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小話-家族になった日1

 夏の午後、もうすぐおやつの時間だと言う頃。  雨情がようやく穏やかな息を立てて寝てくれた。ホッと息をつく。お昼寝の時間だと言うのに、眠たげな目を擦ってねむくない、と主張する彼にはいつも手を焼いていた。けれど、寝顔はこの上なく愛らしく、ついつい頬が緩む。  ソファにそっと運んで、ふくふくなほっぺを眺めていると、僕まで眠たくなってきてしまう。ようやく最近まとまって眠れるようになってきたけれど、家事と育児の疲れもあって、僕までうとうとしだしてしまった。  いけない、と首を振って眠気を追い出す。  頬を軽く叩いて立ち上がり、音を立てないように掃除をしようと思ったときだった。玄関の方で鍵を開けるような音がした。  雪子だろうか? けれどそれにしては早すぎる。今日は確か遅い方の時間割だったはずだ。  もしかして体調が悪くて、帰らされたのかもしれない。そう思って忍び足で玄関に向かうと、暑そうにジャケットを脱いで、シャツにネクタイ姿の彰さんがいた。眉間にシワを寄せて、いかにも機嫌が悪そうだった。  子供ができて以来、彰さんはできるだけ早く帰るようにはなった。しかし今日は、まだ3時をようやくすぎた時刻だ。いくらなんでも、早すぎはしないか。 「おかえりなさい、彰さん。今日は早かったですね」  彰さんはなにも言わず、僕を見つめていた。階段を登って乱れた息を整えると、ゆらり、と彰さんの影が動いた。  あっと思った時には、僕は彰さんの腕の中にいた。少ししょっぱい汗の匂いがして、ぎゅうと抱きしめられる。ただいまの声もなく、けれど何かいいたげで、ひどく落ち着きがないようにも見えた。 「……」 「彰さん?」  応えてくれない彰さんに、動揺を隠せない。いつもならば、ただいまと笑って応えて、雨情の様子や雪子がいつ帰ってくるかを聞いてくるのに、それもない。変だからと言って動くわけにもいかず、黙り込んで、大人しく彰さんの腕の中でじっとしていた。  しばらくすると、いきなり、彰さんに唇を奪われた。軽い唇同士が触れるだけのものだったけど、名残惜しそうに離れていくそれはすこし湿っていて、多分、その先を望んでいるというのが、僕でもわかった。 「彰さん…っ!」 「抱かせろ」 「…え」 「いいから」  カッと顔が熱くなった。雨情が生まれてから、行動ばかりが先行していたけれど、そういえば彰さんは、大袈裟な言葉の表現の方が多い人だった。好きと言いながら押し倒される、抱いていいかと問いながら脱がしにかかる。  それが本当に酷かった番になりたての頃を思い出して、一瞬固まって、彰さんの角張った指が、腰あたりの素肌に触れた時、我に帰った。服の中に侵入しようとしてくる手を掴む。 「いや、待ってください…! 雨情が、雨情がやっと寝てくれたのに……!」  彰さんからしてみれば、か細い抵抗だっただろうに、一旦止まってくれた。雨情がぐずりやすいのを分かってくれているからだろう。僕は彰さんの腕の中で安堵の息を吐いた。 「いったいどうしたんですか、そんな、いきなり…」  目を見て話さないと落ち着かなくて、顔をあげようとするも、彰さんは大きい手で、僕の頭を覆った。こっちを向くなと言われているようで、普段と違う様子にドギマギする。  彰さんはといえば、どこまでもマイペースに、肩に頰をくっつけていた。ぴたっと隙間がなくなって、密着具合が上がる。すん、とうなじあたりの匂いを嗅がれる。くすぐったくって頭を軽く振ると、これもやめてくれた。 「別になんでもない。そう言う気分になっただけだ」 「そう言う気分って…」  こんな言い方をされて、頬を染めるほど軽くなれなかった。淡々と彰さんは続ける。 「お前とセックスしたくなった。何も考えずに腰を振って、たくさん声を聞いて、たくさん、…好きだと言いたくなった」 「………」  曖昧な表情をしてしまった。  なんと返せば良いかわからなかったのだ。  ふと思い出したのは、涼しい晩夏の夕方のこと。