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結婚相手と、番の関係と、9

 和室を出ると、彰が腕を組んで立っていた。 「ずっとそこにいたの?」 「……チラッと声が聞こえたから、気になって立ってただけだ」  むっつりと真顔になっていると、老け込んで見える彼に、苦笑して見せた。  彰にとって晴也、それに雪子は、異性の子どもというだけで可愛い存在だったらしい。今でも、二人目の雨情に寄せる信頼と、晴也と雪子に寄せる愛情は、少しだけ形が違って見えることがある。それでも大きな差をつけず、過保護にならず、見守っていられているのだから、この人は良い父なんだなと思う。  目に入れても痛くないと行って憚らない、そんな可愛い晴也が、自分の紹介したアルファに苦しめられている(かもしれない)状況を、今のところ彰は憮然として俯瞰しているように見えた。  本当は、僕以上に手を出して「そんなやつだと思わなかった、別れろ」と言いたいくせに、頑張って放っていられている。 「寝室に入ろうか。ここじゃ晴也に声が聞こえるかもしれない」  彰は無言でついてきた。  リビングに続く扉を開けると、少し狭い寝室がある。大きいクイーンサイズのベッドとマットレスは、「体が資本なんだから」と彰が7年前くらいに買ってきた舶来ものだ。これのおかげでこの部屋は、着替えと寝ることくらいにしか使えない。  彰はそこに座り込んだ。 「ハァ…」 「どこから聞いていたの」  ベッドに放置してあったガウンに袖を通して、彰の隣に座る。落ち込んでいる割に彰の顔色は、暗くはない。呆れている、どうしたものか悩むといった風情が強い。 「水守くん——努くんが、浮気しているかもしれないと言っていた時だ」 「ああ。実際はどうなんだい?」  知るかと吐き捨てて良いところだが、彰は眉根を寄せた。考え込んでいるらしい。  僕が就職したのとすれ違う形で滅多に会社に行かなくなったとはいえ、まだ週に一度以上は行っている。努くんに対しては、会社も性別も違う僕よりも、よっぽどわかるはずだ。 「いつもどおり、爽やかで冷静だったよ。俺の前ではな。けど、彼と同じシンクタンク部門の同期は『仕事でのミスが少し増えて驚いてる』と言ってた」 「浮気してたら、そもそもそんな風にならないと思うんだけど、彰はどう?」  その一言に、彰はぐいと腕を引っ張り、自嘲気味に笑って見せた。 「まるで俺が浮気したことあるみたいな口ぶりだな」  あ、と思った時にはベッドに押し倒されていた。声は怒りを多分に含んでいて、顔も鬼面のようだ。どす黒い怒りが全面に張り付いている。まずいと、手を伸ばしたが、その手は彰の大きな手に絡めとられた。  唇を重ねられる。何度も何度も、角度を変えたり、舌で唇の間をなぞられたりした。絡められた方の手の間をすりすりとさすられて、こそばゆい。それより、メガネが邪魔だ。口付けられるたびに彰の顔にぐい、と押される。  やっと口付けが止んだと思ったら、彰は僕の首筋あたりを噛んだ。ピリッと痛む。 「彰、明日もまだ晴はいるんだよ…」  自由な方の片腕で彰の頭を押し返す。蚊に刺されのような小さい赤い痕でも、子どもの前で見せるのはあまり健全じゃない。というか、好きではない。  そんな小さな抵抗も虚しく、彰はボタンの1番上に手をかけた——ところで、僕の隣にうつ伏せになって倒れ込んだ。片手の縛めが自然と解ける。僕はほっと胸を撫で下ろしたが、彰はそうもいかなかったらしい。 「……………無理だ、今日は勃たん」 「君ね…」 「お前もお前で、なんで萎えるようなことを言うんだ」  軽く衣服を正して、ベッドの上にあぐらをかく。メガネをベッドフレームに置くと、少し見えづらくはなるけれど、大して気にはならない。 「最初からその気じゃなかっただろ、彰も。無理やり頑張ろうとするのは良くないって、良い教訓になったね」  彰は憮然とした表情で起き上がった。もう時刻は12時を回っている。眠たいのだけれど、今日の課題を明日の朝話し合うと言うのは、気持ち的に落ち着かない。それはおそらく、彰も同じだと思う。 