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小話-33年前

 明日から僕は入院する。準備のために、彰さんにキャリーケースを借りて、使い古したタオルや下着をうまく入れていく。  怪我や病気じゃなくて――いや、男が妊娠したなんて愉快な病気かもしれないけど、そうじゃなくて、子どもを取り出すための入院だ。オメガというだけで病院に縁のあった僕はそれほど緊張していないが、彰さんは、入院が決まって以来、口がいっそううるさくなった。  やれ、体を冷やすなとか、重いものを持つなとか、外に行くな、立つな、寝ていろとか。そこまで番のオメガが大事なんだろうかと疑問に思うほど。どうせ働き始めたら、適当な女のアルファと結婚するくせに、大事な振りをしないでほしい。  四角くたたんだタオルを膝の上に置くと、嫌でもわずかに膨らんだ腹が目に入る。体の機構はオメガでも、第一の性は男だから、腹が膨らむようにできていない。臨月に入っても、わずかに太ったように見えるのが関の山だ。  すっかり冷えた指先で下腹を撫でると、それが分かったかのように、腹の子が動く。この子は、どんな子に生まれてくるんだろう。元気に生まれてきたとして、育てられるだろうか。胎動を感じる度、怖さがつきまとった。  僕は親を知らない。父親はいたけれど、育てられた記憶はない。殴られたこともないけれど、存在を否定するように、僕からいつも目を背けて、家に憑く童子に捧げるかのように、ぼろぼろのちゃぶ台に決まったお金を置いていく人だった。最後は、手紙で生きてくれと、それだけを書いてどこかで死んでしまった。母親は、僕を産んだあと、産後の肥立ちが悪く他界したと聞く。本当なんだか。  ふと、彰さんのお母様の声がよみがえった。  ――親を知らないオメガが、子どもを立派に育てられるわけがない。  その通りだ。  指先で胎動を感じる。この子が今、何を言いたいのか、分からない。母親なら分かると散々いろんな人から言われた。胎動を感じるようになれば分かるんだ、とその時は思っていた。けれど今は、『じゃあ僕は母親にはなれないんだな』と、冷たく思うだけだった。  言い訳はいくらでもできる。  好きで身ごもった子どもじゃない。番にさせられるために連れてこられて、無理矢理番にされて、できてくれるなと必死に祈っても、できてしまった子どもだ。  心臓の鼓動が重い。妊娠しているからじゃなくて、この子を可哀想だと思っている自分がいる。ごめんね、と何度も謝るように撫でる。  僕なんかの所に来させてしまって、ごめんなさい。君が言っていることが、分からなくてごめんなさい。君をちゃんと愛せるか分からなくて、ごめんなさい。けどもし、彰さんが君を要らないと言ったら、彰さんを捨てて君を守りたいと思う。けどオメガの片親じゃ、やっぱりだめかな。  うつむいて腹をさすっていると、後ろから手が重なった。僕より少し浅黒くて、節々がごつごつしている手が遠慮がちに伸びる。大きな、僕からすればうらやましい手のひらが、腹を撫でた。  彰さんだ。 「……信治」  後ろから、温かいもので包まれるように抱き締められる。彼の腕の中は心地が良い。全てを肯定されているような気持ちになる。だから、言いたくないことを言ってしまいそうになる。それが嫌だった。  いくら嫌だったとしても、腕をふりほどくことはできない。所詮、僕の立場はせいぜい愛人か、番うオメガのうちの一人でしかない。使用人の立場で、主人の行動をいさめるなんておこがましいにもほどがある。 「なに考えてんだ」 「いいえ、ただやっとか、と」 「本当にそれだけか」  念を押すようにしつこかった。僕は何も言えず押し黙った。  よく分からない人だ。子どもを堕ろそうと思うと言ったら、まだ彰さんは学生なのに、産めと言われた。どうしてかと聞くのはやめた。自分の血を半分でも持った人間が死ぬのが嫌なんだろう。妊娠しても性交渉した方が良いだなんて言われるオメガに、したいかと聞くし。  ああ、そうかとわかった。 「あなたは、優しい人ですね」 「……はあ?」 「それだけです。そうやって思ってただけ」 「……」  タオルを丸めてキャリーケースの中に放った。ふりほどいたわけじゃないのに、すっと彰さんの体温が離れていった。