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小話-家族になった日2
カーペットの上に座り込んで、ローテーブル代わりに子供椅子を引き寄せる。
「……美味しい」
そうだろう、と小さく頷いてくれた。
目が合うと、微笑まれた。慌てて顔を背けて見たソファの上には、3歳になりたての雨情が、久々に穏やかに寝ている。
彰さんはお茶を淹れるのが上手だ。ご実家に住んでいた時は飲む機会はなかったけれど、彰さんが大学に入り、2人で住むようになってから、時間が空くと自分から動いていれてくれるようになった。
「誰に、教えてもらったんですか?」
そう問いかけると、彰さんは一瞬固まった。すぐに和やかに笑みを浮かべて、「清 だよ」と言ったけれど、顔には幾分緊張した笑みが張り付いている。
その反応に、ご実家とまた何かいざこざがあったのかな、と首を傾げた。
「清さんって、お家にいらっしゃるオメガの方ですよね」
「そうだ」
彰さんは思案顔になった。帰ってきたときのような必死さはないけれど、やっぱり思い詰めて見える。口数も、いつもよりはずっと少ないし。
「今日、早かったですね」
「営業先から直帰してきた。最近働き詰めだったし、子どもがって言うとすぐに解放されたよ」
「1日、おつかれさまでした。……無理してませんか?」
子どもがいるのは本当だけれど、それでも、家族を重荷にさせるのは本望じゃない。もちろん、誰も協力してくれなきゃ、多少家事は疎かになるけれど、働く時間を削ってまで帰ってこなくっても、と思ってしまう。
しかし、それは違うと、すぐさま否定された。
「俺は、そう外にいるのが好きじゃないんだ。仕事は楽しいけれど、ずっと人と話すのは疲れてしまって」
意外といえば意外だった。社交的で屈強で、傲慢なアルファらしくないとも言える。
「変だろう? 親にも言われたんだが、俺はアルファらしくないらしい」
「……頑張ってくれていたんだなぁと思って」
「頑張ってるよ。信治と子どもを育てていくためだから」
そう言うことを言う。言ってくれるのは嬉しいのだけれど、彰さんの返答は少しずれているような気がして、むすっと口を噤んだ。それを見て、彰さんは力が抜けたように優しく笑った。
「……お前と家族になれて、俺は誰より幸せだよ。俺は、お前たちを守ると言えるほど強くないけれど、ゆっくり幸せを共有しあえる家族になりたいなって……」
彰さんはそこで言葉を切った。
「彰さん…?」
様子がおかしかった。少し俯き気味で僕の少し前あたりを見て、息をゆっくり飲み込んで、感情を押さえ込もうとしているように見えた。子どもを育てて6年くらい経って、ここら辺の感情の機微が、少しずつ読み取れるようになってきた気がする。
「彰さん」
再び、少し強く呼びかける。返事はないが、代わりにそっと手を握り込まれた。
わずかに怪訝に思って、顔を少し上げると、強い眼差しの彰さんと目がかち合った。けれどそらすのも変な感じがして、何もいわず見つめ返していると、ふとした瞬間に彰さんが凭れかかってきた。
暖かくて大きな塊が、僕の胸に倒れ込んでくる。大きさに見合わない静かさで、本当にゆっくり。それはまるで、小さな子どもが、泣きながら母親にしがみつくときのようだった。
さっきの、玄関のときとは違って、やましいことをしたい、みたいな意思は感じない。むしろ、自分で自分を支えきれなくって、もたれかかって来た感じだった。
「……」
仕事で何かあったんだろうかと思った。激務と言われる営業部に異動になって二ヶ月以上経つが、なにか人間関係でトラブルでも起きてきたのかもしれない。営業は特にアルファ気質が強いと聞くし。
こういう時、娘たちにだったらどうしたの、と聞けるのになと、ふとそんな想いが浮かんで、苦笑した。
彰さんが弱々しい声で
「……今日の俺はおかしいか?」
と聞いてきた。頷くほかない。
「おかしいというか…ずいぶん、弱って見えます」
「そうか、おかしいか」
くつくつと笑う。話すらすれ違っていて、やっぱりなんだか違和感があった。
