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結婚相手と、番の関係と、8

 晴也が重い口を開いたのは、片付けて、雨情を返して、後は寝るだけとなった時だった。万一夜に何かあったらいけないから、リビング横の和室で晴也を寝させることになったので、布団を敷いていた。晴也は夜だからか、首輪を外している。 「……あのね、母さん、もう一個言いたいことがあるんだけど」  晴也は枕カバーを付けているので、視線はこちらに寄越さず、人によってはぶっきらぼうな態度にも感じるだろう。 「うん?」 「俺の…体が、おかしいかもっていうのも、すごく不安なんだけど」  朝来たときと同じように、晴也は枕をギュッと抱きしめた。僕は掛け布団のカバーの四隅を止めて、ひっくり返す。それを敷き布団の上に畳んで置いて、体をそちらに傾けた。 「……今日ね、あの…発情期で辛くて……そしたら、今日、朝に…『発情期なんて、我慢できるだろ』て言われちゃったんだよね」  そう言って晴也はへらへら笑った。 「もともと最近、なんでかなって思うくらい会話が減ってて、抱きしめてくれることも、こう…いちゃいちゃ? するのも、全然なくって、それでも発情期きたら少しは構ってくれてて…俺の体が、汚れて感じたのかな、嫌になったのかなって」  晴也は、努さん、潔癖症のケがあるし、と笑ってみせた。 「多分ね、俺は努さんをずっと我慢させて来てて、いつか爆発するのの、その『いつか』が今朝だったんだんだ」  だから仕方がないの、と言わんばかりに笑っていた。本当に仕方がない、と言っているようにも見えたし、それでも今日のは辛かった、という言葉を押し殺しているようにも見えた。 「俺にとって発情期って、あんなことがあっても大事にされたい自分が浅ましくって、憎くて仕方が無くなったり、まぁ、普通に嫌なんだけど…でもさ、そうやって、アルファに分かってもらえないの、普通なんだよね。むしろ、父さんや兄さん、姉さんたちがめちゃくちゃ分かってくれすぎるんだ」 「…晴也」  うちの子たちは、僕が産んで育てた子どもだし、オメガへの嫌悪も、偏見も少ない。でも、世間一般では、晴也の事件でわかるように、アルファとオメガを比べた時に優遇されるのはアルファで、オメガへの感情はオメガへの偏見と差別に溢れている。  ——それは、彰といくら境遇が似ているとは言え、努くんも同じなのかもしれない。 「俺は、たしかに我慢をあんま知らないんだよな。それが許される環境にいた。けど…けど、そんなことで飽きられて、嫌われたり捨てられたりするようなこと、やっぱり嫌だなっていうか……」 「発情期で捨てられるなんてことないだろ。発情期があるから嫌だっていうなら、それはそもそもオメガが好きじゃないんだ。本当に、努くんがそんなことを言ったの?」 「……うん。様子がおかしいのは、半年くらい前からかな。まだ治ってないのにさっさとシャワーに行っちゃったり、この前の発情期は3日目くらいに仕事だって言ってどっか言っちゃった」  ここで、君は悪くない、発情期のオメガを家出させるようなアルファにうちの子を任せたくない、離婚して帰ってこい、と言うのは簡単だが、それは些か過保護すぎる。  晴也はオメガだ。それで、酷い目にもあってきた。世間的にはアルファよりはるかに弱い。ただうちの子は、そう思うくらい殊勝に、『オメガだからアルファに負けなさい』と育ててきてはいないはずだ。 「——晴也は、そんな努くんとどうしたい?」 「どうって…」  自信なさげに背中を折る様子に、彰と結婚すると決められなかった時の僕と同じだったのかなと思った。 「晴也は、努くんと番にはなりたい?」 「…そりゃ、いつかは」 「夫々でいたい? 嫌なことばっかりされたから、別れたい?」  晴也は力なく首をふった。別れることを想像したんだろう、目には涙が浮かんでいる。 