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忘れ物5
タルトタタンの、先っぽのさんかくを、おじさまはやっと口に含んだ。ここのタルトタタンはわずかに酸味があり、日本のりんごの甘みをたっぷり含んでいると同僚に聞いた。おじさまの抱えている緊張が、わずかにでも救われれば良いなと思った。
じっくり30秒ほどかけて咀嚼すると、ホットティのマグカップに指を掛けて、やっとおじさまは口を開いた。
「二回目なんです、結婚の約束をされるのは」
「えっと…それじゃ、1度目は? 断ったとか」
「いいえ」
首をかしげる。けれどそれ以上自分から口を突っ込んでいくのはやめた。多分これは聞くより待つべきだと思った。
わざとゆっくりした動作でクリームが溶けてきたパイを口に入れ、パイの中にわずかな蜂蜜の風味を感じた。抹茶のほろ苦さと、エスプーマのチーズのような酸味と、黄金色の蜂蜜が、舌の上で混ざり合って溶けていく。
お皿に意識を向ければ、あまりおじさまを追い詰めないで済むかな、などと思いつつ。
おじさまは紅茶をひとくちだけ味わって、言葉を継いだ。
とても爽やかな笑顔だった。何かを振り切ろうとする人のそれだ。私は無意識に身構えていた。
「起きたら忘れたんです。結婚しろと迫った、満島自身が」
「えっ…」
酷いという言葉を、堪えてのうめきだった。なんでですかどうしてですかという容赦ない疑問を「そんな…」というささやきに変換する。
やっとの小声をおじさまが拾うと、クスッと笑ってくれた。
「そうでしょう。30年も前のことです。そこからけなげに、もう一度同じ言葉を引き出したくて待っていたら、今まで掛かりました。だから今日は帰りたくないんです。なんだか気まずくなってきてしまって」
子どもっぽいですよねと笑うおじさま。
30年前というと、だいたい二十代の半ばくらいだろうか。今の私とだいたい同い年くらいのころだろう。状況や環境が違うとはいえ、結婚しろと言っておいて忘れたと言われたら、私だったら少なくとも、怒るか呆れるかの二択だろう。
ぎゅっとこぶしを握って、まっすぐおじさまを見た。多分、睨むような顔のこわばり方をしている。
「もっと怒って良かったと思います」
おじさまは少しだけ困ったように眼鏡を押し上げた。
「僕も、今だったらそう思います。でも、……そうですね。他人から虐められた子が、自分を大事にできないのと同じで、当時の僕には、そのことが怒って良いことなのか分かりませんでした。僕の人生は、僕以外が決めていましたから。
ええ、それこそ酷い男だ、なんてやつだと。でもそれは、今の僕だから思うことで、当時の僕は、『もしかしたら、ただ番だった男が結婚してくれるかもしれない』が、『やっぱりオメガが結婚なんて無理か』になった程度でしたから」
ふ、と気が抜けたようだった。組んでいる指先が、緊張か何かで震えている。
それは私には、怒りにすらならない感情の発露に見えた。
ぐっと奥歯を噛みしめる。どうしても可哀想に思ってしまった。だって可哀想だ。売り買いされて、振り回されて。あげく、30年も番だというだけで、それだけで縛り付けられて。
「そんなの、斎木さんが不憫です」
口から出すとよりいっそう、怒りに似た何かが、むくむく湧いてくる。そんな私をそっと押しのけるように、おじさまは、にっこりと笑った。
「春さん、でもね。そういう、今の僕自身ですら面倒に思う当時の僕を、掌中の珠のように、大事に思っていてくれたのは満島なんです。今言ってるのはただの過去の出来事です。それに僕も彼も若かった。だから、あまり僕の代わりに怒らないでください」
気が抜けた。風船がしぼむように、一瞬で。自分が憮然とした顔をしているのが、頬を触れずともわかった。
ひとつ息を吐くと、少しだけおじさまを非難したくなった。だって、私はおじさまが可哀想で仕方が無かったのだ。オメガと言うだけで、我慢を強いられて、苦しみ、それを私は、代わりに怒っているだけのつもり、なのだ。
ひとくちだけ紅茶を飲んだ。ぬるくなって、少し渋みが増している。表情が険しくなってしまったまま、顔を上げた。
おじさまは、まだ笑っていた。分厚い壁のような笑顔を見ていると、あ、と気付いた。
これ、ただの偽善だ、と。
気にくわなかったのは、自分の『厚意』をふいにされたからだ。でも、そんなもの、押しつけた時点でありがた迷惑でしかない。
逆に、私が誰かに嫌なこと――例えば、頑張って作った表データを誰かに全消去されて、それを友だちに言って、友だちが私よりずっとずっと、私が「もう良いよ」って言っても怒ってたら、気まずくなる。
「すみません、言い過ぎました」
謝った。おじさまはゆったり首を横に振った。
「いえいえ、僕も、話しすぎたんです」
少しほっとしたように見えた。私は反省した。前も――おじさまが発情期になったときもやらかしたのに、全く私は変わってない。こう、多分、『アルファ』とか『上司』とか、権威っぽいものが得意じゃないんだと思う。
いや、苦手でも良いから、感情のままに振る舞うのはやめたい。心底かっこ悪い。
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