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幸せをと望んだ日3

 朝、いつも通りの時間に起きると、まず一緒にご飯を作るために雪子を起こす。それがここ最近、信治が入院してからこっちの日課だった。それが今日は、その時間にいい匂いがして目が覚めた。  信治の味噌汁の匂いだった。 「彰、ちょっといいかい」 「……!」  跳ね起きると、目の前に信治がいた。場所がリビングだったから、昨日は気落ちしたままソファで寝落ちをしたことを思い出す。割烹着姿の信治は、昨日の悄然とした様子ではなく、生き生きとした、いつも通りの顔をしていた。 「ちょっとだけ話したいと思って。いいかな」  頷きもせず、呆けていると、信治は目の前に座り込んだ。慌てて体を起こし、こっちに座れと隣をたたき、座らせる。 「何の話だ」  声がカサカサだった。わずかに緊張をしていたけれど、こうやって二人きりで話すのは久々だということに気づき、頬が自然と緩む。子どもが二人もいると、なかなか夫々の時間が取れない。どうしても子どもの前では互いに気恥ずかしくて、父と母になってしまう。  信治の、働き者の乾燥した手をきゅっと握り込んだ。 「……赤ん坊の名前を、ちゃんと決めなきゃいけないと思って」  うん、と頷く。一日、一晩、たっぷり考えたんだろう。もしかしたら、信治は『育てられない』と言い出すのではないかと思った。信治は、人を不幸するのが怖いから、責任を持つのを避けたがる。  信治は逡巡するように視線をうろうろさせて、小さい声で言った。 「晴也(はるや)。晴天の晴に、(なり)。そのままだけど」 「いい名前だと思うぞ。けど、あの子が生まれたとき、晴れじゃなかっただろ」  それはただの疑問だった。  うちの子の名づけには、ある法則がある。雪子、雨情、生まれたての晴也と並べてみればわかるように、天気が入っているのだ。子どもたちが生まれた時が思い出せるように――とか、そういうきれいな理由ではない。単純に、初めの子に信治が付けた名前が『雪子』で、それに合わせて二人目の子は詩人の名前から『雨情』と付けた。  名前は、親から子への一番最初の贈り物だ。だから誰もが、かなり気を張って名付ける。特にアルファの名づけは特殊で、生まれつき「優」れているとか、高「貴」であるという意味や文字が付けられることが多い。  だから、いつだったか、どうしても気になって、雪子の名前の由来を聞いたことがあった。  信治は、俺に向かって笑って答えてくれた。頑是のない子どもにするような、あの暖かい笑顔が、初めて信治が笑顔を向けてくれた瞬間だった。 『この子の人生に、僕が付ける意味なんてないですから。きっと、僕より長く生きて行って、この子が思う人生の意味は変わっていくけど、それでも、生まれた時に見えたものは変わらない』  その時初めて、この子にとって名前が、俺の名前のような「呪い」ではなく、ただの「名前」であることを理解できた。そして、そんな親から生まれてこられた子どもたちが、今でもうらやましくて仕方がない。  信治は薄い手を、ぎゅっと握った。 「願ったんだ。この先、生きていく道が、少しでも晴れていてほしいと」 「希望に満ちていてほしいと?」 「……そんな風には、思っていないよ」  俺の背後にあるベビーベッドをぼんやり見ていた。どこかに行ってしまいそうな気がして、手を取った。信治は渇いた口を開いて、こじつけかもしれないけど、と小さくつぶやく。 「いろいろな人がいるように、いろいろな天気があるでしょう。晴れにだって、いろんな晴れがある…よね。虹の輝く晴れもあれば、狐の嫁入りだって、見方によれば晴れだろう。どんなものでも、オメガであっても、彼なりの幸せを、探してほしいと思って…」  じんわりと手が熱くなっていく。 「幸せって、お前の言う幸せってなんだ?」 「……その、そのことで…」  ん? と顔を見る。久しぶりに真っ赤になった信治の顔を見た気がした。