「物事はね、何重にも重なっていて、色々な面があるんだ。努くんが晴也に言った『発情期は我慢できる』は、オメガが嫌いとか、それだけの意味なのかな」 「それだけの意味じゃないの?」 「わかんないよ。僕にも、晴也にも、似てるとは言え、父さんにも。もしかしたら努くん自身もわかってないかもしれない」 「それじゃ、どうしようもないじゃん。俺にできることなんてないよ」 「晴也だって、自分でも思ってもいないこと言っちゃって、お兄ちゃんを泣かせちゃったことがあったでしょう」  あったけどと押し黙る。それと何が関係があるのといいたげな不満顔だ。思わず僕は笑ってしまった。 「晴也、いいかい。君が努くんにできることなんて、見守ることと、愛すること以外、そう多くないよ」  晴也はますます困った様子で、うなだれた。近寄って顔を見ると、やはり、道に迷った子どものような顔をしている。 「それよりも、発情期を我慢しろなんて、無理だよね。薬は強いし、それも晴也自身にはあまり効かない。それを聞いて晴也はどう感じた?」 「嫌だった。……でも、発情期中って意味わかんないくらいぐちゃぐちゃしちゃしちゃうから、パニックになって家出みたいになっちゃった」 「僕も言われたら嫌だと思うよ。じゃあ、発情期中に努くんが何処かに行っちゃったり、会話が少ないことは、どう思ってるの?」  親に言うのはちょっと恥ずかしいかもなと思いつつ、真正面から聞いた。晴也は照れた様子で枕にギュッと顔を埋め、胸の辺りを掴んだ。くぐもった声で答える。 「寂しいし、不安。けど、仕事なら仕方ないし、番じゃないんだから、構う義務はないよなって思ったりして、ここら辺がぎゅうってする」 「そうだよね。発情期中じゃなくっても、泣きそうなくらい体調が悪い時に、そばにいて欲しい人がいないと、不安になるよね。じゃあ、努くんにはどうして欲しい?」 「……………わかんない」  ふふ、と、笑い声がこぼれた。幼い表情で、笑わないでと晴也は抗議する。ごめんね、と言う代わりにその笑みを晴也に向けた。 「晴也に必要なのは、そこじゃないかな?」 「でも、そんなわがまま言って良いのかな…迷惑がられたり、鬱陶しがられたりしない?」 「気にしないんだよ。お父さんを見てごらん、あんなに晴也や雪子に鬱陶しがられても、お前たちの成長や変化を、自分のこと以上に大事に思ってくれているだろう」  見守る愛はある。そう言う意味でいったつもりだった。晴也はそういうと、納得したように肩の力が抜けた。首輪を傍に置いて、そういうふうに、自然な、大人っぽい笑みをした。 「ふふ、お母さんのことも大好きだもんね、父さんは。……俺、努さん浮気してて、もしかして離れて欲しいのかな〜なんて、思ってたんだけど」 「おや」 「……わがまま言って良いんだよね。受け止めてくれるかは別で」 「わがままっていうのはね、相手の立場も何もかも考えずに、自分勝手に言ってまわることだよ。晴也がこれからするべきは、主張だよ」  主張? と晴也が聞き返したので、頷いた。これはきっと、あの夜に近い時間のカフェレストランで、春さんに教えてもらったことだ。 「君にはその権利がある。君は水守努くんの大事な夫で、他の誰より対等なんだよ。他の誰がなんと言おうと、オメガだろうと、彼への不満を言う権利がある」 「努さんが、主張しなかったら? 俺に権利はないと思うんだけど…」 「あるよ。逆に考えて、君が自分の考えを言うことで、努くんが『晴也が言わないから』て遠慮してた部分も、引き出せるかもしれないよ」  晴也は、枕を抱きしめて鼻を啜った。ティッシュをそばに寄せてやると、数枚出して目元を擦る。明日、お父さんに心配されても知らないよ、と笑うと、明日は帰るだけだもん、としゃくりあげながら笑った。

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