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小話-32年前

 暗い廊下から、光が漏れる我が家がようやく見えた。足取りは重い。別に後ろ暗いことなんてひとつもしていないのに、なんとなくダメな気がする。ただ一緒にいたかった二人だけのころと違って、今はそれに娘もいる。  一瞬ドアノブに手をかけてためらい、一呼吸置いて戸を開けた。目の前には、信治がいる。毎日帰ってくるのに、俺だと分かると、安堵の顔を無理矢理引き締めた、泣きそうな表情になる。それを見てようやく俺は、今日も帰ってきて良かったんだと安心するのだ。 「ただいま」 「遅かったですね」 「疲れて帰ってきて、一言めがそれかよ」  つい嫌味が口を突いた。思ってもいないことで、自分でもびっくりしてしまった。  まずいと思ったときには、信治は辛そうに顔をしかめていた。うつむいて、鞄を奪い取られる。今にも泣いてしまいそうな信治を、俺はどうしたら良いか分からなかった。  ごめん、と言うことができれば、ちょっとは慰めになったのだろうか。  先に寝ますね、と信治は鞄を定位置に置いて、寝室に籠もってしまった。気丈に振る舞おうとしているのが丸わかりなのに、どうにもできなかった。半分照明が落とされたリビングは、気温以上に冷ややかだった。  娘が――雪子が生まれてからと言うもの、信治は不安定だ。俺が大学生から社会人になり、休みが減って仕事が増えに増え、家にいる時間が激減したのも多分、もう一つの原因だと思う。発情期も隠すようになった。  信治が何を考えているのか分からない。知りたいのに、その時間がない。  俺たちはまだ結婚できていない。社会は多数派のベータと、強者のアルファを基準に動いているから、弱者で少数派のオメガと結婚することはそもそも想定されていない。もういっそ、アメリカ国籍でも取ってそっちでパートナーになってしまおうか。  どうすれば、信治はまた俺に笑ってくれるんだろう。最近そんなことばっかり考えている気がする。  だしの良い匂いがする。鍋の蓋を開けると、今日の晩飯は煮付けだったらしい。信治も料理がかなりうまくなった。照っている魚の表面を指先ですくい取って舐めると、優しい味がした。三人で食卓を囲って、信治と顔を合わせながら、美味しいなと言い合って食べたかった味だ。  今日の晩飯は上司におごられた。行きたくもない上司の行きつけのパブに連れ出されて、酒が乾く前に注げなきゃ二流、不倫しなきゃ男は一流じゃないなんてありがたくもない説教を浴びせられた。帰りたくて仕方が無かった。浮気を勲章のように見せびらかすやつとは、同じ男だろうが、アルファだろうが、全く尊敬できない。  好きな相手の料理を食べずに、遊び歩くような毎日。罪悪感と、大学のころはなかったストレスで気が狂いそうだった。働きに出たくなくて朝が辛いけれど、それでも今日行かなきゃ、いつか雪子と信治を守れなくなると思うと、行くしかなかった。  信治が怒れば、『嫁さんが怒ってるから』と帰ることもできるだろうに……なんて、人任せか。父親のせいか、年上に言い訳もなしに刃向かうのが恐ろしいと感じる。 「……風呂入るか」  ぽつりと呟いても、答える相手はいない。  風呂に入ると、一日分の垢と一緒に、薄汚れた思考もなくなる気がする。ちょっとだけ気分が軽くなって、酒気も抜けたような、朗らかな気持ちだ。いっぱいだけ作り置きの麦茶を飲んで、鞄の中を整理して寝ようと脱衣所を出ると、信治がいた。  家計簿か何か、ノートを付けている。俺の気配にハッとして、ノートを閉じて大事そうに抱えた。なぜいるのかはわからないけれど、信治の顔をまた見れたのが嬉しかった。  自然と声が弾む。 「どうした、寝付けなかったのか」  そうではないです、と信治は首を横に振った。目を合わせて、ノートに視線を落とす。とりあえず麦茶を二つ分よそって、信治の前に置いてやった。緊張しているな、と顔を見てすぐに分かった。 「あの」  信治が、のぞき込むように俺の方を見た。ん、と続きを促すと、口をもごもごさせてから、意を決したようにすみませんでした、と頭を下げる。口元が緩む。信治が素直なだけで、本当にそれだけで喜んでしまう俺がいる。我ながら単純だ。 「信治は悪くないだろ? 連絡もよこさずに、ずっと外に出てた俺が悪い」 「いいえ、そんなことなくって…」  信治は俺が嫌味を言ったときのように、辛そうに顔をしかめた。そんな顔をさせたくて俺が悪いと言ったんじゃないんだが。 「僕の役目は、家のことを心配させないで、毎日働きに出て貰うことです。だからご飯を作るし、子どもの面倒もしっかり見て、……夜のお世話だって、させて貰って…」 「バカか、なんで全部一人で…ああもう」 「ごめんなさい。至らない僕が悪いんです」  こいつはどうしたら良いんだろう。多分いくら伝えても、信治は俺が自分を好きだと思っていない。30年でも40年でもかけてやろうと思っているしそれは良い。  俺たちの間には、致命的なボタンの掛け間違いがあって、それは、俺以上に信治を苦しめている。信治の言葉の初めには、たまに「オメガ」という付く。「オメガだから、僕が全部悪いんです」と。