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発情期5

 目が覚めると自分の家にいた。昨日、資料室で倒れたきり、あんまり詳しい記憶がない。起きようとシーツの上でもがくと、太ももが引きつった。 「痛い痛い…」  しかも、腹のまわりに腕が纏わり付いてて、移動することもできない。自分と彼が揃いのバスローブのままでいることに気がつくと、ああ、そういえばそうだったと思い出した。年甲斐もなく彼が必死になっているのを見て、自分からキスをねだった。その時の彼の顔がやたらと嬉しそうで、昔に戻ったような気持ちになったのだ。  それを思い出して、発情の熱が戻ったように体が疼いた。そしてそれにホッとする。彼のことをまだ欲しいと思える僕で良かった。  つい気になって、うなじをたどる。指先で噛み痕がどうなってしまったかを知った。  ああ、もう彼とは番ではないのか。  彼というアルファにとってもう僕は、ただ子どもを産ませただけの、家族でもないただの男なんだと気がついた。  何度も昔、番に成り立てのころ、番じゃなくなったらどうなるかを想像した。捨てられるのでも、ストレスで自分から解消してしまうのでも、『満島彰』というアルファから解放された自分は、一体どうなるのかを想像した。その度に、胸に大きな穴が空いたように感じたのだ。  なんだかんだと言って、僕は彼がそこまで嫌いじゃないと、その時は思っていた。  うなじに置いていた指先に、柔らかいものが当たったのに気付いた。けれど僕は身動きすることができずに、固まってうつむいた。 「…なーに考えてんだ」 「別に」  嘘だろ、と当てられる。鼻の奥がつんとした。昨日からやたらと涙腺が脆い気がする。  番じゃなくなったから他人なと、そう彼が言い出すことはないと知っていても、今まで存在していたものが急に消えるのは怖い。追い出しはしないだろうし、昨日彼が言った通り“変わらない”だろうと、分かっていてもだ。  背中に当たる彼が、震えた。小さく笑ったようだった。 「面倒くさいなあ、俺のオメガは」 「……もう君のじゃない」 「俺のだよ。子はかすがいって言うだろ。孫もいるけど。でも、そうじゃなくて」  抱き締められていた腕がすっと離れた。背中の体温が遠くなる。いけない、と思うのにオメガの性質が抜けずに寂しくなった。まだ発情期に引きずられて、精神が不安定になっている。  いい歳して。彼も言っただろ、孫もいるのに。そう自分を叱責する。  体にむち打って起きる。今日が、恐らく休みの日で良かったと安堵すると共に、あと二日も番でない彼とどう過ごせば良いのか、わからなかった。 「あのさ、自分でもこんな時にどうだって思うんだが」 「……なに」 「こっち向けって、話す時くらい」  渋々振り向くと、彼は口元に笑みを乗せていた。  僕の手を取ると、僕より少しごつごつした手で、薬指を撫でた。口元に寄せると、大事そうに薬指にキスをして、目を細めた。 「ここに、指輪を嵌めないか」 「…え?」  彰は、びっくりさせるのに成功したように、満面の笑みを浮かばせた。なんで、と僕は乾いた声で問うていた。彼が指と指を絡ませようが、僕は何も言えなかった。空っぽになりかけてた胸で、心臓が張り裂けそうなほど大きく鼓動していた。  顔に血が上った。  お願いだから、そんなきらきらした顔で見ないで欲しい。 「ずっと思ってたんだ。どうすれば結婚できるかって。子どもができたタイミングでと思っていたら、考えるよりずっと早くできてしまったし、二人目の時は家が絡んできてそれどころじゃなかった。三人目の時はずっと怒らせたままだったな。最後の家を買うときと思っていたら案外忙しくてそれどころでもなかった」 「そんなの言い訳だろ…」 「そうだな。思えば、番になった時点で言うべきだったんだ。親の目がとか世間がとか、そんなことを言う前に、自分が結婚したいと思うならすれば良かったんだよな。紙に書いて出すだけなんだから」  35年も無駄にしたんだ、バカだよ俺は、と冗談みたく言うわりに、彰の指は震えている。本当に僕以外に惹かれることがなかったんだったら、これが彼の初めてのプロポーズなんだ、と思った。  そして、受けたいとも。 「一番最初の発情期から、最後の発情期――うなじを噛んでから、痕が消えるまで、ずっと一人のそばにいたんだ。そんな幸運なアルファ、俺以外にはいない」 「恥ずかしいことを言うね、本当に君は…」 「何度でも言う。俺はお前が好きだ。だから結婚したい。番だろうがなかろうが、孫が何人いようが関係ない。年甲斐もなく、俺を昂ぶらせるのは信治だけだ」  目を合わせていられなくなって、下を向く。それでも、指同士が絡んだ手を見てしまえば、恥ずかしさでどうにかなりそうだった。まっすぐな目で見ないで欲しい。恥ずかしい。勢いにおされて、頷いてしまいたくなる。 「名字を変えたくないなら、俺が変える。仕事は続けてて構わないし、もし満島になったとしても、通称名を使える会社だから、そこまで不自由させない。俺の方が自由な時間が長いから、やるべきことも全部請け負う」  どうだ、と彼は言った。きゅ、と組み合わさった手を握られる。温かい手だ。触られると、なんでも頷いてしまいそうになる手。彰に抱きすくめられる。昨日散々触ったはずの体なのに、まだどきどきする。  だめか、と耳元でささやかれると、もう頷いてしまいたくなった。  ―――けど。 「あ、あきら…その…」  抱き締められたまま、僕は必死に最後の抵抗をした。頷いてしまいたい。全部彼に預けられたら、どれだけ幸せを感じるんだろう。  けれど、僕は、ひとつ息を吸って、早口で言った。 「一週間だけで良い、考える時間をくれないか」

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