片手を捕らえたままでいると、熱くなった信治の手のひらが、じんわり汗ばんだ。好きだという言葉が喉元までせり上がってくる。  信治はぎゅっと手を握って、口を開いた。 「オメガは、本当に昨日言った通りで、幸せになりにくいんです」  すぐさま否定しかける自分を抑える。否定していい部分と、してはいけない部分はあるのだ。それに信治は、「自分は不幸だ」とは、昨日も今も言おうとしてはいない。 「それで?」 「……だから、……あの子に、幸せなオメガを見せてあげたい。お手本じゃないけど…誰に何を言われても、幸せになれるよって」  うん、と首肯する。俺の顔にも熱がこもってくるのを感じた。少しは恋人みたいに扱っていいかな、なんて思って指を絡める。信治は不意を突かれて、ん、と鼻にかかった声を上げた。もっと反応が見たくて顔を寄せる。 「だから、…だから……手伝ってくれ。僕を幸せにする、手伝いをしてくれ」  ああ、と答える以外に何かあっただろうか。片腕で抱き寄せた。付き合いたての小学生みたいにつながった手から、高い心臓の音から、緊張が伝わる。やっとここまで来られたのか、と思った。同時に、幸せになりたいと思うのも子どもがきっかけというのも、信治らしいと愛しく思った。  真っ赤な頬にキスを落とした。きゅっと瞑った瞼が二回震えた。そうっと頬を撫でると、ゆっくり目を開ける。信治は恥ずかしそうに顔をそらした。 「大事にするよ。絶対に幸せにする…一緒に、なろう」  そんなにそっぽを向くと、歯型がついた白いうなじが見えてしまう。咎めるような気持ちで、首筋に口づけるも、頭をぐいと押されて、元のようにソファに寝転がってしまった。信治に押し倒されるような形だ。  羞恥で真っ赤になった顔に、わずかに首元だけが乱れて、俺を押し倒したような姿が扇情的だった。朝だというのに、目に毒でありすぎる。逆にぐいと頭を抱き寄せる。互いの心音が重なって、増幅された気がした。 「お前は全く、そういうところだぞ」  どこまでも勘違いしそうになる。信治は俺の好意を受け取ってはいない。なのに、こうしてたまに誘うような行動に出る。それも無自覚で。信治は多分、俺の妙に甘ったるい行動が、自分のせいで起こっていると自覚していない。 「どういうところですか?」  熱っぽい、蕩けた瞳を合わせられる。この顔も多分、ひどく無防備に晒しているだけで、ずるい。朝の健全な光が、信治の痴態を浮きだたせる。待ってくれ、いつ子どもが起きてくるかわからない時間に、元気になりたくない。  でもどうしても離したくなくて、腰を抱き寄せた。あう、と信治の声が漏れる。子どもを産んだばかりだから、挿れはしないけど、たまには、ふたりっきりの番の時間くらい取ってもバチは当たらないだろう。  割烹着の端から手を忍び込ませる。信治も大した抵抗をしなかった。  ……肌に触れた。その瞬間、背後からつんざくような泣き声がして、驚いて手を引っ込めた。 「起こしたかな」 「~~~!」  信治はおそらく別の意味で顔を真っ赤にして、俺の上から退いた。慌てて手を引く。 「こら、大人しくしていろ。子どもを産んだ体は、大きなダメージを負っているんだ」  その体にいたずらを仕掛けた自分が言えたことではないけれど、産後の肥立ちが悪くて生みの親を亡くした身からしてみれば、一月くらいは寝て過ごしてほしいくらいだ。ともかくソファに座らせて、掛布団代わりにしていた子供用のブランケットを肩にかけて静かにさせる。  子ども部屋から、二人の足音が聞こえる。赤ん坊の――晴也の声で、起きてしまったんだろう。いや、いい時間でよかった。リビングで事に及ぼうとするのはしばらくは避けよう。  子ども部屋のドアが開く一瞬前、信治はこちらを向いて、柔らかく笑った。 「……彰、いつもありがとう」  その表情は不思議と、信治が初めて笑いかけてくれた顔と似ていた。

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