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結婚相手と、番の関係と、2
「母さん……」
声がいつもより掠れている。呼吸のたび鼻をすすっているし、涙で顔はぐちゃぐちゃになっている。そういって手を伸ばしてくる三人目の子——晴也は、いつもより体温が高かった。
彰さんがいないときでよかったと、心の底から安堵した。早めに知らせておこうと、片手で晴也の背中を撫でてやりながら、スマホを取り出す。
晴也の左薬指には、銀色の指輪がある。結婚してもう、2年経つはずの晴也の首には、まだしっかりと首輪が締まっていた。もちろん、噛まれるのを防止するための首輪だ。
これは息子の結婚で初めて知ったことだけれど、今時の番は、結婚して、互いに永遠の伴侶でいいとしてから、番になるらしい。あまりにも理性的な考え方で、特に発情期で本能的なオメガは辛くならないのかと、やきもきしないこともない。
晴也は今年20になる。僕が32になる頃の子で、僕が産んだ唯一のオメガだ。僕の腕の中で揺すられて落ち着く姿はまだ幼さが残る。より本能が出やすい発情期だからというのもあるんだろう。
「ちょっと待ってね、お父さんにメッセージだけ送るから」
彰に『晴が来た。発情期みたいだから、落ち着くまで外にいてもらえるかな』と書いて送ると、すぐに返信がきた。
『わかった。夕方までいるようだったら、また連絡してくれ』
心配性が滲み出るその文に、くすりと笑ってしまった。大丈夫かとか、努くんに何かされたのかとか、電話をかけたくてしようがないんだろう。それを頑張って抑えて、やきもきしてるのだ。
「僕だけがいるときでよかったよ。平日だといま、お父さんしかいないから」
「母さん、就職したんだよね」
「うん。縁故みたいねものだから、少し居心地が悪い時はあるけど、それなりに楽しくやってるよ」
「そうなんだぁ…」
少し落ち着いたらしい晴也は、もう大丈夫だよ、といって少し離れたところで膝を抱えた。
「ソファに座らなくていい?」
「へいき」
そう言えば膝を抱えていると、昔から落ち着く顔をしていた。その姿勢にほっとするというより、なにか抱きかかえていると気持ちが楽なんだろう。クッションを投げて寄越すと、それを膝の上に置いて、今度はそっちを抱いた。
「……」
クッションに顔を押し付けて、口元がちょうど隠れた。まだ何があったかを話す気はなさそうだ。別に無理強いして言わせることもない。
発情期は通常5日から1週間だ。けれど、近くに「必要なアルファ」がいないと、短縮される傾向がある。そのことを僕は、身を以て知っていた。
僕はあえて明るく言った
「今日は2日目?」
「どうだっけ…3日目か2日目だと思う。昨日って木曜日だったっけ」
「金曜日だよ。昨日が木曜日だったら、ここにいるのは僕じゃなくってお父さんになっちゃうでしょう」
「そっか。じゃあ、3日目かな」
「……相変わらず、重めかい?」
「もう慣れちゃった。女の子の生理と違って、薬でどうにかできるものでもないし、ここ1年くらいは穏やかなつもりだったから」
1年前というと、晴也の卒業に合わせて式を挙げて以来ということか。
「大丈夫だよ、薬も持ってきたし、3日目なら、夜には多分、終わってるし。ごめんね、ほんと。朝早くから…」
違う家庭に入った意識が強くあるのと、晴也の夫の水守努くんと家庭との関係に気を遣ってか、晴也は僕らに頼るのをやたらと遠慮する。
でも、本当にどこにも頼れないような辛いこと目に遭ったときに「帰る」のは、僕らの元なのだから、親の存在は、良くも悪くも結構大きいんだなと彼から学んだりした。
「いいよ、いつでもおいで。僕ら2人だけじゃ寂しいから」
「…ありがとう」
さて、と立ち上がった。たまには親の飯でも食わせてやって、暫くしたら話せるようになるだろう。昼ごはんは素麺でいいだろうかと、尋ねた。
簡単にお茶を出して、ついでに体温計を差し出す。僕じゃ誘引香の匂いがあまりわからないから、体温を測った方が正確だ。測っている間、晴也はぼうっとシーリングライトを見上げながら、呟いた。
「母さんは、父さんと喧嘩したことある?」
「ん? そうだね、そんなに多くはないけれど、あることにはあるよ。子どもの教育をどうするかとか、あとは…そうだね、一番最近だと、結婚するしないでだいぶ揉めたなぁ」
「……そっかぁ」
そこで体温計がピピピと鳴ったので、いったん会話が止まった。
「37度3分。いい具合に下がってきたね。夕方には終わっていそうだけど、体調はどう?」
「うーん…そこまで、発情期って感じしないと思う。ただの体調不良程度になってきたから、多分誰に会っても、平気だよ」
「そっか。じゃあ一応、夕方くらいに帰っておいでって言っておくね」
「ありがと」
体温計を軽くアルコール綿で拭き取って、戻し、彰に一本メッセージを入れておいた。彰はすぐに了承して、ついでにケーキと、雨情を連れていくと言った。
「お兄ちゃんも来たいって」
「……大丈夫かな?」
「一応二人とも、抑制剤は飲ませておくよ。怖かったら、ケーキだけ買ってきてもらうけど、どうする?」
雨情と正月以来、全く会っていないからと、晴也はOKを出した。
発情期が来るまで、晴也はお兄ちゃんっ子だった。僕や彰や、雪子よりも、甘えたいときは雨情に寄りかかって寝ていたりした。雨情は雨情で、10歳年下の小さな弟が可愛くて可愛くて仕方がなかったらしく、同年代の友達よりも一緒に遊んで、大学に入って家を出るまでは一緒に寝ていた。
半ば憂い顔、半ば睨むような表情で、晴也は湯気の立つティーカップを見つめていた。
「兄ちゃん、恋人できたかなぁ…」
というのは、結婚してからも変わらない晴也の口癖だ。
「できても、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ。大丈夫」
「わかってるけどー…」
「大好きだもんね、お兄ちゃんが」
うん、と晴也はうなずく。兄のことになると、晴也は異様なほど素直だ。この素直さを、晴也は努くんに見せられているのかふと心配になった。薬指の指輪の、虚な輝きを見ながら、息を飲み込んだ。
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