ渡して、マスクをして貰うと、なんとなくただの病人を装うことができた。いくらアルファが近づいても、番以外反応しないから、発情期だとバレることはないはずだ。
朦朧としたおじさまを、番さんが呼んだタクシーに押し込めて、私は役目を終えた。無事に発情期が終わったあと、あるいは三日後の月曜日、おじさまが戻ってきますように。私には、祈ることしかできなかった。
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