口に出すことはできない、心の空白が大きくなった気がした。  子どもが腹の中にいると分かって以来、なんだか心にぽっかり穴が開いたようで、僕ではその空白を、ずっと埋められずにいる。  彼がそばにいると、不思議なことに、満たされた気持ちになる。安心するとは、多分こういうことなんだろうなと思う。 「信治、手え止めてちょっとこっち向け」  正座のまま、くるりと半回転すると、目線が合う。ちょっと寂しそうな、幼い表情。こうして彰さんと顔を見合わせていると少しだけ、煩い鼓動が収まる。 「……ずっと、言おうとして言えなかったことなんだけど」  くしゃ、と顔が歪む。僕は目を見張った。いつも大人びて、何が起こっても何でもないというような顔をしているのに、今にも泣きそうな顔をしている。彰さんは僕の手を取った。いつも通り熱くて、大きい手だ。 「ごめん。本当に、ごめんな」 「な、なにがですか?」 「発情期のお前に盛っておいて、こんなこと言うとかほんとあり得ないんだけど、ごめん。子ども」 「子どもを産むのが、僕のお役目のひとつですよ」 「んな時代錯誤なことがあって溜まるか」  時代錯誤じゃない、げんにオメガでまともな家庭を築いている人は少ないんだから、彰さんが謝るのはだいぶ違う気がする。目元に膨らむ涙を、袖口でぬぐいながら、彰さんは続ける。 「妊娠したら人がどうなるか、色々調べたんだ。なんで俺はこんな状態の信治を一人にしたのかって後悔した」 「……それは」  目の前の、体の大きなアルファが、大きな子どものように見えた。彰さん、と震える声を抑えて、重なった手を握る。お腹が少し出てる状態で、前屈みになるのは少しきつい。  ほろ、と粉砂糖が溶けるように、彰さんの涙が頬を伝った。僕が見た、彰さんの初めての涙だった。 「けど本当に、ごめん。嬉しかったんだ。俺が考えるよりもずっと、いっぱい苦しいはずなのに、信治は頑張ってくれてて、俺との子どものためなんだって分かってても、なんか……愛されてるなあって、思っちゃって、ごめん。…ありがとう」 「あ、ありがとうって…」  別に、彰さんのためじゃないのに。男性オメガ専門医さんに診て貰っていたから、秘密で堕ろすこともできた。ただ、なんとなく堕ろせないで今の今まで来てしまった。吐きそうで、動悸が苦しくって、ああ、僕はこうやって、母親に育てて貰ったんだとぼんやりそんなことを考えていただけだ。  僕は、オメガだから。どうせ最後は捨てられるから、それまではせめてひとつでもお役目を果たそうと思った。  それより、社会に出てもいないのに子どもができてしまった彰さんはどうなるんだろう。それが怖くて、僕は、アルファを誘惑して子どもを作った、日陰者になる覚悟もしてた。 「優しいって言ったけど、優しくない。全部俺のエゴだ」 「そうやって、全部自分のせいにしようとするところが、優しいんですよ」 「臆病なんだよ。自分が好きだと思う人にはずっと好きでいて欲しいから、かっこつけて、自分ができる以上のことをする」 「……」  彰さんが、くしゃっとした顔で僕に笑いかけた。笑顔を破顔ということがあるけど、まさにそんな感じで、真夏の太陽みたいな、元気づけるような笑顔。そういう顔は本当にずるい。 「好きだよ、信治。俺にはお前さえいれば良い。……違うな、お前と、お腹の子で三人家族だ。それだけあれば、俺はなんでもできる気がするんだ」  胸がきゅう、とした。笑顔の彰さんから、目が離せられない。ずるい。そんな、僕を全部認めて、居場所を与えるようなことをされると、もうどこにもいけなくなる。空っぽの部分が、彰さんで満たされていくのを感じる。  やめてほしい。そんな目で見ないで欲しい。愛されていると、少しは好かれていると、勘違いをしそうになる。  さっきまで泣いてたのに、彰さんはもうすっかり明るくなっていた。僕が顔を赤くして、動けなくなってるのを横目に、僕の腹をのんびり撫でてる。くすぐったくてしかたない。 「楽しみだな、赤ん坊。女かな、男かな」 「……オメガだったら?」 「え、正真正銘、信治の子どもだろ。可愛がらない理由がない」  背中から抱きついてて良いか、なんて言われる。腹を触っていたいんだろう。  ああ、もう、勝手にしてほしい。

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