「おかしくない。疲れてるなら、お昼寝しますか」
「お前と一緒にか?」
「これから、洗濯寄せたり、夕食の支度があるので、僕はできません」
時間を見ると、ようやく4時を回ったくらいだった。急ぐことじゃないけれど、雪子も帰ってくるし、雨情が起きたらまた大忙しだし、寝ていられるほど暇ではない。
そう告げると、じゃあいい、と投げやりに返された。
「やっぱりこういう時、お前は聞いてこないんだな」
「……それは、僕の役目じゃない」
「伴侶の役目だと? 何度も言っているよな。家族として生きていきたいのも、添い遂げて欲しいのも、お前だけだって」
「……」
「まぁ、いい。勝手に独り言を言うから、聞くのも反応するのも勝手にしてくれ」
腰をグッと引かれる。勝手にしてくれ、と言う割には、離れることは許されないようだった。
彰さんは大きく深呼吸した。吐く息が揺れている。雨情にやるように、背中をさすってやると、胸元で笑った気配がした。
「死んだんだ。親が」
厚い背中が震えた。浅く吐く息が、ひどく苦しげだった。何とかえせばいいわからず、口をつぐむ。彰さんはこちらも見ずに続ける。
「アルファの夫婦の子どもでしかなかった俺を、育てて、満島彰という人間にしてくれた人」
黙って背をさする。なにもいう気はしなかった。けれど、咳き込むように彰さんが言った時、ああ、そういうことかと納得した。
「違う、正確には親と呼んだことがなかった」
「…亡くなったのは、ただの育ての親でなく、アルファのご両親でもなくって——オメガの、あなたの生みの親なんですね」
肯定の言葉も、頷きもなかったけれど、そうだと分かった。
かつて僕が理想とした姿。アルファの、できれば男の子を産み、正しく教育して、家族全員の面倒を死ぬまで見る。正しくオメガのあるべき姿だ。
「そいつはお前も知ってるはずだ。清だよ」
「……」
「清は、17でうちに来て、すぐに俺が生まれた。清が18の時だったらしい」
僕とほぼ同じ年の頃だ。
「そこから5年、療養していたらしい。産後の肥立ちが相当悪かったと聞く。俺が5歳の頃に、満島の家に戻ってきた。戻ってこなくて、よかったのにな」
清さんは満島の家で長らく唯一のオメガだった人で、いつもよく笑う人だった。暗く静かな満島の家で、その人だけ、日向にいるような温かい方だった。それは、二人目のオメガである、僕に対してもだ。
けれど、清さんの、いつまで経っても可憐なはずのオメガの姿は、年齢よりずっと歳を重ねて見えた。それも悲しいことに、彼の温かながら儚い雰囲気と似合ってしまっていた。
「……清は、俺を産んだあと、オメガとしての機能全てを失ったんだ」
「全て…? 子どもを産めなくなったってことですか」
頷いた。
「産後に出血が止まらなくなって、子宮を取り除いたそうだ。清には、俺が大きすぎたからだ…と、笑い話のように聞かされたが」
子宮がなくなるということは、性ホルモンが分泌されなくなり、発情期が来なくなるということだ。発情期のせいで人生のほとんどをふいにするオメガにとってみれば、そうなれば"普通"になれる最高の手段。
ベータと同じように働けるし、普通に恋をして、普通に結婚して、子供は産めないけど幸せになれると、そう願って子宮を取りたがるオメガは、実際学生時代まわりにいた。
清さんの気持ちは、よくわかる。でも、彰さんは…
「俺が、清から、全てを奪ったんだ。オメガである安全さも、子どもを産む丈夫な体も。だから、俺は俺を許せない」
「…違いますよ」
「違わないさ。なにも。それでも清は、俺を邪険に扱わなかった。それが、俺は一番悔しい」
彰さん、と何度目か分からない問いかけをした。大丈夫だと首を振るばかりで、彰さんは、淡々と語り続けた。
「それなのに、清に、一度も母といえないままだった」
「……」
「父が教えてくれたんだよ、清が死んだことを」
家に戻れと言う催促だろうなと思った。
お前のせいで家で働くオメガが今一人もいない。さっさとうちのオメガを——つまりは僕を、返せと。
「僕は、あなたに従います」
「……あんな場所に戻りたくない。あいつらは、自分の面倒を見るオメガが欲しいだけだ。お前自身が欲しいわけじゃない」
