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”対等”な 3
「……晴也」
「うっ……う、わきとか」
「浮気?」
「してないの? ………急に、冷たくなったから」
「ほとんど定時で帰宅して、長期の出張中は宿泊先に帰ってすぐに電話するアルファのどこに、浮気する余裕があるんだ?」
「……余裕があったら、するの?」
「誰がするか」
大事だと思う相手に、好きだとすら言えない男が、どうとも思っていない相手に都合よく振る舞えるわけがない。
断言すると、そっかと俯いた。
「混乱したじゃ済まされない暴言だった。お前の尊厳を傷つけ、否定する言動をした、本当にすまない」
晴也は首を横にふった。蚊の鳴くような小さな声で
「本当は、発情期なんかに惑わされて…って、ずっと思ってたんじゃないかって、ずっと不安だった」
「晴也が僕だけに発情期を見せてくれるのが、堪らなく嬉しいんだ、本当に」
数年前に遭った事件のせいで、晴也が発情期を異様に怖がることは、何度も肌を重ねて知っていたつもりだった。やっと慣れてきた僕とでも、ルームランプで顔を照らしていないと、押し倒されるだけで、恐怖で抵抗して暴れることもある。
それでも、セックスできるだけで嬉しいと思った。見合い結婚で、ほとんど他人のまま結婚したのに、だんだん態度が柔らかくなり、歳の差の壁を払って、やっと対等に言葉を交わせるようになった。日に日に掛け替えのない存在になっていくのを実感していた。
それなのに、ただの疲れのせいで、頭の片隅でさえ思ってもいなかったことを口走った。後から晴也に言った言葉を振り返った時、ゾッとした。あれは、晴也を殺す言葉だった。
一日、たっぷり時間はあったから、僕は自己分析をしていた。結果わかったことは、疲れから来る気の迷いで、晴也を疑っていたということだ。
「……君が不安になったように、僕も君が、浮気をしたんじゃないかって疑っていたんだよ」
腕の中で、晴也がピクリと反応した。否定はすぐには飛んでこなかった。ただ、重ねられた手のひらが、硬く拳を握った。
「そんなわけがない、抱けばわかるとわかっていても……浮気でもしてなかったら、あんなに顔色を窺ってきたり、ご機嫌とりみたいな言動はしないと、信じ切っていたんだ。……僕は馬鹿だ」
晴也ほど、一途で純粋な人間は、いないというのに。
だからあの時、あんな言葉を口にできた。晴也を傷つけるつもりで、実際傷つけたのだ。
冷静になってから、あれは、晴也や晴也の周りの人間が、何年もかけて必死に埋めてきた傷を抉り出すような言葉だったと気づいた。そして、そう気が付いた時には、発情期の晴也は、外へ飛び出していた。
「……浮気なんて、できないもん。こんな体で、…浅ましい」
「それは違う、晴也。顔を、見せて欲しい」
「いやだ、ぐちゃぐちゃだもん」
無理やり肩を引いて、ソファの上に押し倒した。ソファに座り直して顎に手をかけ、顔を向けさせる。たしかに、涙で顔はぐちゃぐちゃだった。
「晴也、聞いて欲しい」
「さっきからいっぱい聞いてる…」
「君は、自分を卑しいと思ってるみたいだけど、それは絶対違う」
「自分でさっき、言ったじゃん…」
前髪を掻き乱しながらめちゃくちゃに顔を拭った。
「浮気なんて、できない。努さんが大好きな気持ち置いてきぼりにして、他のところが満たされるわけない。……こんな、良いところなんて一つもない…めんどくさいトラウマ持ちで内弁慶のオメガ」
「君には、美徳がたくさんある」
突然そんな話をしだした僕に、晴也は涙を止めた。え、ともらした小さな声に、思わずといった笑みが浮かぶ。そんな素直な反応が愛らしい。
「まずは、明るいところ。それに、そうやって、怒ったり泣いたりしながらも、ちゃんと自分の言いたいことを話せるところ」
褒めてない、と力の入っていない拳が胸に下された。その手首を掴んで、薬指に行儀良くはまった銀色の指輪に口付けた。キザだと退けられたけれど、その表情は、僅かに嬉しそうだった。
「今朝、お義父さんから連絡があるまで不安だったけれど、それでも、人に助けてと言えるところ。嫌なことを嫌だと言えるところ。欲望に正直で、ねだり上手なところ。いくら嫌なことがあっても、朝になったら笑って送り出してくれるところ。……おかしいな、良いところがこんなにあった」
そういって微笑むと、晴也は二回驚いたように瞬きしてから、釣られたように笑った。なにそれ、と言って、力が抜けた笑い方だった。
「僕は君の、そういう顔が一番好きだ。こちらまで優しい気持ちになる。大事にしたい、幸せでいる姿が見たいと、心の底から湧き上がってくる気持ちがある」
「……それでも、どうせフウフになるなら、ちゃんと可愛いオメガでいたかったなぁって思っちゃう」
なにをいう、そのままで十分なほど愛らしいぞと言おうとした時だった。
晴也が腕を伸ばして、僕の頭を下げさせた。唇が重なる。目を閉じると、晴也のまつ毛は結構長いことに気がつく。それがまた、僕だけしか知らない晴也の愛らしいところだと、そう思えた。
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