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忘れ物2

「雪子――違う、春さん。ちょっといいですか」  エレベーターホールで呼び止められる。いつも通り、銀縁のきれいなめがねを掛けているおじさまだ。けれど最近は少しぼうっとしていて、仕事にも、上司の叱責にも集中できていない感じだった。  昔、保健の授業で、番の関係を解消されてもアルファにはたいした変化がないけれど、オメガは耐えがたい欠落感に苛まれると。番の関係が終わったというのでも、欠落感があるのかな。  それでおじさまに元気がないのだろうか? と邪推するんだけど、納得いかない。  ぼうっとしているのはお昼過ぎて就業時間をすぎてもで、今も私に話しかけてるのに、まだ呆けているみたいだ。 「すみません、娘の名前と間違えました…」  頬をかきながら、おじさまは本当に申し訳なさそうだった。本当に素で違えたんだなとびっくりするけれど、まあいいか。たまに言っちゃいけないこともたまに言いそうになってるし、ぼうっとすると天然っぽくなるんだなと思っておこう。  気にしないでください、と私は首を横に振った。 「娘さん、ゆきこさんって言うんですね。幸せって字ですか?」 「いえ、雪の日に生まれたので雪ん子です。春さん、今からお時間ってありますか?」  急いでいるのか焦っているのか、らしくなく矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。いつも通り高そうなコートを着ているけれど、どことなくだらしないというか、くしゃっとしている。眉間をぎゅっとして、少し険しい顔だ。  いつもの、のんびり優雅に紅茶を飲んでそうな紳士姿じゃなく、逃避中のジャン・ヴァルジャンみたいだなと失礼なことを思った。  腕時計を見ると、6時半を過ぎたところだった。晩ご飯に行くのにちょうどいい時間だ。 「たっぷりありますよ。行きますか?」 「できれば、ご一緒していただきたいです」  神妙な顔がほっとしたように崩れた。本当にどうしたんだろうと心配になりながらも、なんでもなでもない顔をして、ほほえんだ。 「こんな早くいけると思わなかったので、嬉しいです。どこに行きましょう?」 「そうですね」  ちょうどエレベーターが来たので、二人きりで乗る。 「何が食べたいですか? 僕、このあたりの店に詳しくはないんですが」 「私もそんな飲み会に出ないのでわかんないですね…チェーン店でもいいですか?」  おじさまがうなずいたので、スマホでリサーチした。ここでいいでしょうかと半個室みたいに仕切られているカジュアルなイタリアンを勧めてみる。了承をもらい、そのまま予約する。こうして流れを切らずに予約できるのが、ネット予約の良さでもある気がする。  外に出たタイミングで、図ったように車が横につける。夜景に映える銀色の車体にぎょっとしてのけぞると、車と私の間にすっとおじさまが入った。  接触しそうになってあぶない、と言う瞬間、車が止まった。  前のウィンドウが下がっていく。おじさまの表情が怖い。あ、となにか、頭の中でピースが嵌った気がした。 「よ、信治」 「今日、春さんと飲みに行くから、いらないって言ったよね」  運転してる人の態度は軽い。この声、どこかで聞いたことがある気がする。  おじさまと車体の間から顔を出して、運転手さんはお、と言った。 「そっちが春さんか。先日はどうも」 「あっ…え? もしかして、齋木さんのパートナーさんですか」 「そうだよ。満島彰って言います、今後ともよろしく」  番さん――満島さんが、私に向かって差し出した手を、おじさまが払いのけた。不満げな、今まで見たことがない苛立ちの表情で、今日何度目かの驚きだった。満島さんは、胸にとげが刺さりました、というようなほんのちょっと寂しそうな顔で、齋木さんを呼んだ。 「一緒に晩飯は食べるんじゃなかったのか」 「例外もある、気が変わった。昼頃には連絡したよね」 「そりゃ聞いたけどさ…納得いかないよ」 「納得行かなくってもしりません。今日はもう連絡切ります」  もう話すことはないと言わんばかりに、おじさまは早足で歩き出した。  満島さんは名残惜しそうな顔をして見送っていたけれど、私の存在をはっと思い出して、これ、とカードを手渡してきた。  名刺だった。シンプルな白の長方形に、名前とメアド、電話番号のみが書いてある。 「これ持っててくれ。プライベート用の連絡先だから」 「え」 「頼む。人を助けると思って」  そんな大げさな、と内心困り果てた。おじさまは足早にどんどん離れて行っているし、かといって満島さんの頼みを断れない。だからとりあえず、言うことだけ言っておじさまを追った。 「あの、私スパイみたいなことしませんからねっ」  満島さんがうっそりと笑ったことを、私は見ていなかった。 「そういう子じゃなきゃ、信治は寄りつかないよ」

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