「理解してます」
はっきりと告げると、被さるように否定された。
「なにも理解してない、お前は。大切な母親が、オメガというだけでこき使われているのを、子どもたちに見せるのか」
「あなたが他の方と結婚すれば良い話だ。そうすれば子供たちにも母親ができる」
「……なんでそう、お前は頑ななんだ」
「僕は、満島家のオメガです。アルファの子どもを二人産んだ。オメガの役割の一つとしては、十分でしょう」
「違う。俺が、お前の番のアルファだ。お前は俺の番のオメガで、子どもたちの親で、それ以上の何者でもない。満島の家のオメガになんて、もうさせない」
腕にこもる力が増す。ふいに彰さんが顔を上げた。瞳は痛々しいほど強い光を宿しているのに、暗い色をしていた。
家のオメガに不似合いなほどの執着。青年のようだと笑うには重すぎるし、そんなに彰さんの、執着の理由を知らないわけじゃない。ただ、自分にはどうしても不似合いだとしか思えないだけだ。
そうやって、いつも否定しているのに、今日の彰さんは自分を嘲るように笑った。
「お前は、お前だけは、俺の全てを否定するな。……だから、自分の子どもにも、母と呼ばせないのか」
それは…と言おうとして、遮られた。
「もう、お前以外と付き合う気も、見合いさせられても結婚する気はさらさらない。諦めろ。
……そして、お前がいくら否定しても、この先、万が一、俺が誰かと結ばれても、あいつらにとって、産んであの歳まで育てた母親は、お前だけで、家族は俺とお前と、雪子と雨情だ」
何も言えなかった。
それは僕にとっても同じだ。血を分けて、おなかを痛めて生まれた子どもたちは、命を懸けてでも育てていたい存在で、誰よりも一番間近で成長していく様子を見ていたい二人だ。
けれど、あの子たちの父親である彰さんには、アルファの義務がある。次の世代に、自分のアルファの遺伝子を遺すという義務が。アルファを生むのは、オメガのほうが得意だとしても、アルファを育てるのはオメガでないほうが、きっと良いと、されている。
オメガは、子どもを産むための生き物だから。
でもそれは、まだたったの8歳と3歳の子供に通じる理屈なんだろうか?
彰さんは、どこでこんなに、人を愛する術を身につけたのだろうと不思議に思う。
おやつの時に、休日に、家族で集まる時に淹れるお茶の美味しさや、雪子や雨情への接し方。番のオメガという、薄い繋がりしか持てない僕を、誰より深く見つめてくれる暖かさ。
親にすら見向きされなかった僕が、絶対に得られなかったものたち。
「彰さんは」
満島の家にいた、日向のような人を思い出した。そばにいると暖かくて、誰にでも、笑いかけられる人。
目の前にある、彰さんの頬を撫でる。彰さんの目元は、その人によく似ていた。
「清さんに愛し方を、人を大事にすることを教えてもらったんですね」
彰さんの、涙の膜が盛り上がった。見せまいとして、胸元に顔を埋める。少し跳ね気味の髪がくすぐったいけれど、別に構わなかった。頭をだきしめて、撫でる。元気出してとは思わない。
その時タイミングよく、玄関でかちゃかちゃと音が鳴った。ただいまーと、明るく可愛い声がする。
それをきいて彰さんが逃げようともぞもぞ動いたが、何だかそれも悔しくて、ぎゅっともう一度抱きしめた。するとすぐに大人しくなる。
「しんじ、うじょう、ただいま! ……あれ、お父様もいる!」
雪子だ。彰さんを見てパッと明るく笑う。
「しんじと、お父様、仲良しだね!」
「……雪子さん、おいで」
彰さんを片手で抱きしめながら、手招きした。雪子はえ、と少しびっくりしながら、すぐそばに正座する。こんな、年に見合わないほど良い子になってしまったことを、申し訳なく感じた。
膝の上にある、小さな小さな手を、包み込むように重ねる。
「お父様と二人の時、どうやって僕を呼んでるの?」
そうやって、なるべく優しく聞くと、雪子の手が、小さく震えた。大きく目が見開かれ、瞳が揺れて、かわいそうなくらい怯えていた。
こんなふうに不安にさせていたんだと気付く。小さな顔の、綺麗な目から、涙が溢れそうになった。