「それで、お前は浮気を疑ってるのか」  さっき言われたときほどの圧力はないけれど、嫌そうな顔をして、彰はそう聞いた。僕は首を横にふった。 「疑っていないよ。浮気しても良いよ、とは若い頃散々言ったけど、本気では言った覚えがない」 「本当か」  彰さんは嬉しそうだった。  本当といえば本当だ。半分は『この人を信じたくない』と本気だったけれど、その一方で『信じさせてほしい』と願っていた。まぁ、まだ彰さんと二人だった、若い頃の話だ。雪子と雨情が産まれてからは忙しくて、疑念を持つ余裕さえなかったけれど。 「彰、君の浮気の話は今いいんだよ。僕がしたいのは、例えば君の同僚や、元上司とかが浮気して、どう言う風になったの」 「ああ、そっちか。実体験を言えっていう話かと思った」  彰は、顔もまあまあ良いが、頭はいいはずだ。良い大学も出てるし、そのあとの大学院も、良い成績で出た(らしい)。けれど僕や子どもの話になると、出会った頃か、それよりもっと頭が悪くなるし、思い込みがとても激しくなる。平たく言えば、馬鹿になる。  眉間に寄っていたしわを、グリグリ押して元に戻す。呆れつつも、こういうところが彰の可愛いところだと自分に言い聞かせた。彰もバツの悪い顔をしているし、そこまで責めるようなことじゃない。襲われはしたけれど。 「誰も言ってないだろう。まぁ今のは、僕も言葉足らずだったよ。ごめんね」 「……おう。浮気した奴が、どうなったかって話だよな」  そうだね、とうなずく。一瞬で雰囲気が切り替わり、彰は父親の顔になった。 「多いのは、やたら浮かれて、相手の性別の人間にやたら優しくなるっていうのかな。女が相手なら女に、オメガ相手ならオメガに、『大丈夫?』とか、絶対知らなかっただろうブランドを持ち上げて『それ高いんだよ』って言ったりしてたな」 「そういうの、努くんはあった?」 「いいや、全くなかった。俺の前だからかなり猫被ってるところはある。が、人前で態度を変えられるほど、水守くんは器用じゃないと思う」  彰に器用じゃないと言われる努くんがかわいそうだ。 「それと、偶然休みの日のフロア前で見かけた時は、ひどく落ち込んで居心地が悪そうにスマホを弄っていたりしてたな」  なんとなく思い浮かんだ。  顔立ちだけは甘い努くんが、ほとんど人がいない自分の職場で滅多にしない暗い顔をして、スマートフォンを付けたり消したりしている。ひどく物寂しい感情が、僕の胸を突いた。 「……浮気じゃないのかな」 「わからん」  二人してため息をついた。  大きい不幸があったのだから、誰よりも幸せに結婚してほしいと願って持ってきた縁談だったはずだ。もちろん結婚式をした時に、子どもができなくって浮気を疑って、晴也が大荒れするなんてことも、考えていなかった。誰も予想だにしなかったしていなかったことが起きている。  浮気じゃないと思いたい。楽観的に見ると努くんの様子からは、そうではないと思える。でも、こういう時は、最悪のことを想定しておいた方が楽だ。 「もし万一本当に浮気で、別れたいってなっても、『水守くん』を冷遇しないこと」 「できると思うのか?」 「まぁ僕も、そうなったら流石に、親として釘を刺させてもらうけど、それでも会社とプライベートは分けた方がいいよ。……なんて、社会人の先輩にいうことじゃないけど」 「わかってるよ。感情は別にしても、一応総括者として言えば、水守くんはどの課のアルファより優秀だ。それに胡座をかかず、必要な努力をしている。だからこそ、入れ替わりの激しいシンクタンクでずっと残っている」  彰は胸を痛めたような顔をした。誰より幸せを願う親としては、そんなことがあったらひどく傷つく。しかし上役としては、うまくやれよ、と言ってやらなきゃいけない。その二面性に、彰は苦しんでいるのだ。  ふと彰の膝に目を落とすと、手が震えていた。 「そうじゃないといいね」  そう言って、手を重ねる。僕より大きくて、とても厚い手だ。誰かを守るために、大きく、厚くなった手。この手が、大事な人を傷つけるようなことがないように、心の底から祈った。

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