いくら愛していると言ったって、「オメガだから愛して貰えている」と、俺の言葉を歪めて覚えてしまう。それが寂しい。好きだというのに、一番の理由を性別にする必要はどこにもない。なのに、信治はオメガじゃなければ自分が好かれなかったとすら思ってしまっている。 「信治。雪子は誰の子どもだ?」 「……彰さんの子どもです」 「俺と、お前のだろ。子どもができたら、子ども中心の生活になることくらい、俺だって分かってた。寂しいし、嫉妬はしてるが」 「雪子にですか…?」 「おかしいだろ」  不安そうなままこくりと頷く信治。そういうところばかり素直で、いつも俺を困らせる。少し痩せた頬を撫でると、恥ずかしそうに赤面した。 「信治、こっち見ろって」 「無理なんです、こういうの苦手で」 「本当に嫌なら、やめる。いやじゃなかったらこっち見ろ」 「……っ」  その言い方はずるい、と言わんばかりに拗ねた。  ああ、やっぱり会社なんて辞めてしまいたい。ずっと家にいて、番の時間を取りたい。信治の一分一秒を、逃さずにとどめていたい。信治が雪子に笑いかけるのとか、今しか見られないのに、なんで俺は時間を無駄にしているんだろう。 「それで、なんでこんな時間にまだ起きてるんだ。体に悪いだろ」 「もう妊娠してないんですよ。体に悪いもなにもないでしょう」 「俺は信治に早死にされるのが嫌なんだ」  ため息をつかれた。けれどその顔は赤いから、ただの照れ隠しなんだろう。頬にかけた手を赤い耳に忍ばせると、びくりと肩が震えた。  耳元から俺が噛んだうなじが覗ける。うなじが熱を持っているのがまた官能的で、信治が睨んでくるのも、なんだか愛らしいとしか思えない。からかうように「熱いな」と言ってやる。  むっとした信治に、腕を押しのけるように、ノートを押しつけられた。仕方が無いので解放してノートを受けとる。 「それ無言で読んで、さっさと寝てください」  麦茶をがばっと飲んで、こっちに背を向けた。もっと話していたいのに、信治はそうさせてくれない。なんだか寂しがっているのが自分だけのようで、つい腕を引いて一瞬だけ引き留めた。  離してくださいと小声で暴れる。けれど、耳元に一つキスを落とすと、少しだけ大人しくなった。 「おやすみ。明日も愛してる」  解放すると、懐かない野良猫のように一目散に逃げていった。おやすみなさい! と元気な声で言うわけは、暗い中でも分かるくらい赤い耳ですぐわかる。それを見るだけで、明日もがんばれそうだと思うのは、あまりに悪趣味で単純かもしれない。 「さて、これは?」  受け取ったノートを開く。1ページ目を開くと、俺は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。そういえば俺は、信治の字を初めて見るんだと言うことに気がついた。見慣れない文字で書かれたそれに、何度も何度も目を通す。満足するまで読み終えたあと、俺は胸を押さえてテーブルに倒れ込んだ。  なんだあいつは。どれだけ俺を困らせれば気が済むんだ。  さっきの信治に負けないくらい顔が熱くなる。お前はずるいよ。本当に卑怯だ。こんな、たった1ページで、俺をここまで好きだと思わせるなんて。 『彰さんへ  お仕事お疲れさまです。今日はおかえりも言えなくってごめんなさい。  僕は、雪子と一緒に買い物に行って、家で昼ご飯を食べて、昼寝してました。不思議なのが、雪子だけ寝かせようとして、絵本読んだり歌ったりしていると、僕まで寝てしまっているんですよね。だから、今日はご飯を作るのが遅くなってしまいました。  いつ帰るのかな、とどきどきしながら待ってました。帰ってこないかもしれないとか、そんなことを考えてたり。帰ってきてくれて、ありがとうございます。  ここからは、ちょっと僕の言いたいことです。  わがままを言います。ただのオメガの身の上で、そんなこといけないとは、百も承知です。  彰さん、僕はもっと彰さんとお話ししたいです。ご飯を一緒に食べられなくても良いし、雪子の世話だって頑張ります。けど、その分、彰さんと話す時間が短くなっていて、最近、物足りない気分になることが多いのです。  別に寂しいとか、そういう理由ではありません。  昼間、あなたが何をしているかとか、どんな仕事をしているかとか、何を食べたとか、そういうのが知りたいんです。  だから、これで交換日記をしませんか。  やりたくなかったら、僕が雪子の成長記録を毎日書いて、たまに彰さんに読んで貰います。読みたくないなら、勝手に書いて、いつか雪子がお嫁に行く日に、渡します。別に、気にしないでください。  僕は、彰さんから見た彰さんの生活が知りたいんです。ちょっとでも、話せない時間を埋められたらと思って、提案します。  もし書いてくれたら、とっても嬉しいです。               斎木信治 』  翌日、家に出る前に信治にノートを手渡した。そうすると、信治は心の底から嬉しそうなはにかみ笑いを浮かべるものだから、珍しくも俺の方が照れてしまった。  今日は早く帰ろう。胸中でそう強く宣言しながら、信治と雪子にいってきますと手を振った。

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