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幸せをと望んだ日2

 彰と雪子の声が、ここではこもって聞こえる。それをずうっとベッドの上で聞いていたけれど、数時間が経ち、子どもが寝る時間になると、更に少しずつ、声が小さくなっていった。  それが心もとなく思えて、リビングに行きたくて仕方がない。自分の体とおなかの中の子どものことしか考えられなくて、数か月後回しにしてしまった僕の家族と、たくさん話したかったのに、生まれたばかりの子供のことを考えると、どうにも情緒が安定せず、涙が止まらなかった。  子どもはかわいい。何も知らないし、何もわからない。良くも悪くも何にも染まらず、無垢なままだ。だから、大事にしたいと思う。だけどその無垢さが、今は怖かった。  響かない部屋の中に、高いノック音が響いた。 「……信治、入るぞ」  重い体を持ち上げて、ベッドのヘッドボードに背中を預ける。情けない姿を見せているのだから、せめて居住まいだけでもましに見せたかった。手術してそれほど日が経っていない腹が痛む。 「今大丈夫か?」 「平気だよ。……赤ん坊は?」  そういうと彰は苦笑した。 「ちょっとの間なら、雪子が見ててくれてるよ。大丈夫、いい子にしてる」  言葉にならないほどほっとしてしまった。少し前まで、あの子のことを考えるだけで泣きそうになっていたのに、不思議なものだ。彰は近寄って、僕の隣に腰かけた。優しい顔で笑いかけられる。 「大丈夫か?」 「大丈夫だよ。一日休んだらすっきりできた。明日からはちゃんと――」 「体じゃなくって、心がだよ」  逃げようとしたのをすぐに悟って、逃がせてくれないのが彰の悪いところだ。 「……別に、何があったわけでもないから大丈夫だよ、本当に」 「嘘だとは思わないが、無理はしてるだろう」  そういって、子どもにするように頭を撫でて、頬を寄せてきた。少し違うのは、子どもを見ているときのような、わくわくとした眼差しではなく、瞳が深い愛情を含んでいるところだろうか。  無理しているかと言われたら、雪子を生んだ時の僕は「わからない」というだろうし、雨情を生んだ時の僕は「大丈夫」というだろう。今の僕は、なんといえばいいかわからず、口をつぐんだ。雪子の時と、まったく成長をしていない。 「どうした、病院でまた嫌な目に遭ったか?」 「別に、なにもなかったけど…」 「久々の我が家で、はしゃぎすぎた?」 「違う、僕はずっとベッドにいたし、疲れてるわけじゃない」 「手術のあとが痛むとか」 「3回目だよ。手術前後はつらかったけど、もうさすがに慣れた」 「じゃあ、どうした」 「……あの子、オメガだった」  第二の性というのは、厳密には中学生前後の検査で判明するとなっているが、同性にはなんとなくわかる。ましてやおなかで十月十日育て、初めてあの子を抱いたのは僕だ。抱いたその時、何かがつながって、ああ、この子は…とわかってしまった。  産んだ子がオメガだった、というのを、手術のあと、呆然とした感情で何度も反芻していた。  産むと決めたとき、どんな風に決めたのかも思い出せないくらい、なにも考えられなかった。 「それがどうした」 「君なら、そういうと思ってたよ」  彰は、どこまで行ってもアルファだ。オメガの清さんから生まれた時から、今この瞬間まで、そしてこの先も、どこを切り取ってもアルファで、決してオメガにはなれない。  だから、オメガが生まれながらに感じる、社会や人との障壁や、感覚の違いを理解できない。それは彰が悪いわけではなく、アルファだから仕方がないのだ。  でも、彰は理解しようとしてくれている。大きな障壁だったとしても、壁の上から手を伸ばして、手をつなごうとしてくれる。そういう人だから、どこまでも期待してしまう。 「僕は、なんの疑いもなく、子どもはアルファだって思っていたんだ。だから産んでも大丈夫だと思った。そんなわけないのに……自分で恥ずかしいんだ」 「オメガの、何がダメなんだ?」 「……子どもを、不幸にしたい親がどこにいるの」  これまでに出会った、同性のオメガたちの姿がはっきりと思い浮かんだ。僕はそれでも、三人しかオメガを知らない。一人はどこかの愛人になって、義務教育のうちから首輪を外して、くっきり歯型のついた首筋をさらしていた。もう一人は、発情期が来たときに、どこかにさらわれてそれっきり。  彰の生みの親の清さんは、オメガだから適切な治療を受けられず、早くに亡くなった。うちの三人きょうだいで清さんを知っているのは、雪子だけで、それも二、三歳のころの記憶だから、かなり薄い。 「オメガは、本人以外の原因で勝手に不幸になっていく。成長の過程で、オメガに幸せなんて分不相応だと思うくらい、滅多打ちになる」  ふいに、彰の手が止まった。心臓が恐怖で跳ね上がる。努力が足りないと諭すように言われて、その現状はお前のせいだと、自分次第で幸せになれると、アルファらしい道徳感で、苦しさを否定される気がした。 「……お前も、そうやって不幸なのか」  彰の体が離れて、正面から顔が見える。男っぽい、暑苦しい顔が苦し気に歪んで、泣きはしないけれど、唇をかんで耐えていた。  不幸、ってさて、僕は思っていたのだろうか。ここしばらく、めったに見えない彰の悲しい顔を見て、ぼんやりと思った。  見方によっては、僕はかわいそうだと思う。物みたいに買われて、一人でいいはずのアルファの子どもを二人も産まされて、好きでもない相手に四六時中「好きだ」とささやかれて、なにをどう勘違いしたか、ついには自分の意志でオメガの子どもを産んでしまった。他人が同じ経験をしたら、かわいそうだと思うし、自分の子が同じような経験をしそうになったら、必死になって止めようとするだろう。  でも、その過程は、別に苦しいだけじゃなかった。彰がいた。雪子や、雨情と一緒に成長できているようで、うれしかった。  黙って考えている僕をいぶかしんで、彰の体が離れていく。 「……じゃあ、俺は寝るよ。今日はあの子と寝る。一人でゆっくり休めよ」  うなずく前に、彰は行ってしまった。子ども部屋に寄り、赤ん坊をリビングに連れていく足音がする。ヘッドレストから体が滑っていき、布団の中に納まった。  寝ようと目を閉じる。明るくてなかなか寝付けないところに、彰が消しに来てくれた。パチリと電気が消され、彰が扉を閉める一瞬前に、「おやすみ」と言えた。彰も、「おやすみ」と答えてくれた。  せっかく家に帰ってきたのに、いきなり番と喧嘩して、その末、広いベッドを独り占めして寝ている。 (……こんなに、広かったっけ) 腕を左のほうに伸ばす。自分よりも大きい体にも、高い体温にも触れなかった。なんとなく心細い。 (こんな風に思うんだったら、全部素直に言ってしまわなければよかった)  子どもでも嘘をつけるのに、僕はなぜか彰の前で、ろくな嘘もつけない。すべて見透かされてしまう。けれど、あんな顔をさせてしまうくらいだったら、嘘をついて傷つけるほうがましだった。  自分の中で、どんどん彰の――家族の、占める部分が大きくなっていく。それが怖いはずなのに、途方もなくうれしいと感じる自分がいた。

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