「怒らないよ、絶対に。だから、僕に——お母さんに、教えて」
「………え…?」
固まった雪子に向かって、腕を開いて見せる。口をわなわなさせて、ぼろぼろ大粒の涙を溢した。可愛い顔が真っ赤になって、くしゃくしゃに歪む。
「ほら、雪子、おいで」
そう言うと、立ち上がって、ぶつかるように抱きついてきた。体が少しだけ傾く。
「おかあさん…! ゆきこの、おかあさんだよね」
「うん、そうだよ、雪子のことが大好きな、お母さんだよ」
「おかあさん、…わたし、おなかにいた? いたかったよね、わるい子でごめんなさい…!」
雪子が大人っぽいことをいいことに、いっぱい我慢させてきたんだと知った。小学生になったと言っても、まだ8歳の子供だ。もしかして、僕が雨情を生む前に痛がってるのを見て、考えすぎてしまったのかもしれない。
「そう、雪子はよく知ってるね。二人とも、ここにいたんだよ。…たしかに痛かったけど、雪子たちが、元気に、明るく育ってくれて、それだけでお母さんは、嬉しいんだよ」
「ほんとう…?」
「ほんとう。雪子は、お母さんのこと、好き?」
だいすき、と柔らかい声が小さく言ってくれた。ごめんね、僕も君のことが大好きだよ、そう言う気持ちを込めて、たくさん抱きしめた。
*
『お母さん、結婚するって本当?』
そう尋ねる声は、昔とだいぶ変わってしまったけど、少し舌が甘くて舌ったらずなのは、昔とまったくかわらない。わくわくと面白がるような色すらあって、僕は苦笑した。
「本当だよ」
『なんで? ずっと断ってきたんじゃないの』
そうなんだけどね、と僕は苦笑した。
結婚して距離は遠くなったけれど、大事な長女であるのに変わりはない。ちょっと自分に厳しくて、ちょっと甘えるのが下手な、可愛い娘だ。最近はこうして彰がいないうちに長電話して、近況報告をしあうことが増えた。
「もう、これはタイミングだよ。20余年かけて口説かれたの。根比べしたら流石に無理だよ、これ以上は」
『うわ~親のそう言う話、聞きたくないんだけど』
「言う相手そんなにいないんだから。それに掘ってきたのはそっちだろう?」
『そうだけどさ。親のってなんか生々しいじゃん」
そうやって話を続けていくうちに、昔の話になった。
『なんであの時、急にお母さんって呼んでいいって言ったの?』
「ああ…そうだねぇ」
そういえばそんなこと、あったなあと思い出す。
どうしよう、いってしまおうか。雪子の、本当の祖母の話。満島家がオメガをどう言うふうに扱ってきたのか。なんで47にして死んでしまったのか。
…と、そこまで悩んで、言うべきじゃないと思った。言うべきことは多分一つだけだ。
「……君と、雨情と…家族になりたいって、思ったのかなぁ」
『なにそれ』
「わからないなら、わからないでいいんだよ」
『ふぅん…そっか。私ね、ダメな子だから呼んじゃだめだって思ってたんだよ』
「ああ、言っていたね」
『……だから、最初っからお母さんって呼べてた、晴が羨ましかったの。お母さんのお腹痛くしたくせに、最初っからお母さんって呼ぶなんて! …って』
そうだったのか、というと、うん、と少し落ち込んだ声で答える。
『お母さんになれば、わかるのかなぁって思ったの。お母さんが、なんでお母さんになってくれたのかって』
「わかった?」
『…わかんないなぁ。子どもは可愛いし、大好きだ! って思うけど、それだけ。でもね』
「……うん?」
『いろいろ、いろんな人の話を聞いてね、お母さんがお母さんでいてくれて、世界一の幸せ者なんだなって思った。私たち』
ふ、と笑ってしまった。
子どもに、お母さんと呼ばれるなんて、雪子を産んだばかりの19歳の僕は、想像していたんだろうか。その子が、幸せだと言って教えてくれることを、予期していたんだろうか。
目頭をティッシュで押さえた。
『もう~! なんで笑うの!』
「娘が嬉しいことを言ってくれたものだから」
こうやって笑う幸せが、ずっと続いてくれれば、それだけで幸せだと心底思えた。
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