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忘れ物8

 外から自分の帰る部屋を見たら、真っ暗なままだった。帰らずどこぞの無駄に高いバーでやけ酒でもあおっているのかとも思ったけれど、そういえば彼は病気になって以来、全く飲むのをやめたのだ。じゃあ時間も時間だから、僕と同じように人と食事にいったのかもしれない。  ともかく僕は、お願いだから家に居ないでくれと必死に祈って、エレベーターを降りて久々に自分の鍵で玄関を開けた。 「ただいま…」  つい癖が出た。それをなんとか、か細い声に抑えて、コートを玄関に掛けた。忍び足でリビングに行く。どこへ行くにもリビングへ行かなければならない我が家を、彰は『気まずくても顔を合わせられるからほっとする』と言うが、こういうときもほっとするんだろうか。  リビングの扉をそっと押し開けると、間接照明だけ付いていた。色調の明るいベージュのソファやガラスのローテーブルに橙の光が映えていてきれいだけれど、同時に陰気でもあった。  ソファの上に、人影があった。顔を見ずともすぐ分かる。彰だ。指を組んで、そわそわとしている。音がしたこちらに僕の姿を見つけて、勢いよく立ち上がった。  大股で歩き、心苦しいまでの優しい力加減で包み込む。 「お帰り。帰ってきてくれてありがとう。本当に帰ってこないかと思ったら、死にそうになった」 「……冗談でも喩えでも、そう不謹慎なこと言わないでくれないか」 「ほっとしたんだ。それくらい」  抱き締め返さないとここを通さないと言わんばかりに、腕の力を強めた。この大きい抱っこお化けをどうにかしないとどこにも行けないなら仕方ない、背中を軽くさすってやった。 「頼むから、何も言わずにどこかへ行かないでくれ」 「保証はしかねるなぁ。僕だって君から離れたくなるときもあるんだよ」 「それでもだ。あんなメッセージ一本で」 「ああ、もう、わかった。次からは電話もする」 「……おう」  重い抱っこお化けは、やっと離れた。心なしか寂しそうな顔をしている。けれど、夕方のことがよっぽど堪えたらしく、少し離れてこちらを見つめるだけだ。ものすごく物言いたげな顔で。 「彰、明日休みかい?」 「ああ。もう土日は全部休むことにした」 「じゃあちょっと夜更かしできるね。座って話そうか」  彰はこくりと頷いた。手を引かれ、ソファの奥側に座らされる。彰はたったままで、 「紅茶淹れてくる」 「いや、水で良いよ。そんなに手間は要らない」 「じゃあ白湯にしてくる」  返事も聞かずにキッチンの方へと行ってしまった。ジャケットを脱いで、生地を撫でながら、ぼうっと天井を見上げる。  帰ってきただけで、あんな風に言われるとは思わなかった。僕が一人目の雪子を産んだ頃、彰がいつ帰らなくなるか分からなくて不安でしかたがなかったけれど、あんなに不安さを全面に出したことはないはずだ。いや、それはどうだっていい。  彰に迎えて貰うようになってから1年。本当に彰は、オメガを野放しにするとどこかへ行ってしまうと信じているのかもしれない。  白湯を受け取ると、彰は、床に膝を付けた。 「すまんかった。お前の気持ちも考えず、好き勝手に全部決めて」 「……いや、ごめん、なんのことだ?」  本当に身に覚えがなかったとは言わないけれど、彼が謝るようなことだとは思えなかった。 「結婚しろと迫っただろ。本当は本当に嫌で、自然消滅するために返事を先延ばしにしたんじゃないのか。そう思ってたら、なんか日を経るごとに態度も硬くなるし、いきなり帰らないと言うし」 「――彰は、本気で僕と結婚したいのか」 「当たり前だ。むしろ待たせすぎた」  即答だ。頭を抱えた。 「嫌だって言ったらどうするんだ」 「嫌だと言ったら、俺の望みが叶う方法を別に考える。…本当はずっと、結婚したかったんだ。でも、親が生きているうちは、信治や子どもを害されるかも知れないと思って言い出せなかった」 「それは君の都合だろ」  いつか見た夢がちらつく。自然と非難するような口ぶりになった。 「そうだ。俺はお前を、俺の都合にずっと振り回してる。番になったのだって、子ども、特に雪子と晴也の時だって。あのときお前は、堕ろそうとしてただろ。雪子の時は、まだ大学も出てなかったから」  とにかく座ってよ、と隣を叩く。言われてぼんやり思い出すのは、雪子が腹にいると分かったときのことだった。  爽やかな、夏に入る前のこと。発情期が3ヶ月を過ぎても来る気配がなく、まさかと思って、唯一渡されていた食費を削って、こっそり病院へ行ったのだ。ちょうど3ヶ月と言われたとき、ぞっとした。  オメガが子どもを宿すことができると知っていても、僕に子どもができるなんて思わなかったのだ。  どうすれば良いのか分からなくて、彰に相談することもできずに、その日のうちに堕胎しようと思った。今思うと、健やかに育ってくれた雪子に申し訳なくって仕方が無い。  結局病院はそのあと2、3回通った。オメガ専門医の先生だったから、カウンセリングみたいなこともしてくれて、一緒に考えてくれたのだ。そうやってお金を使って、日に日に貧しくなっていく僕のご飯を見て、ようやく何かあると思った彰が、どこをどう調べたのか、堕胎しようとしていることを知った。 「……君に知られたときは、本当に死にたくなったよ」 「死なないで俺のそばにいてくれてありがとう。子どもを三人も産んで、立派に育ててくれて、俺は幸せだよ」 「君は本当に、自分勝手だ。全部都合の良いように解釈する。世界一わがままで、どうしようもない、アルファらしいアルファだ」

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