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忘れ物7
そう言っておきながら、やっぱりおじさまは迷っているようだった。背中を押したいと思った。けれど、どうやって言えば良いのか分からない。
おじさまは、自分が思っているよりずっと大好きな満島さんが病気になったのを、すべて自分に原因があると思い込んで、その身に余るほどの罪悪感を抱えて、必要以上に重い責任を持とうとしている。
恋愛感情や、家族としての感情を抑えて、自分のしたい/したくないという選択を無視し、ありもしない義務だけを負おうとしているのだ。
それは多分、おじさまの50数年の人生そのものだ。事実は、番を持つオメガであると言うところだけなのに、必要以上の義務に手を伸ばす。番のアルファにとって、誰よりも模範的なオメガであろうとする。私にはそれが、オメガが、自分よりも大きいアルファを守ろうとしているように見えた。
「おじさまは」
焦ったんだと思う。私は、考えるより先に震えた声を出していた。
「どう、したいんですか。するべきじゃなくって、おじさま自身は、この先、どうやって生きていくつもりなんですか」
言っておきながら、傷つける質問だと思った。あまりにも不遜だ。出会ってから数ヶ月しか経っていないのに、おじさまの人生に過剰に踏み込んでいる。でも、いまおじさまに必要な物を、想像力の足りない頭で必死に考えた。
実際、おじさまはゆるやかに、しわの増えたであろう硬い頬をあげて、困った顔になっていた。
「数十年、彼の恩恵を受けさせて貰ったんです。良い思いもさせて貰った。わがままで働いて、小銭を得ることもできた。恩返しをするのに、結婚する必要はないでしょう」
「……そうじゃないんです」
そうじゃない、としか言えなかった。するべきと、言葉でがんじがらめになっているおじさまを、どうして良いか分からなかった。
うつむいた。自分の言葉選びの下手さを、どうしようもなく恥ずかしいと思っていた。テーブルに完全に沈黙が落ちる前に、今度はおじさまのほうが口を開いた。
「そうじゃない、とは?」
ばっと顔を上げると、おじさまは穏やかな笑みを湛えていた。どこまでも優しくて、冬場のこたつみたいな安心感がある。
ひとつ、温かい息を吐く。胸に軽く手を当てて、とんとんと叩いていてると、ゆっくりでいいからとおじさまは言ってくれた。私は、さっきの自分の言葉を思い返した。そうじゃなくって、おじさまからどんな風に言って欲しかったんだっけ。
「あの……斎木さんは、義務とか、オメガとか番とか、そういうのを放ったら、番の方――えっと、満島さんと、どんな風になりたいんですか」
「そうですね」
冷め切ったマグカップを両手で包み込んで、言葉を待つ。
そういえば、おじさまに初めてオメガの話を聞いたときも、こうやってたくさん、おじさまは長く考えてくれてたっけと唐突に思い出した。それを見て、「ああ、この人は、丁寧な人なんだな」と思った。
「どうなりたいかと聞かれると、悩みます。少し前までは、いまのまま平穏に過ぎて、気付いたら人生の終焉を迎えていた、くらいが理想でした」
「今は、違うんですね」
「多少形は変わらざるをえませんでした。……春さん、さっき僕はするべきとしか言ってませんでしたね」
小さく頷く。
「義務心をまったく排除して、僕がどうなりたいかを言えと言っていたんですね。確かに、僕自身で言っていて、窮屈になっていくような気はしましたが、聞いていたあなたはもっと奇妙に感じたでしょう。すみません」
「いえ、いえ、いいんです。こちらこそ、首も口も突っ込みすぎてすみません…」
お互い顔を見合わせてにこっと笑い合った。空気が軽くほぐれ、私はおじさまが気付いてくれたことにほっとした。私は、背筋を伸ばした。
「斎木さんは、どうなりたいんですか?」
まっすぐ目を見て問いかける。今日三回目の同じ質問だ。
「少し、若い子の前で夢を語るのは恥ずかしいのですが……僕は、満島を看取りたいのです。他の誰でもなく、僕が、あの世界で一番わがままなアルファを。でも、万が一、病院で死ぬとなったら、番でもなく結婚していないとなると、入れて貰えない可能性すらあります」
ね、春さん。いたずらを思いついた子どものように、私たちはゆっくりと立ち上がって店を出た。
おじさまはもう、家へ帰りたくないとは言わなかった。
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