彰さんのお母様に呼びだされ、「性欲を発散させるのも、番となったオメガの役目」と説かれた。奥様はどうみてもオメガではない方だったし、彰さんには「忘れろ」と言われたけれど、だからといってもらってくれた家の人の言うことを覚えていないわけにはいかない。  彰さんの腕に身を委ねたら、きっと胸に巣食う罪悪感や、悔いる気持ちから解放されて楽になるだろう。けど、いざしましようと言われると、雨情の穏やかな寝顔や、今朝見送った時の雪子の笑顔のほうが、ずっと胸の中にあった。  しんじだいすき、と言ってくれるとき、頬に触れる手の柔らかさ、洗濯物の洗剤と、湿った汗の清潔な匂い。  あ、ダメだと思ったのに、思った時にはもう言葉が口をついていた。 「僕、いま、…子どものことで頭いっぱいで、…お金は気にしなくて良いから、外じゃだめですか」  外は野外でもそういうホテルでもなくって、僕以外の人とという意味の言葉だった。僕が無理なら、そっちの方がよっぽど良い。拒絶することに悶々とするより、ずっと健全に思える。  どうせ、彰さんにしてほしい人はたくさんいるのだ。子持ちだけど、優しくて、見た目もまぁ、多分良くって、話を聞いていると、大切にしてくれそうだと思うから。  彰さんは、僕の肩口で緩く首を振った。わかってはいたものの、どうすれば良いかわからなくて一層困惑が深くなる。しばらくしないと何度も言ってきて、納得したはずだったのに、今更そんなことをいうなんて、今日の彰さんはやっぱりおかしい。 「お前が良いんだ。……すまん、困らせてるな」  彰さんはやっと離れてくれた。久しぶりに見た彰さんの顔は、少し寂しそうで、それこそ子どものような表情をしていた。なのに、少し言い間違えたら怒ってしまいそうですらあった。  カバンを置いてくる、と彰さんはぎこちなく笑って、書斎へ繋がる扉を開けた。  その時、なぜか僕は、焦燥感に駆られた。このまま、彰さんがどこかへ消えてしまうような気がしたのだ。父親がいつのまにか死んでいたときのような、異常に不安な感じ。父が最後に満島家を訪れたときの背中と、彰さんの肩の落ちた背中が重なった。  彰さんの姿が書斎へ消えると、僕はその場にへたり込んだ。上手く息が吸えなかった。もしこのままで、明日、仕事に出かけたら最後、彰さんが帰ってこまかったら? 僕は、そのときどう思うんだろう。  こびりついたそのイメージを頭を振って消す。後を追って書斎へ入る。当たり前なのに、暗がりの中に彰さんがいることに、なぜか泣きそうになった。  近づいて、背に触れる。ちゃんと仄かな熱を持って、動いていることにホッと息をついた。 「? どうした、信治」  顔だけ傾けて目を合わせてくれた。なんで気づくの、と責めたくもなった。けど、いうべきはそっちじゃない。  一瞬どう言おうか迷い、まず謝ろう、と口を開いた。 「…ごめんなさい、断ってしまって」 「なんだ、気にしてたのか」 「だって、僕はあなたのオメガなんだから…それくらい、受け入れるべきで」 「ああ……違うよ、俺は嬉しかったんだよ」  そうやって笑うだけだったけれど、言いたいことはすぐにわかった。信治が、自分の意志で今は嫌だと言ってくれたことが——優しい声音で、柔らかな笑みを浮かべながら、いつも僕に言うことだ。  彰さんは、優しすぎる。あの冷たい家で、どうやってその優しさを持ち続けていたのかと、不思議になる程に。  何も考えず、抱きしめていた。心臓の鼓動がちゃんとする。震える唇を噛み締めた。 「……最近ね」 「おう」 「子どもに、おやつを買ってあげられる余裕が出てきて、雪子が早く帰る時は、三人でお茶にするんです」  ただ、頷いてくれるだけなのに、なぜこんなに安心するのだろう。 「……今日の、ドーナツ、いっぱい買いすぎてしまったんですけど」  一緒にどうですか、と言う前に彰さんに言われてしまった。 「それなら、俺が飲み物淹れるから、先に休憩してよう。雪子が帰ってきたらおやつにして」  遠慮がちに頷く他、できることがなかった。

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