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忘れ物9

 言いながら、僕は体を彼に傾けていた。彰は多少びっくりしながらも受け止めてくれた。昔からだ。僕が少しでも甘えると、嬉しいくせにまずびっくりする。それを見ると、僕はなんとも情けない気持ちになるのだ。  でも、もういいやと思った。 「君が家で仕事をすることが多くなって、じゃあ僕が働きに出ようと思っても、約束で結局がんじがらめにするし。晴也の時のことだってそうだ」  晴也は、僕の3人目の子どもだ。僕と同じオメガで、男で、僕が外に出る少し前に、お見合いで二回の結婚した。二回目の今の二人の幸せそうな生活は、僕らとは全く違う、理想のひとつだった。  20年前くらいのことで、彰はやっぱり目を丸くしていた。 「晴也の時、なんで……彰は頭が良いのに、僕や家族が絡むと、時々何本かネジが抜けるし、わがままになるよ」 「本当にそれは悪かった」 「謝って済ませないで。産むのは君じゃなくって僕なんだよ。家に居る時間だって僕が長いから、育てるのも僕。だいたい『30半ばにもなって子どもができる番って』っていわれて、本当に恥ずかしかったんだからな」  今は30でも40でも子どもを産むことができるけど、その頃は危なかったし、まぁ、普通じゃなかったのだ。もう彰は赤べこのように首を振ってひたすら首肯するだけだった。首筋に当たる髪の毛がちょっとくすぐったい。 「まだある。君は、僕になんでも報告させようとするけど、彰は僕になにも教えないよね。仕事の愚痴もしない。誰が仲良いとか、今日何があったとか、全く教えようとしない。僕だって彰の楽しかったことや辛かったことを知りたいんだよ」 「……」  彰は息を飲み込んだ。そういえば、僕はこの年になるまで、彰にやってこうやって心のうちを率直に言ったことがなかったなと思った。理想的な、貞淑なオメガじゃなくって、彰は嫌がるかもしれない。だって彰は、ロマンチストだから。  少しだけ顔を離して彰の唇に親指を重ねる。あとね、と続けた。まだ30余年分の言葉はつもりに積もっているのだ。 「セックスしてるとき、君はいつも好きだというよね、僕を。ん? 違うの? セックスが好きなの?」 「違う、お前が好きだ」 「それはよかった。好きなのは良いから、そのあとすぐにキスするのやめてくれないかな。僕だって言いたいことあるのに、口を塞がれたら何もできなくなってしまうよ」 「………!」  彰の鼓動が早まるのを感じた。親指の上から、唇を重ねてすぐに離れる。小さく、彰にしか聞こえない声で好きだよ、と言った。暗い部屋でよかった。耳まで真っ赤になっているところだった。  少しだけ体を離して、小さく咳払いした。今日一番言いたいことだった。 「だいたい君ね、昔結婚しろって言ったの、覚えてないだろう」 「……信治が俺に言ったのか?」 「逆だよ、逆。君が僕に言ったの。酔っ払って帰ってきて、花束差し出して結婚しろって。そんなことやっといて、翌日には忘れるって」  そのおかげで僕は、何年も待つことになった。目元が涙で満ちるのを感じた。30年だ。長くて苦しかった。言いたくても言えなくって、言って良いかも分からなくて、喧嘩しても黙ることしかできなかったっけ。 「僕は待っていたんだよ。彰にもう一回、言って貰えるのを」  ぴくりと彰は動いた。頬に手が寄せられて、親指が目元をなぞったのがわかった。 「それをなんだ、君は。ご両親が生きてたから言えなかった? そんなの詭弁だろ…。今は無理でも、いつか結婚しようって、それだけで僕は嬉しかったのに」  でも、半分諦めて、半分期待して、それでもいいやと思ったのも僕だった。  オメガだアルファだと言っても、約束を忘れられても、それ以外は忘れないで居てくれた。誕生日も、少し遅くから始まった記念日も一度も忘れなかった。誰にもよそ見もしないで僕と家族だけ見てくれた。

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